逢い面

Zenak

逢い面




 瞬刻、静寂がピンと張り詰めて、この広い武道館に散乱していた全ての音が、一斉に鳴りを潜める。


 息を殺した人々の視線の先には、睨み合うまだうら若き二人の女傑。一方は白仕立てに赤だすき、松飾りの黒胴に身を固めた、平清眼ひらせいがんの構えの剣士。もう一方は、薄紫に磨かれた胴を周囲に見せつけどんと佇む、白襷上段の剣士。


 延長二回にして1−1、両雄どちらも既に面を決め、残すは後一本。勝利を掴むのは赤側か、それとも白側か。刹那、少女達の呼気が重なり――。



 今、切って落とされた。


「勝負!!」




赤 宝条 ほまれ


 面、小手、胴、突き。なんて考えるまでもなく、私の体は躍動し続ける。しかし当然攻めすぎは良くない。相手もこの地方大会で決勝まで勝ち上がってきた猛者だ。先程左小手を狙って飛び込んだ所を易々と弾き落され、その強さの所以ゆえんを身を以て実感させられてしまった。だが今度はそうはいかない。逆に得意の面払い面を叩き込んで見せる――。


 そんな風に数秒考えて、気がつくと、私の目の前には、例えるならば一.五足一刀の間合い。竹刀が触れていなくても分かる。この距離ではどんな打ちもギリギリ届かない。しかもあろうことか、私は試合場の端に追い込まれてしまっていた。


 幸運な事に、相手はこれ以上私との距離を詰めてこようとしない。……どうする?このまま強引に間を詰めて相手を引き下がらせてしまおうか?


 …いや、もうそうするしかない。このまま下手に打ちを放った所で、簡単に相手に中心を割られ、先程のように手痛く返されてしまうだろう。かといってこのまま黙っていれば反則を取られてしまう。


「面」。


 ふと、私の頭の中に無骨な一文字が浮かび上がる。すぐにその考えを捨てようとして――、私は思い留まった。


 確かに、この状況ではまさか相手も面を打ってくると思うまい。相手が動き出したその瞬間に前へと飛び出していけば、少なくともこの窮地からは脱する事が出来るのではないか。……だけど、当然その行為にはかなりのリスクが伴う。もし、またさっきみたいに押し負けてしまったら?面抜き面でも喰らわされてしまったら?


 手元が定まらない。息が少し苦しい。溜まった体の疲労と痛みが、私を弱気にさせる。


 もういいや、なりふり構わずに、強引に間を詰めてしまおう。そう、心に決めたその時――。誰かの声が、はっきりと聞こえたような気がした。


「誉、お前はまた逃げるのか?」




 数週間前、父が死んだ。

 あんなに頑強だった父が、車に轢かれただけであっさり死んでしまった。……実の娘としてその死を悼むべきなのだろうが、母さんも含め、私達二人は泣くことすらも出来なかった。


 父はとにかく横暴だった。仕事で何か上手く行かない事があると、直ぐにキレて、私達二人に警察沙汰一歩手前の八つ当たりをした。泣いている母さんを尻目に、私は激しく怒鳴られ、軽蔑され、幾度となく精神をズタズタにされた。


 けれど……、そんな父にも、一つだけ尊敬できる所があった。それは、剣道が非常に上手であるという事。酒を飲んで上機嫌になった夜は、いつも自身が剣道五段保持者である旨を自慢気に垂れ流していたが、私が尊敬しているのはそんな称号等では無く。


 竹刀を持って、構える。――ただそれだけの、剣道においては基本の「き」とも言える動作に対して、私は強い畏敬の念を抱いていた。


 一部の隙もなく、狂いも歪みもなく、剛く美しい、く完成された上段の構え。


 互いに正面から構え合い、ただ父は静かに立っているだけだというのに、私はいつもその気迫に翻弄され、萎縮させられてしまった。


 父はよく言っていた。


「構えは剣道の中で最も大切なものだと、俺はつくづく思う。どんな強力な打突だとつも、完成された構えの前では、余計に四戒を誘発するだけで全てが無力になる。相手に勝つ為にも、自分に克つ為にも、構えは気力と体力の源でなければならない。」


 だけどその有り難い教えを活かせたのは、学校の部活と試合の時だけで。結局、父との稽古でそれを活かし切れた日は、ついに来なかった。


「また逃げるのか?」


 昨日の事のように思い出す。互角稽古をする時の、あの人を小馬鹿にしたような耳障りな嘲笑いを。


 嗚呼、何度打ち伏せられた事だろう。何度悔しいと思ったことだろう。何度泣き寝入りした事だろう。


 激しい憎悪と畏敬の念が混ざって、吐き気を催す程に、強く、私の心を掻き乱す。脳裏に焼き付いた父の構えの姿勢の残像が、私の思惟しいをこれでもかと惑わせる。


 ――今、決心した。


 父を、超えてみせる。あの下劣で不細工な、されど一種の神聖さを宿した父の面を、私は真正面から叩き斬ってみせる。


 力が漲っていくのを感じる。闘気が私の心と体を満たしていくのを感じる。嗚呼、なぜ先程まであんなにも飛び込む事に恐れをなしていたのだろう。為すべき事はシンプルだ。目の前の頭を真正面から斬りに行く。ただそれだけの事。


