商人は神を封じる

アミノ酸

第1話 友を得て、誇りを失う

『それは天を覆い尽くし光を奪う』


 早くしないと船が転覆してしまう。

 甲板に石をばら撒いたような雨粒の合唱が鳴り止まなかった。

 風で張り詰めた帆はこの船に時間が残されていないことを告げている。


『それは海を掻き回し命を奪う』


 水夫が海に投げ出されるのを視界の端で捉えた。

 耳元で唸る強風はすぐ目の前の叫び声を掻き消してしまう。

 一刻も早くこれを書き切りたいが、寒さと恐怖でペン先の震えが止まらない。

 腰に結んだ縄の締め付けだけがこの場で自分を守ってくれていた。

 これが片付いたら残りわずかの砂糖と茶葉を使い切り、甘い甘い紅茶で一息つくんだ!

 最後の力を振り絞り、かろうじてまだ濡れていない紙面に渾身の力を込める。


『山をも削り大地を穿つ。その名は【テンペスト】』


 途端、帆は張り裂け船が大きく傾いた。

 間に合わなかった……。

 反射的に魔本とペンは抱き寄せたものの、勢いよく揺さぶられたことで身体が宙を舞う。

 仰いだ天には、さっきまで佇んでいた大蛇の腹の様な黒雲から一筋の光が差し込み、本来の底知れない青さが顔を覗かせていた。


「いやぁ、大したもんだ! まさか本当にあの嵐を吹っ飛ばしちまうんだもんなぁ!」

 先程までの剣幕が嘘のように、無精髭の伸び切った船長の豪快な笑顔が手厚く迎え入れてくれる。

 無意識に触ってしまう腰の痛みと未だに地面が揺れている感覚が、一連の騒動を現実だと告げていた。

 鼻をくすぐる紅茶の香りが頬を温め、舌を灼く甘さが身体に深く染み込む。

「約束通りボタリアまで運んでやるよ。本来、密航者は魚の餌になるか『サーカス』のやつらが襲ってきた時に差し出せるように縛り付けておいてやるんだがな」

 ガハハと笑うその表情に悪気がないのはわかるけれど、危うく自分がそんな扱いをされかけていたのかと思うと苦笑いをするのにも一苦労する。

 せっかくの紅茶が台無しじゃないか。

 まあ、悪いのは密航していた自分なんだけど。

「それにしても本当にあの嵐を吹き飛ばしちまうとはなぁ。シャムロキア人はみんなそんな不思議な力を持っているのか?」

「いえ、私の力ではないデス。この魔本のおかげデス」

 商人として生きてから嘘をつくのが上手くなった。

 黒髪、黒目を特徴とするボタリア人やサクレア人の多いこの地方を行き来する船長からすると、いまだにシャムロキア人に多い色素の薄い金髪、碧眼は物珍しいらしい。

 シャムロキア人でないことをわざわざ否定する気にもなれず愛想笑いを浮かべてやり過ごした。

 まぁ、自らシャムロキア人だと名乗った訳ではないし。

「本当にあの部屋を使わせていただいていいんデス?」

「おう、構うこたぁねぇ! 船の恩人を倉庫で寝かす訳には行かねぇからな! それにしてもサクレア語が上手いな、ちょっと変なところはあるがそれだけ話せりゃ十分だ。こっちに来て長いのか?」

