第10話 Final answer

失礼します。3年1組の黒川瑞貴です。久屋颯太です。東山優樹です。桜山剛です。伊丹先生に用があって来ました。入室してもよろしいでしょうか?

卒業式の前日、色んな表彰式や同窓会入会式が終わった放課後、俺達は機械科職員室へ伊丹先生を訪ねた。

先生はパソコンの画面を見ていたのをやめて、俺達を見た。はい、どうぞお入り下さい。

俺達は先生を囲んだ。先生。はい、何でしょうか?ちょっと頼みがあるんだ、いいかな。

頼み?

ピアノを聴かせて下さい。明日は卒業するから、最後の記念に…。俺は頭を下げた。

ふむ、良いでしょう。ピアノはどこにあるんですか?体育館のを借りれないかなと思って。どうせ使ってないやら?

分かりました。先生は承諾してくれた。では、教務室へ体育館とピアノの鍵を借りに行きましょう。

先生はそう言うと、立ち上がった。俺と優樹は先生をガードするようにそばに付いた。

移動しようとしたその時、颯太が、あ。せっちゃん。先生の隣のデスクに座って本を読んでいるせつなに声をかけた。

どうしたの?せっちゃんも来てよ、伊丹先生のミニライブ。え、マジで?いいの?

来て来て。せつなも本を閉じて、颯太や剛と一緒に体育館に向かった。


卒業式前日の体育館は、イスがずらりと並んで、紅白の垂れ幕が壁に広がっていて、お祝いモード。

ピアノがあるステージ上には色とりどりの花が生けられていて、近づくと厳かな香りがした。百合のきつい香りが、式典の匂いをかぐわせていた。

先生がピアノの前に座り、鍵を開けた。蓋を開けて、演奏ができるようにピアノをセッティングしてくれた。

勿体無いですねえ。こんなに高価なグランドピアノなのに誰にも弾かれないなんて。このまま朽ちてしまうのは、芸術の悲しみですね。

まあ、吹奏楽部が校歌演奏するもんね。体裁のためだけに楽器を置くなんて楽器に失礼だ。楽器は弾いてこそ命が宿り、その音楽で人は生きるのに。

セッティングが終わり、先生は再び椅子に座った。

さて黒川。リクエストは?

ラフマニノフピアノ前奏曲ト長調。良いでしょう。ですが黒川。私からもリクエストします。

え、黒川ピアノできるの?颯太が聞く。うん。俺の父さん、音大出ててピアノの専門だから。

黒川、ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌをリクエストしてよろしいでしょうか。もちろん。

では…。というと、先生は弾き始めた。あの時と同じ。カーキ色の長袖作業服で、弾く姿はシュールだけど、旋律は繊細で、壊れそうな音色の中にどっしりとした重みを感じた。優しくて、どっしりとして、雨のようにしとしとと静かで美しい演奏だった。

すっげーー!俺達は拍手喝采した。Bravo!優樹が穏やかに言った。

じゃあ次、選手交代!黒川だ!颯太が言った。先攻がかなりハイレベだから、お前ミスできんよ?

プレッシャーかけたるなって。せつなが突っ込んだ。

俺は椅子に座り、大きく深呼吸した。いくよ…!

先生が涙したあの亡き王女のためのパヴァーヌ。先生、覚えてるかな。

弾き始めると色んなことが蘇ってくる。先生に泣きながら抱きしめられたこと、きつかった課題、必死で忠節橋から走って病院に行ったこと、先生が息を吹き返した瞬間。

病院での楽しい会話、そしてあの別れ。苦い、深い悲しみだったっけ。でも…俺達は再会した。この学校で。

あ、再会したあと俺たちが何やってたかって?もちろん真面目に勉強して、すべてを欠点なしで乗り越えた。課題研究だって最後までやりきった。

せつなと、機械設計技術者3級の勉強に明け暮れた。課題をやってたときみたいに優樹やせつなと旋盤技能検定3級課題と戦った。今回は無事故で。

他の班員とも助け合った。これまで一度もクラスが同じになったことがない同級生に、俺が旋盤を教えたこともある。その中でもかなり絡みが濃かった奴に、村瀬ってのがいた。1年生の時、旋盤担当の先生に理不尽なこと言われて、しかも作業が分からなくて困っていても誰にも助けてもらえなかったんだそうだ。それは酷い、やったやつ誰だ、ふざけんなよ職務怠慢じゃん!と俺や優樹やせつなが騒ぐと村瀬はポカンとしていた。

今まで誰からもこんなに強く受け入れられたことがなかったんだって。すると、せつなは言った。

この班は、絶対に誰も置き去りになんかしないよ。みんなで一つの目標に向かって進んでいくんだから。思いっきり頼っていいんだよ。その言葉に村瀬は泣いてしまった。

おいせつな!泣かすなよ!俺はせつなに笑いながら怒った。アタシが悪いんじゃないもん!何か村瀬が泣いちゃったからだもん!何かって何だよ!

やいやい口喧嘩する俺たちに、村瀬は泣きながら笑ってた。そして、伊丹先生も微笑ましそうに笑っていた。

せつなが最初に言ってたスペシャルアドバイザーとは、伊丹先生のことだった。この資格取得班は、せつなと伊丹先生の合同班だったのだ。

俺たち資格取得班は、放課後も伊丹先生やせつなと勉強した。案の定、伊丹先生も厳しかった。

厳しいことをたくさん言われた。難しい宿題もたくさん出された。あの課題なんてまだぬるかった。

班のみんなと文句や愚痴は散々こぼしたが、俺は先生の裏を知っていたから、サボることは絶対にしなかった。

勉強が終わって、俺が実習室や勉強していた空き部屋の鍵を返しに機械科の職員室に行くと、せつなと伊丹先生が二人で話をしながら授業の計画を練っているのをよく見た。

俺たちのために、ここまで緻密にやってくれてる。だから、何か成功という形で返したかった。

就職試験だって頑張った。企業で働いたことのある伊丹先生に、入退室のマナーから、就職とは何か、就活とは何か、すべてしっかり教えてもらった。

夏休みに、学校公式の就職試験対策が終わると、颯太と剛と優樹と一緒に伊丹先生をとっ捕まえて面接指導してもらった。

先生、迷惑だっただろうな。ただでさえ普段の仕事も忙しいのに、休む間もなく俺たちが職員室に襲撃してきて、先生を引っ張る。

でも、先生はそのことに関して、絶対に怒らなかった。むしろその後の面接指導のほうが厳しかった。

自分の悪いところや、考えが中途半端なことに向き合わされて、俺のほうが頭がおかしくなりそうだった。

でも、それは他のみんなも同じで、優樹なんて職業訓練校に進学することを選んでたから、伊丹先生の鞭は俺よりめっちゃ厳しかった。

優樹は何回か折れかけた。でも、その折れかけた優樹を支えたのは、俺だった。あの課題をやったときのお礼がしたかったからだ。

勉強しながら、一緒にまた名鉄岐阜駅のドトールでブラックコーヒーを飲みながら、愚痴や不満を何時間も聴いた。そして、優樹が最善を尽くせる戦い方を練った。

すると優樹は嬉しそうにまた学校に来て、勉強や面接指導に臨むのだった。伊丹先生は、優樹の裏をすべて見抜いているようだった。だからまた厳しく指導していた。

実際、就職面接の本番の方が簡単だった。散々しごかれた入退室も、質疑応答も、簡単すぎて拍子抜けしそうになったほどだった。

ペーパーテストも、せつながしっかり指導してくれたから、難なく行けた。SPIも、2年生のときに早くから勉強したから、すんなり解けた。

それで俺は、かつて先生が勤めた自動車部品の設計会社に内定をもらうことができた。内定をもらった時、真っ先に伊丹先生に報告しに行った。

先生、内定もらったよ!職員室のそばの空き部屋で、俺は言った。内定通知を見せると先生は涙ぐんで喜んだ。

颯太も、名古屋にある大手電子機械設計会社の内定をもらった。大企業だから金ガッポリ稼げるだろ。これで金貯めて、大学受験して、獣医目指す。と意気込んだ。

剛は、岐阜県内にある工作機械のメーカーに内定をもらった。その場所は岐阜市からだと遠いため、社員寮に入るそうだ。もともと親の再婚相手とギクシャクしてたから、距離を置きたいって言ってたしな。ただ一つ問題なのが、寮の部屋にネット回線が引かれていないことだった。ネット徘徊が毎日のルーティンになっている剛には、命に関わる問題らしく、一時は内定辞退も危ぶまれたが、それを救ったのは颯太だった。バイト先に売られているポケットWi-Fiを勧めて、難を逃れた。

