第8話 アンチェインドメロディー
黒川。先生は温かな拍手をしてくれた。
亡き王女のためのパヴァーヌですね。素晴らしい演奏でした。先生、知ってるの?ええ知っていますよ。クラシック音楽は私の伴侶ともいうべき存在ですから。先生は、クラシック音楽好きなんだ。ええ、あなたくらいの頃にはレコードやテープで片っ端から聴いておりました。ラフマニノフやチャイコフスキー、ドヴォルザーク、ブラームス、ラヴェル、プロコフィエフ、ガーシュウィン、ブルックナーを嗜んでおります。
めっちゃマニアだね。
これをご存知ですか?
先生は俺の隣のピアノに座った。あまりにも繊細だった。あまりにも可憐で、まるで人が歌っているようなふくよかさと軽やかさがあった。和音の響きも余すことなく全て出し切った。一吹きの風のように駆け抜けた曲だった。すげー。俺は無意識のまま拍手した。
ラフマニノフ前奏曲ト長調です。よく、私の心を癒やしてくれた。妻や子どもを亡くして、悲しみにふけっていた時に。
え、先生って奥さんいたの?
ええ、大学の同級生で同い年の女性と結婚していましたよ。あなたが生まれる前にね。
これをご存知ですか?というと、先生はまたピアノを弾く。さっきとはまるで違った軽快さ。クラシックじゃない、この演奏の仕方。
まさか、ジャズ?
ガーシュウィンの、オー・レディ・ビー・グッドという曲です。ジャズにクラシックに勉強。先生は何でもできる。すごいなあ。
でも、カーキ色の上下作業着の枯れた感じの先生がジャズピアノって、何かシュール。アドリブまでやってる。
妻と私は、大学のジャズサークルで知り合いました。今の曲をはじめ、ガーシュウィンやマンシーニはよくやりました。彼女はコントラバス、私はピアノを嗜む仲でした。
妻は理学部で数学科にいて、私は工学部で機械学科にいました。不思議なことに、専門教科の話はよく合った。ジャズアンサンブルと同じくらい。
時には私が数学の単位を落としそうになったときは彼女から数学を教わり、私は彼女に、ものづくりとは何かを語った。数学が難しくて、何の役に立つのかと悩んでいた時期があったからね。その彼女と助け合って、私は機械学科を首席で卒業した。彼女は数学を工学に役立てるため、応用数学を学び研究しようと大学院に推薦で入った。
その時、彼女と結婚しました。お互いに支え合っていきたいと思い合えたので。その後、私は自動車部品メーカーにて設計を行う職につき、彼女は大学院で日々研究に励んだ。仕事は慣れないながらも忙しく、つらいこともたくさんあった。彼女も研究や学会発表で忙しかった。そんな中で2人で時間を合わせて家で食事をしたり、ジャズのセッションもした。楽しい結婚生活でした。でも、そんな日々は長くなかった。結婚して3年くらい経ったときでしょうか、子どもを授かりました。
嬉しかったのは言うまでもない。一緒に遊んだり勉強したり、ものづくりしたり、我々には夢があった。日々大きくなる妻のお腹に触れて、共に成長を喜び、やがてくるその日を心待ちにしていろいろな準備を言い訳に仕事を休んだものです。だめじゃん。先生は恥ずかしそうに微笑んだ。周りは分かっていたでしょう。普段は黙々とパソコンに向かっているだけの男が、小躍りしながら休みを取るなんてそんな滑稽なものはありません。でも、その幸せは突然奪われた。
8ヶ月に入った頃でしょうか、その日は突然でした。切迫早産で、予定よりも早く子どもは生まれようとしたのです。でも、母子ともに危険な状態になって、というと先生は苦しそうにうつむいた。大丈夫?先生はそっと手を広げて俺の方に向けた。一つ大きな息をつくと言葉を続けた。
妻は、我が子の顔を見ることなく息絶えました。私には子どもが残った。未熟児で、重症を負った子どもだった。亡くなった妻の横で、死に顔を見ながら祈っていました。どうか子どもだけはと。妻の死に顔は、今でも忘れません。一人の子どもを産む苦しみを一心に背負い、どうかわが子を助けて欲しい、わが子だけは生き延びて欲しい、と願うような表情を浮かべていました。
まるで子どもに自分の命を託したような感じがした。私は思っていました。必ず子どもを一人で育て上げると。何があろうと守らねば、あの世へ連れて行かれた妻に顔向けできないと。けど、運命はまるで私を嘲笑うかのように冷酷でした。子どもも奪われたのです。妻が亡くなった翌日、子どもの容態も悪化していきました。まるで母を求めるようでした。父としての判断を迫られました。このまま治療するのかやめるのか。やめる、って?俺は訪ねた。治療を止め、我が子をあの世へ見送ることです。あの時、もし治療を続けたなら、子どもはもう少しは生きられたかもしれない。でも、子どもを見たとき、涙が止まりませんでした。あまりにもたくさんの管や針で繋がれた子どもは痛々しかった。これを父親のエゴで延命させれば、余計苦しめるのではないかと…。この子に必要なのは、父や母の温もりだ。治療じゃない。家族だ。その一念で、私は治療をやめてもらいました。