 品定めをするように上から下までこちらをジロジロと見やるその姿に自分を省みた。

 例えそれが商人として染み付いた習慣である目利きや値踏みだとしても相手には敬意を払うようにしなくては。

 お喋り好きな船長を適当にあしらい頃合いを見計らって船長室から失礼する。

 その後も出くわす水夫達からは嵐の前とは打って変わって掌を返されるが、その多くは称賛だけでなく好奇の目や下品な誘い文句であった。

 いちいち相手にするのも面倒であったが、何よりも眠気に限界が来ていたので当てがわれた個室に逃げるように駆け込みベッドに横たわる。

 疲れた……。

 この海洋で古くからの伝承にもなっていた大嵐を魔本に封じ込めたことで心身ともに限界に達していた。

「こんなに柔らかいベッドで眠れる……なんて……」

 倉庫でひっそりと息を潜め、荷袋と身体を寄せ合っていた頃と比べると破格の待遇だ。

 身体とシーツの境目がわからないまま深い深い眠りに落ちていく。


「お、おえぇぇぇ! ……はぁ、はぁ、うっ……」

 意識が眠りの底に張り付いていたはずなのに、最悪の唸り声で引き剥がされた。

 目が満足に開かずに頭も痛いのに、無駄に覚醒した聴覚は薄い壁越しの嗚咽をしっかりと聞き取ってしまう。

 聞き流し眠りに潜ろうと脱力したところで、続く叫び声は簡単に意識を醒ましてくれた。

 勘弁してよ……。

 気がつけば身体を起こし、隣の客室をノックしている。

「大丈夫デスカ? 甲板に上がりますか?」

 扉越しに返事の代わりに呻き声が聞こえた。

 何の気になしにドアノブに手をかけると、スルリと開いてしまう。

 割り当てられた部屋と同じ作りだったが、一つだけ違うものが鎮座していた。

 長い黒髪を床につけそうになりながら、うずくまった女性が背中を丸めている。

 その服装からサクレア人だろうことは想像がつくものの、心なしかその衣装には装飾品が多くあしらわれているように感じた。

 位が高いのかもしれないが船酔いに苦しむ姿からは階級を感じさせられない。

 傍らに寝かせられたサクレア特有の刀と呼ばれる剣の綺麗な朱色の鞘が儀式的な装いを想わせた。

 反吐を吐ききって何も出ないのに胃袋を裏返らせるようにただ獣の様に桶に向かって唾液を垂らす。

 振り向いて見ず知らずの他人に助けを求める瞳はその場にそぐわない輝きを秘めている。

「み、水……。水を……うっ」

 お金ならいくらでも払うから、とでも言いたげな苦悶の表情を浮かべ涙と鼻水でぐちゃぐちゃにさせながら女性は遠慮なしに叫び続けた。

 綺麗な人の汚らしい姿にどこか面白みを感じてしまいつつ、自分の疲れを差し置いて手を差し伸べてしまう。

 困っている人を見つけた時に商機と思ってしまうことで一端の商人になってきたのだと自覚した。

「これ、船酔いに効くハーブデス。噛んでると楽デスヨ」

 気がつけば売り物のハーブを彼女の口に運んでしまっている。

 恐らく自分より年上の女性だが、どこか庇護欲を掻き立てられた。

「ご……。あり……」

 吐瀉物で鼻を詰まらせながら礼を忘れない姿勢に尊敬に似た同情を感じながら背中をさすり続ける。

 段々と呼吸が落ち着いてきたのか、指で鼻をかむと女性は深い溜息の後にようやく背中を伸ばす。

 女性にしては少しだけ高い上背は、その艶やかな黒髪を差し引いても憧れを抱かせるには十分だった。

 嵐の後の湿度でいつもより波打ってしまうこの金髪とは対照的に、上等な絹糸を思わせる黒髪に、つい手が伸びてしまいそうになる。

「本当にありがとう……。あっ、えーと……アリガトウ」

「サクレア語で大丈夫デスヨ。それにお姉さん片言になっただけでサクレア語のままじゃないデスカ」

 気恥ずかしそうに照れる表情に腰の奥底がゾクゾクとする程に目を奪われた。

 サクレア人特有の深く黒い瞳が涙で夜空のように煌めき、長い睫毛が視線を絡め取って離さない。

「何か御礼をさせてほしいけど、ここの船賃で持ち合わせがなくて……」

 お姉さんは申し訳なさそうに口籠もるが、対して私は先程まで密航者だった。

 無為に彼女を辱めてしまったことを申し訳なく思う。

 危うく魚の餌か『サーカス』に売り飛ばされ奴隷になりかけた自分にそんな思いをさせる権利はない。

「御礼なんて結構デスヨ。お姉さんが元気になって良かったです。さっきのハーブも仕事柄持っていただけデスシ」

「あなたは薬師なの?」

「いえ、駆け出しの商人デス」

 いまだに商人だと自称することに躊躇いが生まれる。

 とはいえ、たまたま持ち合わせていたハーブがこの人の役に立てたのであればこれも巡り合わせか。

 こちらの躊躇を吹き飛ばすように彼女は大きな目を見開きグッと近づいてきた。

 長い睫毛が当たりそうになる。

「凄い! それでは世界中を駆け回っているの? 私はサクレアから出た事がないんです」

 かっこいいなぁ、謙遜させる隙もくれない彼女は

「もしかして『死の国』にも行かれたことがありますか?」

 赤い唇をふわりと浮かせ、よく通る声で呟いた。


 クシナと名乗るその女性は初めての船旅に随分と苦しめられていたらしい。

 あの嵐をよく乗り越えられたものだと感心していると、どうも水夫に頼み柱に自分を縛り付けて気絶していたそうだ。

 私も船酔いに詳しいわけではないが果たして一般的な解決策なのだろうか……。

「ソルトさんは船酔いはしないんですね。羨ましいです」

「ソルトでいいデスヨ。私まだ17歳デスシ」

 身長や身体つきから実年齢より下に見られることが多く、舐められることばかりなのでつい自ら年齢を告げる癖がついてしまった。

