第9話 答え合わせ

最後の課題です。私を見つけて下さい。

その課題に俺は絶句した。見つける?どういうこと?今、先生はここにいるやろ。

今あなたが見ている私は、私の心です。私の身ではありません。手首を掴んだ時に冷たかったのも、桜山や牧口先生には姿が見えなかったのも、急に消えたのも、全ては私の心だったからです。怒ったときも?旋盤事件のとき…。あの時も?ええ。まああの時は命がけでしたが…。確かに、あの時は気迫が違った。このままじゃだめだ!という気持ちや、心のもっと奥深くの命で怒っている気がしたからだ。怖かった。だって、そうしないと絶対分からないと思ったもん。演技だったの?演技ではありません。嘘は付きたくないからね。先生、じゃあ先生はいつも俺のこと見ててくれたんだね。ええ、見ておりました。課題の出題者としての責務です。何だか、申し訳ないよ。いいえ、お気遣いなく。それより早く見つけてもらねば…、私の命もリミットを迎えます。え、何それ?待って、先生死んじゃうの?それじゃあ俺の決意は、あの一念は何だったの?裏切りじゃねーかそんなの!決意したからといって、そんなにやすやすと世界は変わりません!鋭い一喝だった。確かに変わるためには決意が必要です。しかしその決意や進み方が正しければ正しいほど魔は競い起こる。それに打ち勝って初めて世界は変わるのです。勿論、改心させて頂いた私だって死にたくはない。病に対して、こんなに私を襲うのかと怒りがにじみ出る。良くなったかと思えば途端に叩き潰す。そんな苦痛をいつまでも味わいたくはないし、まだ信心しきれていないのに死ねるかと憎悪で満ちています。あなたにすがりはしない。しかし、これはあなたの戦いです。私も戦います。今日の日没までに見つけてください。

あ、そうだ。と先生は思い出したように言った。ヒントを与えましょう。難しくてリミットもあるから。

ヒント?

いつぞやの夢を思い出してください。怖い思いをさせてしまって、申し訳ありませんでした。怖かったでしょう。

首を傾げる俺に、先生はそっと俺の額に人差し指を当てて、言った。思い出しなさい。

消えた。

いつぞやの夢?怖い思い?何だったかな。訳がわからないが、とりあえず探しに行くため俺は外に行く支度をして外に出た。

外は冷えていて寒かった。街路樹の葉っぱはすっかり枯れて道に落ちていた。空は晴れていても冬の雲が流れていて、太陽はすぐに陰る。

最寄りのバス停に行って、JR岐阜駅までとりあえず向かった。学校にいるかもしれないと思ったからだ。

どこにいるんだ?岐阜駅に着いてから、俺は辺りを見渡しながらJRに乗るために歩いた。変な人と思われたら嫌だけど。

改札口の前に立って、改札口を通ろうと定期券を出した、その時だった。スマホのバイブがなった。LINE?

見ると、優樹だった。黒川、今起きてる?起きてるってお前今は11時だぞ。お前くらいだよ、昼まで寝てるのは。

実際、颯太は遊ぶけどバイトもやっているから、かなりの早寝早起きなのだ。

剛もネット中毒だけど、あいつはジャズピアノを習っているから朝は起きている。優樹は徹夜でゲームをするのがよくあるから、起きるのは遅かった。

どうしたの?やべえ夢を見たんだ。マジで怖え。どんな夢?伊丹先生が、死にかけながら俺に言うんだ。助けてやってくれって。

優樹、今すぐ学校に来い。いや…、名鉄岐阜駅まで来てくれ。その先生から最後の課題が出たんだ。俺はレスを打った。

マジで?!すぐに行く!そのレスが俺には嬉しかった。独りじゃない、ということがどれだけ心強いか。

LINEのやり取りは続いた。優樹が名鉄での移動の間、レスを送ってくれた。課題は何?先生を見つけなきゃいけない。日没までに。お前、日没って今はまだ冬至前だから日が暮れるのが早いぞ。

17時くらいまでに見つけなきゃいけない。時間はないぞ。マジかよ、そんなところから考察が入るのかよ。

ヒントとかある?それが、いつぞやの夢を思い出せって言うんだ。夢?うん。怖い夢らしい。

悪夢か…。悪夢はその人が見せているものでもあるからな。夢を使って見せていることもある。正夢ってやつかな、うん。さすが厨二病。

お前、最近悪夢見た?悪夢?うーん。俺はスマホを見るのをやめて、じっと前を見た。商店街を行き交う人々。バスが次々と停まっては進み、停まっては進んだ。

いつもと変わらない岐阜の風景。ふう、悪夢か…。空を見上げた。

初冬らしい、ちょっと暗い青空。雲が忙しく流れて、太陽はすぐ隠れる。

流れ…。声を上げたとき、冷たい手が俺の手を力いっぱい掴む感覚、そして…。眠ったままの先生。

あっ…。思い出した。病院のベッドで眠ったままの先生。体全体で息をしていて、生きようともがく。苦しそうに呻き、俺の手を何かにすがるように強く掴む。

先生、しっかりしてよ!

そうだ、先生は病院にいるんだ。病院で病気と闘ってる。きっと今も。じゃあどこの病院?あれは、俺が生まれたときの先生の回想のあとだったから、俺が生まれた病院だ。

俺ってどこで生まれたんだっけ?そうだ。高1の冬に一度肺炎で入院した。その時、母さんが言ってた。ここは瑞貴が生まれた病院なのよ。懐かしいわねって。

ということは…。思い出した!分かった!俺は先生がいる病院が分かった。忠節橋から見える大きな病院。俺は前、あの病院に入院していた。そうだ、情報技術検定が終わったあと、俺は風邪を引いたんだけどなかなか治らなかった。その時かかった病院で検査したら、肺炎って言われて入院した。あの病院だったんだ、優樹、分かったよ!

けど…今優樹は犬山から岐阜まで来てくれている最中だ。やっぱりごめんなんて言えない…あんなに世話をかけたのに。ここは俺の誠意だ。直接会って話そう。

しばらく俺は優樹を待ち続けた。スマートフォンでTwitterを見ていた。でも、ただ見てたんじゃない。せつながおすすめしてくれた航空機系のニュースサイトや自動車のニュースサイトのアカウントや、日刊工業新聞のアカウントを見て、気になる記事を読んだ。オンラインでだけど、新聞を読むようになった。そして、分からない用語もすぐ調べた。スマートフォンをゲームや音楽プレイヤーとして使うんじゃなくて、検索にも使う。俺、だいぶオトナな使い方をするようになったな。

優樹、まだかな。大丈夫かな。と思ったときだった。

お待たせ。優樹が来た。優樹、ありがとう。黒川、大丈夫か?問題は分かるのか?

