第十話 氷の花が咲いていた。
騒ぎの知らせが届いたのか、父様が部屋に駆け付けた。すぐに医者も部屋に入ることになり依然として苦しむ母様を診ている。
私はルチカに抱えられて、部屋の隅で様子を見ていた。
「大丈夫だ……きっと、良くなるッ」
父様が母様の手を握って、願うように言葉を零す。
医者が左脇腹の触診を始めると、母様がより苦しみ始めた。
「あぁぁ──!」
「シルヴァ!」
遠目から見てもひどい状態なのが分かった。一部が黒く蝕まれ今にも触れた瞬間から、崩れてしまいそうなほど脆く爛れている。
痛みで汗が吹き出して、耐えようと踠く動作でベッドが軋む。今まで見た事がない母様の表情と、父様の悲痛な顔に何故か声をあげて泣きそうになった。ルチカから抱える力が強くなるのを感じてなんとか抑え込む。
医者が触診を終えて父様に向き合った。
首を横に振った医者から放たれた言葉は、己の無力さの謝罪と、もう手の施しようがないという宣告だった。
「どうにかならないのか! 魔法でも薬でもいい、必要な素材がいるのならすぐに用意しよう! だから──」
頼む、と言葉にしようとした瞬間に母様が父様の腕を掴んだ。はっとした表情の父様が母様に振り向く。母様は疲れた笑みを浮かべて首を横に振った。
「焦るとみっともなくなるの、あなたの悪い部分よヴァル」
そこが可愛いところでもあるけど、と優しげな顔で父様を見つめる。
医者から少しでも痛みが和らぐかもしれません、と処方された薬を飲み込んだ。母様は未だ息の荒いまま、ベッドに身体を預けて天井を見つめている。
「戦で駆け回っていたあの頃、深い傷を負った仲間のご老体が『自分の体は自分が一番よく分かる』なんて言ってたけど……本当ね」
懐かしいわ、と昔に思いを馳せている。
母様の様子を見て、次第に落ち着きを取り戻した父様が少し寄り添った。
「あの時のシルヴァは、今より少し強気で破天荒だったな。軍の高官達も黙らせて、誰よりも戦果を上げて……その御仁も記憶にあるよ。君はその御仁に怪我なんて砕いて吹き飛ばしてしまえと怒鳴っていたな」
「怒鳴ってなんかいないわ。鼓舞してたの」
苦笑いを浮かべた父様が、母様の首元の汗を拭う。
「それで……どうだ、吹き飛ばせそうか?」
そうね……と、呟いた母様は脇腹を押さえようとしてやめた。
目を瞑り、深呼吸をして数秒の間──父様と再度、目と目を通わす。
「今回ばかりは、砕けそうにもないわ」
「……そうか」
空いた手で拳を作り強く握る父様は、母様の言葉を飲み込んだ。
ベッドに倒れたまま母様がこちらに視線を飛ばす。意図を察したのかルチカが私を抱えたまま、母様の元へと歩いた。
ルチカが腰を落として、ちょうど目の前に母様が映る。か細い腕を伸ばして私の頬に手を添えた。
「母様、おなかいたいの?」
「ううん、ルシアに触れたらもう平気になっちゃったわ」
「ほんとに?」
「えぇ本当よ。ルシアも転んだ時、母様に撫でられたら痛いの消えたの覚えてる? それと一緒」
庭園で駆け回る私が転んで泣き喚いた時、母様は決まって私を撫で回して痛みをどこかへ飛ばす。そして本当に痛みが消えるのだ。ふわっと無かったことのように。
「だから、大丈夫。ルシアが心配することなんて何もないわ。けど、そうね。少し騒ぎが大きくなっちゃったから、一回お部屋に戻って、落ち着いたらまた来てくれる?」
一緒に居たい気持ちと母様の言葉が体の中で争う。父様に頭を撫でられ、ルチカに諭すように名を呼ばれ、私はゆっくりと頷いた。
「ルシアはいい子ね──ルチカ、後はお願い」
「はい、お任せくださいませ」
ルチカは立ち上がり頭を下げて部屋を出る。私はルチカに抱えられたまま自室へと戻ることになった。道中に母様がどうしてあんな状態になったのかルチカに聞いても、言い淀みはぐらかされて
「少し、悪い病気に罹っただけです。シルヴァ様はお強い方ですので、すぐ良くなりますよ」
としか答えてくれなかった。
部屋に戻り、棚に揃えた編みぐるみ人形の家族を見つめる。
母様と一緒に作った人形。そこには父様と母様がいて、間に私が挟まれている。
じっと見つめる私の様子を見て、ルチカはそっと寄り添っていた。
しばらくして、母様の部屋に行ってもいいと知らせが届き、さっそくルチカと一緒に向かうことにした。
いつものように扉を開くと、母様は身体を倒したままだった。ルチカに抱えられて見えた母様が、顔だけをこちらに向けて微笑んでいる。心配そうな顔をしていたのだろう私を見て
「そんな顔をしないの、大丈夫。母様は強いのよ?」
そう言って片腕を見せて気張る母様の身体は、もう骨に皮膚が張り付いているだけのような細さになっていた。あまり良くないことになっている。ただ漠然とした感覚だけが迫る。