 いつも通り驚きの表情を向けられるが、それは見慣れない喜びの表情も兼ねている。

「えっ!? 私も17歳です! 同い年ですね」

 5つか6つは上だと思い、こうなりたいと憧れていた綺麗なお姉さんは自分と同じ時間を過ごしていた。

 失礼にならない様にチラリと彼女を見やる。

 きっとサクレアは食物の栄養価も高く、豊かで満たされた生活をしていたのだろう。

 そうでないとこれが同い年だなんて不公平だ。

 満面の笑みで手を取る彼女の無邪気さについ口元が綻んでしまう。

 コンプレックスなどどうでも良くなるほどに彼女の笑顔は素敵だった。

 それからは他愛もない会話で盛り上がる。

 退屈で居心地の悪かった船旅はいつの間にか素敵なバカンスを思わせる時間に変わった。

 クシナの家族の話を聞いていたところ、ぐらりと床が揺れた事で自分達が広い海洋に浮かんでいたことを思い出す。

 そしてクシナは再び顔色を悪くして必死に唇を結んだ。

 彼女になら、と初めての感情が湧き起こる。

 自分を危険に晒すだけとわかっているが、クシナの為に自然と身体が動いた。

 魔本を開き、白紙のページにペン先を落とす。

『揺れる、震える、狂わす蟲は水面で蠢き、身体を這い寄る』

『汚物を呼び寄せるそれは美を嫌う。その名は【シックネス】』

 ぐらり、と視界が揺れた。

 さっきの嵐を封じた疲れが回復しきっていない中で再び能力を使った事で身体がズシリと重くなる。

 これは明日は一日中寝たきりかな……。

 俯いて静かにそれが過ぎ去ることに集中していたクシナが不思議そうに顔を上げた。

「気分はどうデスカ?」

 魔本を閉じて再び様子を伺うが介抱する必要はないだろう。

 何が起こったのかわからないといった顔で目をパチパチとさせるクシナに話す。

 タダより高いものはないが、

「クシナの船酔いをこの魔本に封印しました。だから、もうボタリアに着くまで気持ち悪くなることはないはずデス」

 初めて出来た友人に、友情に、対価を払わないのは商人の端くれとして見過ごせなかった。

 自分の秘密を、能力を、露わにしてでもこの人の為に尽くしたいと思ってしまったのだ。

 憑き物が落ちたように目を丸くするクシナは自分の身体の変化を確かめるようにペタペタと顔やら肩やらを触る。

「凄い……。ねぇ、ソルト。さっきの話の続きだけど、あなたは『死の国』には行かないの?」

「今のところその予定はないデスガ……」

 死者の行き着く先と言われている『死の国』。

 噂の域を出ないけど、この世界のどこかにはそこに通ずるとされている入り口があるらしかった。

 もっとも、入り口に辿り着くだけでは足りず、火龍の心臓が百は必要だとか、天使の前髪を五人分用意しなければならないだとか、地方によって伝承は様々ある。

『死の国』に興味はなかったし、そんな珍しいアイテムがあれば、もっと有意義に使うつもりだ。

 しかし、以前よりも『死の国』に興味を持ち始めていたのは認める。

 目の前のクシナが繰り返し口にするその国に。神妙な面持ちで言葉にしたその理由に。

「私は『死の国』に行く為に旅をしている。その為に家族を捨ててサクレアを出た。何としてでも辿り着く。例えそれが人の道を外れることだとしても」

 クシナはサクレア特有の着物と呼ばれる裾の広がった服を丁寧に撫でながら床に膝を付いた。

 自身の前に境界線を引く様に刀を寝かせ、手のひらも床につけて頭を下げる。

 細い手首に巻かれた髪結いの飾りがクシナの儚さを強調していた。

 その行為の意味はよく分からないが只事ではない振る舞いであることは十二分に伝わってきた。

「お願い、ソルト。あなたの魔法があればきっと『死の国』を見つけられる。いや、必ず辿り着ける。力を貸してください」

 血の気がスッと引いていくのが分かる。

 自分の性分が嫌になる。

 反射的にクシナを値踏みしてしまった。

 友を秤にかけてしまった。

 そして……

「ごめんなさい、クシナ。私の旅にも目的があるのデス。だから、そのお願いを聞くことは出来ません」

 しかし、彼女は頭を上げようとしない。

「何とか……! 何でもするから!」

 しゃがみ込んでクシナの肩を抱き起こそうとするが華奢な身体からは想像もつかないほどに力強い。

 まるで根を張ったように伏せた身体を、床につけた額を離そうとしなかった。

 経験上、交渉において何でもすると言う者を信じることはない。

 人は何でも出来る訳でない。

 自分の価値と相手に支払える対価を見誤る者は大事な場面で機を逃す。

 断る為に言葉を選んでいると、冷めた頭だからか異変に気付く事が出来た。

 部屋の外が騒がしく、悲鳴と発砲音、けたたましく階段を叩くブーツの音が勢いよく開かれる扉と共に流れ込んでくる。

「なんだ、まだ女がいるじゃねぇか! おい、怖い思いをしたくなかったら大人しく犯されるか言う事を聞きな!」

 突如現れた悪漢に強く手を引かれ、魔本を床に落としてしまった。

 攫われながら少しだけホッとしてしまう。

 もう少しで初めての友人を見限りそうになっていたのだから。


「これで全部か!? 見立てより少ねぇな! おい、船長。乗客の名簿はねぇのか?まだどっかに隠してるんだろ」

 ひとしきりの暴行を受けたであろう船長は縛られながら、いまだ新しい傷を作られる。

 注文されたものを差し出す事も出来ず、説明をしようにも満足に舌が回っていなかった。

 甲板には拘束された乗客と水夫が合わせて三十人ほど。

 確かにサクレアの港を出た時はもう少しいたように思えるが、先程の大嵐で何人かはこの広い海に落とされていてもおかしくない。