妻の横で子どもを抱き、最期の時を家族で過ごしました。もし無事に子どもが生まれていたら、きっと部屋は歓喜に包まれていたと思います。
しかし、そこにあるのは悲しみでした。私にとって妻は、高校生の時父を亡くして、寂しい思いをしていた私を励ます菩薩のような存在でした。彼女はいつも、私に笑顔をくれた。困難と向き合う勇気をくれた。その彼女という希望が失われた中での家族団らんでした。死にかけた命と、死んだ命と、生きている命。私も死にたいと思いました。家族で死にたいとさえ願った。でも、子どもの温もりがそれを止めてくれた。死が目前なのに生きようとする我が子に、生きていることを感じました。
少しでも長く。この鼓動を、生きている人間の温もりを知ってほしかった。私は子どもに声をかけ続けました。付けたばかりの名前を呼び続けた。目も開けたと思う。
今でも忘れません。私にも妻にも似た、子どもの顔は。二人の血をはらんでいるなと分かりました。それならなおさらと、私は子どもを抱き続けた。
手が震えている。ピアノの前に置かれたその手はガクガク震えていた。その手で、どれだけ悲しかったんだろう。怖かったかもしれない。子どもを一人で抱っこし続けて。
息を引き取ったのは、夜になっていて、ちょうど母親が子どもに帰ってくるように言う時間ぐらいだったでしょうか。
子どもも、母のもとへ行きました。私はしばらく、妻の眠っているベッドに子どもを寝かせて、私も横になりました。本当はそうやって川の字になって眠りたかったんです。私と妻の夢でした。その後、妻と子どもが1つの棺に収まった時、私を支えていた何かが崩れました。
私は、妻と子どもをいっぺんに失いました。あの亡き王女のためのパヴァーヌやラフマニノフは、その時によく聴きました。
苦しそうな先生。俺は立ち上がって、そっと背中に手をやった。ありがとう。あのときもこうやって支えてくれた友人がいました。私と妻の共通の友人です。
彼は岐阜県内で工業高校の教師をしていて、仏法の信者でもあった。葬儀のあとからずっとそばにいてくれて、毎日励ましてくれた。結婚祝いで買ったグランドピアノの前でうつむく私に仏法の世界から励ましを送り、食事もできない私のために、毎日温かいものを差し入れてくれた。題目を唱えれば、奥さんや子どもの死は必ず宿命転換できる。どんな悲しみも必ず歓喜に変わる。と。奥さんや子どもを亡くしたことは、必ず意味がある、と。そしてこうも言った。亡くなった子どもにしてあげたかったことを、たくさんの子どもたちにしてやってくれ。お前を待ってる子どもたちが必ずいる。だから、一緒に教師として戦おうよ、と。その時私は会社にも満足に行けていなかったし、体はやつれ、髪も黒かったのが色が落ちていました。ものすごくみすぼらしい格好だったと思います。髪がグレーなのって…オシャレじゃないんだ。
ええ、あの時から変わっていません。ですから、藁にもすがる思いでその折伏に乗りました。そして仏法の世界に入りました。朝な夕なに勤行唱題をし、仏法を学びました。生きるために題目を唱え、教員になるために必死で勉強した。何時間も題目を唱え、会合で自分の思いをぶつけました。みすぼらしい格好を、仏法の世界の者は誰一人として侮辱せず温かく受け入れてくれた。よく来たね、と老いも若きも歓喜し、来ただけで大勝利だと励まされた。共に唱題し幹部や会長から指導を受け、私は仏道修行に励んだ。その結果、工業の教員の座を勝ち取り、今に至ります。先生の背中はゴツゴツした肩の骨や背中の骨が感じ取れた。分厚い綿の作業着からも痩せているのが感じられるということは、先生はかなり弱っている。ここで突然倒れて死んでもおかしくない。でも、温かい人の励ましや温もりが、瀕死の先生を生かしてくれてるんだなと分かった。
俺を励ましてくれたあの話は、全部仏法の話だったんだね。ええ、そうですよ。あなただけではない、久屋も東山も、桜山も、仏法の励ましを送りました。
その中でも、東山には、こと強く励ましを送りました。彼のことをご存知ですか?一応は…。幼少期からのイジメのトラウマで苦しんでいました。他にも、彼は障害を負っています。え?知らなかった?