ああ、実はさっき解けた。あとは行くだけ。い、行くだけ?行くだけなのか?俺は身構えた。俺が移動してる間に解けたのかよ、とつっこまれそうな気がしたからだ。

がしかし。何でお前行かないんだよ、早く行けよ。優樹の反応は違った。

え?答え分かったなら早く行けよ。リミットあるんだろ?間に合わなかったら先生はおろか俺まで記憶消されちゃうじゃないか。消される身にもなれよ!

行って良かったの?良いに決まってるだろ!連絡さえくれたら俺だって帰るよ。だって、リミットあるだろ?それなのに待たせちゃ足手まといだ。優樹…。なんだか申し訳ない。俺、待ってたのはさ。お前に直接、分かったよ、ありがとうって言いたかったんだ。優樹は笑った。

黒川が俺にそんなことを?笑わせてくれるな。思い切り肩を叩かれた。俺への礼は後ででいい。期限あるならそっち優先、まずは全て終わってから。だろ?

伊丹先生も、物事を終わらせるときはまずは期限を鑑みなさいって言ってたぞ。

黒川。優樹が言った。行け。お前の記憶で、先生を助けてやってくれ。俺たちを助けてくれ。頼むぞ。うん。力いっぱい俺は頷き、ありがとう。と言ってバス停へ走った。忠節へ行くバスに乗って忠節橋まで行き、そこから病院に行けばいい。良かった、ギリギリでちょうどバスが来た。飛び乗って、病院へ向かった。

頼む、先生、生きててくれ。まだ死なないでくれ。俺たちを置いて行かないでくれ。涙がこみ上げそうになる。あんなに病気に蝕まれても命がけで会いに来てくれて、俺にいろんなこと教えてくれて、叱ってくれて。ピアノも連弾した。仏法を教えてくれて、俺は少し頑張れるようになった。

あんなにいい先生が死ぬなんて。何で先生が死ななきゃいけないんだ。あんなに苦しそうに…。バスは派手な通りを抜けて古い商店街を通り、やがて長良川にかかる大きなアーチ状の鉄橋に差し掛かった。忠節橋だ。止まるのボタンを押して、忠節橋で降りた。長良川沿いにある病院に走る。

先生、あと少し、あと少しだ。痛いのも苦しいの、もう終わるよ。航、航の母さん、まだ先生を連れて行かないで。俺、俺の友達もせつなも、みんなまだ先生のこと必要なんだ。寂しいかもしれないけど、俺達だって寂しいんだ。まだ一緒にいたいんだ。勉強も、遊びも、ピアノも、仏法も、教わりたい。だからごめん。航、まだ迎えに来ないで。先生、行かないで。俺は、前に俺が入院していた病棟へ走った。入院していたフロアに向かう。何かよくわからないけど、俺には先生がかつて俺が入院してたフロアにいそうな気がした。カンだけど。先生、先生。俺が入院してた部屋…。人違いじゃありませんように、と祈りながらドアを開けた。俺は息を飲んだ。だってそこには…夢で見たままの、意識のない先生がベッドにいたからだ。医師や看護師が懸命に治療していた。血圧や心拍数が、ブレーキをかけるように落ちていた。医師が注射を打つ。腕にはたくさん点滴針の跡があって痛々しかった。酸素マスクもしていて、命の危機を感じた。人って、死ぬ時こんなに苦しい思いして死んでいくのか…?

顔色は青ざめていて、生気がなかった。頬がげっそりとこけていた。何で…例え死にたいと祈っていてもこんな無残な死に方はないよ。死魔に囚われると人はこんなに落ちていくのか?あんなに傷ついて、今も病気になって死にかけて…祈り方を誤るとここまで落ちるのか?それって酷すぎじゃないか?と思ったときだった。

息子さん?声がした。前を見ると、医師が立っていた。お父さんが危ないから来たのかな?あ、はい。嘘をついた。お父さん、手術をしても容態が良くならなくてね。

精神的なものもあるかもしれない。家族もなく一人で入院されてたから。一緒にいてあげてくれないか?

はい、勿論です。というと、俺は先生のベッドサイドにある椅子に座って、先生の手を取った。冷たい。こんなに冷たくなって、痩せちゃって。なのに心は…。

漫画の取り合いしたり、せつなのことで口喧嘩したり、学校まで迎えに来たり、俺の部屋のベッドでいびきかいて寝てたり。あんなに自由奔放だったのに。

先生。苦笑いした。見つけたよ。課題、クリアだよね?

その瞬間。ブレーキをかけるように落ちていた心拍数や血圧が上がり始めた。徐々に落ち着きを取り戻してきた。

すごい…奇跡だ。もうだめだと思ったんだが…。呼吸も落ち着いてきた。落ち着いてきたね。息子さんが来てくれたからかな。

確かに、顔色も少し良くなってきた。このまま落ち着いてくれればいいんだけど。医師がまた診察に入ったので、俺はその場をどこうとした。が、医師は言った。

君が側にいるから落ち着いたんだと思う。どかなくていいから、この場にいてあげて。

俺は先生の手を取りながら、診察を見届けた。さっきより顔の表情も穏やかになってきている。良かった、先生は死なずにすむ。きっと元気になるよね。

こんなに落ち着いたんだもん。俺も顔がほころんだ。うん、落ち着いてるね。このまま状態が良くなってくれれば本当に奇跡。いや、今も奇跡だけどね。

医師は笑った。そうか、先生も祈りが変わったから、奇跡が起こったんだ。地獄の苦しみぱっと消えてってこのことか。いかなる病さはりをなすべきやとも言うよね。

先生は自分で実証を示したんだ!すごいね、先生。黒川。聞き慣れた声がして振り返った。

先生。笑みが溢れた。無事、すべての課題クリアです。おつかれさまでした。先生もおつかれさま。

あなたには骨が折れましたよ。俺も先生には骨が折れたよ。二人で笑った。

先生はこれから元気になるよね?ええ、なりますとも。必ずや回復するでしょう。早く、良くなってね。ありがとうございます。消えた。

先生、もう大丈夫だよね。へへへ、また馬鹿な話しよう。医師が去ったあとも俺はしばらく先生のそばにいて、先生の手を取りながら優樹や颯太、剛にLINEした。

先生助かったよ。お前の記憶もなくならない。全部終わったよ、ありがとう。と。


せつなにも礼を言わなきゃな。不思議なもので、俺はそんなことも考えられるようになった。


翌日も俺は学校帰りに病院へ行った。部屋に行くと先生はまだ眠ったままの状態だったけど、昨日より顔色も呼吸も良くなってて、落ち着いていた。酸素マスクも外れていた。

驚異的な回復だよ、と先生を診察しながら医師は言った。家族の力ってすごいもんだね。はい。

本当に人の力ってすごい。人の温もりってすごい。ねえ。医師が去ったあとも俺はまた先生の手を取りながら横に座っていた。

何だか、父さんといるみたいだ。本物の父さんはどこにいるか分からないけど…。と思ったときだった。

先生が目を開けた。先生?俺は声をかけた。先生、分かる?俺だよ、機械科2年の、黒川です。黒川瑞貴です。

声にならない声がかすかに聞こえた。先生が手を強く掴む。あのときのような怖いくらいの力ではないけど。く、黒、川?かすかに聞こえる。

はい。黒川です。先生はじっと俺を見つめた。


黒川。なぜあなたはここにいるんですか?