 甲板には恐怖と命乞いのすすり泣きが伝播していた。

「これが噂の海賊というやつらか……」

 初めは抵抗の姿勢を見せていたクシナも体調がまだ万全ではないのか、武器が手元にないからなのかフッと突然大人しくなり隣で様子を伺っている。

 サクレアを出るのが初めてのクシナからすると、彼らは海賊という括りになるのだろうがただの海賊であったならどれ程良かったか。

「この人達は『サーカス』の団員デス。人身売買や密猟を世界中で行なっているんデス」

 隠すつもりもないようでピエロや大道芸人のような格好をしている者もいる。

 ただ不幸中の幸いと言えるのは、サクレア近くという極東の海洋にいる団員は末端のようで、クシナの言う通り精々海賊と形容するのが丁度良さそうにも見えた。

 そうは言っても危機を脱した訳ではない。

 なるべく目立たないようにして逃亡の機を伺いたいが……

「サルパ様ァ! シャムロキア人が混じってますぜぇ!」

 黒髪とサクレアの着物の中に、金髪とシャムロキアの服装を隠し通せる訳がない。

 船長を雑に蹴り上げ、サルパと呼ばれた大男がこちらに近寄ってくる。

 船長の無精髭が小綺麗に感じられる程に、その男の蓄えた髭は不潔で食べカスか垢か分からない汚れが目立ち、臭い息を漂わせた。

「おお、上物じゃねぇか。まだガキ見てぇだがこういうのが一番変態に高く売れるんだ。お前らこいつには手ぇ出すんじゃねぇぞ」

 腰に下げた煌びやかな短刀に目を奪われる。

 飾り付けからハセリアの作りかな、と物色出来るぐらいには自分が落ち着いていることに可笑しくなった。

 不満を隠しきれない手下からの文句に軽口を叩きながら、こちらを見もせず片手で持ち上げられてしまう。

「おい、彼女をどうする気だ」

 調和の取れていたその絶望という空気を、プツリと切る凛とした声。

「私の友から手を離せ、下衆め」

 後手に縛られたクシナは今にも噛み付かんばかりの形相でサルパを睨みつけた。

 歯向かうな、とクシナを止める乗客の声は虚しく、誰の耳にも止まらない。

「随分威勢の良い女だな。そんなにこいつと一緒に変態の玩具になりてぇのか?」

 無骨で太い指がクシナの顔を掴み歪ませる。

 ペッとサルパの顔に唾を吐き出した彼女は

「何度も言わせるな。早くその子から手を離せ」

 一切の遠慮も、躊躇もなく、一層眉間に皺を深く刻んだ。

 途端にサルパはクシナの髪を掴み、強引に立ち上がらせる。

「そんなに退屈してんなら俺が遊んでやるよ。おい、こっちのガキを舌噛まないようにして見張っとけ」

 荷袋のように近くの手下に放り投げられ、船内に引きずられるクシナを助けようと踠くが、凛とした声が空気を張り詰めた。

「汚い手でクシナの髪に触らないでもらおうか」

 高価な絨毯に紅茶を溢したような、喧嘩をしていた酔っ払いが店先の商品棚に身体を突っ込ませたような、そんな風に一瞬だが時が止まる。

 よく通る声で音としては聞き取れたのに、理解が出来ず辺りを見渡してしまった。

 他の人にはどう聞こえていたのだろうか。クシナが自分の事をクシナに触るなと言っていたように聞こえたが……

 髪を掴まれたまま、彼女の足は宙を蹴り上げサルパの腕を絡めとる。

 関節を締め上げられたのか、その不遜な表情を強張らせ大男はクシナもろとも床を殴りつけた。

 ドゴォッ! と鈍い音に乗客が悲鳴を上げるがまとわりついていたはずのクシナはいつの間にかくるりと空中で身を翻していた。

「急に髪を引っ張らないで。私にだって心の準備が必要なんだから」

 はらりとクシナに巻き付いていた縄が落ちる。

 手には陽の光でキラリと輝くハセリア特有の金細工があしらわれた短刀が収まっていた。

 フッーとサルパが溜息混じりに面倒臭そうに頭を掻いた。

「抵抗したいのはわかる。勝てる気にさせたのなら悪かった。だが、ちょっと腕に覚えがある程度のやつが一丁前に歯向かうな」

 粗暴な賊の長だと思っていたが、どうやらこんな時でも感情のコントロールはしっかり出来るらしい。

 体格や腕っぷしだけで手下をまとめている訳ではないという彼の優秀さが、今は残念でならない。

「ソルトォ! 今助かるから!」

 こちらを勇気づけるように口元に笑みを浮かべながら、クシナは手首に巻かれた飾りを解いて長い髪を後ろで結い、

「船首に向かって走れ!」

 力強く指示を出す。

 再びクシナの雰囲気が変わったと思った瞬間、視界が傾き甲板に身体を打ちつけた。

 何が起こったか理解できなかったが、すぐに支えが無くなっていたのだということがわかる。

 抱えられていた手下の男が呻きながら血溜まりを作っていた。

 喉笛に突き刺さった金細工の短刀が今まさに彼の命を奪っている。

 一体何が起こってるのかわからないが、わからないなりに身体は冷静にすべき事に従い、不恰好に這い上がりながらも夢中で船首に向かって駆け出していた。

 ハァッ、ハァッと切らす息が、自分のものだと思えない。

 船を囲むだだっ広い水面が光を反射して真っ白に輝く。

 思考がまとまらず、肺が締め上げられた。

 自分の吐く息も周囲の喧騒も、鼓膜を震わせているのかもしれないが意識できない。

 次の瞬間には誰かに襲われているかもしれないという恐怖だけが身体を動かしていた。

 縛られているので腕を振れず、脚がもたついていると背後からグッと肩を掴まれる。

 あ、終わった……。

 ブチッと縄を切る音が、自由になった腕に流れる血の巡りが、意識を現実に戻す。

「大丈夫か。さっきはクシナが世話になったな」

