第7話 三障四魔
優樹と仲直りして、再び一緒に課題に取り組むものの、俺は旋盤に苦しめられた。
どうあがいても指定通りの寸法にはまらない。途中の端面仕上げが原因と考察して、念入りに仕上げても駄目だった。どうすればいいんや。またスランプや。旋盤の沼にはまって抜け出せなくなっていた。
先生はあれから部屋にも学校にも現れることはなく、俺は日に日に落ち込んでいった。
悪夢も見続けた。意識のない先生が俺の手をものすごい力で握っては苦しむ。でも何もできない。
自分の無力さに俺が苦しんだ。終わりのないスランプとどうしようもできない悪夢で、だんだんやる気も削がれていた。そんなある時だった。
いつものように旋盤を回して、穴あけ加工をしていた時。
バンッ!!と大きな音がして大きな火花が散った。とっさにブレーキをかけた。
何が起こったの?血の気が引いた。恐る恐る見ると、チップバイトがごっそり欠けていた。
大丈夫?!誰かの声がした。せつなだった。
黒川、怪我はない?わざわざ来てくれた。写真部の活動中だったらしく、一眼レフを首から下げていた。
写真部の腕章を付けた人も寄って来たけど、せつなが追い払ってくれた。
怪我は大丈夫。幸い俺の腕とかは何もなかった。
あー…黒川、派手にいったね。せつなはバイトを見て言った。
チャックの近くにバイト置いたまま回したでしょう。言われてチャックを見ると、刃物台がすぐそこにあった。よくある事故だけど。回す前は必ず周囲の安全確認からでしょう。はい。
慣れた作業は気の緩みだ。
慣れた作業って、俺今スランプ絶頂なんだけど。だからよ。落ち込んで回りが見えなくなるから事故るの。抱え込むなよ。でも俺の課題だから…。
関係ないって言うのか。せつなは言った。生徒が何か頑張ってるなら、教師はそれを支えたり指導するのが役目でしょ。あんた一人でやって、全てうまくいった?東山や颯太や桜山がいたから、できたんじゃないの?それに、あんたがひとりで作業やって、事故ったとき誰がかばうの?伊丹先生がさっきの事故を見たら、激怒したと思う。
え?
アタシ見たことあるの。同じような事故を昨年、3年生がやった。先生、ものすごい怒ってた。馬鹿野郎!って。
気がたるんどる!旋盤を扱い慣れているから、回転数が小さいからだと言って、旋盤をなめ過ぎだ!って。お前は人を殺す機械を触れているんだぞ、ちょっとのミスでたったひとつしかない命が無くなるなど、どれだけの損害なのか分かっているのか?!命がなくなったら、今までできたこともできなくなる、その悲しみも苦しみも、分からんのか!って。アタシはそこまでガミガミ言いたくないけど、旋盤を触るということは、旋盤と命の闘争なの。命がけで削る。だから精度の高いものもできるし怪我のリスクも上がる。確かに今はスランプで苦しいと思う。だからこそ自分をないがしろにしがちだけど、そういう時こそ自分を守れるようになって欲しいな。
せつな…。
とにかく時間かかっても安全第一。それこそ慣れれば安全に関してどこが大事なのか見えてくるから、時間短縮もできるし精度も上がる。
うん。
まあ、気をつけてよ。
せつなが出て行った。
黒川。優樹が言った。
せつなの言うとおりだ。お前は焦りすぎだ。なかなか上手くできないのは俺だってそうだよ。
優樹が?技能士あるのに?
技能士が全てじゃねえよ。受かったから全てじゃない。受かったってミスることも上手くいかんこともあるよ。今日はもう、休もう。優樹がそっと肩に手をやった。
ずっとぶっ続けで練習してたやろ、頭が疲れてるんや。
そう?うん。というと、優樹は刃物台からバイトを取ってくれた。こうなる前に休もう。チップバイトがごっそり欠けていた。チップを乗せるところも欠けていた。1020回転だから、ごっそりやられたな。材料をチャックハンドルを使って取り外す。
前は取り外すこともしんどかったのに、今はすんなり取れる。ほら、できるようになったこともあるじゃん。
優樹が言った。全くできねえんじゃねえよ。お前は落ち着きと自信さえあれば大丈夫やと思う。
伊丹先生と同じ言葉だ。落ち着きさえすれば何でもできると思います。
自信って…。
できるって思っとけ。自分だけは自分の味方でいろって、伊丹先生に言われた。自分をいじめるなって。掃除しながら優樹は話す。あの先生はすげえよ、いじめはやる方が100%悪いって言ってくれた。
それに俺だってスランプの時あるんだからな。その時先生言ってた。三障四魔だって。
三障四魔?
仏教の言葉。正しい行いをしていると、必ずその行いを止めようと、魔が色んなやり方で出てくる。スランプ、それから、この間のお前の怠慢とかも。1年生の時、技能検定の練習やってて、俺、めっちゃスランプのときがあって、めっちゃ落ち込んだ時期があってさ。その時、伊丹先生、俺にこう話してくれた。
東山。今こうやってスランプになっているというのは、あなたが正しい行いをしているからですって。真面目に旋盤をやってきたということです。だから自信を持ってやり続けなさいって。うん、ならやっぱりちゃんとやらないと…。
いや、疲れてるから今日くらい休めや。
でも。
三日坊主でもいいんやよって先生言ってた。俺も激しく疲れて旋盤できんときあった。でも先生は、三日坊主でもまた始めればいいって言ってた。何度も三日坊主でまた始めれば、結果としてそれはつながってくる。結局はやり続けたことと等しいって。
そんな励ましを先生はしてたのか。
だから俺は学校行けてるんだと思う。先生の励ましがあったから。
掃除が終わると、服を着替えて二人で学校を出た。
時間半端やで、どこかでコーヒーでも飲むか?
