モリンホール
増田朋美
モリンホール
とにかく暑い日であった。そんな夏も、もうすぐ終わろうとしている。それでは涼しくなって良いのかもしれないが、なんとなく寂しいという感じになってしまうのはどうしてなんだろうか。
杉ちゃんたちがいつもと同じように、ご飯を食べたり、利用者たちと話をしたり、水穂さんの世話をしていた所。
「すみません。こちらは、製鉄所とかいう施設ですよね?」
と、一人の女性の声がして、製鉄所に二人の女性がやってきた。多分、20代後半から、30代前半くらいの女性だと思われるが、その隣にいた白髪頭の女性は、もう勘弁してくれというか、それで老け込んでいた。
「はい。こちらは、インターネットで公開も何もしていませんが、どうしてこちらをご存知なんでしょうか?」
ジョチさんがそう言うと、
「ええ。私が、インターネットで見つけました。」
と、老け込んだ女性が言った。
「インターネット?」
「ええ。いろんなブログとか、そういうものに描いてあります。なんでも、優しい人達がいっぱいいて、いろんな女性たちがそこで無事に立ち直ったということが書かれていました。そのブログなどに書かれていた所在地などから、こちらの建物が製鉄所であると見抜きました。」
老け込んだ女性はそういった。
「わかりました。とりあえず暑いので、こちらにお入りください。」
杉ちゃんとジョチさんは、二人を、応接室へ入れ、エアコンを付けて、椅子に座らせた。
「えーと、まずはじめにですね。お名前を仰ってください。」
と、ジョチさんは入会申込書と書かれた紙を渡しながら言った。
「はい。橋本恵と申します。私は、母親の橋本眞子です。」
続いて年はいくつかと聞くと、26歳だといった。ジョチさんが、問題を起こしたのはいつ頃ですかと聞くと、16歳のときに、学校にいけなくなったことから始まったという。大学にも進学せず、ずっと家の中にいる彼女を見て、父親が、10年経っても独り立ちできなかったら出ていけと言ったらしい。だけど、彼女は10年目の今年になっても外へ出ようとしないので、
「それで、外へ出るのを手伝ってくれるというボランティア団体を探しました。いわゆるレンタルお姉さんとか、お兄さんという職種でしょうか。ですが、それがあまりにも強引な人で、恵を無理やり椅子に縛り付けて勉強させようとか、そういう事をしていたので、恵は、余計に怖がるようになり、そのきっかけを作った私達にさえも、信用しないと思ってしまったようで。」
と、お母さんは事情を説明した。きっと、お母さんにとってはわらにもすがるような態度で、その団体に頼み込んだに違いないのだ。なんとか、娘に人並みに幸せになって欲しいという気持ちもあったに違いない。だけど、そういう団体に頼むとなれば、本当に慎重にやらないと、基本的な信頼関係がめちゃくちゃになってしまう。それでは、余計に悪化ということも無理はない。
「そうなんですね。まあ、たしかに、そういう支援業者というのは、悪質な人もいますからね。それでは行けないとは言いたいんですけど、表では合法的なビジネスでありながら、裏ではヤクザとの関わりがあったりしたこともあります。まあ、でも安心してください。こちらは、悪質なメンバーもいませんし、ヤクザとの関わりがあったとか、そういう人もいませんから。まずはそうだな、ここでゆっくり、羽を伸ばしてみるとかいかがですか?」
と、ジョチさんは、にこやかに笑って、そういったのであるが、
「ええ、ぜひお願いします。私達では、この事を解決することはできないなと思いましたので、皆さんで、この子のことを、立ち直らせて上げてください。」
お母さんはそう言うものの、ジョチさんは隣に座っている恵さんという女性を見た。なんだかもう呆然という顔をして、床を見つめている彼女は、心に大きなキズを抱えていると見えて、立ち直るには非常に難しいものがあると思われた。一瞬、これはまた大変な利用者が来たなと言いたくなったが、そんなことは言ってしまったら、彼女の尊厳にも関わることになるので、それは言わないでおいた。
「それでは、一日二時間程度こちらに来てもらうことから、始めましょうか。せっかくこちらに来てもらったのだから、なにかしてもらったほうがいいですね。それでは、そうだなあ。とりあえず、庭の草むしりでもしてもらいましょうか?」
こういうときに、なにか役割を与えると、大体の利用者は喜んでくれるものであるが、その女性は、そんな顔をしていなかった。お母さんがほら恵と声をかけてやっと、やりますと小さな声で言っただけだった。