え?


固まった。

先生、覚えてないの?俺、先生に呼ばれたから来たんですけど…。

呼ばれた?ほお。私が、そんなことを?何かの間違いでは?

おい出題者。俺を散々苦しめてこのザマかよ。助けなきゃよかった、かも…。

それにしても不思議ですねえ。居場所を教えたわけでもないのにあなたが来るなんて。妙法だったとしても不思議だ。

妙法だから、だよ。俺は言った。

ふむ。妙法だから、ですか。先生は大きく息を吐いた。

それより黒川、勉強は如何かな。今だ。恨みを果たすなら、今ここで果たしてやる。

最悪。だって俺、設計や原動機で8割取れって言われてさあ。誰に?先生だよ。私が?うん、先生が。おかげで1年分は勉強したよ。

何をおっしゃいますか。勉強は学生の義務でございます。学校は部活や遊びをやるところではありません。勉強するところです。

勉強できたならいいじゃないですか。今はりとか熱力やってるけど割と余裕。ならばよろしい。実習は?製図は?

旋盤技能士3級もやったよ。優樹と。優樹って東山優樹のことね。体ぼっろぼろ。力も神経も使ったよ。ある程度旋盤できるようになれたけど。

できるようになれたならいい。できないよりはできた方がいい。挑戦できているならいいのです。先生は頷きながら言った。

まあ欲を言えば、そんなのは1年生でもできる技量ですがね。ひでえな。病人なのに言うことがえげつない。

病気で弱ってるのに頭はしっかりしてんだな。ええ、私に唯一欠けているものは、健康な体と言いますか、人並みの体力でしょう。幼い時から私はあまり体が丈夫ではなかったので。そうなの?ええ、ですから私はいつも家でプラモデルなどのものづくりや、ピアノを弾いたりクラシック音楽を聴いて過ごしていました。

めっちゃいいとこのお坊っちゃんやん。そうですかねぇ、私の家は、父が東京の大学の教員でしたがそんなに裕福ではありませんでしたよ?母も働いていましたし。

お母さんも働いてたんだ。ええ、英語の翻訳者でした。家にはいつも母と私の2人しかおりませんでした。きょうだいは?

私にはきょうだいはおりません。一人っ子でした。じゃあ、いつも独りだったんだ。いいえ、私にはたった1人、親友がおりました。私が幼いときに通っていたピアノ教室の先生の息子の、黒川駿(くろかわしゅん)という親友が。黒川駿って、それ俺の…。お父様ですよ。先生は言った。

あなたのお父様と私は幼い頃から共にクラシックピアノを習う仲でした。駿は誰よりもピアノが上手くて、誰よりもピアノを頑張っていた。

私も、ものづくりをよく駿に褒められたものだ。プラモデルが完成する度に私は駿に見せに行った。駿はプラモデルの完成をいつも喜んでくれた。

その彼と私は、高校に進学するとき、分岐点に立った。私は岐阜市内の工業高校の機械科へ、駿は京都にある音楽の名門高校、帝聖学院高校のピアノ専攻へ進んだ。

でも、時々会って、ピアノを弾いたり学校のことを話した。クラシック音楽を語り合った。私は高校に上がっても友達がいなかったから、彼の存在はとてもありがたかった。

ところが、高校2年生になってしばらく経ったある時、父が東京から急に岐阜に帰ってきました。最初は何事かと思っていたら、大学を変わったと言うんです。岐阜の大学へ。でも、それは後に偽りだと分かりました。母が、父のいない時に私にこそっと話したのです。父は病気で岐阜に帰ってきたのだと。そして、父の病が悪化するのに時間はかからなかった。父は入院しました。でも、病床で病に侵されながら機械設計や原動機、機械工作や時には技術者倫理を教えてくれた。

物理や数学も教えてくれた。工業高校では高度な数学などやりませんからねぇ…。ふぅ、と息を吐いて、先生は目を閉じた。疲れちゃったかな。

その後は思い出したくない。でも、忘れられない。私が高校3年生に上がろうとしていた時です。雪が降る寒い夕方でした。

私も父と同じ大学に入り、親子で機械工学の研究をしたいと夢を持つようになったその時、父は容態が悪くなって、亡くなりました。悲しくて、しばらくは勉強などできなかった。教科書も見れなかった。本や雑誌さえも。そんな時、駿は自分のピアノコンクールを辞退して岐阜に来てくれた。大学に進学するために必要なコンクールだったのに、彼はそれをかなぐり捨て、私の家に来てくれた。

亮、大丈夫かい?駿のその言葉に、私はただただ泣きました。駿は肩を抱いてくれた。

そして、駿は私に最高のプレゼントをくれた。帝聖学院の創立に深く関わる日本最高峰のオーケストラ、Nフィルハーモニー交響楽団の楽長、二階堂良一に会わせてくれたのです。母のすすめもあって、私は何もすることのない春休みを京都の学院キャンパスで過ごしました。その時お会いしました。

まだ楽長になって間もないイチさんは、学院から送られた駿の手紙を見て、何とかしなければと思ったそうです。そこで、駿から思いつきで提案がありました。

父への追悼として、父が好きだったラフマニノフピアノ協奏曲第2番と第3番、パガニーニのための狂詩曲をNフィルとやってみてはどうかと。

イチさんは大賛成してくださいました。そしてその演奏を、学院の生徒向けのコンサートにして学院の講堂でスプリングコンサートを企画してくれたのです。

私は無我夢中で練習しました。悲しみをすべてピアノへぶつけて、キーを叩き続けた。イチさんも答えるように、懸命に練習に付き合ってくれた。

そして父の四十九日法要の直前に、スプリングコンサートの本番の日が来ました。私はすべてをピアノにぶつけた。命をぶつけ、悲しみをぶつけた。オーケストラはそれに寄り添ってくれた。肩を抱き、暖かく包み込むように私のピアノを受け止めてくれた。すべてが終わると、万雷の拍手の中、イチさんは私を抱きしめてくれた。

