(8)「また」
***
「今夜、月を見ようよ」
金曜日の放課後、一緒に帰っている途中、視線を感じて横を見ると、彼女が僕の顔をジーッと見ていた。いつになく穏やかな表情をしていたから、自然と唇が緩んだ時だった。まどろむような柔らかな口調でそっと、だけど力強く鼓膜に届いた。
飛び上がりたくなるほど嬉しかった。今まで夜まで一緒にいたことはなかったから、心臓があり得ないぐらい鼓動していた。僕は大きく頷き彼女をちらりと見やると――彼女はどこか遠くを見るような目で儚げな表情をしていた。少し不安に感じ大丈夫? と聞くと少し驚いたような表情を見せてから大丈夫だよと薄く笑い、いつもの雰囲気に戻った。
彼女に案内された場所は一年ぐらい前に倒産した会社の廃墟となった建物の屋上だった。重いドアを開けると教室の四分の一ぐらいの広さがある開けた場所に出た。
いつもどこからこんな場所を見つけてくるのかと感心しながら四階建てでそこそこの高さから引き抜けてくるそよ風に目を細める。一歩踏み出すと靴底がぬめっとした感触に襲われ、下を見ると酷く色褪せて所々に苔やシミができているコンクリートが目に入った。そして少し先に二人用の古びた細長いベンチがひっそりと一人寂しく佇んでいた。よく見ると赤いペンキが剥がれ落ち白い部分が露出していた。
相当年季が入っているように見受けられる。それにこのコンクリートの状態や屋上を囲う金網も錆びて破けている所からも、相当前に建てられたものだと分かる。倒産したのはつい最近らしいけど、もしかしたら老舗だったのかもしれない。僕は駅前とかしか興味がなかったから、こういう街中から少し外れた所の店事情は全く分からなかった。
「ねえ――」
隣にいる彼女に問いかけようとしたところで言葉を失った。彼女は今までにないくらい寂しげな表情をしていたから。見ていると僕まで悲しくなってくるような深い深い瞳で現実世界のここには決してないようなどこか一点を見つめていた。
「――華恋?」
そんな彼女に話しかけることは酷く忍ばれたが気づいたら考えるより先に口が動いていた。本能で何かを感じ取っていた。決して喜ばしいことではないような――
「――え? あ、うん。大丈夫だよ。ただちょっと風が気持ち良かったから、ぼっとしてただけ」
「そ、そう……なんだ」
明らかにそういう類のものではなかったが、違うよね、なんて言えるはずもなく不自然な受け答えになってしまった。
「ところでさ、ここ良いでしょ。あの夕日も凄くきれいだよね」
とさっきまでの雰囲気はどこへやらケロッとして斜陽に染まる優し気な瞳を揺らして僕の手を少し強引に掴んだ。
「うん。こんな高い所から夕陽が沈んでいくところ、生で見たの初めてかも」
僕はなるべく平静を装い明るい口調を心がけた。
「ふふ。でしょ。立っているのも疲れるからあのベンチに座ろうよ」
彼女は無邪気な子どものように古びたベンチを指さす。
「えー。あの汚らしいベンチに座るの?」
「汚らしいとか言わないの。ベンチにかわいそうでしょ」
と頬を膨らませお母さんみたいなまねをする。
「はいはい。すみません、お母さん」
「分かればよろしい」
と僕の頭をゆさゆさと撫でケラケラと笑う。
――きっと見間違いだ。金曜日ってこともあるし先週は定期考査があったし、その疲れがまだ続いているんだろう。きっとそうだ。
もう一度彼女の横顔をチラ見すると聖母のような笑みをたたえていた。
彼女に促され渋々腰を下ろす。率直に言うと見た目通り座り心地は最悪だ。陽に当たっていたから生暖かく塗装が剥げざらざらしていてお尻が痛いのなんのって。
そんなことを口にしたら子どもだなと小馬鹿にされた。それどころか急に上目遣いでとろけるような甘い囁き声で
「ねぇ、私の膝の上にすわる?」
なんてからかってきたものだから僕の情緒は狂ったようにおかしくなった。からかわれて悔しいや少しの苛立ちと誘惑されて嬉しいという気持ちなんかがごちゃ混ぜに押し寄せてきて、どうすべきか分からずに、ベンチの隅っこに移動して彼女と距離を取って視線を外した。
「意気地なし」
と口を尖らせて言う彼女に言い返したい気持ちを堪えて、上を見上げ夜空を仰いだ。