颯太って獣医よりセールスマンに向いてないか?と思ったが、颯太はそれは仕事。と言った。セールスは仕事。真心からやりたいのは獣医。なんだそうだ。

そして一番心配かけた優樹の受験結果は、合格だった。岐阜市内の職業訓練校に進学が決まった。

合格がわかった瞬間、優樹は進路指導室から教室に一気に駆け上がり、黒川、受かったぞ!と合格したことを俺に真っ先に教えてくれた。

そして、俺に言った。黒川がいたから俺は勝てた。伊丹先生にも負けずに向かってけれた。ありがとう!俺達は強く抱き合った。それを、颯太や村瀬がわざとからかった。

おーい、黒川と優樹ってできてんのかよ。と言って笑った。できてねーよ!バカかお前。でも似合ってそう。と村瀬がクスクス笑った。

うるせーよ気持ち悪いよ、と優樹が言った。しかも、俺、女でもこいつはタイプじゃないな。と優樹は言葉を続けた。ひでえ!俺は笑った。村瀬も颯太も剛も笑った。

俺達は一つのことを笑って乗り越えることができるようになった。

その後、優樹は合格したことを伊丹先生に報告しに行った。すると、伊丹先生は泣きながら優樹を抱きしめたそうだ。

この学校に入ったときは、今にも死にそうな顔をしていたのに。こんなに立派になって人を助けたいだなんて。成長しましたね。よくここまで難を乗り越え、トラウマと闘い抜きましたね。優樹も泣きそうになったそうだ。先生がいてくださったからです、というのがやっとだったそうだ。

村瀬も、行きたい企業への内定を勝ち取ったらしい。俺たちに嬉しそうに話してきたから、俺たちも祝福した。しかもその後、俺達は全員、難しすぎると音を上げそうになった機械設計技術者3級の試験に合格し、旋盤、テクニカルイラストレーションの技能検定にも合格した。工業英検4級も受かった。

そして、その受かった瞬間瞬間を伊丹先生とせつながいつも祝福してくれた。

あ、ちなみに、ここだけの話になるんだけど、資格試験で外の会場に受けに行ったときは必ず先生とせつなが迎えに来てくれた。しかも何も予告無しで。

試験が終わって、ヘロヘロになりながら部屋を出ると、2人が俺たちに「おつかれさま」と言ってねぎらってくれた。

それから、班のみんなでギャーギャー騒ぎながら帰ったことも、思い出の1つ。俺達はなにかすごいものを作ったわけではない。何かの大会に勝ったわけでもない。でも、難を一人ひとりが打ち破って勝っていく姿を、二人はいつも認めていた。苦しいときも、厳しかったけど絶対に離れなかった。その、成功したというこのドラマが俺たちの課題研究で作った作品だった。それはあまりにも尊く、作り上げた俺達でさえため息ものの美しさがあった。そんな数々のドラマを越えての今日だった。

最後の一音を弾くとき、ありがとう。と俺は心の中で呟いた。


すっげーー!!拍手喝采が俺に降り注いだ。黒川、マジですげーよ。お前ピアニストとかなれんじゃね?

剛が言った。いやいや、お前だってジャズピアノやってんじゃないのか?あー、やってるけど、俺は趣味だから。

え、剛弾けるの?聴きたい聴きたい。颯太が言った。

伊丹先生のミニライブなはずなのに、生徒たちみんながライブやってますね。せつなが笑った。私はきっとミニライブのオープニングを飾るだけで、主賓は彼らですよ。

きっと、最後に学校のピアノを弾いてみたかったのでしょう。仲良さそうに二人は話していた。

剛はピアノの前に座った。ガーシュウィンのサマータイムを弾いてやる。

哀愁漂うジャズのメロディーに、俺は聴き惚れた。いいなあ、この夏の夕方か夜のようなもったりした流れ…。と思いながら伊丹先生を見ると。

先生も腕を組みながら、目を閉じて頭をちょっと動かしながらリズムを取っていた。ひょっとしたら、亡くなった奥さんと昔弾いていたのかもしれない。

俺や先生と違って剛のピアノはジャズだから、クラシックより動きがしなやかでアグレッシブだった。形式にとらわれず、自分のやりたいように演奏するのがジャズだから、敢えてそうしているのかもしれないけど・・・。曲が進むとメロディーはどんどん激しくなって、普段の剛には見られない表情が見れた。こいつって意外と・・・アツいのかもしれない。普段の、ネット依存症でずっと背中を丸めてスマホをいじっている剛は実はカモフラージュで、その体の中に、本物の情熱的でまっすぐな剛がいるのかもしれない。人は見かけによらないのかもしれない。

演奏が終わると、また剛は拍手喝采に包まれた。剛は照れくさそうに笑った。

これ、死んだ父さんがコントラバスやってたんだ。練習して一緒にセッションできたときは嬉しかったな。と剛は語った。

ほお、桜山…。と伊丹先生は言った。ピアノの席を譲って頂いてよろしいでしょうか?いいよ。と俺は言った。

ならば私も。桜山と同じく、ガーシュウィンの、Someone To Watch Over Meを弾かせてください。

カーキ色の上下作業着姿でジャズピアノなんてシュールだけど。

One、two、three。

軽く指を鳴らしながら先生は弾き始めた。柔らかくて甘い。優しいそよ風みたいなメロディ。思わずうっとりしてしまいそうだ。

まるで誰かが口ずさんでいる歌をそのままピアノに起こしたような、そんな感じ。

剛のアグレッシブな音の運び方とは違って、先生の手は小川が流れるようになめらかだ。さっきのクラシックピアノのそれとは演奏の仕方が違う。だけど、人間には、喜怒哀楽という複数の感情がある。それに、誰だって、人やものに対して攻撃的になったり、優しくなったり、態度が色々ある。それと同じこと。音楽は、人の心を映す鏡なのかもしれない。だとしたら、さっきの剛の演奏は、そして今の先生のこの感情は、一体誰に向けられたものなんだろう?誰かに語りかけているような、そんな気もする。それもすごく甘く。友達や家族に語りかけるそれとは全然違う。まるで付き合いたての恋人に語りかけるような、そんな甘さ。作風がそうなのか?でもジャズだろ?先生が演奏するには、ちょっと気持ち悪い甘さだった。本来の先生なら、もっと低音を響かせながら渋い演奏をするはずだ。だって、俺はそれをリアルで見た。


父さんが家に帰ってきて、しばらく経ったある日。先生が家に来たのだ。出迎えてびっくりする俺に、駿のお見舞いに来ました、と先生は言った。

その頃の父さんは、ある程度体調が戻ってきていて、今後のことを少しずつ考えていた。取り敢えず中学校の音楽の先生は辞めて、もともとピアノ専攻だったことを活かして何の仕事に就こうか模索していた。多分、そのことについて心配になったんだろう。父さんは、先生のただひとりの親友だから。

母さんに言われて、俺は様子見も兼ねて2人にコーヒーを淹れて持っていった。今度は、パックのドリップコーヒーじゃなくて、ちゃんと豆を挽いて、ね。

深刻な話をしているかもしれない。俺に難しいことはよくわからないけど、父さんも先生も、今までが今までだから・・・。

俺のコーヒー飲んで、少しでもホッとしてほしいな。カップを乗せたトレイを持って、父さんの部屋に向かった。父さん、ちょっといい?