 顔を覗き込んでくる彼女の髪は風で揺れていた。

 結われたその髪はまるで一つの生命体のように綺麗にまとまっている。

「クシナ……?」

「クシナにこの人数との戦闘は荷が重い。大人しく俺に代わってもらうことにした」

 理解が追いつかないが目の前の人間が敵でないことだけわかれば今はそれで良かった。

 何にせよ大事なのはあの大男を倒すこととサーカスを退治して船に安寧をもたらす事だ。

 夢中で走っていたので気が付かなかったがサーカスの輩達がすぐそこで五人ほど転がっている。

 彼女が全て切り伏せてくれたようで、仲間の死を教訓にできる者達だけが安易に近づかないで距離を取っていた。

 襲いかかってきた者から奪ったのであろう剣を構え、賊をこれ以上船首に近づけないように牽制している。

「ソルト、お前の力であの男をどうにか出来るか」

 世間話でもするようにはなしかけられるが、まるで剣の稽古をつけているかのようにサーカスの団員を切り伏せていた。

「手に馴染まないこの剣のまま相手取るのは少し骨が折れそうなんだ」

 どうにもしっくりこないのか、確かめる様に剣を振るっては小首を傾げながら何かを呟いてる。

 その割に危なげなく襲いくる敵に致命傷を与えているのだから、彼女の腕が良いのは剣術に明るくなくても一目でわかった。

 そして、その様を見ながら面白がる様に煙草に火をつけているサルパが、きっと一筋縄ではいかないのだろうことも。

「残念だけど私は戦力にはならないデス……。あんな嵐を封じた上にさっきも力を使ってしまったので……」

 クシナの体調を治してあげたことが、より事態を悪化させることになるとは。

 しかし、友の為に取った行動が無駄ではなかったと思いたいし後悔はしたくない。

「そうか。なら今日限界を越えろ」

 切り捨てられた男から飛ぶ血飛沫がシャムロキア特有の刺繍を赤く染めた。

 あっという間にサーカスの団員達を山の様に積み上げ、生臭い血の川が駆けてきた階段までズルズルと伸びている。

「あいつは俺が必ず倒す。その為にクシナの部屋から俺の刀を取ってきて欲しい。その上でソルトの力で俺を強くするのか、あいつを弱くするのか、何が出来るのか知らないからそこは任す」

「そ、そんなこと言われても無理デスヨ。あなただってあの大嵐を見たデショ?! あんなの封じ込めただけで本当はとっくに限界デスシ、今だって倒れそうなのを必死に堪えてるんデス!」

「クシナはその頃柱に縛り付けておいたから嵐は見ていない。限界の中でクシナに力を使えたのであれば、それは限界ではなかったということだ。それにお前はまだ倒れずに立っているぞ」

 振り向き爽やかな笑顔を向けられる。

 肩で息をして玉の汗を額に浮かべていた。

 彼女の黒い着物には本来目立たないはずの返り血が濃く濃く吸ってしまい染みになっている。

「命を懸けるからこそ、少しでも勝つ可能性を上げなければならない。クシナとクシナに出来た友を守る為なら、その友に恨まれ、憎まれ、嫌われようと構わない」

 歪んでしまった安物の剣を屍の山に放り投げると、べっとりと血で濡れた掌をバグバグ開いている。

「簡単なことだ。刀を持ってくる。限界を越える。出来なければ俺たちは死に一歩近づく。出来れば俺たちは死から一歩遠ざかる」

 その限界を越えることが、死に一歩近づくことと同義なんだけど……。

 その場合、クシナは死から遠ざかる。

 初めて出来た友は死から遠ざかる。

 全く……、『死の国』に行きたがっていたクシナを死から遠ざける為に自分が死に近づくなんて……。

 しかし、二人とも死んでしまうのだとしたら一人でも生き延びるべきだ。

 差し引きしてその方が利益がある。

 より利益がある方を選ぶに決まっている。

「どれぐらい時間を稼げる?」

「お前が刀を持ってくるまで」

 ニヤリと笑う彼女の笑顔は汗と返り血で汚れていたのに、綺麗だった。

 詳しいことはわからないが目の前にいる人はクシナではない何者かなのだろう。

 だけど、その笑顔を向けられた時に花開いた感情はそんな細かいことを忘れさせる。

 商売をするのに信用が何よりも大事だと言葉では知っていたが、身をもって理解した。

 自分が今初めて人から信用されたことに。

 出会って間もないクシナに、クシナに似た何者かに。

 異常事態が続き、息を整える暇なんてない。

 流れる血の川を下った。

 それが例え自らの命を削る、死に向かう流れだとわかっていても。


 予想外にサルパはこちらを見向きもせず、難なく客室へ延びる道を進むことが出来た。

 とても顔を見る余裕も、勇気も無かったが素人にはわからない強者の矜持があったのだと思う。

 難なく手下を倒していく敵の強さを確かめることが彼の目下の目的になっていたのだろう。

 一心不乱にクシナの部屋を目指し駆ける中で、二人が何かを話していたのだけはかろうじて耳に届いた。

 だが、それは空気の振動でしかなく、音に、声には変換できない。

 とてもそんなことに割く余力はなく、目減りする命をとにかく足へ。前へ。

 もつれて痛む身体をどうにか目的地まで連れていくと見慣れた魔本が床に伏せられ、主の指示を待つような刀が律儀に境界線を引いたままだった。

 これさえあれば……。

 それを手に取り、異変に気がついた。

 そんな筈はないと自分を疑い、刀身を確認する。

 躊躇している時間があるのか、考えることで事態が好転するのか。

 逡巡がザリザリと命を削る音がした。

 甲板に向かって踏み出した足を信じて、彼女の振るった剣の腕前を思い出して、主の元へこれを届けよう。

 でも、これで本当に勝てるの?