うん。なんか俺、今日は優樹に世話になってるな。
そういや名鉄岐阜の近くに、ドトールがあったな。そこかJR岐阜駅の中に入ってるミスドか?
ドトールがいい。優樹が言った。すぐ帰れるから。まあそうだよね、いいよ。
2人でJR岐阜駅まで行って、名鉄岐阜の近くのドトールに向かった。ビルの一階にひっそりと入っているドトールは、注意して見ないと見失いそうになる。
店に入って、注文を考えた。ホットココアと何かケーキでも食うか。優樹は何か食べる?
ミルクレープ。意外な選択だった。それで足りるの?うんまあ軽食だしね。
犬山までだいぶあるんじゃないか?その間は寝てるから。それで夜はゲームと。うるせえ。優樹が叩いた。
それぞれ注文して、支払いもして、席に落ち着いた。
優樹はブラックコーヒーを飲んだ。黒川はホットココアか。うん。
そういえば、俺はいつからかブラックコーヒーを飲まなくなっていた。1年生のときはわざわざなけなしの小遣いを叩いてコーヒー豆を買って、一から淹れてたのに。急に気持ち悪くなって飲めなくなってたんだ。それに…。ふと店のBGMのピアノの旋律を聴いて、思い出した。
ピアノ曲とか、昔はよく聴いてたな。コーヒー飲みながら。今ではすっかり聴かなくなった。最近は専らスマホの音楽アプリの適当な洋楽だろうか。好きなものも、いずれは忘れていくものなんだろうか。
黒川。
顔を上げると。優樹が心配そうな顔をしていた。
どうしたんだ?そんなつらそうな顔して。
いろいろ思い出しちゃって。上手くいかないこととか、忘れちゃったこととか。
忘れたこと?
うん。俺、ブラックコーヒー好きだったのにいつの間にか飲めなくなったり、ピアノも好きだったのに忘れてたり。意外だな。お前ってピアノやってたりとかしてたの?
うん。俺は父さんがもともと音大でピアノの専攻で、中学の音楽の先生なんだ。それで俺もピアノ教わってて。小さいときからやってた。父さんが暇なときにレッスンしててさ、割といろんな曲弾いてて…。
数え切れないくらい曲を弾いた。父さんも弾いてた。すげえ、お前の父さんピアノの先生でもあったんだな。うん。まあ本当はそっちで生計立てたかったみたいなんだけど、周りが反対したしピアニストも稼げないからって教師になったんだって。へえ…。お前もそっち行く気はなかったの?音楽系の学校とか。
そういえば…。ココアを飲みながら、俺は何となく記憶の糸を辿っていた。
行こうとした。京都にあるんだ、父さんの母校で、日本でもかなりの名門校が、帝聖学院高校っていうところ。そこに、父さんが行かないか?って勧めてくれたんだけど…。
中3の秋頃、父さんとのピアノレッスンの時、帝聖学院高校に行って、お前はもっとピアノを学ぶべきだと父さんに勧められたんだ。父親の俺よりお前は才能がある。だからお前は学院でもっと腕を磨いて、ピアニストになったらどうかって言われたんだ。
嬉しかった。だって、俺、中学の時5教科なんてからっきしダメで、唯一の得意教科が音楽だったんだ。合唱コンクールの伴奏だって毎回俺だった。ピアノを弾いている時だけが、俺の存在意義を確かめられる時だった。俺だってやればできるんだって、思えてた。それで、受験しようと思って、一生懸命練習した。学校の授業中に、練習してる曲が頭の中を何度もリターンして、授業なんて聞いてなかったと思う。それに、音楽の先生にお願いして、音楽室を開けてもらって、最終下校時刻まで練習してた。
部活は?と優樹が聞いた。
部活は、その時には引退してたよ。俺、バドミントン部だったけど、俺こんなんだし、すぐ負けた。
吹奏楽部とか、音楽系じゃないんだ。と優樹。だって、吹奏楽部は土日も練習あるし、夏休みだってないじゃん。それに、女ばっかで面倒くさそうだったから、嫌だった。
ふーん。確かに、女のいざこざは面倒くさいよな。俺だって上に姉ちゃんいるけど、姉ちゃんたまにウザいこと言うし、母さんとごちゃごちゃ言い合いしてる時はうんざりする。
お前、姉ちゃんいるんだ。うん。2個上。あと、下に弟がいる。今、中1なんだ。そっか。俺は一人っ子だからな。
とすれば、お前の父さんの期待は大きかったかもな。
うん、大きかったと思う。だから、それに応えたかった。それに、ピアノしかできないなら、もうこれにかけるしかないって思ってた。
だけど、俺のその思いはあっけなく壊された。学院での入試。入試は、私立なこともあって、実技試験と作文試験と面接だけだった。作文は、自分の信条は何か、また、それをもとに学院でどう成長していきたいかってネタだったと思う。面接も、大体そんな感じ。正直、イケるっしょって思ってた。だけど、現実はそう甘くなかった。
上手い。
上手すぎる。
自分の磨いた技術なんて、何でもなかった。実技試験会場のドア越しから聞こえてくる、リストのラ・カンパネラ。その音色からは、俺の想像を遥かに超えた、「天才」というべきレベルの技巧が感じられた。
寒気がした。俺、こんな奴らと張り合おうとしてたの?
