繭の君【1章】

三川由

第1話 

「帰ってきたあ!!」


そう言って「んー」っと空に向かって背伸びしたのは齢十五、六に見える少年だった。

まだ幼さを残した顔立ちから伺える、その年齢にしてはかなり高い大人顔負けの背丈。まだ筋肉の付ききらない細身の体躯。

短く刈り込んだ明るい栗色の髪に、よく日に焼けた小麦色の肌。まだ少年らしさを残しつつも男性的らしい整った顔立ち。そのおもての中で、人を惹きつける特徴的な切れ長の瞳が彼の内面の好奇心の強さを示すように明るく輝いている。


(俺の街だ!)


遊学先の隣国ナシクからの帰国船で内海を渡り、港町のタヅに着いてから馬に揺られて陸路を丸二日。大陸本土の乾いた風になれた身に、少し湿り気を帯びた故郷の雨季の空気が染みる。

大陸の東端の半島に位置するアショク国の都カリョ。自分の生まれ育った街に、ようやく戻って来た。


「なあ、シュジュ?」


少年は、今しがた通り抜けてきた南門から正面の宮城まで続く大路を馬を引きながら自分と並んで歩く従者に、甘えるような声音で声をかけた。


「タスル様、何か?」


こちらは三十代前半の壮年の齢。しっかりと年齢を重ねた厚みのある声で、シュジュと呼ばれた従者は慇懃ながらもどこか面倒くさそうに答える。


「先にシント兄さんに会いに行ってきてもいい? 今日帰るって、文を交わしてるんだ」

「若様。ご自邸でお父上がお待ちです。まずはそちらにご挨拶なさるのが筋かと」

「えーーーっ?!」


まったくこの若君は相変わらずで、と。シュジュは口に出さずとも表情には隠さず、大きなため息をつく。


「午後には、統家とうけにご挨拶に伺う手はずになっております。シント様にはいやでもそこで相見えることができましょう」

「……一年も会ってないんだ。ちょっとだけ顔出してくるくらい、いいじゃない?」

「そんなこと言って、剣術場で一刻も二刻も平気で過ごしてくるあなた様を私はよく存じておりますので」


自分の性格を知り尽くしたうえで頑なに「是」と諾かない従者に、タスルは苦笑した。


「……シュジュ、さすがあ」

「褒めても何も出ません。まずはご自邸に帰られますよう」


そう言って、自分の馬を引いてこっそり脇道にそれようとしたタスルの袂を引く。


「……」

「これ以上に聞き分けならぬなら、私にも策がありますよ?」


にっこりと微笑んだその表情の裏に“絶対に逃がすものか”という並々ならぬ任に忠実な従者の信念を感じ、タスルは自身の望みであった友人との午前ひるまえの面会を完全に諦めた。



* * *



「シント兄さん!」


アショク国王のもとで、政の主権を担う七つの有力家を統べるのが、“統家”と呼ばれるサクの姓を戴く家だ。

そのサク家が所有する広大な屋敷の庭園の片隅に設けられた剣の修練場。小さい頃から多くの時間を過ごしたその場所で、タスルは目当ての人物を見つけた。


シント グ サク


一つ年上のタスルの幼馴染、サク家の三男シント。


「お久しぶりです!」

「……」


シントはタスルを見るなり、その顔を大仰にしかめた。

タスルよりやや小柄な上背。きめ細やかな白い肌に、小作りに整った目鼻立ちの顔。耳の上で切りそろえられた細い黒髪が、さらさらと風に乗ってなびく。

一見少女のように可憐に見えるが。


「おっせえぞ」


仁王立になって、開口一番に低い声でどやすその姿は、どうみても生粋の男だった。


「すみません」


シントの口調はなかなかの迫力だったが、タスルは悪びれもせず軽くペコリと頭をさげる形ばかりの謝罪をして。


「父上に早速拘束されて土産話を所望されまして」


これでも早く来たんですよ、とニッと笑った。


「うちの父上との約束は?」

ひるからです」

「……じゃ、まだ時間あるな?」


ちらりと意味ありげに、剣の収めてある武器庫にシントは視線を向ける。


「そのつもりで来たんですけど」

「一年の空白でよもや鈍ってないだろうな?」

「大陸の剣術のレベル、ご存知ないですか?」


そんな会話を交わしながら、すでに二人は自分の得物を物色していた。


「知らねえよ」


そのぶっきらぼうな口調に、タスルは懐かしくなってクスリと笑う。


「お前、一年外見てきたからって俺のことバカにしてんのか?」

「違いますよ。兄さんが相変わらずだなあと思って」


「うれしくなったんです」とタスルは笑って、手に取った中剣を構えた。




人気のない修練場に金属音が鳴り響く。

互いに無言で一撃目を交わした後、二人は文字通り時間を忘れて休むことなく夢中で剣を振り続けた。


「っは……!」


一旦相手の剣の間合いから退いて、ツウッと頰に垂れた汗を無造作に片腕でぬぐいながら口の片端を僅かに上げ、シントは愉快そうに笑った。


「いい感じじゃねえか」

「シント兄さんも。一年分老けたかと思いきや、ちゃんと成長してますね」

「相変わらず、ちっとも口が減らねえなあ」


言い終わる前から、切り掛かってくるのが油断も隙もねえなとタスルはその切っ先をいなすように剣を振った。そのまま切っ先を返して、相手の剣を掬うように上向きに跳ね上げる。