 ○

「簡単に見逃してくれるんだな。ただの賊にしておくのはもったいない」

 客室へ向かうソルトに気を払おうものならその隙をつけたのだが、そう甘くは行かなかったか。

「よく言うぜ。そんな殺気をぶちまけといて」

 煙草を捨てるその動きからも隙が伺えない。

 全く……、サクレアを出たばかりだというのに世界は広いな。

「あんなシャムロキア人のガキを殺したところで何になる。それよりお前だ。俺は強いやつは女だろうとサクレア人だろうと差別しない。大人しく俺の手下になれ」

「生憎だが船の揺れが苦手で海賊にはなれそうもない。それに自分より弱いやつの下につくつもりはない」

 少しでもこうして話していることが、ソルトが俺の刀を持ってくることの時間稼ぎになればいいが……。

「そういったデカい口を叩くなら情けなく時間稼ぎなんざするんじゃねぇ」

 煙草を吸い切って退屈してしまったのか首をゴキゴキと鳴らしながら臨戦態勢に入っている。

 こちらの思惑も見透かされているようだし、観念して戦うしかなさそうだ。

 悲鳴を上げることにも疲れ切ってしまったであろう縛り上げられた乗客や水夫達はすがるような目線でこちらを見つめている。

 正直言って他のやつらがどうなろうと知ったこっちゃない。

 だが、クシナは違う。

 あいつに勝って、ソルトと生き延びて、それでめでたしめでたしとはならない。

 誰も彼も守ることなんて物語の中の話に過ぎないだろうに。

 ただの戦闘狂なのであれば、俺が全力を出す為に人質は取らずに戦ってくれるであろうが、実際にそんなおかしなやつは出会ったことがなかった。

 どんなことをしてでも生き延びているのだから目の前に敵として現れるのだ。

 卑怯でも姑息でも外道でもいい。勝てばいいんだ。生き延びて相手の命を断てるやつにしか明日は来ない。

 その為には相手に気取られてはいけなかった。

 人質の有無など歯牙にも掛けない程、圧倒的な力の差を見せなければならない。

 血塗れになったサーカスの団員から幾分か状態の良い剣を剥ぎ取り大男に投げつけた。

 が、挑発にもならない牽制ではひらりと躱されるだけで状況は変わらない。

 さて、どうしたものか……。

「ったく、どいつもこいつも簡単に殺されやがって……。おい、船長! こいつら全員まとめて俺の船に移すから手伝え!」

 横たわる船長を乱暴に蹴り飛ばすとウゴウゴと身体が波打っていた。

 十二分に痛めつけられた船長は縛る縄を切られても抵抗の姿勢は見せず、ぼんやりとした表情でサーカスの船に乗客が乗り換えるように渡し板をかけている。

 拘束された乗客は枯れたはずの涙を流し、最後の力を振り絞る様に後悔と拒絶を呻き声に乗せた。

「おい、うるせぇぞ。今この場で魚の餌になるのと知らない国で奴隷として生きるのとどっちがいいか考えろ」

 尊厳を失って命を得るか、命を失って尊厳を保つか。

 その選択を実際に迫られた人が果たしてどれだけいたか。

 その選択を出来る人が果たしてどれだけ存在するか。

 命乞いをする人。絶望を受け入れた人。最後まで抵抗をやめない人。

 貴族も商人も水夫も、男も女も老人も子供も関係ない。

 一層大きな阿鼻叫喚は燃え尽きる前の炎のようで。

 もうすぐ彼らの人生は、人として生きてきた時間は、終わりを告げる。

 大男が抵抗していた男性を片手で持ち上げて船から放り投げた時、

「クシナァ! これでいいデスカ!?」

 海から人が落ちる音をかき消す様に、待ち侘びた声が届く。

 息を切らし、泣きそうな表情でソルトが朱塗りの鞘を空に掲げていた。

 注文の品か確認している割には、返品を受け入れるつもりも無さそうだ。

 一人の犠牲を払ってしまったものの、大男がソルトに向ける注意が少し遅れてくれる。

「ほ、本当に……これデスカ……?」

 背後を警戒することも諦め、死力を尽くして刀を寄越した。

「よくぞ迷わず届けてくれた」

 刃を露わにする。

 陽の光を返さず、黒鉄にムラがある刀身は出来が悪く、今すぐ折ってしまいたい衝動にかられた。

「間違いない。何度も見慣れた粗末な刀だ。さて、あとはソルトが限界を越えるだけだ」


 ○

 喉が灼ける。

 唾液が溢れてくる。

 足に力が入らない。

 思えばずっと走り続けており、ようやく一区切りついたと思えば、ここはまだ死地の中たった。

 彼女に刀を渡せたことで緊張の糸が切れてしまったのか、背後にあの大男がいるかを確認する余力もなく、そのつもりもない。

 どうせ死ぬなら今死にたいなぁ……。

 全速力で走り続け、いつサーカスのやつらに襲われるかもしれない危機的状況に身を置き、視界がチカチカと発光し、魂が燃え盛っていた。

「待たせたな。時間稼ぎは終わったぞ」

「遅ぇぞ。危うくこいつらを全部海に捨てちまうところだった」

 這いずるように2人から離れようとするも、身体の震えが止まらない。

 全身に浴びる殺気のせいか、精も根も尽き果てたせいか、自分の命を他人が握る理不尽さのせいか。

 手摺に乗って威勢の良い言葉を吐いていた彼女がピョンと目の前に飛び降りた。

「ソルト、あと少しだ。今から俺があいつを倒してやる。最後に、ソルトのあの不思議な能力で何が出来る?」

 これだけぐったりしているのにまだ能力を使わせようとするのか。

「もう……何も出来ないデス……」

「おそらく俺とあいつの腕は互角だ。だがソルトやそこの船の人達がいる分、俺の方がやや分が悪い。ほんの少しでもソルトの能力であいつの気を引いてくれると助かる」

 さっきまで船酔いのせいとはいえ、涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃになっていた作り物のような美しさは、今や血と汗と闘志で獣のように清らかに微笑む。