すると、中から笑い声が聞こえてきた。ドアを開けると、2人は楽しそうな笑顔を俺に向けた。ああ、瑞貴、どうしたんだ?コーヒー、母さんに頼まれて。淹れてきた。

ありがとうございます。先生も、嬉しそうに微笑んだ。そして2人は美味しそうにコーヒーを飲んだ。

これ、瑞貴が淹れたのか?うん。さすがは駿の子だ。先生は言った。

俺の子どもだからって、別に何も無いよ。父さんは笑う。いやいや、そんなことはない。俺が見ている黒川は、よく頑張っている。駿に似て、すごい努力家だ。

俺ってそんなに努力家かなあ?何を仰る。駿はいつだって頑張っているじゃないか。今回のことだって、音楽教室を探して、ピアノの先生をやるって決めたんだろ?

えっ?

そうですよ、黒川。駿は、あなたやお母様との時間を作りたいと思って、岐阜市内かその近辺の市内の音楽教室でピアノの指導者になろうとしているんです。人にとって大事なのは、お金や待遇ではなく、何よりも自分の持つ能力を最大に活かすことですから。中学の音楽教師では、駿の能力は活かすどころか殺しにきていましたからねえ。まあ勿論、音楽教室となればこれまでより相手にする年代の層は幅広くなって、その分嫌なことも増えますでしょうが。ですが、ピアノに従事できるということでカバーは効くかもしれませんね。

いやいや、その分の相談は亮にするよ。亮だって、その仏法の世界で色んな年代の人と関わってるんだろ?そんな俺が何でもできるみたいに言うなよ。父さんは苦笑いする。亮、俺達は親友だろ?どんなことだって一緒に乗り越えてきたじゃないか。

そうだっけ?先生はとぼける。何を言うんだ、この前の亮の病気だって、あれもめちゃくちゃ大変だったんだから。と言うと、父さんは、俺に先生の闘病生活について話してくれた。

それはそれは苦難の連続だったそうだ。

あの時、母さんと別居してから、父さんは先生の家に行ったらしい。この家以外の居場所と言えば、そこしかなかったんだそうだ。それに、先生も病気になって、誰かの介助を必要としていたので、ちょうどタイミングが良かったらしい。人間万事塞翁が馬、とはこのことですよ。先生は俺に言った。

入院してからも、父さんはずっと先生の傍に付いて、看病していたらしい。うつが酷くて先生がベッドで自殺を図ろうとした時も、手術後に意識が戻らず、生死の境を彷徨う状態になっても、父さんは先生の手を握ってを必死で励ましたそうだ。死ぬな、死んだら俺が困るんだ。まだ生きてほしい。生きてくれって。

そして、先生の意識が戻った時、父さんと先生は泣きながら再会を喜んだそうだ。目が覚めた時に、駿がいてくれて良かったと思いました。私を見捨てずに居てくれたことが嬉しかったのです。

俺だって、亮が生きてくれて、生きて戻ってきてくれて感謝してるよ。今だって、こうやって会いに来てくれるし。

クスッと先生は笑った。駿を励ましに来たつもりなのですが、何だか私が励まされているようですね。だって、お互い様じゃないか。人のために灯りを点けたら自分の周りだって明るくなるって・・・、何かそんな話あったよな?駿、と言うと先生は驚いた表情を見せた。駿、一体いつの間に知識を身につけたんだ?それは仏法の世界でもある指導だぞ?

亮が入院している間、留守番をしがてら部屋の本を色々読まさせていただいたんだ。その中からだよ。と言うと父さんはいたずらっぽく笑った。

それなら、仏法の世界に入ってみる?父さんは大笑いした。それからの父さんと先生の絡みは、まるで俺が颯太や剛、優樹と話すときとまるで変わらなかった。その辺にいるうるさい男子高校生と同じ。大人って、実は中身はまだ子どものままなのかもしれない。ずっと大人で居続けることも疲れてしまうのかもしれないな。

それから2人は奥の部屋に入って、ピアノを弾いた。父さん曰く、子どものときからずっと、それぞれの好きな曲を弾き合ったり、お互い練習している曲を評価し合ったりして切磋琢磨していたんだって。ちなみにこの時、父さんは「風紋」という曲を弾いた。ピアノを弾いている父さんは、いつもより若々しくて品がある。この風紋っていう曲は、もとは吹奏楽コンクールの課題曲として描かれたそうだ。風、というにふさわしく、曲は台風が来て過ぎていくように、時に強く激しく、時に弱く繊細に流れ、どこからともなく現れては消えていく。それはまるで今まで父さんが先生と一緒に歩いてきた道のりのような気がした。時にはつらいことだってあったし、悲しいことだってあった。だけど、2人が一緒にいる時間、それがきっと何よりの幸せなんだろう。一心不乱にピアノを引く父さんを見て、俺はそう思った。

そしてクライマックス。風が荒れまくって四方八方から吹き荒れ、竜巻のように大きくなった、と思ったら。嵐の終わりを告げるように大きな雷が落ちて、一気に砕ける。それは俺にとって、父さんが教員を辞める覚悟を決めたように思った。ピアノを弾き終えると、父さんは清々しそうな微笑みを見せた。

じゃあ、次は亮だね。

先生がピアノの前に座った。マンシーニの、「時の過ぎゆくまま」という曲を弾くそうだ。先生の演奏は、一緒に演奏するベースの存在を意識しているのか、低音に重きを置いた弾き方だった。リズムもゆっくりだけど、何か悪くない。それどころか、ゆっくり弾いて悪いね、これが自分のやり方なんだ、と俺たちに見せつけるような、そんな皮肉さえも感じるような弾き方だった。

この曲、亮の亡くなったなっちゃんがよく一緒に演奏してたんだ。しみじみと父さんが言った。

なっちゃん?

亮の嫁さん。と父さんは言った。那都(なつ)ちゃん、っていって、数学者であるかたわら、コントラバスをやっていたんだ。亮とセッションすると、どんな時でも奇妙なくらい合ったんだよ。だけど、結婚して子どもを身ごもってから、切迫早産で亡くなってしまったんだ。亮には惜しいことだった。やっと俺以外で話せる人を見つけたところだったのに、な。

人が音楽を選ぶ時、その裏には、何かしら、誰かへの気持ちが込められているのかもしれない。言葉では言い表せない、もっと強い気持ちが。先生の場合だと、いつも奥さんや子どもだったりするのかな。でも、その割には、今日は誰かへ向けた、と言うより、自分が弾きたいように弾いている気がする。まあ、家に遊びに来てくれたわけだし・・・。

亮の弾き方は、だいたい昔から渋いんだよ。多分、亡くなったお父さんに似てるのかもしれない。と父さん。

えっ?

亮のお父さんも、クラシックやジャズが大好きで、ピアノも弾いてたんだよ。特にジャズピアノは弾き方が渋くてさ、父さんの実家で昔一度だけ弾いてもらったことがあるんだけど、それはそれはもう、高校生の俺たちには早すぎるんじゃないかって渋さでね・・・。

駿。と先生は言った。演奏してるんだから静かにしてもらえないかな。まったく駿はいつもそうだ。俺が演奏するといつも何か話しかけてくる。おかげで練習できないじゃないか。

いやあ、ごめんごめん。と父さんは平謝りする。そんなこと言って、また喋るに決まってるんだから。と先生はふくれっ面をする。何か、普段学校じゃ見られない先生を見て、俺は楽しかった。それと同時に、他の奴には絶対知らない裏の姿を見れたことに俺は密かな優越感も感じていた。なのに、なのに。

何で?