素晴らしかったよ、君の思いは必ずやお父さんに伝わってる。だから、生きなさい。お父さんの無念を晴らしなさい。と。

その言葉もありがたかったけど、その後のアンコールで弾いたラフマニノフピアノ前奏曲ト長調も大いに拍手してもらえた。イチさんにステージ上で私の演奏を聞いてもらえた。そして、イチさんは私のアンコールのあと、ステージ上で私に言った。今から、君が一番好きな曲を演奏するからね。と。

ステージ上に椅子が置かれ、私はそこに座らされた。イチさんが指揮台に再び立った。そして演奏は…チャイコフスキー交響曲第6番悲愴。私が一番好きな曲です。

それを間近で、生で聴けるなんて。あの時間、あの旋律を私は忘れません。第3楽章のあの迫力に私は自分の命が蘇ったのを感じました。

そうだ、生きねば。生きなければ!と強く鼓舞されました。イチさんや駿には心から敬意と感謝を表します。その後今もイチさんと私はつながっておりますから。

そうなの?ええ、彼と私は今でも連絡を取り合っております。駿やイチさんに支えられ、私は父の大学に合格しました。駿は、私にとって命の恩人です。彼は私がどんなことをしても味方になってくれた。切迫早産で妻と子どもをいっぺんに失ったときも一緒に泣いてくれた。まるで自分のことのように泣いていた姿が忘れられません。冷たくなった息子を我が子のように抱いてくれたのも。息子?ええ、亡くなった子どもは男の子だったんですよ。切迫早産と生まれるときに重症をおって、たった2日、産み終えた母を追うように亡くなってしまった。名前とかあった?あ、さすがに名前は早かった、かな。いいえ、ありましたよ。航、と名付ける予定でした。男の子だったら航、女の子だったら咲と名付けようと妻と約束していたんです。でも、航は自分の名前を知る前に行ってしまった。ふう、とため息をついて、先生はまた目を閉じる。あの時はすべてが絶望的だった。何も見えなくなって、駿には迷惑をかけました。そんな時、他の友人が私に仏法の話をしてくれてね、一緒に仏法の世界に行かないかと言うんです。

ここで死んだらだめだ。嫁さんや航が死んでもお前は生きなければならない。生き残ったのには意味がある。理由がある。使命がある。宿命転換して生きなきゃみんな悲しむよって。彼の励ましに藁にもすがる思いで折伏にのりました。あれ?この話、前ピアノ連弾やった時に聞いた、けど、宿命転換して生きなきゃって、俺が言う前にその友達が言ってたんだ!じゃあ、あの時先生があんなに号泣したのは、そのことを思い出したのかもしれない。ということは、先生も忘れてたんだ。俺が、目の前の苦しみに押しつぶされた原点を引っ張り出したのかもしれない。

先生は、その後も途中で休みながら、次々に話を進めた。病気なのによくしゃべるなこのおっさん、と俺はちょっと疲れてきたけど、話を聞き続けた。

仏法の世界の規定で、母や駿に仏法の世界に入ることについて許しを乞いました。母は猛反対でしたので今は疎遠になっておりますが…、駿は快く許してくれた。亮が生きてくれるならって。御本尊の前で、私が生きるために一緒に祈ってくれた。そんな我が盟友の息子が、私の教え子になるなんて…夢にも思っていなかった。生まれたとき、ぐずりもせず私の腕の中で大人しくしていたあなたが、ねぇ。私は、あの1年生の旋盤実習で、あなたと初めてお会いしたとき、はっきりと自分の使命を自覚しました。この子をこの学校で育て上げることが私の使命なのだと。だから生き残った。苦労もありましたが、題目を必死で上げました。あなたのためにね。ありがとう。俺は笑った。

先生、忘れたらだめだよ。先生が仏法を始めたのは生きるためなんだよね?

ええ。でも不思議なんです。なぜ生きようと思ったのか。あのときの私は、死にたいとばかり思っていたのに。なぜか生きたい、と、生きなければ、と思えたんですよ。生きがいを奪われ、希望もないのに。生かされている。生きようと思えている。死ねるなら今すぐにでも死にたいのにね。

先生、それは俺が困る。え?俺、まだたくさん先生に教わりたいことがある。勉強も、実習も製図も、仏法も、ピアノも、それ以外にもたくさん。

ほう、そうですか…。そんなに私に教えを乞いますか。優樹も、颯太も剛も教えて欲しいって言ってる。せつなも寂しそうにしてるよ?

牧口先生が?というと先生はクスッと笑った。青いなあ。でも、ちょっと嬉しそう。

牧口先生は、あなたがいるから大丈夫かと思っていましたよ。はあ?俺?やめろよ、俺せつななんてただの先生以下だぞ。

そうですか?黒川を見ていると、どうも牧口先生には態度が特別だから、何か気でもあるのかと思っていましたが。

うるせーよ。俺は苦笑いした。俺の部屋で話したときと同じだ。

姉さん女房なんてのも悪くないと思いますよ?彼女は意外と熱心に世話をしてくれるし、心優しい方です。私も気を遣ってもらって、色々庇ってもらったり、仕事をやってもらったりしました。それってせつな先生が好きなんじゃないの?まさか。私には、霊山で待つ妻がおります。妻に変わる者はおりません。

とか言いながら、先生もにやけちゃって。先生と恋敵とか死んでも嫌だ。いや、気はないんだけど。

ともかく、先生。俺たちはまだ先生が必要なんだ。死なないでね。生きててほしい。卒業しても、就職しても、生きててほしい。

そう言ってくれると…。先生は嬉しそうに目を閉じる。こんなに嬉しいのは久しぶりです。こんなに心が満たされたのは今までなかった。

誰かに自分の存在が受け入れられるなんて。必要とされるなんて。生き続けて良かったと思います。

先生は俺の手を握った。ほんのり温かい。

瑞貴。先生は言った。生かしてくれてありがとう。来てくれて…。あなたがいなかったら、私はきっと独り苦しみながら、死んでいたでしょう。

西陽が柔らかく窓から入ってきて、先生を優しく包む。暖かい陽光だった。

こんなに温かく、満ち足りた穏やかな気持ちになったことは、今までありませんでしたよ。

良かったね。はい。

先生はじっと窓の外を見つめた。黒い冬の雲の切れ目から陽光が差し続けている。晴れましたね。きっとこれから良い方に向かうでしょう。

だよね、きっと。ええ。きっとではなく、間違いなく。あなたも、私も大丈夫でしょう。だいぶ表情が変わりましたね。向学心ある、いい顔立ちだ。

そう?ええ。前は向学心どころか、生きるのも大丈夫かと不安になるくらい生気がなくてヒヤヒヤしていましたよ。


先生。はい。俺、また来るね。先生に会いに。ありがとうございます。

早く、良くなってね。手を離して、俺は立ち上がって部屋を出た。ほっとした。先生、もう大丈夫なんだ。治るんだ。今はまだ寝たままだけど、そのうち起きれるようになったら俺が車椅子とか押して病院の中散歩したり、お菓子とか買ってきて食べたりしたい。優樹も会わせてあげたい。きっと優樹喜ぶだろうな。

颯太や剛も連れて行って、あ、騒がしくなっちゃうか…と考え事を膨らませていた時。

瑞貴!