 そんな目で見ないでよ……。

 自分が押しに弱いことが……、いや、美人に迫られると言いなりになってしまうことが嫌でも自覚させられた。

 いつの間にか震えが止まっていた指で甲板を指差す。

「ーーーーーーーーー」

 間違っても敵に聞かれないように彼女の耳元で作戦を呟いた。

「ハッ、そんなことも出来るのか。合図はいらない。ソルトの都合でやってくれ。すぐに終わらせよう」

 抱き起こしてくれる手はスラッと伸びた指が女性らしく。

 立ち上がらせてくれる手をグッと引く力は男性らしかった。

「ねぇ、今のあなたは何者なんデスカ?」

 ようやく聞けたその問いに、彼女は開きかけた唇を悪戯っぽく歪め、腰帯に刀を通し額の汗を拭う。

「ソルトが限界を越えたら教えてやろう」

 背中を向けて死線を越えに、歩み始めてしまった。

 全く、つくづく人をやる気にさせるのが上手い。


「作戦会議は終わったか? それとも今更命乞いでもするか?」

「ああ、待たせて悪かったな。お前の名前は聞かないでいいよな? 海の上じゃ墓標も不要だ」

 2人の実力は測りしれないがあれだけ強い彼女が保険をかけるほどだ。おそらく凡百の賊では収まらないのだろう。

 危ない賭けに出てはいけない。彼女の腕前に頼ってはいけない。

 限界を越えて、勝利を確実なものにしなければならないんだ!

 出来るだけ2人から距離を取り、船首の際まで離れた。

 意識を集中させて懐の魔本に力を込める。

 あの安物の刀では簡単に折られてしまうかもしれない。

 次の瞬間には悲痛な叫び声が甲板に染み込んでしまうかもしれない。

 ああ、普通の人ならこんな時に神に祈るんだろうな……。

 祈れる神なんていないし、ましてやその神から逃げる為に旅をしているんじゃないか。

 改めて深呼吸の後、身体の内側から絞り出す魔力と込み上げる吐き気が、まだ自分が空っぽでないことを痛感させた。

『蝶の羽ばたきが白波を呼ぶ。天使の溜息が渦を喚ぶ』

 ドンッ! と大砲を打つような音が大男の笑い声と共に聞こえてくる。

 彼女のよく通る声は聞こえてこない。

『星の皺を伸ばそう。道楽の為に安楽を捨てよう』

 目が霞んでペン先が揺れた。

 あと少し。あと少しだけ書ければ彼女を助けてあげられる。

 乗客の悲鳴に気を散らしている場合じゃないんだ。早く書ききれ!

