まだ達

川谷パルテノン

まだ達

 未踏の山がある。それ富士よりも高い類推の地。まだ達はその山を常に希求した。まだの一人は言った。この斜面ローション塗りすぎじゃね。別のまだは告げた。お前、使ったことないやろ。まだ達は登るべき山から目を逸らし小さなプライドでマウントを取り合った。いつか這い出でる日を夢見て朝蜘蛛には優しくしたりした。健気な奴隷である彼らは徳を積めばと善行に縋り、絶望して邪な気持ちになることを繰り返してきた。山の麓すら見えないでいるまだ達は共に泣く時、もうこのまま俺らで付き合っちゃおうかと酒を酌み交わし翌朝我にかえって互いに殺してくれと願った。

 彼らは同じアパートの一室で暮らしていた。ルームシェアといえば聞こえはいいが、名実ともに貧乏であるところの学生身分であり生存戦略の一環として幾許かのプライバシーを捨てた仕方のなさの上に立つ現状であった。一方は吾妻慎あずましんといい関西出身のまだ方言の抜けきらない二十歳の若者。趣味はカードゲームで関西の大会ではそれなりに名を通したプレイヤーとは自称。もう一方は近衛航このえわたる二十一歳。慎の通う大学の一年先輩で趣味はカードゲーム。関東の大会ではそこそこ顔の知れた重鎮プレイヤーとは自称である。彼らの出会いはまさにそのカードゲーム、ゴッドブレスユーの全国大会であった。地方予選を潜り抜けた二人は初戦であたる。〈泡の王国〉と〈挟み撃ち〉による速攻展開が得意なソープランド蟹アグロ対〈獄炎〉全除去からの〈竜戦車〉横並べを戦術とする蹂躙ドラゴンカーセックス。前者が慎、後者が航でこの時は慎の速攻に航のソースが追いつけずソープランド蟹アグロに軍配があがる。ゴッドブレスユー、通称GBY初の全国大会。名選手二人の試合とあって他参加者からはかなりの注目を引いたりはしなかった。慎も次の試合で大敗し、二人は特に爪痕を残すこともなく会場を後にする。それから二年後、たまたま同じ大学に進学を決めた慎は偶然航と再会する。お互い既にGBYからは遠ざかっていたものの当時の思い出を肴に意気投合し現在の同居生活が始まった。そんな二人にはカードゲーマー以外の共通点があった。交際経験皆無。所謂イナイ歴イコール年齢である。一端のプレイヤーであった頃は盲目的に言い訳が出来た。俺たちには青春があったと。しかしながらそれは今日においてなんの勲章にもならなかった。正直なところお互い二十歳を迎えた或いは越えた今、焦っていた。その焦燥を見せないように振る舞えどバレバレであった。

 航が留守にしている間、慎は血迷った。些かの悩みどきを経て決断した彼は部屋にあった少年向け週刊誌の微エロ漫画で自慰行為を開始する。イケる、という彼の確信が何を意味したのかは定かではないが開始間も無くして航が帰宅。焦った慎だったが哀しきさがかな右手が止まらない。一番いいところだったのだ。航の不審が確信に変わる瞬間、慎は果て終わった。

流石速攻アグロ使い」

「お前だけはころす」

 きっかけの莫迦莫迦しさはさておきつかみ合いの殴りあいへと発展した二人がひと段落するまでそう時間は要さなかったものの険悪な空気は残った。慎は気まずさから沈黙していると、そこは年長者か航が一本の缶ビールを差し出した。

「何やねんこれ」

「見てわかんだろ酒だよ」

「何やねんお前」

「だから誕生日だろ二十歳の」

「お前」

 その夜、二人は告白した。二人は童貞まだだった。

「くそ不味ーーーッ」

「童貞だからだろ」

「お前もやろサラピン」

「ああ! やるか!?」

「俺は中学の時ギリギリ付き合いかけたからな!」

「なんだギリギリって中学とか紀元前の話してんじゃねえ!」

「誰がミレニアムチェリーやねん!」

 初めてのアルコールはひどく苦く忘れかけたセンチメントを刺激する。久しぶりに腹の底から笑えたような気がした。二人とも翌日の講義は全て飛ばした。〈二日酔い〉次のターン、対象プレイヤーはモンスターカードの能力を起動出来ず、攻撃フェーズにも参加できない。