声がして辺りを見渡した。

瑞貴、どうしてこんなところに…?

前を見ると、そこには父さんが立っていた。え、父さん?

髪は少し乱れていて、顔はやつれていた。瑞貴、何でこんなところに?いやあ、何か伊丹先生に呼ばれちゃって…。

亮に?またどうして。

何か変な夢を見て、先生が俺に会いたがってて、それで。

ごめん、よく分からない。だろうな。

父さんは?俺は、亮の看病。入院してからずっと、亮についてたんだ。じゃあ、あのとき出てっちゃったのは?

亮の家に行ったんだ。俺にはそこしか居場所がなかった。父さん。俺は、まっすぐ父さんを見た。

俺、父さんが出てっちゃってから、ずっと怖かったんだ。離婚したのかな、とか、どこ行っちゃったのかな、とか。ずっと不安拭えなかったし、俺がピアノしかできなかったからいけなかったのかな、とか、俺が学院落ちたからいけなかったのかなって、ずっと考えてた。俺が原因なの?

瑞貴…。父さんは何度も首を横に振った。瑞貴、お前が原因じゃない。お前の才能は母さんも評価していた。でも、ピアニストでは安定して稼げない。それを懸念してのことだったんだ。それに、俺が部活で瑞貴や母さんに満足に向き合えなかったから…。全てはそこなんだ。俺が悪いんだ。

父さん、そこまで自分を責めないで。その言葉に、父さんの暗かった表情が変わった。父さんは何も悪くない。部活だって他の先生が無理やりやらせたんでしょ。学院に俺を入れたかったのも当たり前だと思うし、責める必要ないんじゃない?

瑞貴。というと、父さんは両手で俺の肩を抱いた。ありがとう、こんなに優しくなって。一体誰がこんなふうに。

伊丹先生だよ。先生が教えてくれた。何があっても、どんなに離れていても、俺と父さんは深い見えないところでずっと繋がってる、だから、伝わらないことは無いって。剛が悩んでたときの、先生の言葉。

亮が…。あんなにつらかったのに、俺の代わりにこんなふうにしてもらってたなんてなぁ。亮に、お礼しなきゃいかんな。

なら、家に帰ってきてよ。俺は言った。多分先生もそうやって言うかもしれない。帰った方がいいって。言うかなあ。父さんは苦笑いした。

俺は、帰ってくるの待ってる。だから…帰ってきてよ。言いたかったことを言うだけ言うと、俺は廊下を歩いて病棟を出た。病院の外に出て、忠節橋のバス停に向かう。

金華山の上にポツンと建つ、ライトアップされた岐阜城を見ながら長良川沿いの道を歩く。もうすっかり寒い。吹きっ晒しの風が顔に当たって冷たい。夜の暗闇に忠節橋の灯りが煌々と光り、道標のようになっていた。先生は大丈夫。あんなにつらそうにしてたのが良くなった。決意で俺たちは変わった。

決意して動くのって、すごいことをもたらすんだな。じゃあ、父さんも…?

あなたの一念で世界は変わります。あなたの決意で世界は変わるのです。じゃあ、父さんも…?

解けそうだけど解きたくない理論。答えはわかるけど、何か自信が持てないよ、先生。俺は来た道を振り返ると、しばらく病院を見つめていた。

先生、ありがとう。俺、勝てた。だから先生、早く良くなってね。また会いに行くね。


次の日も、また次の日も俺は先生に会いに行った。

先生の回復はめざましかった。段々起き上がる時間が増えてきて、ベッドに座って本や雑誌や新聞を読むようになった。

2週間もすると点滴も外れて、食事もできるようになった。会いに行くたび俺は、黒川が来てくれるから、体が勝手に元気にならなければと動くんですよ。と言われた。

そして一緒に本や新聞を読んだり、学校のことを話したりした。先生は俺に色々なものを見せてくれた。新聞は仏法の新聞だったけど、御書の内容や色んな人の生き様が書いてあって、面白かった。本も、機械工学の本だったり、仏法の本だったり、色んな本を見せてくれた。先生と一緒に読むだけで、ひとつの授業を受けているような気分になった。

そして、俺は先生のリハビリも手伝った。しばらく寝たままの状態だったから、体を動かさないと体力がつかなくて回復が遅くなるらしい。

最初は座るだけだったけど、俺の肩を借りてベッド周りを少しずつ歩くようになった。そして3週間後くらいには俺の肩を借りて病棟の廊下を歩けるようになった。

歩くときはまだ時折肩で息をしていてつらそうなときもあったけど、先生から生きようとしている気を感じた。生きようともがいている気がしたから、俺も力が入った。

先生、頑張って。答えるように先生は歩いた。リハビリが終わると、先生は清々しそうな表情を浮かべていた。手伝ってくれてありがとう。いいんだよ、生きてくれれば。

そして4週間後、俺が病棟のフロアに着くと、先生が一人で歩いていた。あれ?先生。黒川ですか。ちょっと売店まで行っていました。そう言う先生の手にはビニール袋が掛かっていて、シュークリームとバームクーヘンが中に入っていた。

部屋で一緒に食べた。本当は間食はあまり良くありませんが…。と言いながら先生はシュークリームを食べる。先生、規則違反じゃないか。指導部に怒られるよ。バレなきゃいいんですよ。汚い大人だな。

とか言いながら、俺はバームクーヘンを頬張った。あなたも同罪ですよ。俺は健康だからいいんだよ。いいえ、共犯者ですよ。私を止めずにバームクーヘンを召し上がられてますから。ひでえな。と言いながら俺たちは笑う。