こんなの先生の演奏じゃない。こんな甘すぎる演奏は嘘だ。先生じゃない。演奏が終わってみんなが拍手喝采の大雨を降らせても、俺の心の中にはわだかまりが残った。それに、俺はせつなが気になった。確かにせつなは俺の課題研究の先生、それから副担任や設計の担当として色々やってくれた。先生に会わない日があっても、基本的にせつなは毎日顔を合わせるので、先生に話せない相談事や愚痴や質問はせつなにしていた。時には面倒くさがられたり、先生よりもっときついことを言われたりしたこともあったけど・・・。せつなは何となく雰囲気が変わった気がする。前より性格や態度が優しくなった、というか、表情が柔らかくなったというか・・・。特にそれが顕著に出るのが、先生と一緒にいる時。何か先生に向ける表情が俺たちに向けるそれよりもっと、すごく穏やかなものになってた。一体何があったんだろう。それに、先生がせつなに向けるそれも決して険しいものではなく、穏やかなものだった。2人で何か打ち合わせているのだろうか。まあ、仕事は一緒にやってることが多いかもしれないけど、それ以外でも何か打ち合わせているのだろうか。確かに、振り返ってみると、先生が復帰してからというもの、集会なんかで俺たちが体育館に集まる時、先生はせつなと一緒に座っていた。2人でよく談笑しているのを見た。その他にも、俺のクラスが体育とか他の普通教科の教室移動で渡り廊下を通る時、空き時間だからなのか先生とせつなが中庭を一緒に歩いているのを見たこともある。付き合ってんのかあいつら、と思いもしたけど、でも今の2人の表情を見ると、そういうわけでもなさそうだ。それなら一体、この2人は・・・。と思った時。チャイムが鳴った。優樹曰く、先生たちの定時のチャイム、だそうだ。

さて、もう我々は定時ですので、そろそろよろしいですか、黒川。

うん、先生、ありがとう。俺は言った。



翌日、俺達は卒業の日を迎えた。

厳粛な態度で卒業式に臨んだ、はずだった。けど、俺は校長の式辞になった瞬間、寝落ちした。だって、つまらないじゃないか。校長の話とかPTA会長の話とか、形式ばってて何も面白くない。それに、普段顔を合わせることもない人からの話なんか聴いても、何のありがたみも感じない。

早く終わらないかな。

そう思いながら、眠っていた時、誰かが俺の肩に触れた。瑞貴。

やばい、寝てるのバレた?冷や汗が流れた。卒業式なのに俺、怒られるの?

瑞貴。声はもう一度聞こえた。だけど、その声は、特に怒っているわけではなさそうだ。瑞貴、起きろよ。

・・・誰だ?顔を上げて目を開けると、そこは俺以外誰も座っていない体育館だった。えっ、もう式終わったの?やばいじゃん俺、早く教室に行かなきゃ、みんなに笑われる!そう思って急いで立ち上がって出口に走ろうとした時。

待てよ瑞貴。声がして振り返った。そこには・・・。

えっ?

瑞貴。俺だよ。伊丹先生によく似た短髪で背の高い細身の人が立っていた。先生みたいにスポーツタイプのメガネをかけている。髪の色と服だけが違った。先生はダークグレーだったけど、その人の髪は黒だった。俺と同じ制服、黒の学ランを着ている。学ランの襟に留めた校章バッジや機械科の科章バッジも同じ。Mの一文字が付けられていた。

ひょっとして、ひょっとしてだけど、航?その人は、静かに頷いた。

父さんのこと、助けてくれてありがとう。礼を言いに来たんだ。そっか。

ずっと、ずっと見てた。父さんのこととか、お前のこと、颯太とか剛とか優樹のことも、それから、せつなのことも。父さん、だいぶ無茶してるなって思ってたけど。そうか?そりゃそうだろ。お前、危なっかしいんだよ。ちょっとでも目を離すと忘れ物するし、事故に遭いそうになるし、本当ヒヤヒヤしたぜ。ってことはお前。そうだ、マシニングの時に教科書とか貸したのは俺だし、製図道具もそうだ。あと、製図の帰りに懐中電灯持っていったのも俺。と言うと航はふう、とため息をついた。本当はお前が全部ひとりでやらないといけなかったんだぞ?それなのに鈍臭いったらありゃしねえ、まだ優樹の方がしっかりしてるよ。ちょっとムカつく。うるせえな。俺だってやれたならひとりでやりたかったさ。だけど、あの時の俺は腐りすぎてて色んなこと忘れてたんだ。だからみんなに頼らざるを得なくて・・・。本当は面倒だったんだろ。航のその言葉に、グサッときた。だから、効率よく手っ取り早く済ませたかった。そういうことだろ?

否定はしない。だけど、旋盤のことで心が変わったのは確かだ。航、それは分かってくれるよな?

うん、分かるよ。あれからお前はちゃんとやるようになったもんな。まあ、やらかしたけど。うるせーな。俺は笑った。だけど、父さんを助けてくれたことは、本当に感謝してる。だって、俺は死んでるから、どんなに父さんが悲しんでいても声をかけることはできない。父さんに触れることだってできない。見ていることしかできないんだ。それをお前が励ましてくれて・・・生かしてくれて、嬉しかった。

えっ?航、お前は早く父さんに会いたいんじゃないのか?また同じ世界で一緒に暮らしたいんじゃないのか?

そんなわけ、ないだろ。航は言った。

確かに俺は、生まれて2日で死んだ。その分今まで、父さんがいないことが寂しいと思うことはたくさんあった。だけど、俺が一番悲しかったのは、父さんが、俺や母さんの死を悲しんで、それで仏法なんか始めちゃったことなんだ。あんな訳のわからないことなんてしてるから、余計悲しくなって、仕事もうまくいかなくなって、病気になるんだ。まじでダルい。死んだ人もダルいって思うことあるんだ。そりゃあるだろ。体は消えても心は生きてるんだから。

死によって今世の生は終わるかもしれませんが、生命そのものが消えるわけではない。生命は永遠です。亡くなった方の生命は、私達の目に見えない深い次元において、私達の生命と一体です。あなたがここまでお父様を思われているということは、必ずお父様の生命に届いておりますよ。

いつだったか、剛に先生が言った言葉が蘇る。

なあ、航。お前の父さん、剛に言ってたんだ。人は死んでも、その生命は俺達と一体だって。思いは必ず人の生命に届くって。剛、自分の親を病気で亡くしてて、そのことをめっちゃ嘆いてた。だけど、お前の父さんのこの言葉で救われたんだ。どこからそんな言葉が出てきたか分かるか?仏法だよ。仏法の言葉で、俺達はみんな救われたんだ。それに、先生は確かに色んな不運や不幸のせいで病気になったのかもしれない。でも、それは見せかけで、本当は、自分が敢えて病気になることで、俺を救おうとしてくれたんだと思う。自分が病気になって闘う姿を見せて、俺に、頑張れ、って、腐るな、って言いたかったんだと思う。でも、この考えも仏法なんだ。願兼於業、と俺は言った。

航は視線を下に落とした。かすかに肩を震わせている。航?