 二人は久しぶりにカードショップにやってきた。三年経てば環境も様変わりし知らないカードが散見する。

「おい見てみ。この〈純血狐ピュアクリスタルフォックス〉ってやつ。強すぎん。出たターンで場にあるカード配置入れ替えやて。なんもないとこに出して相手の盤面タダ乗りってコト?」

「それでもメタ張れるくらい他のカードデザインもアップデートされてんだよ」

「は? 何、お前まだこのゲームやってたんか? なんかキショいな」

「お前も齧ってただろが! 俺はこのゲームが好きなんだよ! 続けてはない!」

「すまん、そゆ意味ちゃうねん。いや知識マウントみたいなんがキモいな思うただけ」

「その受け取り方がよっぽどキモいけどな」

「それより緊張してきたわ」

「何が」

「合コンやがな! 初めてやぞ大学生なって! お前かてそやろがい。そんで落ち着こう思うてここ来たんやろがい!」

「俺はお前と違って緊張なんかしてねえから」

「出たで、キモいとこ。これやから童貞は」

「ブーメランだろ」

「可愛い子来るかな」

「さあな」

「気取るなよ。せっかく伊達ちゃんがセッティングしてくれたんやから楽しめ」

「緊張してんじゃねえのかよ」

「お前もな」


 全国大会の日より心拍数が上がっていた。男二人の汗臭い日々にようやく差した光。慎が友人である伊達から誘いを受けたのが一週間前。合コン。噂には聞いたことがある。しかしなんの知識もない彼は航に合コンとはをそれとなく聞いた。

「お前、どこ行く気だ」

「お前みたいな勘のいいカスは嫌いだよ」

「合コンやるのか」

「勘の」

「行くんだな!」

 渋々伊達に頼み込んだところたまたま人数に空きが発生し航の参戦が決定した。航は久しぶりだと言っていたが慎は嘘だなと思っていた。案の定、それが始まると航はガチガチに固まって逆にクールなキャラクターと化していた。とはいえ慎もいつもの剽軽さは影をひそめており気まずい空気を伊達ともう一人がなんとか立て直していた。相手の女性四人組をほぼ直視出来ない慎であったがそれでもひとり、これはという女子を見つけた。田ノ中翠。ど真ん中だった。自分はこの娘と付き合うために生まれてきたのだとさえ思った。このままなんの成果も得ぬまま引き下がれない。そうだ自分は魔法が使える。その力を駆使すればきっと。慎は店員に「一番度数高いやつ」と注文した。伊達は止めたが女の子達が「えー、いいじゃん」などと言って焚き付けた。航の「お前、下戸だろ!」といった注意も聞かず慎はなんかしらの度数が一番高いやつを一気飲みした。そこからの記憶はない。気がつくと部屋の天井が見える。

「翠ちゃん! ウプ気色悪ぅ」

「生きてたか」

 耳のそばでずっと鉄を叩かれているような鈍い頭痛がする。航はショップで購入したカードをスリーブに収めていた。

「翠ちゃんは……合コンはどないなったんや」

「続けれるわけねえだろお前が調子こいて気失ったんだから」

「全然覚えてへん」

「救急車乗ったのも? ここまで俺が引きずって帰ったのも?」

「なんも覚えてへん」

「なら思い出さないほうがいい」

「俺は何したんや。頼む近衛。教えてくれや。なんかやらかしてへんよな。そない言うてくれ」

「思い出さないほうがいい」

「ヴォエ、なあ頼む! 俺、俺は、俺」

「童貞宣言してた。チンコ出そうとした。それだけだ」

 室内なのに強い風が吹いた。草木は枯れ果て雷鳴が轟き、大地ひび割れて火山が噴火した。

左様さよか」

 この日、一人の戦士が死んだ。〈孤独な戦争〉このスペルを手札から発動させたプレイヤーは山札からモンスターカードが出るまでドローする。モンスターカードをドローした時点でそれを破棄し、それまでドローしたカードを全て手札に加える。


