第七話 夢現の境界で

 そこはとても暗くて、寒くて、何もないところで……私はただ歩いていた。

 何か怖いものから逃げたくて、気づいたらそこにいた。周りを見渡しても一人のままで、このままどうしたらいいのかわからない。でも、塞ぎ込んでしまうのは違う気がして足を動かした。


 歩いて歩いて、立ち止まって見渡して、また歩く。どれくらいの時が経ったのか、時間の感覚なんて分からなかった。

 不安で涙目になっているであろう眼を、一生懸命に動かして変化を探る。


 そして、私は変化に躓いた。


「──うあっ」


 足に何かが引っ掛かり転んでしまった。けれど、痛みは感じなくて後ろを振り返る。

 真っ暗で見えない中、両手を突き出して何かに触れて確かめた。すると、手に触れた何かは白く発光して辺りを照らす。ぺたぺたと触れていくと、段々と光が増してそれの輪郭が分かるようになった。

 根っこのような白い何かが、ある方向に伸びている。それを触れながら辿っていくと、白い根っこは大樹のように太くなり、とある場所に導いた。


「──きゃっ!」


 突然、脈打つように巨大な白い根っこが光を発する。もぞもぞと白い根っこは震えだし、下に溶け込んでいく。

 床なのか地面なのか分からない下へ沈んでいく白い根。私は白い根が伸びていた先を見て、本能で忌避感を抱いた。


 傍にあったのは腕だ。何かの根っこだと思って触っていたのは、白い腕だ。

 白い腕が私を挟むようにして二本伸びていた。咄嗟に腕から手を離して距離を取る。

 沈み続けている巨大な二本の腕の先は、両手が何かを零さないように掬う形になっていた。


 やがて、腕の震えは止まり下から出ているのは手首から先だけになった。

 恐る恐る近づいて様子を確認する。勇気を持って触れても何も起こらない。手の中に何かあるのかもしれないと、意を決して坂のようになっている手首の上を進んだ。

 心の底から湧き上がる恐怖を抑え込みながら、ゆっくり進んだ両手の真ん中には水溜まりが出来ている。


 少し湿っている両手の平を滑らないように慎重に進むと、水溜まりの中心に姿形が覚束ない、横たわって眠る黒髪の少女がいた。


 存在自体が移り変わる季節のように、赤子から成人を迎えていそうな年齢へと様々に変化していく身体。大きくなったり小さくなったりと定まっていない。


 私は眠る少女に近づいて、その頬に触れた。


「──ッ! う、あぁアア!」


 頬に触れた瞬間、膨大な感情の波が襲いかかった。黒髪の少女から血液のように止めどなく流れ込んでくる。


 溺れそうな程の苦しさに息が出来ず、喪失感に抗うつらさに涙が溢れた。寒さを呼び込む寂しさに身体を震わせて、頭が割れそうな程の悔しさが激痛となった。


「な、んで……どう、して──嘘よ、嘘嘘嘘嘘嘘ッ!!!」


 何者かに乗り移られたかのように、勝手に言葉が口から零れる。限界の意識の中で視界に映ったのは、眠りながらも涙を流し始めた黒髪の少女と、氷のように砕けていく両手だった。


 ── イヤァァァァアアアアア!!


