第十八話 その氷解に添う。


「ルシア様とお会いしたあの時、とても素っ気ないお返事を頂いたんです」


 懐かしむ表情で紅髪の侍女が語る。

 それは私と彼女が初めて顔を合わせた日のことだ。侍女長から紹介された彼女の印象は、真面目そうということだけで特別何かを感じることはなかった。


 また一人、知らない誰かが増えただけ。


 ただそれだけのことだった。時間が経てば皆と同じ目を向けてくるだろう。何も変わらない、変わることなんてない。


「最初は距離を感じていました。私はただの侍女でルシア様は王女殿下ですから、必要以上に関わることはなく最低限の……上と下だけの関係なんだろうと」


 言葉として聴くと寂しい関係だ。けれど、それでもいいと思った。私に温かさはもう必要ない。随分前に失ったモノだからだ。二度と手に入ることはない……そう思っていたのに。


 じんわりと暖かくなっていく手に意識が向いた。


 こうして人の手に触れたのはいつ以来だろう。こんなにも心地良いものだっただろうか。

 最後に触れた記憶はあっても、そこに感じたものをいつの間にか忘れていた。


「でも違いました。ただ寄り方が分からないだけで、私達はこうして手を触れ合える関係に成れるのです」


 包むその手を振り払えばその言葉は力を失う。いつもの私ならそうしたかもしれない。聞きたくない、知りたくない、思い出したくないと距離を遠ざけただろう。


 彼女の真っ直ぐな瞳が私を留めて動かさない。


「それに私は知っています。ルシア様が優しい心をお持ちであることを……だからこそ私は、ルシア様を一人にはさせたくありません」


 確信しているかのように話す彼女の言葉が、壁など関係なく私に踏み入ってくる。きっと彼女は私を受け入れようとしているのだ。私が一歩踏み出せば彼女はその手を取って支えるのだろう。


 それでも、私が私を否定する。


「それはきっと、貴女の勘違いです」


 彼女の手から力が入るのが伝わった。


「私は優しくなんてありません。私は、貴女達のことを遠ざけてきました。必要ないとすら思っていた時期もあります。自分のことは自分でできますし、それに弟──リュカを優先するべきだとも考えていました」


 私はこの国の王女、でもそれはただの飾り。王女という役が付いただけの人間だ。何十何百と人が関わる王城で、私に割く人員は少ない方がいいに決まっている。この国を継ぐのは弟のリュカだと法で定めているのだから。


「この国において、私は腫れ物。私にとって貴女は贅沢な人です。私なんかよりリュカについたほうが建設的でしょう。私は一人のままで、一人がいいのです」

「──嘘ですね」

 

 間髪入れずにそう告げられて思わず目を見開いてしまった。


「……どうして」

「だって、ほら」


 彼女は重ねたままの手を優しく持ち上げる。私達はお互いに視線を落として


「これが嘘の証拠です」


 揺るがない事実を認識する。確かに繋がれている彼女と私の手が目の前に映っていた。

 彼女は微笑む。それはまるで安心させるかのように。


「もしルシア様が心から一人がいいと仰るなら、この手を払ってください」


 繋がれた手と彼女の目を交互に見る。

 私は一人でいい、一人がいい。近くに居なければ傷つけることも傷つくこともない。いつもの日常に戻るだけだ。

 理性を支配しているいつもの私が手を振り払おうと力を送る。


 ……あ、れ?


 手を動かそうとしているのに、石になったように動かない。温度を感じて触れている感覚もあるはずなのに、芯が抜けたみたいに力が入らない。


 動かし方を忘れてしまったのか? なぜ、どうして?


 理解が出来ず頭の中が真っ白になった。


「自分自身の心にまで嘘を吐かなくていいのですよ」

「自分の、心?」


 こくん、と頷く彼女から目が離せない。


「ルシア様はきっと一人になりたいのではなく、一人に慣れてしまっただけなのです」

「私のことが、貴女に分かるのですか」

「分かりますよ」


 力強い声で断言された。表情も引き締まって私を射抜くように見つめている。

 これではまるで私が間違っているみたいだ。


「二年間です」

「えっ?」

「二年間、私はルシア様を傍でずっと見てきました」


 あぁそうだった。彼女だけが私の側付けであろうとした。誰もが退屈そうに仕方なく行う仕事を、彼女だけが率先して行なっている。

 侍女長から側付けの申し出があった時は驚いた。なぜ彼女が、とは思ったが誰が担当したところで興味はない。適当に承諾したのを覚えている。


 それからずっとだ、彼女が側に居るようになったのは。


「ここでの仕事が始まった時、私はこの広い王城で迷ってしまったことがありました」


 ……覚えている。

 あの時、新人が雇用されたということでその分負担が増えるだろうと思った私は、当時側付けだった者を適当な理由をつけて下がらせた。侍女達にとって私の行動は初めてではない。すんなりと命令を聞いてくれた。