 慎は合コン以来完全に塞ぎ込んでしまう。対人恐怖症を発症していた。元々根暗な人間である。それがギアを入れ間違え大きめの痛手を負い帰って来れなくなった。航や伊達はなんとかして慎を元気付けようとしたが何を問いかけても彼は「妖精さんがね、呼んでるの」としか発しなくなってしまう。このままでは留年必死。航は伊達(実家が太い)に頼み込んで車を出してもらうことにした。

「近衛先輩、マジで連れてくんすか?」

「ああ、もうこれしかない」

「どういう。殺すんすか慎のこと」

「ある意味、墓だな」

 一向は富士山麓、青木ヶ原樹海を目指す。道中、誰も口を開かず静かな車内。唯一の免許保持者伊達はずっと運転させられ、航はずっと窓の外を眺めており、慎は廃人だった。

「俺嫌っすよ。気味わりぃもん」

「なら待ってろ。おい慎行くぞ」

「妖精さん?」

「そうだ、妖精さんだ」

「なんなのこの人達」

 樹海は迷宮のようだった。東西南北の感覚は今にも狂いそうな中を航は自信あり気に進む。慎はどんどん幼児後退が悪化し一人で暴走しそうになるのでその度に頸部を強く圧迫しながら引き戻さねばならなかった。

「着いたぞ」

「妖精さん?」

「しっかり見ろ! 曇りだらけのまなこで見定めろ!」

「なんやねん、これ」

「俺のパワースポットだ」

「めちゃくちゃ綺麗やないかい」

 林の中一面に蛍が飛んでいた。暗く澱んだ空気を健気に照らすその灯りには得体の知れぬ力があった。それが何かを人は説明できないが、ただ祈るようにその力を信じることは許されていた。

「どこやねんここ」

「地元なんだよ富士の樹海」

「ボケカスぅッッ」


 何はともあれ慎は元どおりの状態に復活する。合コンのことはなかったこととして記憶の闇に葬りさられ、航とカードゲームで遊ぶことも再開した。デッキを構築している間は夢中になれた。友人との対戦で盛り上がっていられるなら童貞も悪くないとさえ思った。そしてまた航が留守にしている間に血迷った。次はもう躊躇わない。一気にやってしまおうと思った。速さの向こう側を目指す。アクセラレイト。棒を握った瞬間インターホンが鳴った。インターホンということは航ではない。ドアから覗くと表に立っていたのは田ノ中翠だった。心臓が千切れた。少なくとも慎は実際千切れる音を聞いた。得意の速攻でなんとか室内を取り繕い呼吸を整え静かに扉を開く。