東山はもともと、ADHD、通称、注意多動性障害という発達障害を持っております。だから、彼はいじめられた。発達の遅さや周囲との違いで、彼は精神疾患にまで追い込まれました。ですが、彼の旋盤に対する姿勢は一味違うでしょう?
うん。あれほどの緻密さ、精度の高さを出せる生徒は東山以外見たことがない。彼はものづくり、ことさら旋盤加工ではずば抜けた才能があります。彼を競技会に出せば、全国も夢ではないでしょう。しかし彼は人に自分の思いを上手に伝えることができない。空気の読めない発言をしてしまう。それは友達であるあなたならよくご存知かと。うん。しかし、彼には正義感がある。才能がある。伸ばさねばならない、励まさねばならない、と私は必死でした。でも、というと先生は人差し指を上に上げた。
東山より、励ましが必要な生徒がいました。あなたです。俺?ええ、そうですよ。
あなたは何事も抜きん出て苦戦していました。どこかでつらそうにしていました。そんな生徒を置き去りになどできるわけがない。先生。今なら聞いてくれるかな、俺のこと。あの時ははじかれたけど。
何でしょうか。俺、つらかったのは、父さんが、出てっちゃったからなんだ。出ていかれたというのは?
高校受験で、父さんは自分の母校の音楽高校に俺を入れたかった。でも母さんが反対して、そこからギクシャクして、それに父さんは中学の音楽の先生だったから、吹奏楽部の顧問で…。やりたくないのにずっと、ずっと部活を強制させられて、土日も休めんかった。それで母さんが怒って…。父さんは何も悪くないんだよ?部活の顧問にいじめられて、俺のことも話したけど一蹴されて、家なんかほかっとけって…。ブラック部活の悲劇ですね、恐ろしいものです。部活は課外学習のためにあるのであって、学習には含まれない、と、学習指導要領にもあるのに。コンクールや自分のやりたい、がために飲まれる犠牲者や、周りの人のことも考えられない愚か者はどこにもいるんですねえ。お父様もさぞ苦しかったでしょう、あの性分ですから。ひょっとして、先生、父さんのこと知ってるの?ええ、幼い頃からよく存じていますよ。私は駿(しゅん)の幼馴染で、なおかつ親友ですから。
え…?同じピアノ教室に通う仲でした。彼はピアノがとても上手で、帝聖学院高校ピアノ専攻へ進んだ。連弾もよくやりましたねえ。というと先生はまたピアノに向き合う。
教会の鐘のようにメロディーが繰り返し鳴り響く。それはやがてひとまとめのメロディーに変わって大きくうねる。これをご存知ですか?…。冷たい北風のように寂しい調べ。絶望の縁にいるようだった。
ラフマニノフピアノ協奏曲第二番です。俺はビアノの鍵盤の上に手を置いた。
連弾…。これはオーケストラとピアノの曲だから、連弾しなきゃ演奏にならない。俺、やったことあるかな、あるから弾いてるのかな。あなたならできると思います。
何で?
思い出しなさい。このとき、実際に先生は声を発していなかった。でも、心に声が響いた。
瑞貴。聞いたことのない声だ。いや…あるか。瑞貴。一段と大きく響く。
いいや、テキトーに…。先生の旋律に合わせて弾いてみる。こんな感じ?
