藪医者

巳波 叶居

藪医者

藪医者の待合室は先客であふれかえっていた。受付で名前を記入する。私の番が来るまでは、あと7、8人ほど待たねばならないようだ。保険証を渡し、私はソファーに腰をおろす。隣に座っていた老婦人が声をかけてきた。


「あなた、初めての方ね。遠くからいらしたの?」

「ええ、隣町から。ここに藪医者がいると人づてに聞いて」

「最近じゃ、藪医者もめっきり数が少なくなりましたものね。―――あら、私の番だわ」


名を呼ばれた老婦人は頭を下げて、診察室に入っていった。私は用意しておいた文庫本を開く。4、5ページ進んだところで、老婦人が出てきた。早い。おそらく、定期的に通っているのだろう。少しだけ色の良くなった顔に微笑みを浮かべて、婦人は病院を出ていった。私は再び文庫本に目を落とす。1ページ、また、1ページ。旅行に出た名探偵が最初の死体を発見した所で、私の名が呼ばれた。


診察室には、男が一人座っていた。年老いた貧相な顔立ち。ぼさぼさの白髪頭。薄汚れた白衣を着た肩には、古びた聴診器がぶら下がっている。見るからに藪医者だと、私は思った。


「あァ、初めテの方でスね~……あ、あ、そこにおかケになっテ」


たどたどしい喋り。妙に甲高い声。私は素直に従った。


「それデは、エぇ……今日は、どうさレました?」


藪医者に促されて、私はここに来るまで大事に抱えていた藪を見せた。私の藪だ。胸から腹を広く覆うそれは、素人目でも分かるほどに色が褪せていて、状態が良くないことは明白だった。


「おォぉ、これは、ちょっと良くないですねェ。ハイ、ちょいと失礼」


がさがさがさ、と藪医者の皺くちゃの手が私の藪を探る。皺に埋もれていた目をかっと見開き、奥を覗き込む。そうしてひょいと顔を離すと、「はあぁァァぁ」と溜め息をついた。


「あの……相当、悪いんでしょうか」

「いやァ、ヤァ、大丈夫、大丈夫。まだ、まだね、平気。蛇がまだ出てないかラね」

「ヤブヘビですか」

「アレが湧くと、よからぬ失敗が増えるからねェ。でもアナタ、このままじゃダメよ? 誰かに突っつかれた時に蛇が出てくるようじゃ、もうおしまいなんだから。気をつけなくっちゃ」

「はい」

「えェと…そおねえ、とりあえず、お薬ね、出すから。粉薬2種類。朝・昼・晩で5日分ね。それカらもう1種類、カプセルあげルから。これは朝・晩に。……それとねぇ」


言葉を切り、少し真面目な顔つきになって藪医者は言った。


「アナタの年齢だとね、藪を丈夫にするのも一苦労だろうけど。お薬に頼ってばかりじゃダメ、ね? ストレスは溜めないように。秘密は一人で抱え込まないように。家族は? 奥さんとは上手くいってる?」

「まぁ、それなりに」

「だったら、オハナシしなきゃ。アナタの藪、刺激がないもんだから色が悪くなっちゃって。奥さんの藪もおんなじようなことになっちゃうよ? 藪医者通いは、未然に防ぐのがイチバンなんだから」

「医者本人が、そんなこと言っていいんですか?」

「何せ、ヤブだからねェ」


そう言って藪医者はニッと笑ったが、私には意味がよくわからなかった。

ああ、若い人にはもう通じない言い方かねえ、と、眉をハの字にしてもう一度笑う。

深い皺が刻まれたその顔は、温かかった。



礼を言って、私は診療所を後にした。吐く息が白い。私はコートの前ボタンをしっかり閉めて、私の藪を冷やさぬよう気遣う。


人に藪がなかった時代のことを、私は知らない。この藪なくして、一体どうやって人は人の心が健康であることを知ることができていたのだろうか。幼い頃に祖父にそう質問したら、自分も自分の祖父に同じ質問をしたが、はっきりとは答えてくれなかった、とのことだった。ただ「ストレスは溜めないように。秘密は一人で抱え込まないように」という藪医者定番の文句は、はるか昔から知られていることのようだったから、それで昔は何とかできていたのかもしれない。真相は藪の中だが。


ぽつぽつと明かりの消えていく商店街を歩きながら、私は妻のことを考える。秘密など何もないが、確かに最近、あまり話ができているとは言えない。まずは話さねばとは思うが、いっそ、一緒にここの藪医者に来るのもいいような気がした。妻の藪の様子も気になるし、隣町からここまでの道中で、いくらか普段と違う会話もできるかもしれない。私はかさかさと音を立てる私の藪を大事に抱えて、陽の沈む中を家路に着いた。



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藪医者 巳波 叶居 @minamika

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