自分がすっごくキモいナルシストな気がして、恥ずかしくなった。ちょっとやそっと、ピアノが弾けるから、合唱コンクールの伴奏をやってたから、音大卒の親に教えてもらってたからって、それ故にすごい才能があるんじゃない。おだてられていただけだった。だって、俺、こんな音色出せないよ・・・。こんなに繊細なのに、しっかりと芯の強さと情熱を感じる。どこの誰が弾いてるかは分からないけど、少なくともそいつは、俺が持ってない技術と才能を持っていた。
まだ試験を受ける前なのに、俺は打ちのめされた。
でも、常識で考えればそれは当たり前のことだった。この学院には、日本全国から音楽家志望の奴らが集まってくる。そして、そいつらは小中学校時代、様々なコンクールやコンテストで華々しい受賞歴があるやつばっかだ。それに、練習だって質が違う。音楽高校専用の塾に行ってるやつなんかザラだ。俺みたいにほぼ独学でやってるやつなんていないだろう。結局、俺は何もできない。
それで、試験は受けたのか?優樹が聞いた。
うん、受けたさ。逃げはしなかった。一応、やるだけのことはやったし、ここで辞退するのは何か後悔しそうで、嫌だった。
ちなみに、何を弾いたんだ?課題曲と自由曲ってのがあって、課題曲はリストのラ・カンパネラ。自由曲は、ドビュッシーの夢。
まあ・・・分かんないよな。知ってる。姉ちゃんがピアノ習ってるから。そりゃあ打ちのめされただろ。
うん。頭を思いっきり何かで叩かれたみたいな、って表現は、ああいうことだったのかもしれない。それで、一応全力は出し切った。でも結果は・・・。
察するわ。うん。じゃなきゃ今ここにいないからな。不合格だった。講評によると、俺は、表現力はあるんだけど、指使いが我流過ぎてキータッチが雑なところがあるらしい。他にも、技術的にレベルが低いところがあるそうで、それが足を引っ張った。
褒めてもらえたことがあったのは良かったな、って言おうと思ったけど、何か、そういうわけじゃなさそうだな。と優樹は言った。
うん。そういうわけじゃないんだよな。
やっぱり、技術。旋盤もそうだけど、俺は技術力が圧倒的に足りない。講評を見た父さんが、残念そうにしているのを見て、俺はつらかった。
だけど、父さん、ごめん。と何度も謝る俺に対して父さんは、学院のレベルが高すぎるだけだ。お前はよく頑張った。よく挑戦した。気にするな、って言ってくれた。
それで、愛知県内の公立の音楽高校とか、他県の音楽高校を色々調べてくれてたんだけど、それに母さんは賛同しているかといえば、そんなことはなかった。
いつまでそんな意味のないことしてるの?学院で十分思い知ったんじゃないの?それに、瑞貴の今の成績じゃ、入れる高校なんかないんじゃないの?ピアノだってダメだったんだから、切り替えて早く勉強しないと、高校も行けないわよ!
それを筆頭に、家が荒れたのだ。
もともと母さんは超がつく現実主義者だ。あの人、子ども時代に、夢ってものを知らなかったのかな、って思うレベルで。
だから、母さんは、俺が学院に落ちるのを待っていたかのように見えた。
それに、俺の父さん…。俺が中学入ってから部活が吹奏楽部に配属になって…。ああブラックだな。うん。ピアノレッスン、俺が中学入ってからあんまできんくなってきて。俺単独でやったりしてたんだけど。いいとこだけ見るなって母さんが父さんに怒ってた。凄まじかった。父さんはなんにも悪くないのに。他の顧問が父さんに仕事を押し付けたり父さんをいじめたりしてた。多分、父さんは学院をかなり優秀な成績で卒業したから、妬みだろうって言ってたけど。その家の闇の渦にお前は飲み込まれてたってことか。うん。
忙しい仕事の合間を縫って、ピアノのレッスンをしてくれたんだけど、母さんはそれにも不満があったみたいだ。でも、そうだよな。
母さんだって仕事があって、でも家事やったり俺の面倒も見なきゃいけなかったりしてた。それに、父さんは部顧問で、土日も家を空けるから、どんなに疲れていてもあてにならない。母さんは、本当は父さんに何か愚痴とか色々、聞いてほしいことがあったのかもしれない。だけど父さんはいないし、俺は愚痴の相手には幼すぎる。それに、連戦連敗のテスト結果や内申の低さは母さんにとってイライラどころかムカつきの火種だった。こんなやつに愚痴なんか話したくないよな。
そして俺の不合格。それでも父さんは、自分と俺の夢のことしか考えてなかった。そのことに、不満や不安は尽きなかっただろう。そして、岐阜県の公立高校の入試の直前、それが爆発した。
凄まじかった。あんなに怒った母さんは見たことなかった。それに、父さんも。
親なら、子どもの才能を最後まで信じきって、できる限りの援助をするべきだろう、という父さんに、現実を見ずにいつまで夢ばっか追ってるの。早く諦めて、真面目なところへ就職させないとこの子は生きていけなくなるわよ、無職になっても良いの?!