横目で先生を見る。…だめだ。こんなテキトーじゃだめだ。だって先生は、まるで自分の命を吐き出すかのように、全身で弾いてる。どんなプロピアニストだって、今の先生には敵わないだろう。命がけで弾いてるんだから。俺に何かを伝えたいんだよね?まるでスイッチが切り替わったかのように、俺は鍵盤を叩く。何が俺を動かしているのか分からない。でも、さっきよりはマシだ。いや、自分も命が燃えている気がした。何が燃やしたんだ。何で…弾けるんだ?楽譜なんて頭に入ってない。でも、先生の主旋律をしっかり支えてる。
第一楽章、フィニッシュ。ひと呼吸置いて、第二楽章。と先生は言った。
一緒に弾く。この滑らかなメロディーは小川のせせらぎのような穏やかさと、夏の夜の星空のような輝かしさと静けさがある。俺もなだらかに入っていく。しかし、それは一瞬の嘆きによって奪われる。
高く、泣き叫ぶようなピアノの旋律。それはまるで先生のようだ。大事なものをすべて奪われた嘆きだ。その嘆きの中から何かが這って出てくるような、蠢き。生きようともがく様子がまざまざと伝わってくる。痛みや悲しみにのたうち回って、それでも生き続けようとする。一瞬の静寂。強く、強く鍵盤を叩く。何かを求めるように。それを俺が気づかせるように優しく包み込む。すると、ああ夢だったのかと気づいて目が覚めたかのようにタッチが穏やかになった。これは夢だよ、大丈夫だよ。なだめてるみたい。ああ、夢だったのか。と思った瞬間、ぱっと花が開くように命は輝きを見せる。
第二楽章が終わると、先生は俺を見た。
宿命転換、ですとか変毒為薬という言葉をご存知ですか?
いや、知らない。
一般的に難病を治す薬は毒性が強く副作用も激しい。しかし、病気を治す力があります。それと同じで、あらゆる困難は自分を成長させてくれる薬のようなものなのです。それに気づき、自分の使命を自覚して動く。そうすれば必ず功徳を得られるのですよ。
功徳って?困難を乗り越えた先にある幸、願いが成就することです。
先生は功徳得られたの?私はまだ得られておりません。妻や子どもを失った悲しみは癒えないし、職場ではパワハラを受け、体も悪くしました。どんなに唱題しても苦しみは癒えません。
先生、そんなに苦しまなきゃいけないの?何か俺、そんなに苦しみの中にいるの見ると、つらい。
自分から苦しみの中にいたいような気もするんだ。どんな苦しみも宿命転換できるなら、苦しみの中に入ることが願兼於業だったとしても、先生は幸せにだってなれるんだろ?
願兼於業って、そういう意味なんでしょ?本当は幸せに生きられるのに、敢えて苦難の道を選んだなら、幸せにだってなれる。いや、苦難の中に入ったなら、それを乗り越えて俺たちに幸せを見せるのが使命なんじゃないの?先生、もうさ、やめようよ。奥さんや子どものために、幸せになろうよ。病気も治してさあ、俺たちをあんなに励まして、でも自分は不幸って変だよ。自分ができもしないのに語るなよ、俺たちへの励ましは何だったの?言ってて、何だかどんどん心が熱くなってくる。言わなきゃ。死んでほしくないもん。
止めなきゃ、このままじゃいられない。
先生は何をずっと祈ってきたの?長い間祈ったなら、叶ってたっておかしくないじゃん。幸せになっててもおかしくないじゃん。何で病気になっちゃったの?何で死にそうになって苦しまなきゃいけないの?