 そして、自分の教材を片付けようとして彼女を見つけたのだ。


「あの時、きっと私は失態を冒すはずでした。でも、ルシア様がそうならないようにしてくださいました」


 偶然だ。助けようとか施しを与えようとかそんな考えを抱いてはいない。


「ルシア様にとっては理由すらなかったのかもしれません。それでも、私を見つけて導いてくれたのは事実です」


 自分で否定しようとする矢先に、彼女がそれをなかったことにしようとする。分厚い氷の壁を、その柔な手で溶かして近づいてくる。

 

 傷つくかもしれないのに、どうして貴女はそんな真っ直ぐな目で私を見るんだ。


「まだ不慣れな私が迷わないように、王城を案内してくれたことも事実です。どんな理由をつけようとも決して変わらない」


 彼女の声の力強さが増して、呼応するように重ねた手の温もりが身体中を巡る。


「誰も気づいていない、ルシア様ですら知らないかもしれない優しさを私は見てきています。ルシア様は腫れ物なんかじゃありません。私は、ルシア様に仕える侍女として──ルシア様を愛しています」


 愛しているわ、ルシア。


 頭の中に響いた懐かしき声。

 いつから忘れていたんだろう。こうして温もりを与えられていたはずなのに、自分の殻に閉じこもって周りを拒絶した。自ら冷えていくのを選んだ……彼女のように手を差し出してくれていた人もいたはずなのに。

 

 目頭が熱くなって俯いた視界が滲む。繋がっている彼女の手に、彼女が溶かした氷が涙となって一粒落ちた。


「私はルシア様を一人にさせたくありません。ルシア様が自分自身を欺こうとも私が映します。ご自身の優しさを知らないなら私が教えます」


 片手は繋がったまま、離したもう片方の手が私の頬に添えられる。優しく彼女の方へ促され、目に溜まった涙をその細い指で受け取られていく。


「ルシア様が探そうとしていることを、私にも手伝わせてください。ルシア様の傍で、一緒に」


 彼女の微笑む優しい顔が、いつかの母様を彷彿とさせる。


 ──きっと貴方を助けてくれる人が必ずいるわ。


 目の前にその人がいる。そうですよね、母様。


 私と繋がっている彼女の片手を、今度はこちらから両手で重ねる。


「私は王女で、貴女は侍女です」

「はい」


 分厚い氷の壁が溶け落ちていく。


「我儘を言うかもしれません」

「仰せのままにいたします」


 それは氷山の一角かもしれない。


「他の皆から、あの好奇な視線を浴び続けるのですよ」

「一緒に変えていきましょう」


 けれど、それは誰もできなかったこと。目の前にいる彼女だけが、正面からこの手を掴みに来たのだ。ずっと私を見続けて、決して離れようとせず傍に居続けた。

 重ねた手で彼女の存在を確かめるように触る。細く昔からの癖がついたようなタコに、所々あかぎれている侍女特有の手を祈るように包む。


「まったく、不敬ですね」

「罰しますか?」


 首を左右に強く振る。


 侍女が王女の手に許可なく触れるなんて……けれど、今はこの手の温もりが心地良い。


 いつの間にか曇天だった空から光が差し込み、部屋に明るさを齎している。彼女の顔が、いつも曇っていた彼女の表情が、今は迷いなく優しい顔を向けていた。

 私はゆっくりと立ち上がり、彼女にも立ち上がるように促す。


 彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ


「私を支えてください、ディーネ」


 出会って初めて彼女の名前を音にした。


「はい! お仕えいたします」


 破顔する彼女の胸から光の綿が生まれた。

 しばらく見ることはなかった幸福の種子。その小さな幸せが生まれた瞬間を、私は二度と忘れないと頭に刻む。


 皆が貴方のことを愛してくれているわ。


 亡き母様の声が心の中で木霊した。



 精霊の跡地にて、草花が光り踊っている。祝福を施すように誕生を祝う。


「生マレタ、生マレタ。光、生マレタ」


 喜びを捧げる舞の如く、その勢いが増していく。

 周囲の魔素を養分に、それは姿形を確立して大きく育っている。新芽から背を伸ばし葉を付けていく。それはゆっくり、ゆっくりと成長を始めていた。

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