林檎の味が忘れられない

深茜 了

夏の日、少女と犬

紗良は美しい少女だったが、生まれつき頭の一部に欠陥が有った。

世間で洋装が一般的になってきた中、彼女は黒い着物を着て、その背中まで垂れた髪も黒く、更には大きく吸いこまれそうな黒い瞳。それら全てが紗良の白い肌を強調していた。

肌が白いのは元々だったが、それ以外にも、彼女が外にほとんど出ないことが大きく影響していると思われた。


家族は父と祖母、それから兄が居たが、紗良だけが家屋の少し先にある離れに隔離されていた。母親は紗良が幼い時に病死した。

彼女は脳が若干他人と違った。十二歳の彼女は家族の名前も、叔父である寧之やすゆきの名前も覚えているが、少しばかり縁遠い人間の名前は頭に入らない。

会話はそれなりに成立するが、難しい話になると小首を傾げてしまう。

手先を使う作業となると、やはり単純なことしかできないのであった。


残暑をまだ色濃く感じる八月、寧之やすゆきは近藤家、すなわち紗良の家を訪れた。

前々から近藤家に赴くことはあったが、寧之と寧之の兄—紗良の父親である—の父が少し前に死亡したので、遺品整理や遺産のことなどで最近では訪問する頻度が増えていた。


自宅部分で家族に挨拶をし、昼飯をともにした。みょうがと葱を乗せた素麵を振る舞われ、他愛もない話をぽつぽつとしていたが、やはりそこに紗良の姿は無かった。

紗良は障害のせいで家族から嫌われていた。見放されているともいえるだろうか。母親が生きていた頃はそれ程でもなかったと思うが、寧之の兄の憲成けんせいは母の居ない障害児を持て余し、次第に忌み嫌い、離れに少女を押しやった。そんな状況がもう七年程、続いていた。

紗良と二つ違いの兄も兄で、不幸な妹に同情するということもなく、侮蔑の視線と嘲笑を彼女に向けていた。以前離れで紗良の髪を両手で掴み引っ張っているところを偶然寧之が目撃し、慌てて止めに入ったことがあった。祖母は紗良にあまり関心が無いようだった。


「紗良は息災ですか」

近藤家ですべき事を終え、帰り際に憲成けんせいに尋ねてみた。その言葉に兄は露骨に顔をしかめた。

「あまりあれの話をするんじゃない」

四十四になって皺が刻まれてきた頬を兄は余計に歪ませた。かくいう二つ年下の寧之も眉間の皺を目立たせて反論した。

「お言葉ですが、あのような少女を四六時中離れに押し込めておくのはやはりどうかと。あまりにも非情な仕打ちではないですか」

寧之が訴えると、憲成は険しい目つきで顔を近づけてきた。

「あれはこの家の恥だ。来客もある家屋部に置いておくことはできない。それにあの痴れ者が傍に居るとこっちの気がおかしくなってくるんだよ」

兄の容赦無い言い方を受け、それ以上寧之は何も言う事が出来なかった。紗良の様子を見て帰ります、と言い残し家屋部分を立ち去った。


離れの戸を開けると、床に座っていた少女がこちらを振り返った。振り返った後、顔を明るく輝かせた。しかし現れたのが寧之だと認識する直前まで虚ろな目をしていた。寧之だけが唯一彼女を気に掛けて接しているので、少女は彼だけには懐いていた。

「おじ様、こんにちは」

紗良はあどけなさと美しさが混ざった笑顔で寧之に言った。寧之も白い歯をのぞかせた。

「最近暑いな。元気にしているか?」

「紗良は大丈夫です。なんともないです」

そう言いながら、彼女の顔には少し汗が滲んでいた。離れには小さな窓が一か所付いているだけで、彼女が温度調整をする術はそれしかなかった。よって夏は暑く、冬は犬にくっついて凍えていた。

ここでは犬を一匹飼っており、毛が茶色くやや長い大型の雑種犬だった。茶々丸と名付けられたその雄犬はもとは番犬として家屋のすぐ外に繋がれていたが、客人や親戚にも大きな声で吼える為離れの中に移されてしまったのだった。


床に座る紗良の手元に目をやると、彼女は折り紙を何枚も広げて何かを作ろうとしていた。しかしどれもが皺が寄って、何の形も成していなかった。彼女には僅かながら玩具が与えられていた。