黙り込む私の耳元にルチカが口を近づけてきた。
「ルシア様、元気が出る贈り物をしましょう」
「……おくりもの?」
私を降ろして、編み物をする為の道具を手にルチカが提案する。
「ルシア様が頂いて嬉しかった事をシルヴァ様にお返ししましょう。きっと喜んでいただけて元気になれます」
そうですよね? と、母様に問いかけるルチカ。母様はじっとルチカと目を合わせて、音を無くして口を動かした。それを受けて静かにルチカが頭を下げる。
母様は私に、にっこりと微笑んで
「そうね。ルシアから贈り物なんて楽しみだわ」
そう言って、本当に嬉しそうに笑みを浮かべていた。
母様の表情を見てルチカから道具を受け取る。しかし、何を作ればいいのか分からない。道具を持ったまま辺りを見回していると、近くの棚に収納されている絵本が視界に入った。母様の部屋で過ごすようになって、私が取って来れるように下の段に揃えられた絵本。
それに近寄り、数ある中から一冊の絵本を手に取った。
「ルチカ、これ作りたい」
私が指差した対象を見て──ではさっそく始めましょう、と母様が様子を見れる位置に、机と椅子を用意して私を座らせてくれた。
ルチカも隣に座り机の上に道具を広げる。その横に絵本を置いて作成する対象が見れるようにした。刃物を扱うときはルチカにしてもらい、それ以外のすべてを自分でする。母様から数日の間に教えてもらったことを思い出しながら、手を動かした。しかし、最初から自分一人で作るのは初めてだからか、どこから手を出していいのか分からない。
「まずは、このようにしてはいかがでしょう」
ルチカが手本を見せてくれて、それに習う。ルチカの手の動きを小さい頭で想像し自身に投影する。けれど実際にするのは難しく、この日は初期の段階で時間が迫ってしまった。
次の日も母様の部屋に訪れて、作業に取りかかる。集中して編み続けていると、時折寝息が隣から聞こえてくることがあった。母様だ。いつも微笑みを向けてくれる母様が、次第にぼーっとすることが増えてよく眠るようになった。なぜか、焦りが心の中で広がった。
途中まで形ができると、少し不揃いに出来てしまってやり直す。ルチカから意見をもらってまた作る。そうしている間に、また時間が来てしまった。
朝が来て作業を開始する。何度も絵本を見比べながら、失敗を糧に完成を手繰る。眠っている母様を隣に着実に進めていくと、夕日が空を赤色に染めていた。窓からはその光が差し込んできている。
「──できた!」
目の前に掲げてそれが夕日の光に照らされた。白い花弁が六枚の星形の花。絵本の表紙に描かれた国花となった花の精霊。
椅子から勢いよく降りて、母様の元へと駆け寄った。
「母様! できたよ──母様?」
目を開けてはいるが、ぼーっと天井を見つめている。ルチカが傍に寄って母様の身体を揺らした。
「シルヴァ様」
「……──! ル、チカ」
ただ一言、言葉を発しただけで息を切らす。ルチカはその様子を見て、咄嗟に自身の口を手で隠した。息を飲み込んで、深呼吸をして私に振り返る。腰を落として、両腕に優しく手を添えて目線を合わせた。
「ルシア様、よく頑張りましたね。では、ルシア様の想いをシルヴァ様に渡してあげましょう。私は今から少し用事が出来ましたのでお部屋を出ますが、その間シルヴァ様といっぱいお話をしてあげてください」
「ルチカはどこいくの?」
「すぐに戻って参りますよ。いいですか、ちゃんと渡してあげてください」
私が頷いたのを確認すると、ルチカは立ち上がり部屋を出て行った。
母様と二人きり。編まれた星形の花を持って、もう一度母様を呼ぶ。
「母様? だいじょうぶ?」
「…………」
返事がないことに不安になって、思わず手に力が入った。ルチカが身体を揺らしていたのを思い出して、ベッドに上がろうと足を浮かす。両腕を使い、なんとかベッドに這い上がった。ゆっくりと近づいて、母様の肩に触れて呼びかける。
「母様? 母様、せいれいさんできたよ?」
「……ル、シア?」
細い腕を出して私に当たる。それを頼りにして、手が頬に添えられた。何度も手で存在を確かめるように頬を撫でる。次第に母様の瞳に光が宿っていくような気がした。
「……ルシア、私の……可愛い、ルシア」
「母様に、せいれいさんつくったの。みえる?」
顔をこちらに向けた母様の手を取って、編んだお花を乗せる。母様はそれをゆっくりと目線の先に持って行く。
虚な瞳に涙を浮かべて母様は微笑んだ。
「……綺麗な、お花さんね。とっても綺麗で、素敵な贈り物」
