雪の中、黒い着物
それから寧之は公私ともに慌ただしい生活を送っていて、近藤家にはしばらく顔を出せていなかった。時々紗良の事が気にかかったが、あいにく様子を見に行く余裕は無かった。
やっと近藤家を訪れたのは十一月になってからのことだった。
いつものように家屋での用事を済ませてから離れの戸を開けると、寧之をみとめた紗良は今までと変わらない嬉しそうな笑顔を浮かべた。前回の茶々丸の事で一抹の不安を抱えていた寧之だったが、紗良のその表情を見てひとまず安心した。
「しばらく来れなくてすまなかった。調子はどうだ?」
紗良の前にしゃがみ彼女の頭に手を置くと、紗良は笑顔のまま答えた。
「大丈夫です。茶々はどうしていますか?」
「ああ、茶々丸は動物のお医者さんに診せて、元気になってきているよ。今度うちに様子を見に来るといい」
紗良はまた笑顔で頷いた。そして視線をずらして少し何か考えるような表情をすると、ぱっと顔を上げて寧之を見た。
「おじ様、りんごの切り方、教えてもらえませんか」
「林檎?」
「昨日、お風呂に入りに行く時、おだいどこにたくさんあるのを見ました。紗良もお料理できるようになりたいので、果物むけるようになりたいのです」
離れに風呂は無いので、風呂に入りに行く時にだけ紗良は家屋部に入ることを許されていた。風呂は台所を抜けた先にあった。
紗良が料理を出来るようになるのかは疑問だったが、寧之は紗良の願いを断ったことはなかった。出来るようにはならなくても、挑戦したいと言ったことは教えてやるべきだと思っていた。なので寧之は「よし」と言って立ち上がり、離れを出ると家屋に戻った。そこに居た紗良の祖母に林檎二つと包丁を貰いたい旨を告げると、それらを手に持ち再び紗良のもとに向かった。
まな板は祖母が使っていて借りられなかったので、寧之は鞄から適当なノートを出すとその上に林檎を置いた。まず、寧之が一工程ずつ説明しながら林檎を切った。次に「気を付けるんだぞ」と言って紗良に包丁を渡し、やらせてみた。やはり寧之が見せた一工程も彼女の頭には入っていなかったが、また寧之は一つ一つ丁寧に教えてやった。
「左手で林檎を支えるんだ。固い部分に当たったらそれは芯だから、そこをよけて切るといい」
そうして時間はかかったものの、何とか紗良の手で林檎を切ることが出来た。それは
そして二人で林檎を食べ終わった頃、離れの入口から憲成が寧之を呼んだ。父の遺品のことでまた何か用だろうと思った寧之は離れを出て、憲成の後を追いかけた。
一ヶ月後、その日は十二月には珍しく雪が降り、少し積もって道を白く染めていた。外出には適さない天候だったが、まだ繫忙が一段落していなかった寧之は日を選んでいられず近藤家に足を向けていた。
いつものように家屋部に顔を出し、憲成と諸々の話し合いをし遺品を整理する。その後憲成、紗良の兄、紗良の祖母とともに昼食を摂った。
寧之が早々に食べ終わり、近藤家の面々はまだ食卓を囲んでいたが、早めに帰宅する必要があった彼は途中で腰を上げ、紗良の居る離れへと向かうことにした。
扉の前に立ち、一声掛け、離れの戸を開ける。いつも通りそこに紗良は居たが、これまでは寧之が訪れると顔を輝かせていたのに、その日はぼんやりと寧之を見つめただけだった。面食らった寧之は「どうかしたか?」と中腰になり紗良を覗き込んだ。
すると紗良は素早く立ち上がり、開いていた離れの戸から外に飛び出して行った。その着物の胸元に黄色く小さな何かが見えた。突然のことであったし、紗良が離れから逃げ出したことなど今まで無かったので、寧之はあっけにとられてしばらく動けなかった。しかしすぐに追わなければと思い、「紗良!」と声を上げて寧之も踵を返した。
