第六話 身を以て思い知る。

「これで大体の書類は片付いたかしら」


 執務室にて事務作業がひと段落ついたシルヴァは、女官が用意した紅茶を優雅に口に運ぶ。紅茶によって潤った唇は、夕陽に晒されて妖艶さを醸し出していた。


「たった三日空けるだけでこの量……肩が凝るわね」


 手を付けた書類の山を見て、溜息を吐く。部屋にいる女官達はまだ作業をしており、見積もって小一時間はかかりそうだ。


「早く終わらせてルシアを抱きしめたいわ」


 座りっぱなしで固まった身体をほぐすように背を伸ばす。王族の身分とはいえ、こんな姿勢を他人に見せるものではないが、シルヴァはお構いなしに女官達の前で晒している。

 女官達は見慣れた姿なようで、作業する速さに影響はないようだった。


「さて、他にしなくちゃいけないことは──」


 やり残した事がないか確認を行おうとしたその時、執務室の扉が勢いよく開かれる。


「シルヴァ様!」


 ノックもされず開かれた扉に女官達の視線が飛び込んできたルチカに集中した。

 シルヴァも驚いたようで、目を見開いている。

 ルチカが普段見せない焦り方をしているせいか、部屋は静寂に包まれていた。


「……開きました」

「えっ?」


 状況が把握できていないシルヴァが思わず聞き返す。


「開かずの間の扉が……開きました」


 ルチカの口から出た言葉を理解できた者がどれだけいただろう。作業をしていた女官達の手は完全に止まり、シルヴァもまた理解に苦しんでいた。


「昨日ルシアに開かずの間のことを聞かれて、興味があるならとルチカに案内を任せたけど……開かずの間の扉を、開けた?」


 わざと声に出して状況を整理するシルヴァに、ルチカはただ静かに頷いた。

 それを聞いていた女官達も、各々に理解していく。

 開かずの間に何があるのか興味を抱いていく者達が多い中、シルヴァはまずい事になったと考えていた。


 開かずの間には未知の魔法、古代の技術、禁忌に値する物が眠っていると言われていた。


 もし、あの開かずの間に未知の技術があった場合どうやって管理する?

 もし、対処できない事態が起こったらどう回避する?

 もし、些細なことで魔法が発動しそれが傷つける類いのものだった場合の規模は?


 あらゆる事態を想定して思考を回すシルヴァは、ルチカをじっと見つめて欠けている存在に気づいた。


「──ルシアは?」


 はっとした表情のルチカの胸の内側に、焦燥の念が湧き上がる。

 自身が仕える存在の言葉に、ルチカの脳が急速に活動を始めた。

 言い訳を考えるためではない。大抵使用人の思考は、少なからずも主の意図を汲み取るようになる。長年シルヴァに仕えてきたルチカならば、シルヴァが何を考えて問うたのか理解して思い知る。


 ──私は、判断を間違えた。どうしてルシア様を残してしまった!?


 冷や汗のせいだろうか、身体の四肢の感覚が分からなくなってきた。


「ルシアはどこ!?」

「資料図書室に……先に報告しなければと」


 シルヴァは急いで立ち上がり、近くにいた女官の腕を掴む。


「資料図書室に来るようにと、魔法師団にこのことを伝えて!」


 指示を受けた女官は、大急ぎで部屋を抜け出した。

 そして、数名の女官についてくるように指示を飛ばし、ルチカの手を取る。


「ルチカも来なさい」

「は、はい!」


 シルヴァ達が執務室を飛び出した数分後、資料図書室が視界に入る距離になったその時、王城が振動した。


「こ、この揺れは……まさか!」


 ルチカの言葉と青ざめた表情を見て、シルヴァの胸に嫌な予感が走る。

 脳が最悪の事態を受け入れたくないと足が浮いたかのような感覚に襲われた。

 シルヴァは警戒するように皆に伝えて、振動などお構いなしに駆けだした。


 資料図書室に入り、奥へと走る。その速度に女官達は追いつけない。

 視界に入った開かずの間は、異様な光景だった。歴史上、開かれたことがなかった扉の先はどんよりと黒ずんでいる。

 奥歯を噛み締めて走って、着ている服が汚れようとも王族の気品など投げ捨てて、扉の先に辿り着いた。


「──ルシアッ!」


 視界に入った光景は、愛する娘が得体の知れない黒い霞に飲み込まれていく姿だった。白い手に顔を掴まれているルシア。声が出せないのか悲痛な目をシルヴァに向けている。

 頭で理解するより身体が咄嗟に動いていた。ルシアを取り戻そうと一瞬で距離を詰めたが、黒い霞に飲み込まれる方が早かった。


「ダメよ、そんなのダメ! ルシア!」


 黒い霞に飲まれたルシアを助けるために、躊躇なく霞の中に足を踏み入れる。

 潜った先にいたのは怨念が集まったような異形の存在達。まるで地獄の一部を見ているかのようだ。


「邪魔よ!」


 シルヴァすら引き摺り込もうとしているのか、異形達がシルヴァの身体に触れる。しかし、その悉くを凍てつかせ砕いた。


「何これ……力が」


 しかし、異形の力かまたは場所による影響なのか脱力感が襲う。生命力が吸われている感覚が増してきて頭痛すら感じる。

 負けじと次々と迫り来る異形を魔法で凍らせて砕いていくと、白い手に抱擁されているルシアがいた。


「私のルシアを──返しなさい!」


 ルシアに触れている白い手を一瞬で凍てつかせてルシアを取り返した。

 気を失っているルシアを離さないようにと力強く抱きしめて、出口へと走るが身体が限界に近い。


 ──イヤァァァアアアア!