「でも、終わったら、ちゃんと休ませてください。この暑さでは。」
と恵さんはふてぶてしくそういうのであるが、
「わかりました。じゃあ、必要最小限で大丈夫ですから。まあそう言われても、庭は広いですからな。草むしりをするだけでも、30分は必要でしょう。」
と、ジョチさんはにこやかに笑った。恵さんは杉ちゃんに促されて、椅子から立ち上がり、縁側を歩いて、庭に向かった。
「草むしりが終わったら、カレーを食わしてあげるからな。悩んでいるやつはだいたい腹が減ってるから。どうせ、カップラーメンとか、そういうものしか食ってないんだろ。」
と、杉ちゃんに言われて、彼女は渋々、草むしりを開始した。それは根こそぎ抜くという作業でもなかったが、ジョチさんは初回は何も言わないで置くことにした。それにしても、ジョチさんが言った通り、庭は広いので、いつまで経っても草むしりが終了せず、彼女は思わず、
「こんな広すぎる庭、除草剤でも撒けばいいじゃない。」
と言ってしまうくらいだ。
「そうはいかないんですよ。除草剤をまこうと試みた事はありましたが、その匂いがきつすぎて、咳の発作を起こしてしまった人物がおりましてですね。それ以来、薬品は一切使用していません。そんな人為的なものに頼るより、人間が作業をしたほうがいいのではないかと思いましてね。」
とジョチさんが説明すると、
「そういうことなら、何でも屋を雇うとか、そういう事すればいいじゃない。なんで私が草むしりなんか。」
と、橋本恵さんは言った。
「そうですか。それではやってもらう手伝いはまだまだありますよ。まず、縁側の雑巾がけ、障子の張替え、それに、利用者たちの部屋の片付けの手伝い、そして、水穂さんの世話をすること。どれでもこちらは人手がなくて困っているんです。すぐにやってもらいましょう。」
と、ジョチさんが言うと、
「まあ!そんな事利用者である私にやらせるなんて、まるで下働きじゃないですか。なんで私がそんな事しなければならないんですか?」
と恵さんは言った。
「ええ。だって、それは、いずれにしてもやらないといけないことになるから、ここで練習してもらいたいと思ったからです。それに、他人のためになにかするって、感動も大きいですよ。」
ジョチさんが言うと、
「そうかしら!」
と彼女は吐き捨てるように言った。
「一言言わせれば世のため人のためって。そういう事している人は、誰のお陰でなんとかさせてもらっているのか、わかっていないんだわ。」
ジョチさんは、それをいう彼女の傷ついている度合いはより強いんだなと思ったが、もう少し彼女がまわりを気にしないで、のんびり生きるという技術を身に着けていたら、ここを利用しなくても良かったのではないかと思った。もちろん、まわりの人が悪質だったということも確かに悪いことなのだが、最近の女性たちに多いのだけど、もう少し、のんびり生きてくれれば、大変な事件も減ってくれるのではないかと思うこともあった。
いずれにしても、彼女をなんとかするには、非常に難しいものがあるなとジョチさんは思った。それと同時に、水穂さんがピアノを弾いている音が聞こえてきた。弾いているのはベートーベンの田園ソナタである。彼女はそれを聞くと偉く苛立った様な顔をした。クラシックは苦手かとジョチさんが言うと、
「苦手どころか、上流階級しか手を出せないものは、私大嫌いなんです。」
と答えるのだった。
「すぐに辞めさせてください。あんな音楽聞いていたら、草むしりできません。」
「いやあ、やめさせるわけにはいかないでしょう。水穂さんだって、演奏したいから、したいんでしょうし。それを他人が止めるわけにはいかないでしょう。」
ジョチさんが言うと、
「それなら、草むしりをする人手がなくて、困るのは理事長さんたちの方ですよ。」
と彼女は変な屁理屈を言った。
「そうかも知れませんが、僕はできませんね。水穂さんに、田園ソナタをやめさせることはできません。もし、うるさいと思うんだったら、あなたが直接言ったらいい。」
ジョチさんがそう言うと、
「わかりました。」
と、彼女は言った。本来であれば、そういう立場ではないはずだと思うのだが、彼女はそこらへんをあまり良くわかっていないようだ。これはどうしようかとジョチさんが考えていると、
「こんにちは、岩橋です。」
と玄関先で男性の声がした。
「失礼いたします。ホロホロチョウが卵を産んだので、持ってきました。今日お伺いするって、お電話差し上げたはずですがね?」