先生は呆然としていた。
生きるために祈りながら、心では死にたいって思ってるからそうなるんじゃない?だっておかしいやろ。生きたくて祈るんだったらこんな病気しんやろ。先生、本当に生きたいなら、本当にそう祈らなきゃ。死にたいなんて思っちゃだめだよ。だって、俺達先生がいなくなったらどうすればいいんだよ。
優樹、先生がいたから職業訓練指導員になりたいって言ってめっちゃ頑張ってる。颯太も獣医になる夢を諦めれないな、働いていつか大学行きたいって言ってた。剛も製図で励まされて、またジャズバンドと向き合いたいって、それに、俺も腐ってたのが機械科に通ってよかったってだんだん思えるようになってきたんだ。
こんなに俺たちを前向かせて、でも自分はって、寂しいよ先生。一緒に生きようよ。なんで俺たちを避けるの?せつなも心配してるよ。先生、早く良くならないかなって。みんな、いるんだよ。一人じゃないんだよ。
死んだらだめだよ、みんな悲しむよ!と言った時だった。先生は立ち上がった。
黒川。強く抱きしめられた。嗚咽が漏れた。そうだった。私はいつも目を背けていた。
こんなにたくさんの友人や同志がいたのに。自分はまだまだだと言って…。中途半端に話を切って、苦しめていた。自分ができもしないのに叱責もした。私が間違っていた。
ずっと溜め込んでいたものを吐き出すように、先生は苦しそうに泣いていた。
何のための唱題なの?自分を高めるための唱題なんでしょ?すがるんじゃないんでしょ?
はい、間違いありません。唱題の意味を間違えていたなんて、仏道修行をしている身として大いに恥じます。申し訳ありませんでした。謝らないで。俺は苦笑いした。そっと先生を抱きしめた。
ずっと一人で耐えてきたんだろう。一人で抱え込んで。自分のことは自分でしか癒せないとでも思ったのだろう。俺もそうだった。先生が病気になって、学校からいなくなって、自分の苦しみなんて、どうせ他人には分からないって、裏切られたって思ってたもん。でも実際は違った。
颯太も優樹も剛も分かってくれた。だから、先生。
先生、大丈夫だよ。こんなに苦しんだんだから、もう大丈夫だよ。これから幸せになれるよ。
痩せて骨ばってゴツゴツした背中をそっとさする。黒川。先生は俺を抱きしめ続けた。
何で妻や子どもを奪われなければならなかったんだ!何の罪もない妻や子どもが、どうして死ななければならなかったんだ!先生の心の叫びが聞こえた。航、航。生きてくれ。お前に死なれたら私は生きがいをなくしてしまう。お前はこんなにお母さんやお父さんに似ているのに。痛いほどの叫び。胸が痛かった。俺だって支えるに痛すぎる悲しみだった。背中をさすり続けた。
あなたを抱いていると、子どもを抱いているような気持ちになります。温かくて、生きている命を感じます。
そう。俺は背中をさすり続けた。
ずっと傲慢だった。温かく寄り添おうとする人たちから目を背けて。うん。生きれば良かった。共に生きれば…。これは魔ではない。願いは叶っていたのです。死にたいと奥底で思っていたから、叶ったのです。
祈ることを変えなければならない。そうだね。
大きく息をつくと、先生は俺から体を離した。
こんなにすっきりしたのは、初めてです。ありがとう。うん。生きるために折伏され、生きるための祈りから始まったのに、こんなふうになってしまったなんて。折伏してくてた友人に申し訳ない。
先生は立ち上がって、また俺の隣のピアノの前に座った。
第3楽章へ進もうと思うのですが、いかがでしょうか。いいよ。
ついてこられますか?大丈夫。では、いきますよ。しっかりついてきてください。先生は一度、大きく息を吸った。旋律は俺が先行だ。今までの重々しい雰囲気を一変させる、軽やかなオープニング。
どんどん強く、大きく。そこに、流れるように先生のピアノの旋律が入る。
先生の繊細で震えるような旋律を、下でどっしりと支える。
先生の表情は真剣だった。けど、今までとは何かが違った。顔色も良くなったような気がする。生気が蘇って、さっきより力強かった。さっきは、まるでそのまま倒れそうな、息も絶え絶え、命がけな感じだったけど今は違う。音もどっしりとしていて地に足がついたような、ちゃんと歩いているような、生きた旋律だった。ちょっと楽しんでいるような感じもする。俺も、何か楽しくなってきた。ちょっと笑みが溢れる。
人とピアノを弾くのってこんなに楽しいんだ。こんなに楽しかったのはいつが最後だったかな…。