夜通し、その言い争いは続いた。俺はその言い争いが怖くて、ずっと自分の部屋にこもっていた。入試の勉強をしなくちゃいけない、と思って問題集を開き、シャーペンを握るけど、言い争いの声が怖くて集中なんかできない。
ずっと、俺は自分を責めてた。俺が馬鹿だから、俺が何もできない、ピアノしかないって思ってうぬぼれてたから。何で、もっと色々勉強しなかったんだろう。何で、色んな可能性を考えて勉強しなかったんだろう・・・。
それに、万が一学院に受かった場合、学院は音楽の教育の他にも、学習にかなり力を注いでいて、そんじょそこらの進学校よりかなり頭が良くないと、ついていけないレベルだった。外国語教育もすごくて、英語の他にもう1個外国語を履修しなきゃいけなかった。だから、遅かれ早かれ勉強はちゃんとしなきゃいけなかったのに・・・。
そりゃあ、色々やっても身にならないよな。大変だったな。
お前に労われるなんて。
当たり前だろ。大変な思いしてる人に侮辱なんかできるか?
優樹、お前って本当に良いやつだな。俺は苦笑いした。痛みを知ると、自動的にそう思えてくるんだ。
伊丹先生もすごく励ましてくれた。俺、たまにポツンと休むだろ。
そうだっけ?
休むよ、月一ぐらいかな。そうだったっけ、あんまりよく見てなかったけど…。
俺、未だにフラッシュバックとかあって学校行けなくなるときがあるんだけど、その後伊丹先生に会うと、先生いつも言ってくれたんだ。
よく来られましたね、学校に来れただけでも東山の大勝利ですよ。って。
その言葉がどれだけ俺を救ったか、計り知れない。だから俺も、苦しんでる人には励ましを送りたい。良いものは分け合いたいんだ。
優樹の温かさに触れて、ちょっと心がほぐれた。
ドトールを出て別れるとき、あとは家でちゃんと寝ろよ。明日もまた頑張ろう。と優樹は励ましてくれた。
友達がいるって、すごく大事なことなんだな。1人ではためらうことも、2人でなら何とかなる。
優樹、ありがとう。俺は心からそう思えるようになった。
でも・・・、先生、そんなに優樹のこと見ていたんだ。だとしたら、俺は優樹から先生を奪ってしまったのかもしれない。
俺だって、高校入ってから、1年の旋盤実習の時以来、先生にめちゃくちゃ色々見てもらってた。話もたくさんした。でも、ある日を境に、先生はいなくなった。そして、俺は先生のことを忘れた。
誰かが息を吹きかけた瞬間、跡形もなく消えてしまうろうそくの火みたいに。
そして、そのろうそくの火が消えたと同時に、俺はあらゆるものへの関心がなくなってしまった。いや、正確に言えば、父さんがいなくなった辺りから無気力だったけど、1回先生のおかげで持ち直した。だけど、それも消えた。
結局、俺が悪いんじゃないの?俺が無気力だし馬鹿だし、何もできないから、うまくいかないんじゃないの?
俺には何かを、誰かから奪うことしかできない。時間だってそうだし、大切な人や、期待、信頼。俺が奪ってきたんだ。俺が馬鹿だから。俺が、何もできないから。
こうしてる間にも、先生は苦しいままかもしれない。もっと病気が悪化してるかもしれない。でも、俺、何もできないよ・・・。それに、この課題で何が救われるの?
先生の病気とは何も関係ないじゃん。どうして、俺はいつも苦しまなきゃいけないの?ずっと無気力で馬鹿だったことの因果応報だ、って分かってるけど、ひどすぎるよ。
それに、眠るのがまだ怖い。この前見た悪夢が俺の頭の中で何度もリターンする。後悔と悲しみと苦しみが、俺を容赦なく襲った。苦しむ先生を目の前に、俺は何もできない。
手をギュッと強く握られるときの、冷たくて骨が折れそうになるあの苦しさが、痛い、苦しいと俺に訴える先生には何もできないもどかしさが、俺を襲う。痛すぎて、苦しくて、声を上げた。その時だった。
黒川、起きなさい。
肩をグラグラ揺らされて俺は現実に引き戻された。
…え?