紗良が走って行ったのは家屋部の方向だった。もう何年もろくに運動などしていないというのに、突進するかのように家の方へと向かって行く。その右手に何かが見えた。離れで見た時は気づかなかったが、紗良は右手に——銀色に光る包丁を握っていた。
「紗良!!」
先ほどよりも声を張り上げて叫んだが、それが聞こえないかのように彼女はひた走り、家族が居る食卓へ駆け込んだ。憲成達は突然紗良が現れたことに驚いて誰もが食事の手を止めて固まっていた。
紗良はその「家族」を——最初に父を刺した。次に右に向き直って兄を刺した。最後に食卓を回り込んで祖母を刺した。一撃ずつ刺した後、とどめをさすかのように、あるいは憎しみを解き放つかのように、全員をもう一度ずつ刺した。
紗良を止めなければ。そう思ったのに、寧之は動けなかった。恐ろしくて動けなかった。単純に目の前の凶行が恐ろしかったのもあったが、この小さな少女が身の内にこんなにも膨大な狂気を溜め込んでいたことが恐ろしかった。
いや、違う。ちゃんと考えれば分かったはずだ。
七年間も一人だけ別の場所に押し込められて、蔑みの目を向けられていた。まともでいられるはずがなかったのだ。紗良の家族達が彼女をあのように扱うのであれば、妻に無理を言ってでも自分が紗良を引き取るべきだった。茶々丸の首を絞めた時におかしくなる兆候が出ていたはずなのに、一緒に林檎を切った時は普通に見えたせいでどこか油断してしまっていた。
くわえて紗良は寧之達が思っていたより頭の働く子だった。一緒に林檎を切る前日、台所に林檎があるのを見た紗良は、きっと林檎を切るのを口実に包丁を手に入れようとしたのだろう。風呂に行く時は家族の見張りが付いていてできないから、寧之に持って来させたのだ。あの日憲成に呼ばれて包丁のことを忘れていた自分を寧之はひどく責めた。近藤家には包丁が何本もある為、一本くらい無くなっても家の人間は気づかなかったのだろう。あるいは気づいていたとしても、まさか離れにあるとは思わなかったのではないか。
家族を刺した後外に飛び出して行った紗良を、寧之は一呼吸遅れて追いかけた。すると雪の中を裸足で駆けて行く黒い着物の背中が見えた。その背中にむかって「紗良!」と呼び掛けると、彼女は
雪が降りしきる中、黒い着物を着た長い黒髪の少女がこちらを見ていた。先ほどよりかはいくらか瞳に感情の色を感じた。その白い肌には、刺した時に浴びたと見られる血が染まっていた。家に放ってきたのかもう手に包丁は無く、代わりに先ほど胸元に見えた黄色い何かが包まれていた。
「紗良・・・すまない・・・・・・」
出てきた言葉はそれだけだった。様々な感情が渦巻いていたが、今はその言葉しか出て来なかった。
そんな寧之を、紗良は泣き出しそうな力強い目で見つめていた。しばらくそうしていたが、やがてその瞳からふっと表情が消え、先ほどの凶行が嘘のような弱々しい声を発した。
「・・・おじ様だけが、紗良に優しくしてくれました」
そして言い終わるとすぐに、再び背中を向け雪の中を駆け出して行ってしまった。一拍遅れて寧之も後を追ったが、近藤家の敷地を出るとあたりは住居が密集していて、凍えそうになる中寧之は何十分も紗良を探したが、とうとう見つけることは出来なかった。寧之は冷たい白い地面に膝をついて空を仰いだ。その時に思い出した。紗良の右手にちらついていた黄色いものは、いつかの夏の日に寧之が折ってやった折り紙の鶴だった。
林檎の味が忘れられない 深雪 了 @ryo_naoi
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