もう夕日は完全に沈んで淡い藍色とともに輝かしい星々が夜空を鮮明に彩っていた。この日は満月に近いきれいな月だったの相まって、まるで創作の世界のような幻想的だった。
「きれいだね」
彼女は感慨深い声をぽつりと漏らした。
深く息を呑んでいて辛うじて口から零れ出た、そんな風に聞こえた。
「うん」
としか言えなかった。余りにも感動していたから。
「本当にありがとうね」
やっと口が動いて出た言葉はそれだった。この美しさを敢えて言葉にするなんてそんなの野暮だから。言葉なんていらなかった。ただの蛇足にしかならない。それほどまでに脳裏に焼き付いていた。
「こちらこそ付き合ってくれてありがとう」
透き通るような澄んだ優しい声だった。
胸がトクンと高鳴った。
そのまま何も発しない時間が流れた。どれぐらい経っただろう。彼女が口を開いた。
「ねえ、冬」
世界に僕たちしかいないんじゃないかと思うぐらい静かな空間にそっと響く。
嫌な予感が全身を貫いた。先ほどまでの雰囲気が一気に崩れ去り耳を貫くほどの静寂と一緒に「何か」が僕を襲い奈落の底まで突き落とす。そんな錯覚を起こすほど、黒く暗くどす黒い何かが眼下に漂っていた。
彼女はゆらゆらと揺れて瑞々しいほどに月明りを反射させた瞳で僕を見ていた。
そして――
「また冬とこの景色を見られるのかな」
背筋が一瞬で凍りつき全身が悲鳴を上げていた。
ひどく震えていて掠れて心の底からの叫びのような悲痛さを孕み切なく悲しく寂しそうな声にもならない吐息のような声だった。
僕はただひたすら怖くて恐くて堪らなかった。恐る恐る固まった首を何分もかけて彼女の顔を見る。彼女の黒い瞳から一つまた一つと何かが流れる。それは月明りに照らされて光りながら闇の中へと落ちて消えていく。顔が引きつり嗚咽混じりの呼吸が乱れていく。
頭の整理が追いつかない。いや、追いつかなくていい。このまま混乱して曖昧なままで――
――なんで?
なんで分かってしまうんだ……?
頭の中ではこんなに拒否しているのに……。
『彼女とはもう会えない』
そんな言葉が真っ暗な眼下に文字を連ねて浮かび上がる。
嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌!
イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ!
いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!
「な、なに……言って……るの? じょ……冗談で……しょ。「また」じゃ……なくて毎……日……見られるから。僕が毎日ここ……に華恋……を……連れて……行くから。そうすれ……ば毎日見れ……る。だ……から……だからそ……んな……寂しい……こと……言わない……で……」
必死に真っ白な、白という「色」さえもないほどの混沌とした頭の中でつぎはぎだらけの言葉を紡ぐ。
「っつ、うう。うん……あ、っ、っつ、りがとうぅ、っ」
なんとか声を振り絞って蝉が悲痛そうに鳴くような声を暗闇に落とした。
そして無理に笑おうとして顔がぐにゃりと歪む。
そっと震える手で彼女の背中に触れる。冷たかった。生身の人間かと疑いたくなるほど。そして小刻みに震えていた。そっと背中をさする。ゆっくりと。彼女は更に泣いてしまった。もう片方の手で彼女の手を握る。震えていて夏に似合わないほどに冷く血色が無く白かった。
――本当にあの華恋なのか……。あんな元気で心強くて真似が上手くてからかって真剣で面白くて可愛くてしつこくて優しくて無茶を言って優しく掴んでくれた手が暖かくて……そんな、そんな華恋がひどく震えて泣いている。
彼女は僕にしがみついて泣いていた。彼女の手により一層力が籠り服がビリビリと悲痛な音をより一層際立てて静寂の中を支配していた。
「ねぇ、か、かれん、いなくならないよね」
「っつ、っつ、……う……ん。っつ」
彼女の弱々しい声が真っ暗で無慈悲な夜に吸収されていくだけだった――
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