ベッドに横たわる自身の顔の横にそっと置いて──母様に似合ってるわ、とポツリと言葉を零す。
そのままもう一度、私の頬に手を添えて
「ルシア、ありがとう。とっても嬉しいわ」
と、穏やかな表情を浮かべている。
私は頬に感じる母様の手に、ただ意識を寄せて黙り込む。
「本当に素敵な贈り物……貴方も、そう思う、でしょ?」
「……母様?」
母様は私とは反対の方向に顔を向けて、誰かに話しかけている。けど、私にはそれが誰なのか分からない。夕日の光には私と母様以外は誰も照らされていないというのに。
「もう最後、だからかしら……貴方の在り方に、近づいたから──貴方のことが、はっきり見えるわ」
可愛らしい姿をしてるのね、と虚空に話しかけている。
目をキョトンとして母様を見ていると
「この子のこと、よろしくお願いね。きっと、いつか貴方のことも、理解してくれるわ」
──優しい子だから、そう言って私の頭を母様はゆっくりと撫でる。
頭から頬へ、頬に添えられた手から細くなった親指で目元を優しく摩られた。母様の目元が濡れている。
そんな時、後ろから扉が開く音が鳴った。
「シル──」
父様の声が途絶えた。
私は振り返らないまま母様を見ていると、肩に手が添えられて背後から父様の暖かさを感じる。見上げると父様の顔が見えて、反対にはルチカが目を赤くして母様を見ていた。
「私のことが分かるかい?」
「……誰かと思えば、金獅子様じゃない」
「あぁ……輝き皆を照らす
震える声を掛けながら母様の前髪を優しく分ける父様。涙で濡れている目元を指で払い二人は見つめ合う。
「そして君は、光を彼方まで運ぶ氷の鏡──薄氷のシルヴァ、我が愛しの人よ」
涙を払った手をそのまま頬に這わす。母様はうっとりとした目をして、軽く手に寄り添った。
「大きくて暖かくて……本当、太陽みたいな人」
私の肩に置かれた父様の手の力が強くなる。目を見開き奥歯を噛み締めて、体の震えを抑えようとしていた。
「ねぇ、ヴァル」
「……なんだい?」
「あなたは、決して、
母様の瞳の光が薄くなっていく。手先まで力が入っていない、だらんとした手を宙に彷徨わせる母様。すぐさま父様はそれを受け止めて、私の手を挟むようにして繋いだ。
「あぁ、安心するといい。嫌でも眩しく感じるさ、君が認めた男だからね」
目元を弛ませて、ほっとした表情をした母様はゆっくりとルチカに視線を向けた。
ルチカもまたその視線に気づき、赤く腫れた目を開いて必死に合わせる。
「私との約束、あなたにとって……苦しい日々が始まるわ」
「はい、覚悟の上でございます。それに言ったではありませんか、最期の最後まで貴方様の侍女であると」
「そうね。あなたには、たくさん世話になったわ……ありがとう」
言葉を受けて、肩を震わせながら深々と頭を下げたルチカ。
それを優しく見つめていた母様の瞳の光が、また一段と薄くなった。
父様と一緒に繋いでいた母様の手から弱い力で握られる。
「ル、シア……私の、愛しのルシア」
「母様?」
「母様は、ずっと傍に、いるからね」
力なく天井に向けて消え入る声でそう呟く母様。すると、反対側の誰にも触れられていない母様の手の方から、人影が揺らめいた気がした。誰もいないはずなのに、人の気配を感じる。見えない誰かが母様の手を握っている。けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
次第に繋いでいた母様の手の力が抜けていく。
「ずっと……愛して、いるわ」
段々と夕日も沈んでいく。もうすぐ夜が来る、いつものように夜が来る。
外が冷えていくように、母様の体温も下がっているのが分かった。
父様もルチカも涙を流している状況が、当時の私には理解が出来なかった。
「母様、ねちゃうの?」
返事はなく、ただ静かに微かな息の音だけが耳に届く。母様が口を動かして声を出そうにも音にはならない。母様から一筋の涙が滑り落ちて、ゆっくりと私に微笑む
──日が完全に沈んだ。
母様からは息の音すら聞こえない。化粧が施されている顔は美しく、涙の跡が残っている。さっきまで微笑んでくれていた母様はまるで人形のよう。
「……母様?」
母様の手からはもう、何も感じない。空いた手で母様の肩を揺らす。
ルチカが膝から崩れ落ちて嗚咽を漏らした。
「……母様? ねぇ父様、母様がおきないの」
母様を揺らして起こそうとする私を後ろから抱きしめる父様。息の乱れが耳にかかる。声を押し殺そうとする父様の抱擁を受けながら、私はただただ母様の体を揺らしていた。
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