『その名は【ヴァン・ヴァーグ】』

 足から力が抜け、額を床に強く打ちつけ鈍痛が走った。

 起き上がる力も無く、鼻から垂れる液体が鼻水か鼻血かもわからない。

 風邪を引いた時のように地面が斜めになったかの如く頭に血が昇った。

 成功……かな……。

 この船ごと、ほんの数秒ではあるが大きく揺らした。

 いくら海賊とはいえ、予兆なく足元が揺れれば隙も出来るだろう。

 と言うか、出来てくれないと困る。

 もう魔本をしまう余裕も無いんだから……

 遠くで悲鳴が聞こえる。

 薄れていく意識の中でこちらに足音が近づいてきていた。

 このまま黙って殺されるのか、はたまた奴隷として売り飛ばされるのか、それとも……。

 力強く身体を転がされ、天を仰ぐ。

 開ききらない視界に、怒りとも笑みとも言えない血を浴びた大男の顔が飛び込んできた。

「よくやった、ソルト。約束通り改めて名乗ろう」

 血飛沫を浴びた大男の首を、彼女は海に投げ捨てる。

「俺の名前はサノ。クシナを守る戦士だ」

 ボチャンと重い物が海に沈む音が聞こえた。

 言いたいことは山程あるが、とりあえず何とか言葉を絞り出す。

「ベッドに……連れてって……」

 色気とかけ離れた状況で恥ずかしい台詞が出たものだな、と微かに口元が綻ぶ。

 誰かに抱き抱えられた経験など無く、肌で慈愛を感じた記憶も無いが、恥も気まずさも無かった。

 目尻を走る液体が涙なのか汗なのかすらわからない。


 目が覚める瞬間に激しい頭痛で思い出す。

 長い1日は全て現実で、全身が汗と塩でベタついているが、着替える気力も身綺麗にするだけの余裕もなかった。

 汚れで尊厳を失っていることに落胆していると、人の気配によって手に入れた友情を思い出し、どうにかベッドから身を起こせた。

「大丈夫、ソルト? まだ横になっていた方がいいよ」

 解いた髪が汗や返り血でまとまらない彼女を見て、沈澱していた記憶が浮かび上がる。

「……あなたはどっちデスカ?」

 意識が混濁している自覚はあったが、彼女の返事を歯切れが悪いと感じるほどには時間を正しく刻めていた。

「今の私はクシナだよ。ソルトには話さないとね」

 滔々と語る。

 クシナとしてサノについて話す。

 彼はサクレアで侍と呼ばれる戦士であり、クシナは由緒正しい家の巫女らしい。

 2人が一緒になることを約束した恋人であったこと。

 婚礼を間近にした頃に突如現れた化物を倒すべく、彼が皆の期待を背負って戦ったこと。

 そして、命を落としたこと。

「……まぁ、それは……やってられないデスネ」

 恋人のいない自分にその気持ちを正しく慮ることなど出来る訳もなく、知識として誰かから借りた慰めの言葉を口にすること程度のことしか出来なかった。

 話を聞いている内に意識は醒めてきたものの、全身に走る筋肉痛がつまらない合いの手を挟むことを許さない。

「サノには夢があった。私はそれを果たす為に肉体を貸すことにした」

 手首に巻いた髪結の紐で長い髪をまとめると、同じ声で違う声色を聞かされた。

「クシナは元々霊を憑依させることが出来た。髪を纏めることで俺が肉体に入ることが出来るようになるんだ」

 目の前で2人が入れ替わるところを見せられると、とても疑うことなんて出来ない。

 いや、それを見る必要なんてなかったと思う。

 あの強さを側で感じて、無事にこうして生きながらえることが出来た事実が、クシナがただの美人ではないことを証明していた。

 彼女の秘密に明確な理由があったことに、安心と納得ができる。

 改めて髪を解き、クシナは言葉を待っていた。

 後悔とは少し違う怯えに似た戸惑いが空気から伝わる。

 こんな時にどんな言葉をかけてあげるのが正解かなんて、どんな本にも書いてなかった。

 ただ自然と、込み上げた気持ちを口にする。

「友達が2人も出来て嬉しいデス」

 重くなる瞼の向こう側でクシナが鼻をすする音が聞こえる。

 暗闇の中で握られた手が暖かく、初めて人の体温を感じた気がした。


 空は青く、海には光の粒が散らばっている。

 穏やかな気候に目もくれず、悲哀が船のそこかしこに満ちていた。

 サクレアからボタリアまでのほんの数日、転覆しかけるほどの大嵐に遭い、『サーカス』に襲われ、家族や仲間を失った人は少なくない。

 常に危険と隣り合わせの仕事をしている水夫達も、死が身近にあるだけで悲しまない訳ではなかった。

 人よりも波の方が賑やかだ。

「ソルト、もう身体は楽になった?」

「はい。まだ身体が重いけど風に当たりたくて」

 限界まで酷使した肉体と精神のお陰で今の今まで出会した悲劇を忘れさせてくれていた。

 改めて生きていることに喜び、生きることの痛みで涙が出そうになる。

 あと何回こんな思いをしなければいけないかのか。

 忘れていた訳ではないが、今一度自分の旅の目的を胸に刻みつけた。

 海鳥の声が止んだ頃に、横に座っていたクシナがポツリと呟く。

「改めてお願いしたいんだけど、ソルトの力を貸してもらえないかな? 私はどうしても『死の国』に行かなくちゃいけない。私に出来ることがあれば……」

「待ってください。それ以上は言わないで」

 唇を噛み、甘えを堪え、クシナがジッとこちらを見据えていた。

 長い睫毛が影を落としている。

 あれからずっと考えていた。

 お互いに利益のある選択を。

 歩むべき結末を。

「クシナ、私は世界を旅しなくちゃいけないデス。それが世界の為になるのかはわからないけど、私の為になるのデス」

 出会って数日の相手に話すことになるとは思ってもいなかった。

「世界を回ってこの魔本に封印しなくちゃいけないものがありマス。国を巡って自分の目と耳で旅行記を書きたいという夢がありマス」

 そして……

「だから、私の用心棒になってくれませんか? クシナとサノがいればきっとどこにでも行けるはずデス。もちろん『死の国』にだって」

「いいの!? もちろん、ソルトのことは私とサノが守るよ! ソルトの能力があればどこにだって行けるし、誰が相手でも負けない!」

 嬉しそうに手を握りしめ、満面の笑みは絵画のように視線を奪った。

 私達は私達の為に契約をする。

 そして自分の為に友を利用することにし、神を封じ込める旅の道連れとなってもらおうと思う。

「あ、サノが何か言いたいみたい」

 髪を結わずに手で後ろに纏めるだけでもサノに代われるらしい。

「改めて俺からも礼を言わせてくれ。ソルトのことは俺が守る」

 空いた右手で握手を求められ、細い指に似合わない力強さにどきまぎしてしまった。

「それと、サクレア語で強い男は自分のことを俺と言う方が一般的だ。ソルトも限界を越えて強い男になったはずだから自分のことは俺と言った方がいいぞ」

「そうデスネ。でも、女だと思われていた方が交渉が上手くいくこともあるんデスヨ」

 ニヤリと笑う表情が、髪がサラリと流れると同時に驚きに変わる。

 どうやらサノは気付いていたのにクシナは気付いていなかったらしい。

 2人は意識や記憶までを完璧に共有しているわけじゃないんだな、と感心している最中にもクシナがまだ信じられないのか挙動不審になっていた。

 その素振りが何だかとても可笑しくて、久しぶりに大声で笑ってしまう。

 船の悲哀を祓うように。自分の後ろ暗い思いを隠すように。

 頭の上で海鳥の声がした。

 誇りを捨てたことを責めるように。咎めるように。





















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