俺は、父さんに、仏法なんか、供養なんか、してほしくなかった。そんなのしたって意味無い。だって、余計悲しみが増すだけだろって思ってた。けど・・・、違ったんだな。俺や母さんは、仏なんかなってない、いつだって父さんの傍にいるって言おうと思ってた。うん。でも、違ったんだな。父さんは父さんで、生きようと頑張ってたんだな。

そうだよ。お前やお前の母さんが死んだことの意味を見つけようと、お前にしてあげたかったことをたくさんの子どもにしてあげようとして、先生は仏法を始めた。教師になった。航、お前めっちゃ愛されてたよ。先生は、お前が生まれてくるのがすっごく楽しみだったって言ってた。一緒に遊んだり、勉強したり、ものづくりしたかったって言ってた。まあ、色々小さい時から吹き込まれるだろうし、実際に遊んだら、色々うんちくとかうるさかったんだろうなと思うけど。うるせーな。父さんと同じにしないでくれよ。航が鬱陶しそうに言った。そういや、お前の父さん、まじで話長いからもうちょっとどうにかしてくれん?例えば、話が長くなりそうだったら金縛りにするとか。そんなことできるか、お前バカか。航が笑った。俺は幽霊とか化け物じゃないって。そんなのができたらとっくにお前のこと金縛りにしてるよ。旋盤サボったときとかな。ひでえ。俺は笑った。航も笑った。そういや、いつか夢に出てきた時もこんな感じだったな、航。

あれか?うん。いつかの夢であった、2人で遊んだこと。瑞貴、お前ゲーム弱すぎるんだよ。あれじゃあ相手にならない。仕方ないだろ、お前が強すぎるんだ。俺にそこまでの時間も余裕もないよ。そんなの言い訳だろ、どうせお前ダラダラしながら無駄にネットとか動画見て時間とギガ数消費してるんだから。うるせえな。と俺が言った時。航が辺りを見渡した。

母さんが呼んでる。もう行かなきゃ。そうなの?うん。もう行かないと、俺も今日は卒業式だから。そっか。航も・・・。うん。と言うと、航は科章を俺に見せた。

俺も機械科だった。そっか。お前はきっと、そっちじゃ優秀だったんだろうな。父さんと一緒で。そんな訳ないだろ、父さんと一緒にするな。あいつはマジモンのキチガイだ。高校生の時に大学の内容があらかた頭に入っていて、その時の高校じゃやらなかった数学に悩んでたんだから。そんなの俺にできるわけがない。じいちゃんに言われたよ。お前は頭だけは父さんに似ないな、って。それに、勉強よりゲームとかやってる方が楽しいし。何か俺とあまり変わらない。航って意外と普通なのかもしれない。死んでいるということを除けば。

じゃあ、俺行くわ。うん。だけど航、一つだけいいか?

どうした?

母さんやじいちゃんって単語が出てきたってことは、お前は・・・ひとりでいるんじゃないんだな。母さんや、じいちゃんと一緒にいるんだな。

うん。

それなら良かった。このこと、先生に伝えてもいいか?

うん。あと、伝えるなら、今から言うことも一緒に伝えてほしい。俺は航から伝言を預かった。・・・じゃあ。決意を固めたように、航はギュッと唇を噛み締めた。

うん、またな。航は消えた。

黒川!耳元で剛が囁いて、俺の肩をグラグラ揺らした。もう退場だぞ。え、まじで?!前を見ると、座っている列の順番に、みんなが続々と立ち上がって移動を始めていた。列を乱してはいけない。慌てて立ち上がって、退場の列に続いた。出口の近くでは、せつなや東崎や水谷、その他の先生たちが花道を作って拍手して、俺たちを祝ってくれた。せつなは今日は黒いワンピースにジャケットを着て、白いすずらんのブローチを付けていた。黒いワンピースに長い茶色の髪が映えて、すごくきれいだ。颯太が後で騒ぐな。

でも、その花道の中に伊丹先生はいなかった。一体、どこにいるんだろう?ってか、先生、今日、学校に来てる?


最後のクラスホームルームを終えてから、俺は颯太や剛、優樹と別れて機械科の職員室に向かった。今日が最後なのに、先生に会わずに帰るなんて何か嫌だったから。

ちなみに、颯太や剛や優樹とは、後でJR岐阜駅のスターバックスで落ち合って、一緒にフラペチーノを飲む約束をした。卒業旅行に行く金は無いから、せめてスタバで各々の好きなものを飲もう、という颯太からの提案だった。

機械科職員室前に着いて、恐る恐る職員室のドアをノックすると、はい、どうぞ。中から聞き覚えのある声がした。良かった、先生はいる。ホッと胸を撫で下ろした。ドアを開けると、先生はグレーのスーツ姿でデスクに座って、昼ごはんを食べていた。弁当箱の横には、入院していた時によく買って食べていたシュークリームが置いてあった。多分好きなんだろう。

クラスと名前を名乗って、伊丹先生に用があって来ました。入室してもよろしいでしょうか?

今食事しておりますので、しばらくお待ちください。まあ、見て分かってたけどさ・・・。

失礼しました。と言って俺はドアを閉めた。ちくしょう、腹減ったよ。俺はまだ朝食から先、何も食べてないんだ。バタートースト1枚とブラックコーヒー1杯。トーストだけで半日持つわけないじゃないか。それに先生、何か美味そうなもの食ってたな。しかもそこにシュークリームって、先生意外と贅沢だ。空きっ腹を抱え、俺は職員室の壁に寄りかかって天井を仰いだ。すると、黒川じゃん。せつなが階段を上がってきた。せつな。

どうしたの?また伊丹先生?

うん。

好きだね、あんた。でもそうか。一番お世話になったし、名残惜しいよね。まあ、そんな感じ。でも先生は今お昼らしくて。それで待ってるってことか。そうそう。ふと俺は思い立って、せつなに言った。せつな、あのさ。うん。俺は床に置いたリュックサックから、昨日配布されたばかりの卒業アルバムとペンを取り出した。

卒アルに、何か書いてよ。は?取り敢えず世話になったし、何かコメントとかメッセとか。何それ、何だよ取り敢えず世話になった、って、何から目線よ。せつなは苦笑いすると、卒アルとペンを受け取って、職員室の向かい側の部屋の机の上に広げた。

んー、いきなり言われてもなー。しばらく考え込んだ末、せつなはある言葉を書き始めた。

勇猛精進。できない理由を探すより、できると決めて動け。失敗は敗北ではない、前進している証。本当の敗北とは、失敗を恐れて何もしないこと。だから自信を持って、前を向きなさい。

そして最後に、牧口刹那、と書いた。

せつな、お前、名前漢字だったの?そうだよ、本名はね。本名?

アタシの名前、何かキラキラネームにありそうで変じゃん。子どもの頃はそれが原因でいじめられたし。だからひらがなにして隠してたの。まあ、職員間の書類とかでは漢字表記にしてたけど。

別にひらがなじゃなくても良くね?刹那って、何かかっこいいじゃん。全然普通だと思うんだけど。

そう?そんなこと言ってくれる人、あんまりいないな。まあ・・・元を辿れば刹那って単語は結構真面目で、仏教用語から来てるんだけどね。

仏教用語?そ。刹那って、仏教用語で「一瞬」を表すの。アタシ、生まれた時未熟児でさ、母子ともに危険な状態だったの。生まれて3日生きられるか分からないくらいの。だけどその時、アタシの親類が熱心な仏法信者で、必死に祈ってくれたの。そうしたら、周りの者たちもみんなその迫力に圧倒されて、みんなで祈ってくれてね。それで今に至る。母も未だ健在よ。でも、人ってまたいつ死ぬか分からないじゃない。あんたと話してるこの間にだって、私は突然死ぬかもしれない。あんたもそうかもしれないけど。それで、と言うと、せつなは、コホン、と咳払いした。

仏法には、「臨終只今にあり」という言葉があるの。自分は、いつ死んでも幸せだった、悔いはない、もうやり残したことはないって確信できる生き方をしなさいって意味でさ。だから、その「臨終只今にあり」って思いで、生きている一瞬一瞬を全うしてほしい、そう思って、親類や両親は、アタシを刹那って名付けたのよ。

意外と深かった。まあ、この意味をすぐ掴み取ってくれたのは・・・伊丹先生だけどね。え、先生が?