そっと目を開けると、部屋の電気がついていて、そこには先生がいた。心配そうに俺を見ていた。
大丈夫ですか?うなされていたので、一旦目を覚まさせたのです。
先生…。
なぜか涙がこぼれていた。夢を見てた。先生が死ぬ夢。俺、何もできなくて、でも先生は苦しんでて、何もできないのがつらくて…。体を逆向きに反らした。泣いているのを見られないように。
何で泣いてるんだろう。分からないけど涙が溢れる。俺、先生を殺したのかな?俺何やってんやろ。
黒川。
そういうと先生は背中をさすった。怯えないでください。これが魔の正体です。友人の死が信心をやめさせようとすることがあります。でもこれは夢だ。現実ではない。夢に囚われてはなりません。人はいつか必ず死にます。私も、あなたくらいのときに病で父を亡くしました。父が病魔に苦しんでいても、私には何もできなかった。あなたと同じように私も辛かった。ですが私はまだ生きております。
先生…。
そっと髪を撫でられた。死なないで、行かないで。行きませんよ、あなたの一念で私は変われます。死んだりしませんよ。ホント?というと俺は寝返りを打って先生と向き合った。
黒川。コホン、と先生は咳払いをした。
我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん。つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし。という御文があります。仏法の話です。信仰を深めると、必ず難が襲います。その難とは、今のあなたのように悪夢だったり、スランプだったり、難は器用に姿を変え、真面目に頑張る人をやめさせようと襲います。しかし、ここが難を乗り越えるか、乗り越えずに敗北するかの分岐点です。ここを乗り越えれば、必ずや目標は達成できるでしょう。今のあなたは、前と違ってしっかりと課題に取り組まれています。しっかり、変わろうと決意されて動かれているではないですか。素晴らしい成長ですよ。
ホント?はい、本当ですよ。それに、前に言ったでしょう。あなたの一念で世界は変わると。あなたの決意で世界が動くのです。新たな歴史は一人の挑戦から始まります。偉大な勝利は一人の戦いから始まります。
うん。
さて、落ち着きましたか。明日も学校です、寝ましょう。というと、先生は俺にベッドカバーをかける。
風邪を引かないように。馬鹿だから引かないよ、というと、先生はクスッと笑った。
眠るまでいなくていいですか?うるさいな、いいよそんなん。
顔をそむけて俺は目を閉じた。先生は電気を消した。何だか、父さんみたいだ。小さい時、母さんが夜勤でいないときは寝る前に父さんが寝かしつけてくれて、電気を消して出ていった。けど、先生はどうなんだろう。と思ったとき、黒川、ごめんな。先生の声がした。
え?と思って言葉を返そうとした時、俺は意識を失った。
翌日も俺は真面目に授業を受けて、旋盤と向き合った。
優樹の話をじっと聞いて、しっかりと動く。先生、あと少しだよ。痛いのも苦しいのもあと少しで終わる。
死なないでよ、俺のせいで死なせたくない。生きて欲しい。頭に切り粉が飛んできても、頬に切り粉が飛んできても、俺は気にならなかった。
祈りが届いたのか、部品の寸法が一致した。やった、できた!
良かったな。優樹が肩を抱いてくれた。
ありがとう。素直に言葉が出た。ありがとうって素直に言えるのって気持ちがいい。
先生喜ぶぞ。うん。エアーをかけて、部品についている切り粉を落とす。優樹がウエスを持ってきて、部品を丁寧に拭いてくれた。そして、大事そうに包んでくれた。部品の切り粉がカバンについて傷付かないようにしておいた。うん。次の課題出たら教えてくれ。俺もやりたい。優樹も?うん。どうするんだ、設計工作原動機オール100点だったらお前できる?できねえけど、やれることは精一杯やる。何でも、その時自分にできることを一生懸命やった人が偉いって伊丹先生言ってたもん。
お前。ん?伊丹先生に、すごく支えられてたんだな。悪いな、俺が課題やってたり色々伊丹先生を…。お前にやらせた方がきっとすぐ助かっただろうに。
黒川、それは伊丹先生に失礼だぞ。
え?
先生は、願ってお前に任せたんだろ?仏教の言葉に、願兼於業って言葉があってさ、菩薩っていう、修行によってすげえ徳を積んだ偉いやつが、悪世で苦しむ人々を救うために、わざわざ願って自分のすげえ業の報いを捨てて、悪世に生まれるって言うんだ。その結果、菩薩はめっちゃやばい苦しみを受けるんだけど、それは他の人と苦難を共有して、それを乗り越える手本を示すことだという。伊丹先生が言ってた。俺が苦しかった時、今のその苦しみは、東山が後の将来、たくさんのいじめられた被害者や、物事が上手くいかない人を励ますためにある。苦難や苦労が大きいということは、それだけ東山には大きな使命があるのですって。それが本当なら、今、俺は黒川を支えるのが使命だと思う。そのためにいると思うし、俺は、将来…。
うん。
覚えた技術で人を助けたいんだ。職業訓練指導員になりたい。
ん、何それ?
仕事に就きたくてもスキルない人に、色んな技術を教える仕事だよ。旋盤やフライス盤や溶接なんかもそう。伊丹先生に心を助けてもらって、俺も人を助けたくなった。それで、職業訓練指導員って仕事を教えてもらった。だからその練習をさせてもらってんだと思う。
優樹。ん?
すげえなお前。俺が腐ったり沈んでる間に、優樹は精一杯生きてた。辛かったときもあったはずなのに。たった一人の励ましでここまで変われる。俺も励ましてもらってたはずだ。なのに。
落ち込むなよ、課題できたじゃないか。うん。
優樹に励まされて、俺は部品を持って家に帰った。
ただいま。と言って部屋に入ると、先生はベッドに寝そべって漫画雑誌を読んでいた。額を見ると、ガーゼが無くなっていたので、怪我は治ったようだ。
先生、ただいま。
ああ、おかえりなさい。雑誌を閉じて起き上がった。
部品できたよ。カバンから部品と設計図を取り出した。
おつかれさまでした。
部品と設計図を受け取ると、先生はデジタルノギスを作業着から取り出した。設計図を見ながら色んなところの寸法を測った。
緊張が走る。カチ、カチとノギスで部品を挟む音がした。
しばらくすると、先生はノギスをベッドの上に置いた。よく頑張られました。折返し地点も無事通過です。
ということは?
合格です。部品は2つとも許容範囲内です。
ありがとう。
いいえ、あなたが頑張ったのです。先生は言った。
あの事故があったときはヒヤッとしましたがねえ、よくできました。
え、知ってるの?
