(9)落夏
***
蓋をしていた記憶が散らばる。
《華恋》そう叫ぶ。
隣には華恋がいてもう飽きたんだけどと少し嬉しそうに僕の肩を突く。そして僕は毎日連れて行くって言ったじゃんと笑いながら身をくねらせる。華恋ははにかんだ表情をしながらありがとうと僕の鼓膜に届くか届かないかぐらいの声量で呟く。そして二人で月を見ながら色々話し合って……。曲はどうしようとか将来の話とか笑い話とか……。そして、そして、そして、そして……。あれ? なんで? なんで前がぼやけるんだよ? 無造作に拭い横を見る。え? なんで? 見えるのは黒い暗い何もない空間。月光に照らされ寂しく空く一人分の空間。なんで? 華恋は? 周りが見えなくなる。上を見ても月が歪み原型を留めていなかった。全身が熱い。呼吸が上手くできない。喉の奥から何かがこみ上げてくる。心臓の奥が痛い。嗚咽混じりの吐息が漏れる。華恋……。
華恋、華恋、華恋……。一度溢れたら止まらなかった。もうダメだよ。寂しいよ。痛いよ。悲しいよ。辛いよ。孤独だよ。苦しいよ。……。
会いたいよ、華恋。ねぇ? 華恋、華恋、華恋、華恋、華恋……。
薄れゆく視界の中で微かに何かが揺れた。そっと静かに。懐かしい匂いがする。僕は慌てて麻痺した腕を持ち上げて顔を拭い視界を鮮明にしようと試みる。視界に映ったのは――。それはずっと待ち焦がれていた姿だった。微かに歪む視界の中で確かに見えた。白色のTシャツに青色のスカート、片手には小さいバッグを提げていた。それは紛れもない《華恋》だった。現実か空想かなんてどうでも良かった。華恋に会える、それだけで幸せなんだから。夢でもいい。
「こんにちは、じゃなくて、こんばんはだね」
その言葉は優しく僕を包み込んでいた。この言葉は華恋の口癖だった。朝でも昼でも夜でも、この言葉を使っていた。華恋曰く昔読んでいた漫画の憧れていたヒロインがこのセリフを言っていて、それが子どもながらに面白くて可愛くて心に残っていたそうだ。
僕はその言葉、というよりかはそれを言う華恋が好きだった。少し天然ぽくてお茶目な感じがして、はにかみながら言う華恋が大好きだった。この言葉を聴く度に心が躍って全細胞が浮きだっていた。
華恋は僕の前に来て少しかがみ顔を覗き込む。
「どうしたの? そんな顔して」
「うううぅぅぅぅううっつうわあああぁぁぁ」
ずっとずっと聴きたかった声。
頬を伝ってとめどなく溢れては流れていく。
華恋は隣に座り背中をさすってくれた。優しく暖かい手だった。
「ううぅぅ。ひ、ひさ…しぶり…だね」
何十分もかけてなんとか声を発する。
「久しぶりじゃないよ」
子どもをあやすようなひどく優しく言う。
それがたまらなくてまた、泣く。ただひたすら華恋は大丈夫大丈夫と言って撫ででくれた。
なんとか落ち着いてきて呼吸も整ってきた。
「い、っ、今までど、どこにぃいたの?」
全身が麻痺し頭が痺れて嗚咽しか漏れなくて頭の中が無になっていたのに、口をついて出てきた言葉は、今僕がもっとも訊きたかった言葉だった。
「ずっと冬の傍にいたよ。どこにも行ってないよ」
透明よりも澄み切った声で包み込む。
「ぅううぅぅぅうう」
そんな言葉を聴いたらまた視界が歪んでいく。
「――じゃあ行こっか」
しばらく経って夜空の奥が少し明るくなってきた時、力強く言って静かに立ち上がる。そして僕の手を優しく掴む。暖かくて体全体が優しさでいっぱいになった。僕も僕の身体じゃないと錯覚するほど重い身体を起こし立ち上がる。けれど、思ったよりも軽かった。今度は違った意味で自分の身体じゃないみたいだった。
「大丈夫?」
華恋がいつものように訊く。前に「大丈夫」が何に対してか分からなくて訊いたことがあった。その時に華恋ははにかみながら、
「私が冬を連れて行って迷惑じゃないか、嫌いじゃないかという意味だよ」
と頬を赤色に染めて教えてくれた。
「うん!」
僕は満面の笑みで応える。
「じゃあ行こう!」
そう言って華恋は軽やかに地面を蹴って駆けていく。手を引かれて後を追う。
ふと体が軽くなる。そしてどこまでも深い暗闇の中へと吸い込まれそうになる。頭の中に次々と浮かんでくる。雲一つない空、公園のベンチ、ひぐらし、茜色の街、宙を舞う雫、コンクリート、信号、ジュース、月、夏の匂い、雑草、小川、雲、温い風、恥ずかしさ、夕陽、烏、ギター、雨音、夏の陰、入道雲、誘蛾灯、森林、桜、風鈴、澄んだ空気、雪、鼻歌、靡く髪、氷菓、帰り道、苦しさ、蝉、呼吸、汗、祭り、雨をつたう窓辺、寂しさ、睡蓮、海、カフェ、黒い瞳、月光、ピアノの音、群青、バス停、砂浜、歌詞、時計、蒸し暑い気温、傘、サンダル、初夏の匂い、商店街、爽やかな風、静寂、古びたベンチ、悲しさ、枯れ葉、快晴、嬉しさ、嗚咽、駅前、山、夜明け、喪失感、電車、華恋の声、無邪気な笑い声、物真似、はにかむ表情、月に照らされた涙、優しい声、暖かい手、震えた背中、心配そうな顔、後ろ姿、微笑み、華恋……。
全部一気に流れ込んでくる。鮮明に一つ一つが鮮やかに浮かんでは消えていく。恐かった。恐くて恐くてたまらなった。全部無くなって一人になるような感覚がした。華恋もいなくなって、一人何も無い場所で。
全身が酷く震えていた。
華恋が僕の手を強く握り、
「大丈夫だよ」
と言った。そして優しい黒い瞳で僕を見る。
「大丈夫。行こう」
力強くて不安を吹き飛ばすような爛々とした声だった。
「うん!」
不思議と震えは止まっていた。
周りは見てはいけない気がした。見たら、さっきの何もないところに戻ってしまうようで、華恋とも逢えなくなってしまうような気がしたから。華恋の背中だけを見る。華恋の髪が生き生きとゆらゆら揺れて靡く。
「ねえ、どこに行くの?」
「冬が好きなところならどこでも良いよ」
振り返らずに優しい声が鼓膜を揺らす。
「僕は華恋と一緒ならどこでも良いかな」
「え、ええええ! 嬉しい! ありがとう! 照れるな~」
顔を赤らめて恥ずかしそうに笑う。
「じゃあ、とっておきの場所に連れて行ってあげる」
今までにないぐらい爽やかな声が響く。
「そこってどんな場所なの?」
にやにやしながら訊く。
「ふふ。内緒。ついてからのお楽しみ」
子どもみたいに無邪気にからかうように笑う。
「え~。分かったよ。楽しみにしてるよ」
笑いながら言う。
「素直でよろしい」
華恋はおどけたように言う。
そして――
華恋の黒髪がぴたりと止まって微かに甘い香りが漂う。
「冬、ついたよ」
そう言って華恋はわらった――
落夏 うよに @uyoni
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