そういう声は間違いなく岩橋一馬さんで間違いなかった。そういえば岩橋さんから昨日電話があったと思ったジョチさんは、急いで玄関先に行った。そうしたら、ちょっとまってくださいよ、理事長さんと言って、橋本恵さんが追いかけてきたが、それと同時に岩橋さんが、
「上がらせてもらいますよ。今年もたくさん卵を産んでくれまして、全くうちでは食べ切れないくらいです。」
岩橋さんはそう言って製鉄所の中に入ってきた。すると、一人の男性が、岩橋さんと一緒に入ってきて、
「こんにちは。」
と言った。
「ああ、彼ですか。彼は、土橋康介くんです。先月から、うちの牧場を手伝ってくれていて、よく働いてくれます。今日は、一緒に施設を見学したいというので連れてきました。」
岩橋さんがそう紹介すると、青年は、土橋康介ですと言って、頭を下げた。背中には、大きな物体を背負っていた。
「実はですね。彼はモリンホールという楽器を習ってるんです。」
岩橋さんがそう言うと、
「モリンホール。ああ、馬頭琴ですね。モンゴルの遊牧民が弾いていたという。」
とジョチさんは、すぐに分かった。
「はい、そのモリンホールです。それをぜひ聞いていただきたいと思いましてですね。今日は連れてきたんですよ。なんでもモンゴルの人は自己流で弾くようですけど、とても素敵な音なので、ぜひ聞いていただきたいと思いましてね。」
岩橋さんはそう説明した。それを聞いた、橋本恵さんが、
「スーホの白い馬で有名な楽器ですか。あのお話もすごいお話ですよね。わがままな権力者の言い分で、馬を無理やり取られた挙げ句、殺されてしまうんですから。そして、その楽器になって、帰ってくるんですね。その楽器の音を聞かせてもらえるなんて。本当に素敵ですわ。ありがとうございます。」
と、言うのであった。
「はあ、そういう事には敏感なんですね。」
とジョチさんは言った。
「私は、国語の教科書で知りましたが、あとになって原作本まで買ってしまいました。それをしたら、学校の先生が勉強熱心でいいですねと言ってました。」
橋本恵さんはとてもうれしそうに言った。それを聞いて、ジョチさんは、恵さんが頭で感動することばかりしていて、体を動かして感動することはなかったのかなということをなんとなくわかった。
「ねえ。土橋康介さんっていいましたよね。一曲聞かせていただけません?モリンホール、草原のチェロと言われて、とても素敵な音ですよね。あのお話であったことを想像するだけでもすごく感動的な音なんだろうなと思いましたけど、それを今ここで聞けるなんて、本当に嬉しいですよ。」
恵さんは、土橋康介さんに言った。岩橋さんが、
「土橋さん、怖がらなくてもいいのです。彼女も馬と一緒で、人を襲うことはけっしてしませんから。」
と優しく言った。ということは、土橋康介さんは、少しばかり対人恐怖症のようなものがあるのかなと思われた。まあ、最も、モリンホールという楽器を弾くのだから、そうなってしまっても仕方ない。
「じゃあ、皆さんで縁側に行きましょうか。それでは、演奏を聞かせていただきましょう。」
とジョチさんは、彼を縁側に連れていき、食堂の椅子を一つ用意して、土橋康介さんを椅子に座らせた。康介さんは、ケースを開けてモリンホールを取り出した。日本語訳すると馬頭琴というのだが、そのモリンホールの糸巻きが馬の頭をかたちどっているので、そういう名前があるという。日本の絃を木製の胴に貼っているが、その胴にも、馬の皮が用いられているという。スーホの白い馬でも馬が自分の死体を使って楽器を作れと指示を出すが、たしかに、馬の頭を形どるし、馬の皮を胴に貼るというところは、しっかり踏襲している。
「草原情歌を演奏いたします。」
と、土橋康介くんはにこやかに笑って演奏を開始した。確かに、モリンホールという名前だけあって、とても素敵な音だった。草原のチェロというだけあって、とても繊細で美しい音である。
演奏が終わると、みんな大きな拍手をした。
「とても素敵ですね。初めて本物のモリンホールを聞いたけど、こんな素敵な楽器だとは思いませんでした。なんだかスーホの白い馬もすごく悲しい話だけど、何処かに希望があるように見えるのは、この音色のせいかしら?」
恵さんは、そういったのであった。
「でも楽器だから、なにかとコラボレーションすることも可能だよな。それなら、ぜひ、水穂さんのピアノと合体させてあげてよ。サンサーンスの白鳥とか弾けない?」