ええ、見ていました。あなたの知らないところでも、私は見ていますよ。
ストーカーかよ。
ストーカーなんて失礼ねあなた。こっちがどんな気持ちで見ているかあなた知らないでしょう。そのオネエ言葉やめろよ、せつなもキモいって言ってたぞ。あら牧口先生が…。先生は頬を両手で覆った。
うん、やめようぜ。あなたに注意されるなんて、私としたことか。いや、俺は前からツッコミ入れてる。クスッと先生はいたずらっぽく笑った。黒川としたことか、参りますねえ。じゃあ課題なし?いいえ、まだまだ課題はあります。あと2つですが…。折返し地点を通過しても、油断は大敵です。じゃあ今度の課題は…。俺は身構えた。旋盤の次は溶接か?フライス盤か?
簡単です。お家のお手伝いをしてください。
は?
今までの課題の中でダントツの衝撃だった。
何をおっしゃいますか。あなたは再来年社会人ですよ?ひょっとして進学をお考えに?
まさか。家にそんな金はない。俺も大学入ってまで勉強したくない。
ですよね。それでは一人立ちした時が心配です。自立の訓練もしましょう。
どうやって?何をするの?
ですからそれが家の手伝いです。手伝うのにわざわざ指示を仰ぎますか?
ううん。
でしょう?ご自身でお考え下さい。消えた。
家の手伝いか。まあ俺は、実際、父さんが出てっちゃって母さんと2人暮し。離婚したのかもしれないけど、そこまでは聞いてない。多分離婚してても親は俺には言えないだろう。俺がナイーヴなの知ってるから。で、母さんはもともと看護師なのもあって食いっぱぐれはないんだけど、仕事は忙しくなった。夜勤も増えたから俺は家で一人のことが多い。食事もあんまり良いものは食べてない。メシでも作るか。そう思って、俺は台所へ向かった。
冷蔵庫にあるありあわせの野菜を刻み、肉を食べやすい大きさに切って調味料で軽く味付けした。
あとは、スープも作ってみた。テキトーな男子飯ってやつか。炊飯器で米なんか炊いて、まともに作っちゃった。あとはいいかな、と思ったときだった。
ただいま。母さんが帰ってきた。
おかえり。
食卓を見るなり、母さんはびっくりしたらしい。
瑞貴、どうしたの?
いや、夜飯作った。あんまりダレすぎるのも良くないと思って。どうしたの?最近遅くまで勉強したり練習したり、何かあったの?いいや、俺もさすがにダレ過ぎは良くないなと思って。
母さんはクスッと笑った。偉そうなこと言って、それがいつまで続くのかしら。
ドキッとしたけど、すぐ優樹が言ったあの言葉を思い出した。三日坊主でもまたやり直せば継続したことと変わりない。やれるだけやるよ。ずいぶん変わったね。
母さんは驚いたようだった。誰かに入れ知恵でもされたの?正確にはされているだろう。でも、信じてもらえないだろうから言わなかった。
まあ、後片付けだけはちゃんとやってね。うん。ふたりでささやかな夕飯を囲みながら、とりとめのない話をした。
そういや、母さんと話したのって父さんが出ていってからあんまりない。仕事のせいだと思うけど。会えば色々嫌なこと言われるし、疲れてるの知ってるし、イライラしてそうだし話しかけたくない。でも、手料理を食べるとこんなに心穏やかに話せるのも不思議だ。家の手伝いって重要だよな。
食事の後片付けをしていると、母さんが台所に入ってきた。瑞貴、今までごめんね。
感じたことがない、心がじわーっと暖かく溶けていく感覚がした。何かが俺の心を開いた気がした。
先生、見てる?
このことがきっかけで、料理にハマったこともあって、俺は当分夕飯の支度をすることにした。学校が終わると、岐阜駅近くのスーパーや家の近所のスーパーへ寄って、買い物して、家で夕飯を作った。
黒川。ある日颯太が放課後、昇降口で声をかけてきた。カラオケ行くの?俺は無理やお。最初から防波堤を築いた。
何でそうなるんだよ、俺イコールカラオケとか遊びってやめてくれよ。
じゃあどうしたん?
最近、お前岐阜駅のパレマルシェとかで買い物してるだろ。
え、見てたの?うん。俺も買い物するから。
珍しいな。珍しくねーよ普通やで。
はあ?
まあ、一緒に行きながら話しようぜ。颯太に連れられて学校の外へ出た。
俺、家が母子家庭なんだ。颯太は言った。俺が中学生の時、親が離婚して俺と兄貴は母さんについていった。母さんの地元が岐阜市だから、俺は県またいだんだ。
え、てことはお前…。
俺名古屋出身なんだ。もし何もなかったら普通科行って大学で勉強したかった。
えらく真面目だな、本性は。
俺はいつだって真面目だよ。あんなに遊んでるのに?
俺だって遊びたくて遊んでんじゃねえ。ホントは名古屋に帰りたいよ。勉強したい。でも、俺は道を塞がれたから。
ちなみに、何を勉強したかったの?