 ふと、竹刀を持つ相手の左手が微動したのが視えた。世界が遅く動いていく。私以外の全てが、スローモーションで見える。


 瞬きする間もなく、溜めていた左足の力を床に惜しげもなく押し付けて。そしてその一撃に、昂ぶる思いを乗せて。



「俺の頭を、割りに来い!!」



 見知った誰かの声が、再び聞こえたような気がした。






白 加賀美 結奈




「――お姉ちゃん。」



 その不安で震えた声は、そのまま空気に溶け消えてしまいそうな程にか細くて。


 私達を取り巻く時間が、一瞬、止まってしまったような気がした。



「試合、負けないでね。」



 その時私はどう言葉を返したのか、もう覚えていない。





 真希の手術の予定日と、高校生最後の剣道大会が重なってしまったと知った時、私は二つの憶測に怯えてしまった。


 一つは、手術中の妹の傍に居続けてやれなくなるという事。そしてもう一つは、手術の成否に後ろ髪が引かれて、いつも通りのパフォーマンスが出来なくなってしまうのではないか、という事だった。


 でも――、大会を棄権しようとした私に、まだ幼い真希は笑って言った。


「大丈夫だよ、お姉ちゃん。私、一人で頑張るから。」


 その科白と、朝方真希を手術室に見送った時のあの言葉が、私の心を初戦からぎゅっと捉えて離さない。非科学的な決めつけだとは分かっていても、こう、心の中で思わずにはいられなかった。


 勝ち続けなければ、真希は死んでしまう。




 ――無我夢中で攻めて攻めて、ひたすら打ち込み続けて。気がつけば、私は相手を白線の角に追い詰めていた。


 ……一見、この状況では相手が不利に見えるかもしれない。しかし、今回の試合に限ってはそうではない。


 相手の選手は明らかに私より上手うわてだ。一つ一つの所作が雑な私とは違い、冷静にこちらの動きを見極め、その状況に合った技を的確に繰り出してくる。


 さっきは偶々たまたま押し合いに競り勝って一本を取る事が出来たが、力押しでは勝つ事が出来ても技量では到底敵わないという見るに堪えない事実を、それより前の誘いすり上げ面で、私は嫌という程実感している。


 休憩時間はもうすぐだが、それだけで十分に回復できるかどうか分からない。だからこそ、この回で決着をつけたい。


 ………だけど。



 もう、苦しい。


 ほんの数十秒前まで、当初の目的や願いも忘れて死物狂いで戦っていた。それこそ、初戦や準決でどんな相手と戦ったのか、同じ部活の仲間からどんな言葉をかけられたのか、それら全てを忘却の彼方に置き去りにしてしまう程に。


 ……でも、この期に及んで私は妹との会話を思い出してしまった。



「試合、負けないでね。」


 その言葉が、脳裏を何度も何度も過る。単純な応援の言葉である筈なのにそうは思えない。何故かは分からないし、今は知りたくもない。ただ分かるのは、妹と交わした朝の短い会話が、一種の呪いのように私を縛り、「負ける」という事に対して異常な恐怖を惹起じゃっきさせているという事だけ。


 逃げてしまいたい。この辛い現実から。


 自由になりたい。真希の束縛から。


 あの声が私を卑怯者にさせる。真希の事を誰よりも心配していた筈なのに、今はもう、真希を厄介者のように遠ざけてしまう事に何の抵抗も感じられない。


 そのよこしまな発想への罰なのだろう。竹刀を持ち上げている腕が痛む。体勢を維持している足が痛む。そして、醜い自分の心も痛む。ありとあらゆる負の感情が、私を蝕んでいるようで、呑み込んでいるようで。


 思わず、声に出してしまった。



 誰か、助けて。




 ――その声に応えたのは、他ならぬ自身の声だった。


「分かった、お姉ちゃん頑張るから。その代わり真希も、一生懸命頑張るって、約束してくれる?」


「……うん!!」



 ハッとした。


 ふっ、と、体が軽くなったような気がした。


 心が、洗われたような気がした。


 あぁ、なんで忘れていたのだろう。妹と交わした言葉はある種の呪いの言葉などではなく、二人で一緒に頑張ると決めた、誓いの科白だったのだ。


 必死に頑張り続けたからこそ、私はその約束をいつの間にか忘れてしまっていた。一瞬ではあるが私は妹を拒絶してしまった。妹との契りも思い出せずに、勝手に絶望してしまった。


 ……だけど、心の中の真希に謝るのは、一旦後にしよう。今はただ、もう一度目の前へ我武者羅に向かっていくだけでいい。そうしないと、今頑張っている真希を、再び裏切る事になってしまうから。


 よろけそうな手足に、もう一度力を込めて。


 その剣に、溢れる勇気と闘気を乗せて、私は翔んだ。


 ――小さくて、けれどほんのりと温かい手が、私の背中を力強く押してくれたような気がした。







「勝負ありっ!!」



 老練の主審の声が、武道館全体に遍く響き渡る。長きに渡る試合は終わり、勝敗は遂に決した。


 しかし、今の二人には勝敗さえも些細な事のように思えた。本当に大事だったのは、あの時、思い切り前に跳べたという事実。心の底から、何かを乗り越えたいと思った、遥かに比類なき願望。



 少女達はこれからも歩いていく。どこまでも真っ直ぐな剣の道を、彷徨い、時には後退し、それでも願いを抱き続けながら。

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