そうだよ。初めて会った時、名前を見て、アタシの名前の由来についての話になって、その時に。

さすがは信仰者だよねー、とせつなは言った。おかげで初対面でした話がなぜかアタシには全く縁のない仏法の話になっちゃって。本当は今後の仕事のこととか、お互いの経歴とかもっと違うことを話さなきゃいけなかった気がするんだけど。

縁のない?うん、アタシは仏法信仰してないから。そうなんだ。やってるのは親類だけ。でも最近は疎遠だから未だやってるかどうかなんて知らないけどね。

そっか。うん。でも・・・アタシそのうちやるかも。えっ?

伊丹先生。あの人にすごく惹かれたから。惹かれた?うん。アタシね、先生が復帰してまた機械科で仕事しだしてからしばらく経ったある日、急に先生に声をかけられたの。

それで、誰も居ない空き教室に連れて行かれて、それでどうなったと思う?

分からない。

先生、いきなりアタシに土下座したの。今まで申し訳なかった、って。今まで、アタシに冷たい態度を取ったり、当たり散らしたり、聞かれたことについてちゃんと答えなかったことを侘びたいって。それで、今後はアタシのことをサポートしたい。アタシのことを指導させてくれってお願いされたの。それからはすごかった。もうね、自分の持っているものをすべて差し出すってこういうことなのかな、ってくらい。命がけでアタシに色んなこと教えてくれた。

それじゃあ、あの時一緒に居たのって・・・。俺はせつなに聞いた。俺さ、今までちょくちょくせつなが先生と一緒にいるところを見てたんだ。それって・・・。

ああそれ?それは色んなこと教えてもらったり、話したりしてたんだ。変な意味じゃないよ。うん。だってあの人、亡くなってるけど奥さんいるじゃん。そんな人と恋愛なんてできないよ。確かに・・・好きだけど。やっぱりそうだったか。ん?

いや、お前、先生のこと好きそうにしてたから。バレてたか。恥ずかしそうにせつなは笑った。

バレバレ。でも、先生はお前のことどう見てるんだろ。さあねー、普通の後輩としか見てないんじゃね?亡くなったとはいえ、一番大事なのは奥さんでしょ。

うん。

じゃあ、黒川。と言うと、せつなは席を立った。あんたも卒業したんだし、これからは誰も守ってくれないよー、しっかりやんな。そう言うと、職員室に向かって歩き出そうとした。

待って、待ってせつな。

ん?まだ何かあるの?

せつな、せつなは・・・俺が卒業した後も、ここにいるの?ずっとここにいるの?

ううん、アタシは・・・。と言うと、せつなは節目がちになった。

来年度から、違う学校に行くことになったんだ。えっ?

アタシは3年間、この学校で非正規の教員、まあ「講師」って存在だったんだよね。でも、昨年やっと岐阜県の教員採用試験に受かってさ。受かった場合は、それまで勤めていた学校を出るのが習わしなの。だから今月限りでアタシも卒業。ついでに非正規からも卒業。まあ、やっと色々落ち着いたしね。

色々って?

アタシ、ぶっちゃけ恥ずかしいんだけど・・・パニック障害とうつ病持ちなのよ。前、アタシが実習とか色々、出られなかった時あったじゃん?その時はパニック発作が出てたのよ。

い、いやあ、申し訳ない。製図の課題をやっていた時、製図室に入るための手続きをしようと思って機械科職員室に行ったときのことを思い出した。長く下ろした茶髪の髪を触りながら、わざとらしく明るく振る舞ってたせつな。まあ、体調悪くなっちゃって。軽い貧血。貧血?うん。まあ、アタシだって一応、女だし。

あれは、パニック障害のせいだったのか。うん。たまーにね、フラッシュバックとかあるんだよね。まあ、ここ来る前の学校で、アタシすっげーいじめられたりパワハラ受けたりしてたし。高校出るまでもずっといじめられてたし。心の傷は、怪我のそれみたいに、上手く治らないね。まあ、ここの学校来てからだいぶ良くなったけど。

せつな・・・。何でなんだろう。何でこんなに、悲しいんだろう。寂しいんだろう。別れたくないんだろう。服装がいつもと違って、ちょっとおめかししてるだけじゃないか。いや、違う。そうじゃない。そういう類のものじゃない。きれいだからとかじゃない。もっと別の・・・、認めたくないけど・・・。俺は・・・。

せつなが好きなんだ。今まで散々悪口陰口言ってきたけど、今ここから、もうせつなに会えなくなると思うと、胸が痛い。いつも一緒に居たからなのか?工業高校特有の、男子ばっかの中に女子が少しいると可愛く見える工業病ってやつか?いや・・・違う。何だかんだ悪態吐きながらでも、一生懸命俺と向き合ってくれたこと。他の先生みたいに肩肘張ったり変に上から見下したりせず、ありのままの姿でいてくれたこと。そういったことが、俺はせつなに好感を持てた。それに、いつだって一緒にいた。それが急に失われるということが、悲しかった。それに・・・どんな姿であっても、せつなはきれいだ。でも、そのきれいなせつなが、名前の通り、一瞬で、刹那のうちに消えてしまう。繊細なガラス細工が砕け落ちるように。好きなのに。こんなに好きなのに。

黒川。せつなに呼ばれて俺はハッとした。大丈夫?何かぼーっとしちゃって、昨夜眠れなかったの?

そんな訳ないだろ。

まあ、黒川がぼーっとしてるのなんて、普段と一緒か。はあ?そんな訳ないだろ。ある意味いつもの黒川で良かった、安心した。

そんなことで安心するなよ。だって、ぼーっとしてるのがあんたの素顔じゃん。あんまりキメ顔されても引くだけだわ。

はあ?!もう前言撤回しよう。俺はやっぱりせつななんか好きじゃない。うぜえよこんな女。惚れそうになった俺が馬鹿だった。

でも、アタシは、自分が見てきた生徒の中でも、あんたが一番好きだったな。せつながつぶやいた。

えっ?

うん。せつなは頷いた。

せつな、俺さ・・・。うん。今の言葉、聞かなかったことにする。は?何それ。だって、それコンプライアンス的にまずいだろ。何がコンプライアンスよ。別にライクで好きだって言っただけじゃん。いや、さすがにそうであっても、教員ならもうちょっと頭使って言い換えるだろ。

何それ。人に思いを伝えるときはシンプルな方が良いでしょ。逆に色々匂わせる言葉使ったって、あんた絶対分かんないでしょ。言われたこともないくせに。

まじでウザい。そんなの、俺だって色々考えてるし勉強してるんだから、分かるときだってあるよ。

機械の勉強だけしてて、分かるもんか。せつながクスクス笑った。うるせーな。と俺が返した時。

黒川。やっと先生が現れた。用事というのは、一体何のことでしょうか?

あ、うん。ちょっと話したいことがあって・・・。と言うと、俺は席を立った。卒アルやらペンやらを床に置いたリュックに詰めて、リュックを背負った。

じゃあ、せつな。うん。アタシは今後、名古屋から岐阜に引っ越すから、またどこかでね。

そうか。うん。じゃあ、せいぜい頑張って。せつなは名残惜しいけど、いつまでもこうしていられない。けじめをつけよう。

せつなと別れて、俺は先生と機械科職員室のある棟から出て、昇降口につながる渡り廊下まで歩いた。


先生、先生って式出なかったの?はい、私は他の先生方と一緒に、警備や車の交通整理をしていましたから。

そっか。まあ、みんな、親とか車で来るもんね。左様でございます。それに、盗難や、車上荒らしなどもあってはなりませんし。世の中は物騒です。

ところで黒川。先生は歩みを止めた。用事というのは、一体何でしょうか?俺と向き合う。

卒業だから・・・最後挨拶に来たんだ。先生には、色々、めっちゃお世話になったから。

そうでしたか。うん。と言うと俺は先生をまっすぐに見た。先生、今までありがとう。

黒川。と言うと先生はそっと胸に手を当てた。普段はカーキ色やダークグレーの作業着の先生がスーツ姿って、何か斬新だ。

赤地に白い小さなドット柄のネクタイが、白いワイシャツやグレーのジャケットに映えてお洒落。

私こそ、あなたにお礼が言いたい。

お礼?