と、杉ちゃんに言われて、土橋康介くんは不安そうな顔をしていたけれど、
「弾いてみたらいいじゃないですか。大丈夫ですよ。水穂さんは、悪い人じゃありません。馬と同じでとてもやさしい方です。ぜひ、一緒に演奏させてくれと頼んだら良いと思います。」
と、岩橋さんが言った。
「馬が好きなんですか?」
とジョチさんが聞くと、
「ええ。最近では競馬を引退した馬を飼育させ、馬に乗ったり、馬と遊んだりして、精神疾患を治療させるという施設もあるんだそうです。いわゆるホースセラピーというそうなんですがね。ちょうど、それをやっている、牧場が近くにありましたので、そこへ彼を通わせているんですよ。」
岩橋さんがにこやかに答える。
「へえ、セラピードックなら知っているけれど、馬が治療になるとはびっくりだ。最近はいろんな動物が、治療者の役目をするんだな。」
と、杉ちゃんが驚いて言った。
「ええ。いろんな動物が、人間を癒やしてくれるんだなと思っています。うちで飼っているホロホロ鳥も、可愛い鳥で、結構地元の子供達からも人気があるんですよ。」
岩橋さんは、にこやかに言った。
「じゃあぜひ、水穂さんに演奏を頼んで見てくださいよ。水穂さんも悪い人ではありませんから、にこやかに話せばわかってくれますよ。」
ジョチさんはそういった。岩橋さんに付き添われた、土橋康介くんは、四畳半の入り口のふすまを静かに開けた。
「水穂さん、すみません。」
どうやらその言葉しか言えないらしい。もしかしたら、それを言うのも、人がこわいという症状があって難しいのかもしれない。
「あの、僕は、、、。」
と、彼は小さな声で、そういいかけたのであるが、
「あの水穂さん、この人は、うちの牧場で働いてくれている、土橋くんと言う方なんですが。」
と岩橋さんが言うと、水穂さんは布団から起き上がって、土橋康介くんが持っている、モリンホールをすぐに確認して、
「はじめまして。とても素敵な楽器を習っていらっしゃるんですね。」
と優しく言った。
「あの、すみません。この、曲、一緒、に、弾いてくれませんか?」
と土橋くんは目を見ることもできないまま、水穂さんに言った。
「ぜひ一緒に弾いてやってください。彼はきっとこういう発言をするのは難しいのではないかと思うんです。だけど、今こうして発言してくれたんですから。それをぜひ、褒めてやってくれませんか?」
彼がそういうのを援護するように、橋本恵さんがにこやかに言った。
「ねえ、お願いします。彼は、モリンホールに関しては、天才的な才能がある方です。」
「なんかエージェントみたいですね。」
と、ジョチさんが言った。
「そういう人を誰かに紹介する才能があるのかもな。」
杉ちゃんがでかい声でそう言うと、
「わかりました。譜面を見せていただければ、弾きますよ。」
水穂さんはにこやかに言った。
「こ、これ、お願いします。」
土橋くんが渡した白鳥の伴奏譜を受け取って、水穂さんは、静かにピアノの前に座った。さすが水穂さんというだけあって、初見でも間違いも何もしないで弾けてしまうのはすごいところだった。
「はい、音がとれましたから、あわせてみましょうか。ゆっくりした曲ですから、すぐに弾けますよ。じゃあ行きましょう。」
水穂さんがイントロダクションを弾くと、土橋くんは椅子に座って、モリンホールを一生懸命弾き始めた。モリンホールによる白鳥は、チェロで奏でるものとはまた違う、独特な雰囲気を持っていて、ちょっと変わっているなと思われるところもあったけど、とても綺麗だった。
「まるで白鳥をより素朴にさせた音みたいだな。」
と杉ちゃんが思わず感想を漏らしたが、恵さんはそれをやめさせた。そうやって彼女は、やめさせる才能もあるんだなとジョチさんは思った。もしかしたら、彼女は、非常に難しいところもあることにはあるけれど、そういう才能を全面的に押し出すような接し方をしてくれれば、意外に立ち直れるかもしれないと、なんとなく思った。確かにこれまで立ち直らせるのは非常に難しいだろうなと思われる人が、製鉄所を利用した例もあるが、その人の一番の長所を発見してくれれば、意外にホイホイと事は運んでしまうのである。ジョチさんは、それが今度もまた生かされるのではないかと思った。それと同時に、何でも世の中に無駄なものは無いと思ったのだった。
モリンホール 増田朋美 @masubuchi4996
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