海洋生物学とか、獣医学。俺、動物とか海の生き物好きでさ。動物園とか水族館とかめっちゃ好きで。将来水族館で働いたり、獣医とかなりたかった。
でも、父さんが…借金作ってたの母さんにバレて、離婚しちゃった。うち、自営業でさ。建設業やってたんだ。それが事業の悪化で破産しそうになって、借金しながらやってたんだけど、それでもだめで。俺は生きるために働かなきゃいけなくて、そのために工業高校に入った。遊んでんのは、働いたら遊べなくなるかもって思っちゃって。でも、現実世界、そんなことはないんだけど、遊ばないといろいろ思い出しちゃって。というと颯太は笑った。
笑えよ、黒川。
笑えない。俺は言った。伊丹先生なら、どんな声掛けをするんだろう。
伊丹先生、俺に前、こんなことを言ってくれてた。
久屋、経済苦を原因に夢を諦めることはありません。確かにストレートで大学に行き、獣医学や海洋生命学を学び、獣医になるのは素晴らしいことだ。
しかし、道は一つではありません。あなたが家に帰る前に寄り道をして遊ぶように、寄り道や回り道をしてもいいのです。
働いてお金を貯めつつ勉強をし大学に入ることもできますし、奨学金制度を使って大学に行くこともできます。
だから、今やっていることを何一つ腐らず取り組んでいけば、いつかは大学だって獣医だって叶えられますよ。最後に勝てばいいのです。
それより、今ここで貧しさや悔しさを実感しているのなら、将来獣医になったとき、貧しい飼い主の気持ちが分かるかもしれない。
失恋や悲しみに包まれている友人の気持ちがわかるかもしれない。何一つ無駄はないと私は思います。
それ、いつ言われたの。旋盤実習の時。俺、作品実習時間内に終われなくて、居残り引っかかっちゃってさ。その時にいろんなこと喋った。あの先生スゲエよな。自分も高校生のときに父さん亡くしてて、それでも奨学金受けながら大学行って、機械学科を首席で卒業したんだって。学生のときに、機械学会で発表したこともあるらしい。大学院に引き抜きもあったけど断って就職したんだって。
だからあんなに知識が豊富なのか。大学の首席ならそりゃあエリートだよな。
最初は会社にいたらしいけど、いろいろあって教師になったらしい。
いろいろって?そこまでは言ってなかった。
それよりさー、そんな励ましされたら頑張っちゃうよな。それで俺は少しでもいいとこ入りたくて学校行ってるもん。
せつなが理由じゃないんだ。
颯太は笑った。せっちゃん?まあ確かにあいつは俺の永遠のマドンナだよ。せっちゃんに惚れたのは嘘じゃない。あいつ、何だかんだ冷たくあしらってくるけど、本当はスゲエ心配してくれてるのも、面倒見てくれてるのも知ってるから。でも、俺は生徒だしせっちゃんだってせっちゃんのことがある。
だから、生徒の側からせっちゃんが好きだし信頼してるし、いいなって思ってる。結構大人な意見だった。
自分の立場は分かってる。だから、その立場から好きな人を精一杯好きでいることが、俺の信条やよ。
ふうん・・・。お前って、ガチでせつなにぞっこんなのかと思ってた。ははは、そう見えても仕方ないよ。颯太は苦笑いした。
一緒に岐阜駅まで行って、駅の近くにあるパレマルシェで買い物をした。今日、何作ろう?色々、野菜とか魚とか、陳列棚を見て俺は思った。
これも、ものづくりの一貫だろうか。
颯太は、慣れた手付きで次々と商品を入れていく。こいつ、本当に家事とかやってるんだな。
俺の知らないところで、みんな大人になっていく。やっぱり、閉じこもるのってマジでだめなんだな。と俺が思った時。
あれ?優樹と剛だ。2人で仲良さそうに談笑しながら、歩いていた。颯太、あれ見て。ん?剛と、優樹じゃないか?
あ、ホントだ。声かけようぜ。颯太がそさくさと動いた。こいつの社交性はすごい。
よっ、2人で何やってんの?颯太が、剛に声を掛けた。颯太か。いやあ、優樹が腹減ったって言うから、来てみたんだ。コンビニだと高えって聞かないから。
優樹って、変なとここだわるよな。颯太がクスッと笑った。
優樹。と俺は優樹に声を掛けた。何買うの?何って、パンとか、チョコレートとか。スーパーの方が大量に仕入れるから、値段が安いんだよ。
お前主婦か。俺は苦笑いした。仕方ねえだろ、俺はバイトしてないんだ。小遣いだって、そんなにないし。
優樹、バイトしてないんだ。剛が言った。俺もしてない。剛も?優樹が聞く。うん。ジャズバンドは?俺も聞いてみた。
ああ、あれは、収益は基本大人に回ってるんだ。それに、収益ってもそんなに無いし。ジャズバンド?颯太が言った。うん、俺、ジャズピアノやってる。
すげえなお前。何で音楽科のある高校に行かなかったんだ?ピアノは趣味だから。ふーん。ジャズとか、聞いたことねえよ。なら、俺がおすすめのジャズ、YouTubeで見せてやるよ。マジ?パリピでもハマるの教えてやるよ。俺ってそんなパリピか?颯太が笑う。うん、少なくとも俺よりは。と優樹が言った。
お前は、3人同時に突っ込んで、声が揃ったことにみんなで笑った。こういった何気ない会話が、実は一番、颯太の心を癒やしているのかもしれない。
夕飯の支度をして、洗濯機を回して、洗濯物を干して、俺は日が経つにつれて、家事を覚えてきた。
旋盤加工と同じで、やればやっただけ身につく。しかも、今回は、しつこいけど、俺単独で家事をこなすことができた。
俺は1人だと何もできないって思ってたけど、そうじゃなかった。できることはたくさんあった。でも、そのできることがダサくて、自分で自分にそっぽ向いてたんだ。
プライドが高すぎた。プライドなんか、持つものじゃない。自分で、自分のできることを最大限に認めてあげないと、成長も何もないんだ。
家事を始めて2週間が経った休日、俺は珍しく朝早く目が覚めた。着替えて、下に降りると、母さんが台所に立っていた。
おはよ。俺は母さんに声を掛けた。瑞貴。母さんは、俺の方を見た。
仕事?うん、今日は出るのが早くてね。最近、バタバタなのよ。そっか。
瑞貴。と母さんは言った。何?