「ご無沙汰です」

「なんで」

「いや、その」

「あの日はすんまへんでした!」

 相手に隙を与えない滑らかな土下座モーション。

「やめてやめてよ! えっと、とりあえず中入れてもらっていい?」

「は? や、よくないでしょ。え? いいの? わからんわからん!」

「表じゃあれだし」

「どれだし? まあ、じゃあどうぞ」


 長い沈黙があった。先に口を開いたのは翠だった。

「今日ね、あのその」

「待って。その前に聞かせてくれへんか。翠ちゃん、もうほんまに気にしてない?」

「何を?」

「何をて、その俺が、その」

「童貞ってやつ?」

「やーもー! そんなハッキリとあなた」

「別に珍しくないと思うけど。二十歳でしょ」

「そーなん? え、マ?」

「それよりさ」

「待って。ほんならなもう許してくれてるってことでいいですか?」

「許すも何もないよ。私は楽しかったと思ってる」

「じゃあ! じゃあ、もしかしてしかしかしてこの俺と翠ちゃんがワンチャンネコチャン」

「あのね、今日航さんいるかなと思って来たんだ実は」

「は   は?」

「私、あの日ちょっと航さんのこといいなと思って、で伊達君に聞いたらここ住んでるっていうから」

「あの」

「航さん何時頃帰るかわかる?」

「今日、夜勤や思います」

「そうなんだ。じゃあ電話番号教えてくんない? お願い! 一生のお願い!」

「……はい……もちろん」


 その晩、慎は子供のように泣いた。失恋とはこんなにも痛いのかと、なら自分は耐えられない、このまま爆ぜて死なせてくれと。口座に残ったなけなしの金を全て降ろしピザを五枚発注した。間も無くして配達に訪れた青年は泣きながら「持って来てくれてありがとうな」と今生の感謝を述べる男に一抹の恐怖を覚える。ピザを何枚平らげても涙が止まらなかった。どうせ止まらないならと目元にタバスコを塗って死にそうになる。このままいけるとこまで行ってやろうと思った。それでも涙が止まらなかった。

「ただいま……うわっクッセなんだコレ!」

 航の前には腹がパンパンに膨れ上がったタバスコアイズピザゴブリンが横たわっていた。




「ほな頑張ってな!」

「ああ、なんか。すまんな」

「ええから! 俺のことなんか気にせんで!」

「絶対思ってない言い方なんだよな」

「一生に一回しかないやろからな! 譲ったってんねん! まあ俺は中学の時に一回付き合いかけてるし!」

「そうだったな。じゃあ行ってくるよ」

「航」

「なんだよ」

「卒業せえよ」

「早えよ」

「航」

「だからなんだよ」

「ゴム持って行きや」

「うるせえよ」

 あの後、航と翠はデートするところまで話が進んだ。慎は逆に悟りの境地に至った。枯れるまで泣いてみると次は友人を応援してやりたい気持ちになった。自分はチベットの修行僧だったかもしれないと思ったりもした。航を送り出した後、動画再生で森の音を流しながら、大学の図書館で借りてきたキルケゴールの『死に至る病』を開いて写経し始めた。心地は優雅だった。航が童貞卒業かと思うと感動さえした。こんなに感動したのははじめて『天使にラブソングを』を観た日以来かもしれない。これが解脱かと思った。しかし全ては自らに言い聞かせた呪いだった。慎は部屋でひとり、夕方まで泣いていた。


「ただいま」

「おかえり え、なんで」

「別に」

「早ない? まだお日さん落ちてないやんけ」

「だから?」

「お前、翠ちゃんはどないしてんな? 今日晩御飯食うてくるて」

「パーになった」

「なんでや! どないしたんや! 童貞卒業は!」

「元々そこまでのつもりはねえよ」

「お前アホか! 一世一代の大チャンスやろがい!」

「いいんだよ! 安心しろ。もうあの子とは会わないから」

「は? わけわからんて! お お前 今日出かける前ウキウキやったやんけ!」

「悪い子じゃないと思う、が」

「なんやねん」

「お前の話になった」

「どゆこと?」

「なんか、バカにされてる気がした。お前が。ナメられてるっつうか」

「は? だからなんやねん関係あらへんやろ」

「俺は! 俺は 友達がバカにされんのは我慢出来んかった」

「航 お前」

「だから悪いとは思ったけど 謝って帰ってきた」

「おま……ほんまアホやで」

「あー! そうだよ! だけど後悔してない!」

「アホ 泣いとるやんけ」

「当たり前だろ! めちゃくちゃ後悔してるわ!」

「ボケが……ほんま」

「めちゃくちゃ強いデッキ組んだから今晩付き合えよ!」


 未踏の山がある。それ富士よりも高い類推の地。まだ達はその山を常に希求した。だがたまにはそんなことも忘れて笑ったりもした。まだの一人は言った。この盤面でそれはないやろ、と。もう一人のまだは言った。もうひと勝負。

 

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まだ達 川谷パルテノン @pefnk

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