夢幻の鏡

きゅうり漬け

夢幻の鏡

 カチ、カチカチ、カチ……

 不規則な時計の音が響く部屋で、男が一人、肖像画を眺めていた。ただ、歪んだ笑みをそっと浮かべて。


 ある男がいた。家と会社を往復するだけの人生を、すでに何年も送っていて、趣味と言えるような物も、友人と呼べるような者もない、「寂しい人生」と呼ばれる生活。そこに満足も不満足もない無色彩の男だった。

 男はいつも「ムショク」と呼ばれていた。その場に居ても気づかれない、話のネタにすらならない、「無色」の男。或いは、会社に来ていてもロクな仕事に充てられない、まともに働けない「無職」の男。どんなニュアンスであれ、あからさまに見下された呼び名であることは確かであった。上司にも同僚にも、果てには部下にまで馬鹿にされたような目を向けられて、ムショクはいつも鬱々としていた。


 転機はいつも唐突に起こる。


 ある日曜のこと。壊れた時計を買い替えようと、ムショクは小さな中古品店に出向いていた。何のことはない。家から一番近い、掛け時計を売っていそうな店を訪ねただけのことだ。これまで一度も気にかけたことのない店だったが、調べてみると、案外評判も良い。中古の雑貨など、ムショクはこれっぽっちも興味がなかったが、何となく気をむけてみることにしたのだった。

 店の内装はいやに小洒落た雰囲気で、入って早々ムショクは自分が異質であることを悟った。目立たないよう溶け込むどころか、その場に並べられたどんな商品よりも存在感を放っているのだ。肩身が狭い思いをしながらも、一度店に入ったからには、何か買わねば出られまい、と周囲を見渡し始めた。ムショクは案外肝の小さい人間である。しかしその肝の小ささが、彼をその場所へと導いたのかもしれない。

 その絵は、店の一角に堂々と鎮座していた。周囲の内装はその絵のためにあつらえられたかのようにぴったりと、豪奢に重々しく絵を包んでいる。燕脂に塗られた壁とアンティーク調のガス燈に囲まれ、薄ぼんやりとした暗さの中に精巧に彫り込まれた額縁がぽっかりと浮かんでいた。

 はじめ、ムショクはそこに何が描かれているのかよく見えなかった。それをよく見ようとふらふらと近づくにつれ、はっきりと輪郭が映し出される。ちらりとガス燈が揺れ、視界のもやが晴れていく。


 それは一枚の肖像画であった。


 口元は微笑みを湛え、そしてその瞳は、鋭くこちらを睨め付けているように見えた。装いはひたすらに豪奢で、その人物があるひとときにおいて、それを許すだけの権力を持っていたことを表している。優雅さと美しさ、それでいて荒々しい雄々しさと煌びやかで絢爛な生活を彷彿とさせる雰囲気を纏う、どこか不思議な肖像画であった。

 しかし、再びガス燈が揺れて絵に光を当て直すと、それは単に口を結び、じっと前を見つめている、ありふれた肖像画にしか見えないのである。実際どこの誰かもわからないその肖像画の人物は、どこかそれなりの権力を持っていた、この世にごまんといるようなありふれた貴族であったのだろう。

 その絵を目にしたムショクの頭に、あるアイデアが浮かんだ。それはひどく幼稚で滑稽な、しかし彼にとってはユーモアに富んだ素晴らしい考えだった。

 帰路についたムショクの手には、大きく平らな包みがあった。家が近いのがさいわいしたか、運び込むのに大きな困難はなかったが、それでも彼の額にはじんわりと汗が浮かんでいた。は、と一息ついて汗を拭った後、ようやく包みを開き始める。ビリ、バリ、と周囲の空間まで裂くような、乾いた音が廊下の空気を揺らしていた。

 リビングの隅にかけられた絵は、店にあった時とはうって変わって異彩を放っていた。黄ばんだ白壁と、ほんの少しもぶれることのない蛍光灯の強い光が、白く絵を照らしている。まるで光に押し込められるように、絵を取り巻く空間は暗く沈み込んでいく。