「それは何を作ろうとしてるんだ?」

立ったまま折り紙を見下ろす寧之に、紗良は再び顔を上げた。

「鶴、つくりたいんです」

「鶴?」

「最近、茶々が苦しそうな声を上げることがあるんです。だから何か病気かもと思って、お父さまにいってみたんですけど、何もしてくれないんです。だから、せめて茶々が良くなるように、鶴をたくさん折ってあげたいんです」

寧之は茶々丸に近寄って様子を見てみた。特に外見に変わったところは無く、状態も今は落ち着いているようだった。

「俺から兄さんに、今度獣医に看てもらうように言ってみよう」

寧之の言葉に、紗良は顔を上げて嬉しそうに頷いた。そして寧之は紗良のもとにしゃがみ込み、折り紙を一枚手に取った。

「鶴の折り方はな、まず半分に折って、それからこの端の部分を上に三角になるように折るんだ」

説明しながら紗良の前で折ってみせた。それを見ながら紗良は紙を半分に折ったが、その次がどうしても分からないようだった。説明する前から彼女が理解できないことは予想していたが、それでも寧之は教えることを投げ出さなかった。


一手順ずつ説明しながら、一つの鶴を作り上げた。紗良は二手目から理解が追い付いていなかったので寧之の作業を見守っているだけだったが、分からないながらも熱心に折り紙を見ていた。

完成した黄色い鶴を紗良に手渡すと、彼女は両手でそれを受け取りとても喜んだ。そして茶々丸の傍に駆け寄ると、鶴を床に置いた。寧之は犬が鶴を壊さないよう、なるべく手の届かない場所までずらした。犬は不思議そうに鶴の方向へ鼻先を近付けていた。


そろそろ帰ろうと思い、笑みを浮かべながら手をぶんぶんと振る紗良に別れを告げると、寧之はもう一度家屋部に寄った。そこで怪訝そうな顔をする憲成に茶々丸の事を相談してみたが、むっとした表情で首を横に振るだけだった。番犬としての役目をろくに果たせない犬を手厚く世話する必要は無いと言い残し、奥に立ち去って行った。


心にぶ厚い雨雲のような憂いを抱えながら寧之は自宅に帰った。紗良のことを何とかしてやれないだろうかと思い、夕飯の時妻に、紗良をこの家で引き取れないだろうかと談判した。妻には前々から紗良の受けている仕打ちについて話してあった。

しかし妻は浮かない顔をして寧之の申し出を断った。確かにあの子は不憫だとは思うが、ただでさえこの家も三人の子供を抱えている中、障害のある子供を引き取るのは経済的にも心理的にも不可能だということだった。寧之はしぶしぶ承知するしかなかった。


暑さも和らいできた九月の中頃、寧之は再び近藤家に赴いた。所用を済ませ離れに向かうと、犬が苦しむような声が聞こえてきた。前に紗良が茶々丸の調子が良くないと言っていたのでそのせいだろうかと思ったが、何か様子がおかしいと思った寧之は足早に離れの入口に近寄り戸を開けた。

すると目に飛び込んできたのは、茶々丸の首を絞める紗良の姿だった。茶々丸をつないでいる紐を犬の首に巻き付け、力の限り絞め付けている。しかしその力の強さとは裏腹に紗良の目は何も映してはいなかった。

「紗良!やめなさい!」

慌てた寧之は紗良を茶々丸から引き離した。彼女は一瞬何が起きたか分からないかのようにふらつきながら後退したが、そのあと目線を上げ、間に立つ寧之の姿をみとめた。犬はまだ苦しそうに喘いでいた。

「どうして・・・どうしてこんなことしたんだ」

紗良の両肩に手を置き寧之が問うと、少女は途切れ途切れに答えた。

「最近・・・、ずっと、鳴いていたので、ちょっとうるさかったのです」

そう答える瞳は寧之の目を捉えておらず、眼前を虚ろに見つめたままだった。

紗良は茶々丸を愛していたはずだった。この世界に彼女の味方は寧之と茶々丸しかおらず、そんな茶々丸に危害を加えたことが信じられなかった。寧之は途方に暮れた。


近藤家に再び戻り、憲成に今あったことを説明した。紗良が精神的に不安定になっているのではないかと訴えた。しかし憲成から返ってきた答えは、「おかしいのは元々だ」という無関心さと、「もう今後一切あれの話はしてくるな」という拒絶だった。

再度打ちのめされた寧之は、とりあえず茶々丸だけでも引き取って行くことにした。獣医に診せればよくなる可能性があった。妻には自分がいっさいの面倒をみるのでと頼み込んだ。彼女は障害のある子どもを引き取るよりはましだと考えたのか、少し難色を示しながらも承諾してくれた。

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