夏の終わり、夕闇の向こう

景華

夏の終わり、夕闇の向こう


 ずっと昔から、頭の中で誰かが呼んでいる。

 そんな気がしていた。


 キキキキキキキキ……。


 ひぐらしの音が境内に響く。

 夏の終わりの合図。

 あの日も、このひぐらしの声が鳴り響いていた──。



 名前しか知らぬ許嫁が死んだことを聞かされたのは、そう、こんな夕暮れ時。

 文通を幾度も交わし、顔を合わせ言葉を交わすことを楽しみにしていた矢先のことだった。


 彼は真っ直ぐな人だ。

 誠実で、良くも悪くも正直者。

 だからだろう。

 彼のことをもっと知りたくなったのは。

 今でも忘れない。

 ある日の文はこうだ。



“姉に、あなたは私を好いていると伝えてくれるかと尋ねられました。曰く、男性は女性に愛を伝えるものなのだとか。ですが私は、意味がわからなかったのです”


“奇遇ですね。私もそれについてはよくわかりません。文を交わし始めてすぐに好いていると思えましょうか。今の私にそれを伝えるなどということはできません。伝えたとして、それは嘘になるのですから。私たちが交流を重ね、分かりあい、好ましいと感じた時、私は初めてその言葉を口にするのだと思います”



 夢見る乙女であれば、憤ったり落胆することもあるだろうけれど、私はそれがただただ誠実の塊のように思えた。


 それからも私たちは文通を続けた。

 彼は意外と茶目っ気のある方で、よく冗談も書かれていた。

 そして揶揄うような文言も混ざり始めた頃のこと──。



 彼が、戦地へと赴くことになったということを知った。



 心配ないと。

 すぐ帰るからと書いてあった手紙を読んで、私はすぐに返事を書いた。


“どこの地へ向かわれるのですか? どのような任ですか? 安全なのでしょうか?”


 短い質問だけの文も、直接会うことができるならばすぐに答えを聞くことができただろうに。

 返事が来るまでの間が、まるで永遠かのような時間に感じた。


 そうして届いた手紙は、少しだけ、所々に墨が滲んだ跡があるものだった。


“任等については口外できず。ですが、必ずあなたの元へと帰ります。私はあなたの名しか知らぬが、幾度も文を交わし合ってあなたのことをよく知っているつもりです。たとえあなたが男だったとしても、女であっても、どのような顔で、どのような声だとしても、私はきっと、あなたを愛するでしょう。無事帰ったその時は、私は必ずあなたに会いに行きます。それまでどうか、健やかに”


 好いているなど嘘になるからと決して伝えることのなかった彼の、最初で最後の愛するという言葉。



 私は待った。

 自分のすべきことをただひたすらにこなしながら、彼を待った。


 待って、待って、その間にも長かった戦争は終わりを告げた。

 夏の終わり。

 ようやく届いたのは、彼からではなく、彼の母親からの、彼の死を知らせる手紙。


 手紙には「幸いにもあなたたちは顔を合わせてもいなかった。息子のことは忘れて、幸せになってください」と書かれていたけれど、何が幸いなものか。

 文を重ね、彼という人間に恋していた私には、彼を忘れることが幸せだなんて思えなかった。


 泣いて、泣いて、泣いて。

 真っ赤に染まった空に照らされた境内で、真っ赤に染まった手紙をただ握りしめて泣いた。

 あぁ、その時も、こんなふうにひぐらしが鳴いていたのだ。



 ──それでも無情に時は過ぎる。


 苦しいながらに人々は前へと歩み続け、私にも変わるがわる見合いの話が来た。

 けれど首を縦に振らないままに、嫁ぐことなく歳を重ねていった。


 何年も、何十年も、祈るように私は手紙を書き続けた。



“ 小さな縫製会社で働き始めました。大変ですが、なんとかやっていきます”


“こちらは寒くなってまいりました。そちらはどうですか?”


“あなたがいない世界が時々どうしようもなく憎らしくなります。寂しいです。早く、あなたの元へ行きたい”


“あなたに誇れるよう、頑張って生きていこうと思います”



 それでもどうしても苦しくなった時は、近所の境内で一人泣いた。

 彼からの手紙を握りしめて、声を顰めて泣いた。

 そうしてまた、前を向いて歩き出す。

 そんな繰り返し。


 彼はどこかで、私を見ていてくれるのではないかと、ただただ信じて、私は待った。


 そして──。



「あぁ……今年も夏が終わるのね」


 空が赤く染まっていく。


 ほのかに冷たさが混ざった風が吹き抜ける。


 あの日と同じ、赤が境内を染めた、その時だった。


「こんばんは」

 境内に座って手紙を読み返す私の頭上から落ちた、落ち着いた低い声。

 ふと顔を上げると、着物姿の若い男性。

 お祭りでもあるわけではないのに、若い男の人が着物を着ているだなんて、と不思議に思いながらも「こんばんは」と笑顔を向けた。


「待ち人ですか?」


「えぇ。もうずっと、何年も、何十年も待っています」


「そうですか。私も、もうずっと、待ち人を見守っているのです。彼女が最後まで、“健やかに”いられるようにと」


 私の頭の中にその言葉がはっきりと巡った。


“それまでどうか、健やかに”


 込み上げてくる熱いものを堪えながら、私は立ち上がり、その若い男性を見上げた。


「その待ち人も、“健やかに”生きましたでしょうね。風邪などひくこともなく、怪我をすることもなく、何十年も元気だったんですもの。……でも……顔も声も、しわしわになってしまいました」


 若かったあの頃とは違う。

 彼は、きっとあの頃と変わらぬ姿だろうに。


「私は文に綴ったはずです。姿も声も関係はない。ようやく会えた……」

 張りのある大きな手が、私のしわくちゃの、骨と皮だけの手を取った。


「連れていってください。今度こそ」

 涙を溜めた私の頬を拭って、彼は微笑む。

「はい、もちろんです。いただいたたくさんの手紙の返事を、あなたに伝えたい」


 何万通もの手紙は届いていた。

 そのお返事を全て聞き終えるには時間がかかるでしょうね。

 だけど大丈夫。

 私たちにはもう、無限の時間があるのだから。


 そうして私は、私の名を呼ぶ優しい声に導かれながら、そっと、瞳を閉じた。




“あなたはそちらで私を待ってくださっていますでしょうか?

 どのようなお顔で、どのような声なのでしょうか?

 たとえあなたが男だったとしても、女であっても、どのような顔で、どのような声だとしても、私もきっと、あなたを愛するでしょう。

 だからどうか、私を待っていてください──”




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夏の終わり、夕闇の向こう 景華 @kagehana126

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