今まで、ごめんね。色々酷いこと言っちゃって。あんた、頑張ってるのに。いやあ、俺も、色々避けちゃってごめん。それに、頑張りだしたのってつい最近じゃないか。
だいぶ顔が変わったわよ。クスッと母さんが笑った。瑞貴が頑張ってるから、私も頑張んなきゃって思ってね。色々あんたに八つ当たりしちゃって、後悔して、の連続で。でも、自分が変わらなきゃ、何も変われないって、瑞貴を見て思った。ごめんね。ちょっと意外な発言だった。
チラッと時計を見て、母さんは、思い出したように言った。あ、もう出なきゃ。本当に急がないと。うん。
あ、朝ごはん作ったから。そう言うと、母さんは台所の床に置いた荷物を持って、忙しそうに出ていった。行ってきます。うん、気をつけて。
母さんの朝ごはんなんて、一体いつぶりだろう。メニューは大したことないけど・・・。でも、心が暖かくなる。
そして、なぜかコーヒーが欲しくなった。前は飲めなかったコーヒー。台所に行って、ドリップコーヒーのパックを探してマグカップに置いて、電気ケトルでお湯を沸かした。
うん、前こうやってコーヒー、淹れてたな。お湯が湧くと、俺はマグカップにお湯を注いで、コーヒーを作った。
コーヒー豆の香りが香ばしくて、ホッとする。パックをマグカップから外してゴミ箱に捨て、マグカップを持ってダイニングテーブルに戻った。
自画自賛じゃないけど、美味い。ホッとする味だ。
コーヒーを飲みながら、俺は休日の朝ごはんを楽しんだ。
おはようございます。
聞き慣れた声がして、俺は前を見た。長袖のカーキ色の作業着を着た先生が立っていた。
あ、先生。おはよ。俺は挨拶を返した。
課題はどうですか?
大丈夫だよ。夜飯作ってるし、洗濯とか掃除もやってる。へへ、偉いでしょ。
クスッと先生は笑った。
何だよ。いいえ、誇らしげにするあなたが微笑ましかったのです。うざ。俺は苦笑いした。
あ、そうだ。先生って、コーヒー飲める?ふと思い立ち、俺は聞いた。飲めますよ。ブラックでも、カフェオレでも。
そっか。と言うと、俺は台所に立って、またドリップコーヒーのパックをマグカップに置いた。さっきの余ったお湯で、コーヒーをドリップした。
黒川に、そんな趣味があったんですね。先生は、びっくりしたような表情をした。
うん、俺、コーヒー好きなんだ。ドリップが終わると、俺はまたパックをマグカップから外してゴミ箱に捨てて、マグカップを先生のところに持っていった。
はい。マグカップを手渡した。
ありがとうございます。
両手で包み込むようにしてマグカップを受け取ると、先生は、静かにコーヒーを飲んだ。
ホッとしたような表情を浮かべた。うん、美味しいですね。良い腕前だ。老舗の喫茶店のバリスタのようです。
ちょっとそれは言い過ぎだけど、ありがとう。照れくさかった。
コーヒーって落ち着くよね。はい、一息入れるのに持ってこいの飲み物です。
俺さ、前、コーヒー淹れて、それからピアノ曲を聞くのが好きだったんだよね。ピアノ?うん。
ジャンルは?クラシックが基本だった。ジャズは・・・微妙かな。ほう。
何か、話してると、ピアノ弾きたくなってきた。ピアノ弾こうかな。弾けるんですか?うん、小さい頃から俺、ピアノ習ってたし。
ああ、そうだ。俺、ピアノ弾けたんだ。得意なことは、もうすでにあったじゃないか。
先生と一緒に、1階の奥の、父さんの部屋へ行く。前、先生がブルックナーを聴いていた部屋の隣に、実はピアノの部屋があって、そこにはグランドビアノが2台、置かれていた。片方は父さんが昔から使っていたやつ。もう片方は、俺が小さい時、ピアノを始めたのを父さんが喜んで、奮発して買ったやつだった。
俺は、その俺用のピアノの前に腰掛けた。一通り弾けるようにセットした。すると、父さんのピアノの前に座った先生も、セットを始めた。
先生も弾くのかな。
指をキーの上で動かして、弾く感覚を戻す。ピアノの音が響くたび、俺は自分の感性が生き返ってくるような気がした。
一通り指を温めると、俺は深呼吸してまたピアノのキーの上に手を置いた。
先生、これ、知ってる?何となくだけど、俺は思いついた曲を演奏し始めた。ラヴェル作曲、亡き王女のためのパヴァーヌ。
もともとゆっくりした曲だから、久々に弾く俺でも何となくリズムや音は思い出せた。
やがて、飛行機が離陸して軌道に乗るように、俺の手はスムーズに動き出した。手は、覚えていた。
忘れてたと思った。でも、本当に好きだったものは、必ず思い出すことができる。良かった。と、俺がが思った時。
鼻をすする音がした。演奏しながら、ちらっと横を見ると、先生が静かに泣いていた。涙がスッ、と左目から流れ星のようにこぼれた。
俺は気づかないふりをして、最後まで演奏を続けた。
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