ガチッと鈍い音がなって、シントの剣が地に堕ちた。

痺れた風に震える自分の右手を見つめながら、シントは肩をすくめて見せた。


「……今日は終わりだ」

「負けを認めるんですか?」

「ちげえよ」


珍しくその表情に少し動揺の色を浮かべて、首でタスルの背後を指し示す。


(あ……やべ)


思い当たる節がありまくって、タスルはぎこちなく振り向いて。

文字通り自分のお目付役であるシュジュの顔を見るなり、状況を察する。


ゴーン、と午を告げる鐘の音が辺りに鳴り響く。


『午の鐘が鳴ってからでは遅いのですよ。鐘の音が鳴る刻には、約束のへやに控えていなければなりません』


そう念に念を押されていたのは、もう一刻も前だった。



* * *



だだっ広い庭園を半周してようやくたどり着いた統家の本邸。正面の入口からすぐの広間に入ると、すでに正面の卓の前に座して待つ人物の姿があった。


「ようやく来たな」


特に怒っている素振りもなく、かといってなにかしらの甘さや親しみを見せるわけでもなく。その人物はタスルの姿を認めるや否や口を開いた。


年齢は四十半ばだったとタスルは記憶しているが、それよりはだいぶ若々しい印象を受ける。

肩口まで伸ばした白髪混じり灰色の髪を後ろになでつけ、卓を前に座っていてもなおわかる太い首、広い肩幅。しっかりと鍛えられた頑健な体躯をその年齢にしてなお保っていた。この国の人間には珍しい彫りの深い顔立ち。中でも大きく迫力のある二重のその双眸に一通りではない強い光を湛えている。


アショク国宰相の立場にあるサク統家の現当主であり、シントの父親でもあるシンヨだった。


シュジュは畏まって小さく一礼すると入り口の傍に無言で膝を折り、その場に控える。

タスルは立ったまま腰を垂直に曲げて、相対するその人物に最大の礼を取った。


「本来であれば、到着してすぐに馳せ参じるべきところを。

お約束の時間にまでこのような見苦しい遅延、心よりお詫び申し上げます」

「……変わらんな、タスル」

「恐縮です」

「褒めてはいない」

「ですよね」

「調子にのるな」

「申し訳ありません」


「お前のことだ、おおよそシントあたりと遊び呆けていたんだろう」と図星を突かれてタスルは小さく苦笑した。


「時間がないから単刀直入に聞く。一年の遊学の首尾は?」

「収穫はありました」

「あたりさわりのない概要報告はお前からの定期報告の文で聞き及んでいる。今はその詳細を聞きたい」

「持ち帰った写本は二十余りになります。隣国の史書、政の体系図と百年前の戦乱についての著者不明の随筆、“ダジェ”に関する教本が全三巻分」

「他は?」

「検閲を通せない内容は、この頭の中に」


伝えられた内容に満足したように、シンヨはフッと片方の口の端を上げるように笑った。外見は全く似ていないのに、やはり父と子。その仕草はシントによく似ている。


「お前の記憶が薄れぬうちに書士に口述筆記させよう。明日から毎日卯の鐘刻から午までだ」


(マジかよ)


タスルは内心で長大息をつく。

一族の期待を負って旅立った遊学の成果をアピールすることだけが目的だったのに、付随して面倒くさい仕事を自ら背負ってしまった。


「どうせ次の“祭”までは任も与えらず暇な身の上だろう?」


「だから、あなたの三男と遊び惚けたかったんですけど」とはさすがのタスルも到底言えず、苦々しく笑った。


(ま、自分で書かされるよりマシか……)


どうせいずれ形にしなければならなかったことだ。書士をつけてもらえただけありがたい。そう思うことにした。


「承りました」

「主上には持ち帰った写本をもってお前の功績を伝えておく。覚えがよくなればお前のことだ、その先の立身に苦労することもあるまい」


(そんなの、いらないんだけどな)


そんな本音、この地位ある年長者に向かって口にして言えるわけがないけれど。


(今のあり方にしがみついてたら、この国の行く先は明るくない)


「それは至極、光栄にございます」


タスルはそう言って、シンヨに対し最敬礼を取って房を辞した。


この国の王のもとでの立身がいかに意味のないことか。そう考える自分の価値観は、この国において少し変わっているのだと。

けれど、どんなに反発しようと、自分の行く先には長い時をかけて固められたこの国のルールに則って生きて道しかないのだろうと。


(お祖父様や父上と同じように)


一年の遊学で他国の姿を直に見てきた聡明な少年は、そうおぼろげながらも理解していた。

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