 女性の金切り声が背後から襲った。異形達を退かしながら、後ろを見やると一匹の異形から無数の白い手が迫ってきていた。まるで先程のシルヴァを彷彿とさせる我が子を取り戻そうとしているかのようだ。

 金切り声が響いた瞬間から異形達の勢いが増している。


「この子は私の子よ。奪わせてなるものですか!」


 今までとは比にならない出力の魔法を放つ。シルヴァの周囲が一瞬で凍り付いて凍土と化した。

 しかし、それだけの魔法を放てば代償も大きい。急激に疲労が増した。これ以上の魔法は放てない、もうルシアを抱えて走ることしかできない。

 一心不乱に出口に向かって走る。後ろを振り返る余裕はない。

 走って走って走って、出口をあと一歩の距離で、また金切り声が響いた。


 ──イヤァァァァアアアアア!!


「──うっ!」


 左脇腹に強烈な痛みが生じる。おそらく何かに掴まれた。

 しかし今はそんなことどうでもいい、と出口に向かって飛び込んだ。


「シルヴァ様!?」


 背を床に向けて受け身をとる。抱いたままのルシアの無事を確認して、駆け寄ったルチカにルシアを託した。


「ここから離れなさい! 早く!」


 ルチカは指示に従い扉まで下がった。

 ズキズキと痛む脇腹を見ると、あの白い手の爪が食い込んでいる。

 白い手を退かそうと両手を使って解こうとするが、冷や汗が全身から噴き出て力が抜けていく。


「私の生命を……吸い取ってる」


 歯を食いしばり力を込めるが、振り解くまでには至らない。ズキズキと痛む身体。頭を殴られているような頭痛。動悸が激しくなり心臓が痛い。


 ──なんとかしなければ……このままでは。


 脳が高速に思考を巡らせていた刹那


「シルヴァ様! ご無事ですか!?」


 扉から現れたのは、ぶかぶかのローブを纏ったルピナスだった。

 ルピナスは黒い霞から伸びている白い手が、シルヴァを掴んでいるところを見て駆け寄る。

 苦悶の表情のシルヴァが、ルピナスに顔を向けた。


「私ごとで構わないわ! やりなさい!」


 シルヴァの意図を理解したルピナスは、苦虫を噛み潰したような顔をして魔法を発動する。


「あとで恨まないでくださいよ!?」


 白い手に両手を掲げ法陣が構築されると、ルピナスから紫電が放たれた。紫電は白い手を焼き焦がすように電撃となって腕に広がり攻撃していく。


「くぅっ!」

「こんの……離れろ!」


 白い手を攻撃する電撃は、掴んでいるシルヴァにも走り、その痛みに襲われている。


「シルヴァ様ごめん! もっと痛みます!」


 言い終えると同時に出力を上げるルピナス。およそ日常生活において聞くことはないだろう、独特な電撃の音を出しながら威力が増した。


「くぅぅ……あぁっ!」


 激痛を耐え、ようやく白い手がシルヴァを離す。ビリビリと紫電が走るせいか、白い手は指の制御が出来ていないようだった。


「よしっ、これなら」


 シルヴァを巻き込む事がなくなったことで、ルピナスの目の鋭さが増す。今までとは比にならないほどの轟音。雷がすぐ目の前で落ちたかのようにすら感じる爆雷が白い手を襲う。

 抵抗する瞬間すら与えられないまま、爆雷を受けた白い手は灰塵と化して消滅した。


 ルピナスは白い手の消滅を確認して、倒れているシルヴァを支える。


「シルヴァ様!」

「私のことはいいわ。それよりこの黒いのを、なんとかしないと……また出てくるわよ」


 二人は黒い霞を観察していた。

 門のように構える黒い霞は、部屋中に黒い根のようなものを伸ばしている。根は根を生やし、まるで植物のように広がっていた。根の侵食とでも言い表せるように、根が触れている部分は特に腐敗が顕著だ。


「資料図書室の一部も、あの根っこみたいなの伸びてて、一部が朽ちてた……栄養を奪ってるみたいに」

「なら、そういうことでしょうね」


 ルピナスは扉付近で様子を見守っていた女官達を呼び、シルヴァを支えて下がるように指示を飛ばす。


「私はもう見ての通り限界。頼んだわよ」

「お任せを」


 まだ十七のルピナスが魅せる風格は団長にも劣らない。

 シルヴァ達が安全圏に退避したのを確認して、黒い霞の門に全神経を集中させた。

 門からはあの無数の白い手がぞろぞろと出てきている。


「さて、一丁ビリビリやっちゃいますか!」


 ルピナスは球を持つように両手を向かい合わせて紫電を交錯させ、両手の方陣に紫電が往復しあって力が膨れ上がっていく。両手の幅は貯められていく力に応じて広がって、紫電が齎らす淡い光はルピナスの笑った顔を映し出した。


「あたしらの恩人があんな目に遭ってるんだ。怒りを通り越して笑っちゃうよ」


 もちろん、自分の不甲斐無さにも──と、奥歯を噛み締めて両手を振り上げ、前方の床に紫電を叩きつけた。


「──ホント、はらわたが煮えくり返る」


 無情にも思えるルピナスの目に映ったのは、紫電が部屋中に拡散している光景だった。紫電は黒い根を焼き切り跡形もなく消滅させていく。白い手も抵抗しようと紫電に触れるが、その瞬間に砕け散った。やがて全ての根が紫電によって滅殺され、黒い霞も形を保つ事ができず霧散するように消滅した。

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