笑いは一切の病を弾くと本にもありますからねえ。先生は言った。あなたがいなかったら、私はこんなに笑っていなかった。

一人だったら私は今頃死んでいました。あなたが来て話して笑ってくれるのが、何よりの薬なんですよ。

そうか、俺は役に立っていたんだ。嬉しかった。俺でもできることがあったんだ。それじゃあ、俺から最大のサプライズを先生に渡そうかな…。颯太や剛、優樹を連れて先生のところへ行く。きっと先生喜ぶだろうな。

翌日、俺はみんなに声をかけて、放課後に先生のところへ向かった。

バスで移動している時、俺は颯太に釘を刺した。颯太、お前病院で騒ぐなよ。はあ?黒川が一番騒ぎそう。いつも伊丹先生のところ行ってるんだろ?うるせえよ。もう黒川のこと、黒川じゃなくて伊丹って言おう。と剛。本当は伊丹瑞貴なんじゃねえの?んな訳ねえだろバカか。息子だって言ってもバレなかったんだろ?ワンチャンイケるって。うるせーよ。何か俺、颯太や剛にいじられてるな。俺がいじる立場だったのに。優樹はいじられている俺を見て、ずっと笑っていた。おもしれー、黒川がいじられてるとか。

こいつ、いじると意外とおもしれーんだよ。颯太が言った。は?うぜーよ。俺はつっこんだ。優樹がまた声を出して笑う。

そういや、優樹は最近よく笑うようになった。先生が元気になったからなのか、俺や颯太という新しい友達ができたからなのか。理由はよくわからないけど、優樹は明るくなった。先生、きっと優樹を見たら喜ぶだろうな。俺は確信していた。そして、バスを降りて先生のいる病棟へ向かった。

部屋の前に立った。いつも通り、ノックして部屋に入ろうとしたその時だった。おい、黒川。と優樹。本当にここの部屋なのか?名札みたいなのがねえぞ。

え?と思って壁の名札のかかっているところを見た。確かに、ない。どうしたんだ?不穏な空気が流れた。黒川、まさか先生死んだとかないよな?剛も心配そうに聞く。

そんなことはない、昨日はあんなに元気だったもん。一緒にスイーツを食べて、そろそろ迫りくる、標準テスト、という工業系の学力テストの話をしていた。他にも、設計の授業でやっている断面係数の話をしたり、例の新聞を一緒に読んだりした。

いや、俺の父さん、がんで死んだけど、死ぬ前日めちゃくちゃ元気だったぞ。病院の喫茶店で、俺と一緒にサンドイッチ食ってたし。と剛。でも、次の日の朝、眠るように死んだんだ。まじつれえじゃん。と颯太。うん。剛は頷いた。そこに、医師が通りがかった。こんにちは。俺は挨拶した。ああ、息子さん?こんにちは。医師は言った。

剛達がクスクス笑っていた。うるせえよ、と思いながら俺は医師に聞いた。父さん、は?いなくなってるんですけど…。

ああ、まだすれ違っちゃったかな?今日退院されたよ。え?うん、今朝退院されたよ。もう通院でなんとかなる目処ついたし、体力も回復してきたから。

そうですか。ありがとうございます。父がお世話になりました。俺は頭を下げて、病棟を去った。剛達もあとに続いた。


まじで何なんだよあの野郎。別れも言わずに勝手に帰りやがって。腐りたくなるような怒りが湧いて溢れた。

俺、何のために毎日病院通ってたんだよ。何のために課題やったんだよ。ふざけんなあの野郎。

怒りながら病院を出て、長良川沿いを歩く。まじふざけんな、俺を裏切りやがって。結局大人は理不尽じゃないか。大人は自分のことしか考えてないじゃないか。俺の心をもてあそんで、何がしたいんだ。傷ついてるなら、自分がされて嫌だったことするなよ。こんなことになるなら、お前なんか死ねばよかったのに…。

黒川。と誰かが言った。振り返ると3人がいた。

剛が肩を抱いてきた。退院できたならいいじゃないか、またいつか会えるんだし。腐るなよ。はあ?

はあ?ってお前、俺の父さんは俺が病院に来る前に死んだんだぞ。さっき言ったやろ。死ぬ前日に一緒に食事したのが最期で、次に会ったのが病院の霊安室だぞ。もう話も何もできなかった。それよりマシだって。ゼロか1か、ある、ということは、ゼロより大きいんだぞ。

颯太も俺の肩を抱いた。黒川、俺さあ、伊丹先生がお前に黙って退院したのは、お前が悲しむ顔を見たくなかったからじゃないかなと思うんだ。

え?うん。だって、ずっとリハビリ手伝ったり、話ししたりしてたんだろ?それじゃあ向こうだって情が湧くだろ?そこで、退院するからまた会えなくなるよって言ったら、お前は悲しむし、先生だって悲しいよ。俺だって名古屋で父さんと離れるときは悲しくて、何も言わずに出てきちゃった。向こうも何も言ってなかったよ。

お前はそれだけ大事にされてたんだと思う。

そうだと思うよ。優樹も言った。伊丹先生がお前を裏切るわけないだろ、馬鹿野郎。あの人なめんなよ。あの人は、してもらった恩はぜってー忘れねえ。

一度大事にすると決めたら、どんなことがあってもぜってー裏切らねえ。どんなに反抗されてもお前のこと見放さなかっただろ?

あ、ああそういえば…。諦めたりサボったりしたら、俺はすべての友達から忘れられることになっていた。だけど、先生は俺がサボった時、それを捻じ曲げて警告してくれた。

ひょっとしたら、あの時先生があんなに苦しんでいたのは、ルールを捻じ曲げたことによる罰だったのかもしれない。命がけで俺に警告していたのかもしれない。

だから、絶対大丈夫だって。あの人は休職してただけだから、また学校に来るって。信じようよ。

そうだぞ、黒川。先生悪く言うなよ。颯太が言った。

お前が頑張ったから俺たちもお前の記憶無くなってねーし、ちゃんと跳ね返ってんだから先生のことも跳ね返ってくるよ。絶対大丈夫。陰徳あれば陽報ありだろ。

ぜってーお前何か功徳あるから。優樹が言った。お前は大勝利したんだよ。自分に勝ち、魔を破ったんだ。俺たちも大勝利した。な、お前ら?

違いねえな。剛が言った。3人に励まされて、俺は目頭が痛くなった。涙がこぼれそうになった。

黒川、何泣いてんだよ。お前らしくないなー、目が死んでるのがお前の売りだと思ったのに。颯太が笑いながら言った。は?うるせーよ。目が死んでるのが売りとかどんな陰キャラだよ。泣くなよ。せつなに慰めて貰えよ。もううぜーよ、何でせつななんだよ。

だって、さあ。と颯太。お前とせっちゃん、めちゃくちゃ相性いいもん。夫婦漫才かってくらい。はあ?俺は黒髪清楚系推しだって言ったよな?