父さん。ふたりで紡ぐ旋律は自然なハーモニーになって一つの音楽になる。嬉しかった。一つの音楽を作ることができて。いっぱい練習して、すらすら弾けるようになって嬉しかったなぁ。難しければ難しいほど嬉しかった。と思ったときだった。あ。
俺の中で、何かが蘇った。そういえば、今のこれ…。そうだ、俺これ弾いたことある!ラフマニノフピアノ協奏曲第2番。
中学2年の夏休み、特に勉強や運動なんかに興味もなく日々をだらだら過ごしていたら、父さんにいきなり楽譜を突きつけられた。
どうせ暇だったらこれに打ち込め。それがラフマニノフピアノ協奏曲第2番だった。お前は小さい時からピアノしか才能がないからな。
そこからが地獄だった。まだ夏休みの宿題の方がマシだった。めちゃくちゃ厳しかった。ピアノの旋律とオーケストラの旋律と、両方やらされて気が狂いそうだった。
でも、できるようになって父さんと連弾できたのは嬉しかった。瑞貴、よく頑張ったな。と言ってくれた父さん。
夏休みが終わる頃には、俺は他のラフマニノフの曲にも手を出していた。パガニーニの主題による狂詩曲もやった。前奏曲もやった。
できる度に父さんは褒めてくれた。よく頑張ったな!と。
そうだ、これができたから、父さんは俺を母校の学院に入れたかったんだ。でもダメだった。付け焼き刃だったもんな。そして、母さんはそれを見抜いていて、拒んだ。ピアニストなんかで生きていけるわけない、と。
正論を突きつけられたことに、父さんも俺もムカついた。だけど、受け止めなきゃいけないことだった。俺にはそれが分からなかったし、きっと父さんもそうだったんだろう。
それが、母さんから見たら、すごい自分勝手だったんだろうな・・・。だからあんなに怒ったし揉めていた。
凄まじくて、怖かったけど、今になれば母さんの気持ちも、父さんの気持ちも分かるかもしれない。
やがて、今通ってる高校の合格発表の日、無事受かったのが分かって家に帰ると、父さんがピアノの部屋にいた。ちょうど先生が座ってるところ。
ピアノの前に座っていた。俺が部屋に入ると、父さんがピアノを弾き出した。それが、このラフマニノフピアノ協奏曲第2番だった。
俺も慌ててピアノの前に座り、父さんの旋律に合わせてピアノを弾いた。何の会話もなくピアノを弾いた。不思議なことに、会話をしていないのに息は合っていた。
ピアノ協奏曲が終わると、父さんは独りでピアノを弾いた。ラフマニノフ前奏曲ト長調。まるでさようならを告げるような旋律だった。涙が溢れるような繊細な旋律だった。
そして弾き終わると、部屋を出て、玄関から出て行ってしまった。そして父さんが帰ってくることはなかった。
黒川。その声にハッとなった。そうだ、俺は一人じゃなかった。先生がいた。あれ?曲は、今どこ?一緒に弾いてたけど、今どこを進んでいるのかまでは意識してなかった。だけど、メロディーを聞く限りだともうクライマックスだ。海の波のようにうねる旋律。そして跳ねるようなリズムが続く。小さいけど鋭い一撃。
一気に溢れた。音がオーバーフローしながら、流れている。そしてその音が少しづつ色んなところから積み上がってきて一斉に前進を開始したかのような勇ましさ。立ち上がって、朗らかに掛け声を上げながら、最後は一つにまとまって大きな一撃になった。
Bravo!
先生が叫んだ。大きな拍手が俺を包んだ。黒川、よく頑張りましたね!ラフマニノフをここまで素晴らしく弾けるとは、あなたはやはり駿の息子だ。
強く、固く、握手した。手は温かかった。先生…息を吹き返したのかな。
あなたと連弾できて、良かった。先生はしみじみと言った。けど、これって課題じゃない、よね?
ええ、課題ではありませんよ。ただ余興に興じただけです。じゃあ、次…あ、次って最後だよね?設計、原動機、製図、旋盤、家の手伝い。6つだから次が最後か。
ええ、次が最後です。どんな課題?もはや予測不可能だった。だから早く知りたかった。先生、次ってどんな課題?
そう急かさないでください。先生は苦笑いした。次は最後らしく、最も難しくて根気やスピードも要りますよ。逆に何だよ。スポーツとか?
いいえ。では課題を申し渡します。
課題の内容を聞いて、俺は絶句した。だってそれは、今までの中で一番難しくて、そしてスピードも要る。さらに根気も問われていたからだ。
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