はい。私が入院している時、あなたが来てくれたことです。私はあの時、うつ病と肺の病を抱えて、生死の境を彷徨っていました。その時、あなたが訪ねてきてくれたことが、私にとって何よりの薬になったのです。あなたが来るたび、私は鼓舞されました。生きなければ、生きねばと。そして、生きるために何をすればいいかを考えるようになり、今に至ります。私はかつて、あなたの家に伺った時、駿に、「目が覚めた時に、駿がいてくれて良かった」と言いましたが、実はそれは嘘です。いや、完全に嘘というわけではありませんが、正直に言うと、私は、目が覚めた時、あなたが傍にいてくれたことが嬉しかったのです。

そっか。

ずっと、祈っていたんです。手術を受ける前に。私が受けた手術は、あの時の私の体力からして、十分耐えられるものではありませんでした。術中に死んでも、おかしくない状態だったのです。ですから、願いました。

もう一度あの時に戻してくれないだろうか。いや、時を戻さずともいい、ただ一目会わせてくれないだろうか。と。

私が倒れる直前、あなたは何度も職員室の私を訪ねて来てくれたのに、私は自分の忙しさや色んなストレスから、あなたを遠ざけてしまっていた。本当はあの時、駿のことなどを話したかったんではないですか?

先生が倒れる直前・・・。そうだったかな。よく覚えてないけど。

倒れてから、駿が私の家に来て、別居したと言っておりました。その前は何ヶ月にも渡ってお母様と喧嘩されていたそうですが。

うーん、よく分からない。覚えがない。ずっと遠い過去の話だからかな。全然記憶が出てこない。

ともあれ、私は、あなたを置き去りにして倒れてしまったことをずっと悔やんでいました。すると、ある時、夢にあなたが現れたのです。

俺が?はい。あなたの家で、一緒にピアノを弾きました。ラフマニノフピアノ協奏曲第2番を。その時、あなたに言われたのです。

先生は何をずっと祈ってきたの?長い間祈ったなら、叶ってたっておかしくないじゃん。幸せになっててもおかしくないじゃん。何で病気になっちゃったの?何で死にそうになって苦しまなきゃいけないの?

先生、本当に生きたいなら、本当にそう祈らなきゃ。死にたいなんて思っちゃだめだよ。だって、俺達先生がいなくなったらどうすればいいんだよ。

一緒に生きようよ、死んだらだめだよ、みんな悲しむよ!

その言葉って・・・、俺があの時言った言葉そのままだ!やっぱり、俺達は会ってたんだ、あの時。心と心は、繋がってたんだ。

あなたの言葉に、心が大きく揺さぶられ、温められました。私のことを必要としている人たちが、共に生きたいと思ってくれる人たちが実はいたことに気付かされて、私の中の何かが蘇っていく気がしました。どんな書物の文章より、どんなに世間で称賛されている偉人の指導より、あなたの言葉は私に響きました。あなたには、生命を救われました。

ありがとうございます。先生は俺に頭を下げた。ううん、救われたのは俺だってそうだ。俺も、何か変な夢をいっぱい見た。そこで、先生にすごく色んなことを教えてもらった。多分、普通に過ごしてたら気付けないことをいっぱい教えてもらったし、ちょっとのことじゃ諦めない力とか・・・付いた気がする。クスッと先生は笑った。そうですか?私には、1年生の時の黒川と、あまり大差ないように見えますが。いやいやいや、さすがにちょっとは成長したでしょ。何でもすぐに投げ出さなくなったし。

自分で成長した、と言っている間は、成長しているとは言えません。先生はきっぱりと言い切った。

えー、それじゃあ、どうすれば、俺は成長したって言ってもらえるの?

まず、言ってもらえる、と受け身になっている時点でだめだと思いますが。え、俺まだ受け身?はい、まだ十分に。

何だそれー、俺ちょっとは受け身を脱したと思ったんだけどな。まだだめか。

それが、宿命、宿業というものです。宿命というものは、ちょっとやそっとの努力では断ち切れませんからねえ。

じゃあ、どうやって断ち切るの?それは、あなたも仏道修行なさることが一番ですが、私は教員の身です。私の一存で、あなたを修行へと導くのは、すべきことではないと思います。しかし、宿命を断ち切る、という本質のみに着眼すれば、自分の宿命から逃げずに、その宿命を、どう活かすか、でしょうか。

宿命をどう活かすか。就職試験の際にもお話しましたが、短所は長所にもなりえます。とすれば・・・、といったところでしょうか。それに、一度ついてしまった歪みは、完璧には戻せません。鉄や金属などを変形させたときがそうでしょう?そうだね。ひずみが残る。

そのひずみを、どうやって活かすのか。自分だけの財産にするのか。その答えはすぐ形になって表せるものでしょうか?

いや、きっとそれはない。きっと、それを形で表しきった時が、成長できたって時なんだろうね。そうだと思います。

何か、先生に伝言を伝えに来たのに、すっかり先生のペースになっちゃった。これじゃあ、先生に何も伝えられない。どうしよう。

黒川、こんな感じでよろしいでしょうか?

ううん。先生、まだ、待って。俺、お礼も言いたかったけど、もう1個・・・伝言を伝えに来たんだ。

伝言、とは?

俺、さっき、先生の子どもの航に、会った。嘘じゃない、本当なんだ。航、めっちゃ先生に似てた。もう、コピペってくらい。それで、航が。

航が?先生はまた胸に手を当てる。

生きてくれてありがとうって。俺たちは、いつでも父さんと一緒にいる。だから、もう悲しまないで、自分の幸せのために生きてくれって。

航が、航がそんなことを・・・?うん。それにあいつは、先生の奥さんや父さんと一緒にいるってさ。先生みたいに頭が良くないから、先生の父さんに、よく叱られてるらしいよ。

航・・・。と言うと、先生は大笑いした。先生がこんなに笑ったのを見るのは初めてた。

親より先に息絶えたから、てっきり地獄へ落ちたかと心配していましたが、心配する必要はなかったようですね。そして、先生は俺を抱きしめた。

瑞貴、ありがとう。航と仲良くしてくれて。そっと髪を撫でられた。

成長しましたね。前は、私の片腕に収まるほどの大きさで、気も小さかったのに。

うるせえよ。怒らせるのは誰だよ。先生の腕を解いた。そういや先生、その夢の中で、めっちゃ意地悪だったよ。色々難題を出すわ、俺の読みたかった漫画はネタバレするわ、やりたい放題だったよ。

そうでしたか、それはそれは、失礼をば。絶対平謝りだ。

しかしながら、黒川が見た夢は、そんなにリアリティーのある夢だったんですねえ。うん、エグいくらいリアル。

私は意識を失っていましたから、何も存じ上げませんが・・・。もしそれが本当だったとしたら、私はきっと、別居した駿の代わりに、親になろうとしていたのかもしれないですね。

え、先生が親とか絶対無理。色々めんどくさそうだもん。先生は、ショボンと落ち込んだ。

ただ、もし、心と心が繋がっているのなら、私は嬉しい。え、どういうこと?