いや、目はせつな推しって言ってる。颯太のその言葉に、優樹と剛が大爆笑した。

泣いているからなのか、何なのか、顔が赤くなる。まじでサイテーだ。

あんなガサツギャルのどこが良いんだよ。ギャーギャーうるせーし、渋谷のギャルみたいな荒い口調でしゃべるし、スカートは短いし。字は汚ねーし。

お前、どんだけせつな見てるんだよ。ガン見じゃん。剛が爆弾を落とした。颯太と優樹がまた爆笑する。

せっちゃんは言うてガサツギャルじゃないよ?普通だよ。渋谷のギャルのほうがもっとうるせーし荒い。

はあ?黒川、お前いっそのこと付き合っちゃえば?賑やかなカップルになりそう。いやそこは颯太だろ。いや、俺はいいよ、黒川が幸せなら。

何だよその降り方ー!去るときは、潔く去ったほうがかっこいいだろ。ちょっと待てよ。俺は3人にいじられながら忠節橋のバス停まで向かった。


ただいま。家に帰ると、母さんがいた。お帰り。今帰ってきたばかりなのよ。そう。と言ってリビングから2階に上がろうとした時。

瑞貴、どうしたの?そんなに顔赤くして…、泣いたの?

母さんのその言葉に、ドキッとした。何かあったの?いや…何もないよ。荷物置いてくる。俺は一気に階段を駆け上がって部屋に入り、荷物を置いた。そして、母さんの家事を手伝おうと下に降りた。

何か手伝うことない?手伝うこと?というと母さんはクスっと笑った。瑞貴がそんなこと言うようになったなんてねー。伊丹先生が、手伝えって、親孝行しろって言うから。

すごいね、伊丹先生。母さんは言った。あんなに大変な思いされてるのに。知ってるの?知ってるわよ、お父さんの親友だもの。結婚前から会ってる。伊丹先生の奥さんとも会ったことあるわ。先生は、瑞貴が生まれたとき抱っこしてくれたり、家に来た時瑞貴をあやしてくれたのよ。ご自身は子どもを生まれてすぐ亡くされたのにね…、奥さんも。そんな人に教育してもらえて、安心だわ。というと母さんは台所へ入った。

お夕飯の支度をするから手伝って。うん。俺も台所へ入った。

一緒に野菜を切った。料理する習慣がついたから、包丁さばきがだいぶ慣れてきた。上手くなったね、と母さんは嬉しそう。

じゃあ、この野菜は炒め物にしよっか。というと、母さんは台所の棚からフライパンを出してコンロに置いた。そして言った。

そういえば、ね瑞貴。お母さん、お父さんとやり直すかもしれない。

え?俺は持っていた野菜の入ったボウルを落としそうになった。

こないだ急に連絡が来たの。仕事辞めるって。辞める?うん、もう体にガタがきて働けなくなったから。過労で倒れそうだって、このままだと自殺しそうだと思ったから、辞めるんですって。

言葉が出ない。仕事辞めるって、そうしたら俺どうなっちゃうの?言おうとしたけど、口が動かなかった。

あ、瑞貴。大丈夫だからね。母さんはそれを察したかのように言った。大丈夫よ。次の勤め先はだいたい目処がついてるから。

目処?うん。次は、民間のピアノ教室か、音楽系の学習塾に転職するって言ってる。瑞貴との時間が必要だと思ったんだって。

父さん…。ひょっとしてだけど、伊丹先生が言ってくれたのかな。俺のところに帰ってあげてくれって。

確か、父さんは先生の家にいた。看病もしてた。ということは、ひょっとして…。

先生…。病床にいながら、先生は父さんも変えてくれた。俺はなにか熱いものがこみ上げてきた。涙が頬を伝う。先生。こんなクズな俺のために…。

涙はボウルに落ちそうになった。涙味の野菜炒めとか本気で不味いしみっともないから、落ちないようにしなきゃ…。と思ったときだった。

瑞貴。母さんが肩を抱いた。何泣いてんの。

伊丹先生が…。ん?伊丹先生が、きっと父さんを助けてくれたんだ。あんなにつらい思いしてたのに。俺も、伊丹先生に救われた。最近勉強するようになったのも、伊丹先生がずっと、病気しながら俺に色んなこと教えてくれてたからなんだ。つらそうにしてたときもあったよ。でも、怒られたこともあった。命がけで怒ってきたから怖かったなあ…。泣きながら俺は笑った。でも、先生は元気になって、今日帰っちゃったんだ。元気になればいつかはけ帰っちゃうんだろうけど、会えなくなって、寂しい。別れの言葉もなく帰っちゃたから…。マジでガキみたいだけど、これが俺の本心だった。

勝手にいなくなっちゃって、寂しい。もっと話したかった。もっと一緒に勉強したかった。瑞貴。母さんは言った。

きっと伊丹先生は、瑞貴が真面目で元気になったのを見て、もう大丈夫だと思ったんでしょうね。だから手を離したのよ。手を離したって、俺はまだ先生に教えてもらいたかったよ。じゃあ、先生がずっと病気のままでいれば良かった?いや、そんなことはない。ただ俺は、ずっと先生とつながっていたかった。一緒にいたかっただけなんだ。

父さんにだって抱かない感情だった。父さんより、もっと父さんみたいな人だった。もう一度、会いたい。会いたかったんだ。

俺はしばらく、母さんに抱きしめられながら泣いた。恥ずかしいけど。でも、俺は胸が痛かった。ずっと一緒にいられると思ったのに。会えなくなって寂しいよ、先生。父さんも、帰ってくるかもしれない。もうあんな悲しい思いしなくて済む…。今まで気づかなかった心の傷の大きさと痛みにやっと気づいた。それでますます泣けてきた。

そしてそれを受け止めてくれる人がいたこと。そのことが嬉しくて仕方がなかった。

良かったね、瑞貴。母さんが言った。ありがとう、と俺は声を詰まらせながら言った。


母さんと夕飯を食べていると、インターホンが鳴った。誰だろう。と思って玄関に行こうと立ち上がると、母さんが止めた。

そんな泣き腫らした顔で出たら、お客さんびっくりするよ。私が行くわ。母さんが玄関に行った。

しばらく食事しながら母さんが戻ってくるのを待ってたんだけど、なかなか帰ってこない。どうしたんだ?

そっと玄関を覗いて見ると、母さんは誰かと話していた。誰だ?よく見ると、え?

父さん?この前と同じ、やつれていて、髪はまだ乱れていた。ボストンバッグを持っている。帰って、きたの?