 自分で発した声なのか、どこかで誰かが叫んでいるのか、悲痛な叫び声を最後に私は意識を無くした。



「…………ぁ」


 瞼を開くと見知った天井があった。

 身体全身にひどい脱力感と関節の節々に鈍い痛みがある。

 重い首を動かして辺りを見回すと、酷くやつれた顔をしたルチカが湯手ゆてを水に浸していた。


「……ルチ、カ」

「──ッ!」


 驚いた顔ではなく怯えた表情をしているルチカ。どうしてそんな顔をしているのか分からないまま、お互いに目を合わせていた。


「……ルシア、様? ルシア様なのですね!?」


 言っている意味が分からなくて、首を傾げる。泣きそうになっているルチカに、小さな手を伸ばす。


「ルチカのかお、いつもよりしわくちゃだよ。だい、じょうぶ?」

「あ、ぁぁっ」


 伸ばした手を力強く握るルチカの手は、少し冷たくて落ちてくる涙の温もりが心地良かった。


 落ち着きを取り戻したルチカは、扉の外にいる衛兵に状況を伝え、やがて報せを受けたアグロヴァルトが部屋に入ってきた。


「ルシア──良かった、戻ってきてくれて」


 入ってきてすぐに優しく抱きしめるアグロヴァルト。日向のような暖かさにルシアは目を細めた。


「ねぇ父様、母様は、どうしたの?」


 ルシアの言葉を聞いて、体が固まるアグロヴァルト。端で見守っていたルチカも目を伏せ黙していた。


「あ、あぁ……シルヴァは、少し体調が悪くてな。ルシアの身体が落ち着いたら会いに行こう。それまで休んでいなさい、いいね?」


 どうして悪いのか、聞く暇もなくアグロヴァルトはルシアの頭を撫でて立ち上がる。ルチカに──あとは頼む、と言い残して部屋を出て行った。

 深々と頭を下げたルチカの肩が、微かに震えて何かを堪えている。


 しばらくして医者が部屋を訪れた。身体に異常がないか調べるためだ。ルチカに服を脱がされてルシアは気づく。


「ねぇルチカ。これ、なぁに?」


 ちょうど心臓のあたりに亀裂が生じたような傷跡が出来ていた。肉が抉れたような形を残して古傷のようになっている。


 ルチカは涙声で


「大丈夫です、大丈夫です……きっと、治ります」


 と、ルシアの手をぎゅっと握り、神に祈るかのように言い聞かせた。


 医者からは、異常は見つからず二、三日安静にすれば問題ないだろうと告げられた。

 それからは部屋を出ることはなく、何か用があればルチカに頼み、ベッドの上で夜を迎えた。


「きょうは、ルチカとずっといっしょだね」

「そうですね。ルシア様の体調が万全になるまでの間、ご一緒させていただきます」


 ベットの近くに椅子を寄せて、ルチカはそれに座っている。

 普段ルチカはシルヴァの侍女である為、ルシアの側にいる時はシルヴァと共にいる事が多い。

 けれど、今回に限ってはルシアに付きっきりだった。


「ルチカはねないの?」

「ルシア様が寝入られたら、私も寝させていただきますよ」


 ルシアの頭を撫でて微笑んで答える。


「……それなら、ルチカもいっしょにねむろう?」

「えっ?」

「ほら、こっち、きて」

「ル、ルシア様ッ?」


 撫でていた手を引っ張られて、ルシアの隣に横になるように促される。

 仕方なくベットに入った途端、ルチカの胸にルシアは顔を寄せた。


「これなら、もっといっしょだよ」


 ニコッと笑うルシア。ルチカはルシアを抱き寄せて、ルシアに気づかれないように涙を流す。


「はい、一緒ですね」

「うん!」


 壊さないように、傷つけないように優しく抱きしめていると、いつの間にか寝息が聞こえてきた。

 ルシアの寝顔を見て、目の奥を熱くするルチカ。

 ルシアの前髪を手で分けて、その素顔を記憶に焼き付けるように見つめている。


「この愚かな私奴に、このような時間をくださったこと感謝しております」


 懺悔のような口ぶりで、気持ちを吐露していく。


「私はいつでも、どんな時でも貴方様を愛し思い続けております。たとえ、この地を去って貴方様と相見える事がなくなったとしても」


 それはもう変えることはできない現実で、ルチカは自分がこれからどうなるのかを知っていた。


「これが、侍女としての私の最後のお務め」


 ひっそりと零される覚悟の言葉。

 自身が犯した過ちを、決して忘れることなどできない過ちを背負って、ルチカはそっと、見つめていたその目を閉じた。


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