自分が生きている理由がいつでも確かめられるし、それに私は・・・。と言うと先生は俺を見つめた。

この教員という職を、辞することにしました。

え、先生、辞めちゃうの?

はい、実は復職した際、私の亡くなった父の研究を引き継いでいるとある大学の教授から、研究に加わってほしい、と声をかけられたのです。それに、この職は、病み上がりの私が勤めるには、まだ荒んでいる。パワハラやオーバーワークが絶えません。復職したからと言って、周りは、手加減してくれないようです。そのことも彼に話すと、すぐにそんな環境は出るように言われました。そんな荒んだ環境で、また病気になりたいかと言われました。生命ほど大切なものは人間にはありませんからねえ。さすがに病を経験した後は、私も生命を守ることに重きを置きました。それで、4月から私は、この生まれ育った岐阜を出て、東京に移ります。私は四年制大学を出たきりなので、まず始めは大学院生として大学で学びながら研究をし、その片手間、他の大学や専門学校、各研究所で客員講師として生計を立てると思います。ゆくゆくは、准教授からのスタートでしょう。

それってめっちゃハードじゃない?大丈夫?

大丈夫です、今までとは違います。もう畑違いの学科や実習に悩むことはありませんし、土日を潰す、目障りな部活もありません。本来私が活かすべき能力をフルに活用できる環境になるのですから、ハードなんて思うどころか、むしろ感謝しなければと思っています。

そっか・・・それならいいけど。東京に行くってことは、もう会えなくなっちゃうの?それなら、先生、連絡先とか・・・。

だめです!!俺が全て言い終わる前に、先生は言った。私は一教員です。連絡先を教えるなど言語道断です。このことで一体何人の教員がトラブルに巻き込まれ、職を失ったか。それに、そのトラブルは、あなたにだって振りかかってくるのですよ?

俺達、男同士じゃないか。それなのに、そんなトラブルなんか起きるわけないじゃん。今まで俺が何か生徒指導レベルで問題やらかしたことある?

それに、俺は先生が昔働いてた会社に行くんだよ?俺は、先生の後輩になるんだよ?学校だってもう卒業したじゃないか。

俺、就職しても、大人になっても、先生と色んなこと話したい。二十歳になったら一緒に飲みたいし、色んなこと教わりたい。研究室だって行ってみたい。俺高卒だから、大学なんか縁無いじゃん。いつか、先生が教授になって講義してるところとか、見てみたい。

人間の成長に、終わりはありませんからね・・・。先生は、空を仰いだ。

それでは、私の連絡先は、駿から聞いてください。しかし、4月1日以降から、ですよ。3月が終わるまでは、あなたはまだ高校生ですからね。

運転免許証じゃあるまいし・・・。俺はため息をついた。でも、禁を破って、私は、教えても良い、と、渋々許可を出したのですが。

あーもうウザい。すぐ俺がしてやったみたいに言う。意外と先生も変わってないぞ。

はいはい分かりました。父さんに来月聞きます。ブスッとした口調で俺は返した。

まったく、素直じゃないんだから。だーかーらー、と俺は突っ込む。

そのオネエ口調やめろって。学生とかみんな引くよ?あの先生キモいって。せっかく良い環境に行くのに、自分で環境を壊すなよ。それじゃあまた同じになるよ?

あらまあ、失礼をば・・・。先生は恥ずかしそうに頬に手をやる。

ともかく、俺は、伝言を伝えに来た。それと、最後の学年を、先生と一緒に居られてよかった。それだけ。

そう言ってくれると・・・。先生は微笑んだ。

そういや、先生。東京行くならせつなとはどうなるの?結構仲良かったじゃん。

牧口先生ですか?うん。

大丈夫です。彼女と私は、久遠の絆で結ばれていますから。一度交わした友好の誓いを、師弟の誓いを、放棄することは絶対にありません。東京に行ってからも、友好を築こうと思っております。

なーんだ先生、せつなと仲良いから、てっきり付き合ってるのかと思ったよ。先生が好きと言ったせつな。何かわからないけど、冷やかしというか、嫉妬というか。

皮肉たっぷりに言った。その瞬間、先生がクスッと笑った。実は・・・。えっ?

そんな訳ないでしょう。彼女はまだ20代ですし、私には霊山に待つ妻がおります。若い彼女を、こんな老いぼれのもとに嫁がせることなんてできませんよ。

なーんだ。私にとって、牧口先生は、娘とも言うべき存在です。娘は大事に育んでいこうと思っております、それだけです。

先生はまた、空を仰いだ。空は、薄い水色。そこに、一本、スッとまっすぐ筆を滑らせたように、のびやかに、雲がたなびいていた。風は穏やかで、太陽の光もきつくなかった。あの時と同じように、やさしく先生を包んでいた。

黒川。私は、生き残った。生き残ったから、生き続けます。亡き妻や航のために。そして、あなたのために。

俺のためじゃなくて、先生は先生のために生きなきゃ。航が言ったじゃないか。

そういえば、そうでしたね。

先生、生きてね。長生きしてね。俺、いっぱい先生に連絡する。東京だって行くし、どこへでも会いに行く。だから、生きてね。

そう言ってくれると・・・。先生は微笑んだ。

そう言われると、まだ死ねませんね。あなたという青年の指導者を、我が心に抱いて、生きれるだけ生きてみようと思います。

うん。と俺は頷いた。そろそろ、お別れの時間かな。

俺は、先生の顔をじっと見つめた。すると、先生も俺のことを見つめた。

先生。何か・・・つらい。だって、先生は、まるで今にも消えそうな感じがしたからだ。やさしい光に包まれて、このままどこか遠くに行ってしまいそうな、そんな気がする。

先生、行かないで。俺は涙ながらに言う。黒川、何をおっしゃいますか。私はここにいますよ、ちゃんと生きているではありませんか。ギュッと強く抱きしめられた。

首に締めたネクタイの感覚、からの、痩せて骨ばった頬や顎の感覚。肩に当たる手の温もり。それは、生きている人間の温もりだ。髪を撫でる手の感覚に、俺は涙が溢れた。

先生、行かないで。死なないで。これからも、いっぱい会ってくれ。はい、勿論でございます。私は、生きております。

前は先生が号泣したけど、今度は俺が号泣する番だ。俺は、プライドも年齢も学年も捨てて、ただ声を上げて泣いた。どんなにまた会える、って分かっていても、別れはつらい。ずっと一緒にいたい。別れたくない。

黒川。泣きまくる俺の背中をさすりながら、先生は言った。

そろそろ、在校生たちの成績会議が始まるので、泣くのをやめてもらってよろしいでしょうか?

え、ここで仕事の話持ち出すか?俺の中で、急に何かが冷めて、俺は先生の腕の中から離れた。

せっかく良いところなのに、雰囲気ぶち壊しじゃないか。そういうところ直せよ・・・。

すみません、なにぶん、退職まで仕事が色々ありまして。それに、あなたを待つお友達もいるのではないですか?

そういえばそうだった。きっとみんな、フラペチーノなんか飲み終わってしまっているかもしれない。みんなにブチギレられるかもしれない。

かつて、先生に消されそうになった友達、に。

あまりの変化球な言動だったから、もはや一体何が本当の先生の感情なのか、よく分からないけど・・・。そっか、それじゃあ俺帰るわ。また連絡する。

お待ちしております。先生は言った。

先生、大丈夫だよ。それくらい忘れないから。安心して仕事頑張ってね。

言い方が悪いですねえ、皮肉とも捉えられますが。そりゃそうだろ、空気ぶち壊されたんだから。

まったく、と俺はため息をついた。

では、また。と先生は手を上げた。

先生、大丈夫だよ。はい、頼みますよ。

再び、強く、硬く抱擁を交わして、俺は最寄り駅に向かった。

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lost answer 結井 凜香 @yuirin0623

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