パブロフのマハト

「何すん──」


 あれ、ブランの拳の動きが停止した……いや、限りなくゼロに近い速度で動いてるのか。よく見たらブランだけじゃなくて、目に見える全ての物がゆっくり動いてる。

 これ、前にもあったな。確かあれはウディと決闘した時、俺がピンチになった瞬間だった。今と同じように世界がスロー再生されて、自分だけが普段と変わらない速度で行動できていた。

 そうか! この現象もまた、俺の身解がもたらしたんだ!

 ……だとしても、なんでブランはこのことを知っていたんだ? いや、ダローガが協力者なら知ってて当然か。


 あ、スロー状態解けた。


「やはりこうなりましたね、マハト君。今の現象を実際に見て確信しました。

 あなたの身解は脳に関する能力であり、恐らく脳が体に送る信号の速度も極めて速くなると考えられます。そのため、思考速度と共に体の俊敏性も上昇している。よって、あなたは先程のように目にも止まらないスピードで行動出来た。私の拳を避けることが出来た。

 そこで、あなたにはこの高速移動をコントロール出来るようにして欲しい。捌罪魔と戦うにあたって、自らの身を守る手段は必須ですから」


 驚いたな。流石は科学者と言ったところか。俺の体について俺よりも理解が深い。


「分かりました。で、俺は何をすればいいですか?」


「そうですね、では早速今から練習しに行きましょう」



 ○



「痛ってぇ!」


「おやおや、どうしたんですか?先程のように避けてください!」


 なんでだ! さっきは簡単にスロー状態になったのに!


「マハト君、思い出してください。あなたはこれまでの二回、高速移動の身解を発動した時に何を考え、何を感じていたのか! それこそがコントロールの鍵です」


 何を考え、感じていたか? そもそもあれは体が危険を感じて脊髄反射的に発動されたものであって、俺が何かを思って行われたものじゃないはずだ。今はブランが殴ってくることを先に知っているから、身解が発動しない……なら、意識的に身の危険を感じる方法を探し出せば何とかなるかもしれない!


「ブランさん、俺に考えがあります」


「ほう、なんでしょう?」


 本来前世の世界の話はあまりしない方がいいんだろうが、今は仕方ないな。


「パブロフの条件反射です」


「……それはなんですか?」


「パブロフの条件反射。俺が元いた世界で、イワン・パブロフという生理学者が行った実験、その結果から名付けられたある現象のことです。実験の内容は、犬にベルの音などの条件刺激を与えた後、エサ、つまり無条件刺激を与える。この流れを何度も繰り返すと、犬はベルの音を聞くだけで涎を垂らしたのだとか。

 この実験結果から、『一定の条件下で無意識のうちに起こる反応や行動』を総じてパブロフの条件反射と呼ぶようになったんです。

 そして高速移動の身解も、無意識下でのみ発動する現象です。なら、なにか他の条件刺激と身解を結び付けることで、身解をコントロールできるかもしれません」


 俺が話終えると、ブランは興味深そうに頷き、そして不気味な笑みを浮かべた

 YorTubeでちらっと見た知識で喋ってるけど大丈夫か? これ。


「なるほど……それは名案ですね。では、今日から一ヶ月、一日一回どこかのタイミングで私がこの針であなたの体を刺します。あなたはそれをスロー状態になって避けてください。いいですね?」


 そう言って、裁縫針のような見た目の細い針を見せてきた。


「え、痛いの嫌なんですけど」


「我慢してください。あなたの人生のために、必要なことですから」


「まぁ、仕方ないか……」



 ○



 さて、今日からパブロフの修行が始まる訳だが……何故か昨日から俺の部屋にノワールがいる。ブランとノワールの下宿先がシックザール家であることは知っていた。だが、他にも部屋はある。わざわざここに居座る理由はないはずなんだが……。


「ノワール、お前いつ寝てんだ?俺より後に寝て俺より先に起きてるとか、体調崩すだろ」


 俺が話しかけると、ノワールは不思議そうな表情を浮かべた。


「私は睡眠を必要としない体質なので、そもそも寝てませんよ?」


「──あぁ。なるほど?」


 意味はよく分からないが深く聞くほど興味もないので追求はしないでおこう。


「そろそろ朝ごはんの時間になるし一階行こうぜ」


「そうですね。行きましょう」


 とてもご機嫌そうな顔をするノワール。睡眠はいらないのに食事はとるのか……ますます意味がわからないな。


 俺とノワールは部屋を出て、少し長い廊下を歩く。俺より二メートルほど先に居たノワールが、いきなり受け身も取らず転けた。俺は大丈夫かと言いながら近づいたが、彼女はスっと立ち上がり、何事も無かったかのように歩き出した。あと、立ち上がる時にいい匂いがした。


「マハトさんは、女体を観察するのがご趣味ですか?」


「ごめんなさい……」


 まさか気づかれてるとはな。そういえば、女性は思っているよりもこういうことに敏感とも聞いたことがある。控えるしかないか……。



 ○



 食事を終え、俺たち二人は家を出て外で遊ぶことにした。


「ダローガさん、料理がお上手なんですね」


「あぁ、父上は世界一美味い料理を作る。なんでも、一族に伝わる特別な技を用いてるらしい。詳細は教えてくれないから俺には再現できないのが悔しいな」


 ノワールはそれを聞いて少し残念そうな表情をした。


「あーでも、今度また父上に頼んでみるよ。もしかしたらタイミングによっては教えてくれるかもしれない」


「ええ、そうですね。お願いします」


 俺の言葉が頼りなかったのか、彼女の表情が明るくなることはなかった。どうにかしてこの子の気分を明るくさせられたら良かったんだが、俺はその方法を持ち合わせていない。頭が良くなくていいからもっと気が利く男になりたい。


「はい」


「痛ってぇ!」


 突如、スロー状態に入った。背後にはブラン。そして彼は針を持っており、それは俺の左腕に刺さっていた。

つまり、今日のパブロフチャレンジはこのタイミングということだ。やっぱ急に攻撃されると発動するんだよなー。


それにしても、ブランは一体どこに潜んでたんだ? 朝食の時から俺とノワールが家を出る直前まで、あいつは間違いなく居間のテーブルでフィークスやダローガと喋ってたはずだ。それに、俺たちが外に出た時以外で正面玄関のドアが開閉した音は聞いていない。ブランの魂転が分からない今、その条件を無視して考えると、いくつか可能性が出てくる。まぁ、裏口から外に出て急いで正面玄関側まで移動するのが一番現実的な気がするな。とはいえ、裏口から正面玄関までの距離は約四百メートルある。常人なら現実的とは言えない距離だが、ブランの移動速度は異常だ。彼の手にかかれば余裕だろう。


 これからこんな生活を強いられるのか……なかなかにハードだな。だが、いつ来るか分からない危険に備えて過ごすのはキツい以上に面白い。うーん、もしかして俺ってMなのか? まぁいい。このまま一ヶ月間訓練を続けて、身解をものにしてやろうじゃないか。


 スロー状態が解けた時、ノワールは既に悲しげな表情をやめていた。


 不気味な笑みを浮かべていたのだ。

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カワリモノマニアック 坂本千晴 @sunny_first

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