玄関に向かうと、突然父さんがその場に座り込んだ。え?どうしたの?

瑞貴。と母さんは言った。カバンを中に入れて、リビングで寝る支度をしてあげて。

え?大丈夫、ただの過労からくる貧血。明日病院へ連れて行ってあげなきゃね。

さすがは現役看護師。父さんの方がはるかに重いのに、軽々とリビングへ運んだ。俺は急いで寝る支度を整えた。

リビングで父さんは眠りについた。やつれた顔に少し赤みが戻っていた。その寝顔から、何かを成し遂げたかのような達成感と安堵が滲み出ているような気がした。


次の日、父さんは母さんと病院に行って診察を受けた。

過労と診断されて、しばらく休養することになった。1日の殆どを眠って過ごしていた。

無理やり仕事をさせられていたから、精神的なダメージも大きかったらしい。疲労は俺の想像をはるかに超えたものだった。

父さんの部屋に入って、声をかけても起きることはなかった。さすがに無理やり起こすことはしなかったが、なるべく側にいるようにした。

標準テストの勉強をしたり、機械系の雑誌を読んだり、就職に向けてSPIの問題集を解いたりした。

SPIはなかなか難しくて、何度もため息が出る。LINEで剛や颯太や優樹と知恵を振り絞って勉強した。

今からやっとけば、直前にヒイヒイ言わなくて済むんだからよ、と励まし合いながら。その代わり、今ヒイヒイ言ってきついけど。

あんまり唸ったりため息ついたりしたら父さんがうるさがるからいけないよな…と思いながらそれでもため息が出る。しんどい。

就職ってこんなダルいのかよー。と俺が文句を漏らした時だった。

瑞貴?と父さんが目を覚ました。あ、ごめん。うるさいよね。いや、全然。ああ、勉強してたのか、偉いなあ。自分から勉強するようになって。

もう来年度は就職やよ?今からやっとかないと、直前に慌てても仕方ないやろ。

だいぶ変わったな、瑞貴。それに、俺のそばに居てくれるなんて。家族だからな。

そんなに暖かい言葉が出てくるなんて。瑞貴、ありがとう。父さんは言った。


やがて、時は流れて4月になった。俺は3年生になった。颯太や優樹、剛も進級したし、クラスもまたみんな同じになった。

担任は2年生の時に工作を受け持っていた明智。色々細かい先生で理論が通っていないと気がすまないからめんどくさいタイプだけど、クラスのロングホームルームでの自己紹介で見た感じは、穏やかで優しいお父さん、という感じだった。そして副担任は、何とせつなだった。

3年1組の副担任を仰せつかりました、牧口です。俺や昨年せつなの設計の授業を受けたメンツはどよめいた。

せつなが?悪い?いや、悪くはないけど、できるの?分かんね。お前が分かんねとか言うなよ。俺は突っ込んだ。

だって初めてだもーん。分かんなーい。黒川、フォロー任せた。はあ?颯太や他のメンツがゲラゲラ笑った。明智も、ちょっと笑ってた。

しかしその言葉通り、俺はせつなのフォロー役になりそうだった。

工業高校には、3年生になると、課題研究、という少人数班に分かれてものづくりや資格取得を目指す授業がある。その班の先生が、何とせつな。

課題研究での初の顔合わせの時、せつなは意気揚々と言った。さあ黒川、しっかり働いてもらうわよ。俺は生徒なんだけど。この班は資格取得を目指そうと思うの。それで、あんたには指導補助についてもらおうと思ってさ。無論アタシもフォローするけど。お前が課題研究?資格取得?できるの?やってみないと分かんない。でも、あんた達だって努力がいるわよ。最後に試験に受かるのはあんた達の実力でしょ?アタシにすがるなよ。アタシは精一杯のことを提供するけど、それを活かすも活かさないもあんた達。アタシが教えたって身に着けず勉強しなかったら意味ないし、教えたことを使って勉強して実力につながるようなことすればそれはアタシもあんたもできたってことじゃない。アタシはただの人間だもん。

何だか痛い一撃を食らった気がした。すがっちゃダメだよ。自分で自分を高めてのことでしょ?せつなは言った。

何だかせつなも大人だし先生だな。俺は少しせつなが遠くなった気がした。

取得を目指すのは、旋盤技能検定3級、テクニカルイラストレーション技能検定3級、機械設計技術者試験3級、工業英検4級。

要は、ほぼ勉強や実習漬け。進学校でもあるまいし…。と思ったけど、他の班のメンツは颯太、剛、優樹がいたからまだ大丈夫か。

先に3級ある人は2級やろうか。せつなは言った。優樹と剛は頷いた。あと、技術面のフォローを任せたよ。初心者もいるからね。みんなで助け合おう。

みんな、穏やかな雰囲気で賛成し、作戦会議をした。しかし、過去問題集を見ると、機械設計技術者試験はかなり難易度が高かった。どうするの?

ああ、そこはアタシの専門だし、スペシャルアドバイザーが後に来るから大丈夫。スペシャルアドバイザー?うん、楽しみにしてて。せつなは目配せした。

どういうことや。と俺は思ったけど、他のメンツと旋盤の作戦を話していたらそんなことも忘れていた。


やがて、実習も始まった。3年生になると実習の難易度も上がる。旋盤実習は何と歯切り。平歯車を作るんだけど、工程がマジで難しい。できるのか?

作業前の国宮の説明に、俺は不安を感じた。できるのかな…。周りもちょっと不安そうな顔をしていた。その時だった。

遅れてすみません。ちょっと高いバリトンの声。工場の入り口のガラス戸から、カーキ色の作業服にダークグレーのワーカーキャップを被った男が入ってきた。

ワーカーキャップを取ると、その人は。え、マジで?!伊丹先生…!俺は声が出そうになった。

3年1組の旋盤実習を仰せつかりました、伊丹亮です。よろしくお願いします。しなやかで、堂々とした挨拶だった。

先生、戻って来たんだ!やった!俺は笑顔で応えた。先生がいれば大丈夫。何だってやれる、何だってできる。


国宮の実技指導のあと、それぞれ旋盤について作業を始める。

もう一度黒板に書いてある工程表を見る。すると、ああ、そういうこと…。なんとなく分かった。

あなたは落ち着きさえすれば、何でもできると思います。あの時の先生の言葉。落ち着こう、落ち着いていこう。

先生が近づいて来る。黒川。大丈夫ですか?

先生、大丈夫だよ。はい、それでは、頼みますよ。

深呼吸して、俺は旋盤のスイッチを入れ、旋盤の正転のハンドルを切った。













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