第九話 引き摺り落ちたその先に

 これは夢だ。もう二度と見たくないと思っている夢で、もう一度触れたいと思っている幻だ。願い続けた想いが呪いとなって私を縛る。雁字搦めの呪いの鎖が、体中を蝕んで泥水の深層に落としていく。暗くて苦しくて寂しくて、それでもどうすることもできない私を、貴方は許してくれるだろうか。貴方が愛した私を、私が愛せるだろうか。


 ああ、嫌だ。貴方の声に、貴方の匂いに、貴方の温もりに……いつまでも縋り付いている。貴方が残したかったことを、受け止めきれないこんな愚かな私に、もう












 ──愛しているなんて言わないでください。













 翌日、ルチカが椅子にもたれて寝息を立てている早朝に目を覚ましたルシアは、奇妙な影を目で追っていた。窓掛けの近くをふらふらと動き回り、まるで外の景色を見てはしゃぐ子供のような動きを見せている。

 輪郭はほとんど不鮮明で煙のようにふわふわしていた。


 しかし時折、姿が定まる瞬間があり何処かで会ったことがあるような気がしていた。


「ねぇ、おそとみてるの?」

「────!」


 影は驚いて更に輪郭が揺れる。右往左往と隠れる場所を探しているように動き回り、突然こちらに飛び込んできた。

 咄嗟に目を瞑り、そして辺りを見回したが影はどこにもいない。


「あれ……?」


 気のせいだったのかなと窓の方へ目を向けると、太陽の光が窓掛けの隙間から差し込んでいる。窓掛け越しに部屋に明るさが齎され、ルチカが目を覚ました。


「起きていらしたのですね」

「うん、おはようルチカ」


 おはようございます、と起きたばかりとは思えない所作で挨拶を交わす。

 ルチカが窓掛けを開いて、光に部屋が満たされる。

 それはちょっと眩しくて、影もこれが見たかったのかなと思うと、心臓のあたりが少し締め付けられた。


 湯浴みと朝食を済ませて、さっそく母様のところへ向かう。

 昨日と同じようにルチカがノックを行い部屋に入ると、お化粧をした母様がベッドから身を起こし、私を見た途端に笑顔になって迎えてくれた。

 私はそれが嬉しくて、母様に駆け寄る。母様の元へ辿り着くと、頭を撫でてくれた。


「ルシア。私の可愛いルシア。愛しているわ」


 庭園で走り回ったいつかの日と同じように、頬にキスを施される。

 私も母様の頬に見様見真似のキスを施した。


「あら、ありがとう。嬉しいわ」


 お互いに笑顔を向けて心が弾む。部屋に暖かい雰囲気とルチカが淹れてくれた紅茶の香りが広がっていく。

 紅茶を淹れたカップを置いて隅に控えようとしたルチカに、母様が手招きをしていた。


「ほらルチカも」

「わ、私もですか!?」

「いいじゃない。付き合ってくれるんでしょ?」


 お願い、といつになく優しい表情を見せる母様にルチカは頷く。

 姿勢を低くして軽く上半身を前に倒すルチカは、そのまま私の頬に自身の頬を当てた。

 

「……失礼しました」

「ルチカったら、恥ずかしがり屋さんね。ルシアもお返ししてあげる?」

「うん!」


 すぐ様ルチカの頬に同じように頬を寄せて、ピッタリとくっつける。

 頬を離したルチカは目元を弛ませ優しくこちらを見てくれて、私はまた笑顔を浮かべた。

 

「さて、今日は何をしましょうか」

「それでしたら、こちらはいかがでしょう」


 ルチカが布に包まれたある物を差し出した。母様がそれを手に取り広げる。


「これは──編み物?」

「はい。これでしたらご一緒にできますし、何より良い贈り物になるのではないかと」

「そう、ね。ほら、ルシアも一緒にしましょう。母様が教えてあげる」


 昨日と同じように母様にくっついて、さっそく作業を始めた。後ろから母様に抱きつかれたまま手を重ねて毛糸を編んでいく。簡単なものを数個作ると次第に、難易度が高い物を作るようになり時間が掛かりはじめた。


 ゆっくりと思い出を紡ぐように時間が流れる。一日一日が大切に過ぎていく。


 数日に分けて作る物もあるそんな日々の最中、母様が私に語った。


「ルシアはこれからもっと大きくなって、母様みたいに美人になるの。そうしたら、色んな人に言い寄られて退屈はしないわね」


 真人祭でこちらに手を振っていた男女に似た編み物が出来上がる。


「大きくなったら色んなことを学んで、色んな所へ出掛けるの。そこで大勢お友達が出来るかもしれないわ」


 兵士と魔法師の編み物が出来上がる。


「ルシアは王女様だから大変なこともきっとあるのでしょうね。でも、きっと貴方を助けてくれる人が必ずいるわ」


 侍女や執事の編み物が出来上がる。


「街の人達も皆がルシアの事が大好きで愛してくれている。もちろん、母様も父様もルチカも皆、ルシアのことが大好きよ」


 王様と王妃様の編み物が出来上がる。


「もし、つらい事があっても泣いてしまいそうになっても大丈夫。ルシアの傍にね、ずっと母様がいるわ」

「ほんとに? ずっといっしょにいてくれるの?」

「本当よ。お目めを閉じてても、こうして母様を感じられるように──ルシアが迷子さんになっても、ルシアの中に母様がずっと一緒にいるからね」


小さな女の子の編み物が出来上がり、王様と王妃様の真ん中に飾られる。街の人も兵士も魔法師も侍女も執事も、皆が寄り添って一つの家族のようになった。


「ほら、皆一緒だわ」

「わぁぁ」


 私は目をキラキラと輝かせて、数日をかけて出来上がった家族を見つめる。

 光る綿がふわふわと浮かぶ部屋。幸福の種子が私の胸から生まれている。私が笑って、母様が微笑んでいる。

 いつもなら執務室で仕事をしている母様が、こうして一日中傍にいてルチカとも一緒に過ごせるこの時間が、私は嬉しく舞い上がっていた。

 次の日もその次の日も、私は母様の元に訪れる。

 絵本を読んだり、お菓子を食べたり、父様が様子を見に来たりして一日一日が過ぎていく。


 今日もまた母様と一緒に過ごそう。今日は何をしよう。

 ルチカがノックをして扉を開けた先には母様が笑って迎えてくれる、そう思い今日も扉が開かれた先を見た。


「……母様?」

「──シルヴァ様!」


 ルチカが必死の形相で駆け寄る。

 背が小さい私は、母様がベッドの上で苦しんでいるのが分からなかった。身体を起こして迎えてくれていた母様は目に映らず、ルチカが慌てて人を呼んでいる。

 何をしたらいいのか分からないまま、母様が苦しむ声と慌ただしくなる部屋の様子を、ただ見ていることしかできなかった。

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