 しばらくの間、絵をじっと眺めていたムショクはおもむろに立ち上がると、キッチンへと消えていった。数分後、再び絵の前に戻ってきた彼の手には、簡素な食事があった。片手で食べられるパン、昨夜の夕食のあまりの串焼き、缶コーヒー。どれも仕事から帰る途中にコンビニで仕入れたものだ。一晩冷蔵庫に寝かせられ、すっかり硬く、冷たくなった串焼きを頬張りながら、じっと絵を見つめている。

 次第に部屋の中は、咀嚼音と時計の音、そして何とも言い難い冷たい空気で満たされる。ムショクが一人で暮らすその場所に、不思議と堅い緊張が生まれた。


 なんておかしな場所に迷い込んだことか。


 緊張を破るかのように、ムショクは笑い出した。クツクツと喉を鳴らすように声を出す。大人を見事に悪戯に引っ掛けた子供のように、おかしくてたまらないと言った様子だ。

 ひとしきり笑った後、ムショクは絵に手を伸ばした。硝子を隔てた向こう側に、しっとりと描かれた肖像がある。どれだけ手で触ろうが、向こう側の人物が何か反応を示すことはない。当然だ。結局のところ、これはただの絵なのだから。瞬きひとつせずに、ふんわりと微笑みを湛えた肖像に向かって、ムショクは吐き捨てるように声をかけた。

「憐れな奴め」

一言言い放った後、ムショクは満足げな笑みを見せてその場を去っていった。ただこちらを眺めるだけの肖像画。目の前でムショクがどれほどの幸福を得ようとも、決してこちらに手を伸ばすことは叶わない。

 物言わぬ肖像画は、ムショクが優位に立てる数少ない相手であった。

 それからというもの、ムショクはふとした瞬間に肖像画の前に立っては、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。それは朝起きた時、食事を摂るとき。或いはただその場所を通りすぎるだけの時。その一瞬においてムショクはただの男であった。誰にも気づかれない無色でも、仕事ができない無職でもない、ただの男である。この一瞬の絵との交流が、まるで魔法のように彼に作用していた。いつも思考を押さえつけるように浮かんでいた鬱屈とした思いは、いつしかさらりと軽くなっていた。

 その頃、ようやくムショクはまともな仕事を充てられるようになっていた。というのも、彼の務める会社は過去に例を見ないような忙しさに追われ、もはやなりふり構っていられなかったのだ。その時間はムショクにとって久々に人とコミュニケーションをとる機会でもあった。全てがある種の新鮮さで満たされていた。忙しいという感覚も、誰かと会話するという感覚も、久しく忘れていたものだった。そしてそれは、彼が思うほど悪いものではなかった。

 次第にムショクは家に帰らなくなっていった。残業が増え、日付をまわることが増え、泊まりこみが増えた。突然任された様々な仕事を、それまで漫然と雑務をこなしていただけのムショクが、他の社員と同じように処理できるはずがなかったのだ。それだけではない。多くの同僚たちが家庭を持っている中で、顧みる家庭のないムショクはある意味格好の的だった。

 増えた仕事は、ますます彼を帰宅から遠退かせた。たまに家に帰っても、寝て、起きて、会社へ行くだけ。一見すると、以前の生活に戻ったようにすら思えるが、その実、全てが変わっていた。人を小馬鹿にしたようなあだ名に鬱々とすることも、その嫌な気分に思考を圧迫されることもない。満足感とさえ言える感覚が彼にはあった。

 会社にとって地獄のような日々が過ぎた後、もはや「ムショク」というひどい呼び名は彼方に忘れ去られていた。彼は色彩をもち、それなりの仕事を任され、他者と関わることで自分を満たすことができるただの一人の紳士であった。窓際に追いやられていた日々を忘れたわけではあるまい。しかしそれを思い出す理由はなかった。


 かつてないほどに、満たされる日々。


 これまで手に入れようもなかったものが、幾許かの日々によって、いとも容易く手中に収まっていた。仕事ができるようになったわけでも、地位が上がったわけでもない。ただ、そこに確固たる立場を持つことができるようになっていた。たとえ仕事ができずとも、同僚や部下に少々の自虐を交えて、あるいはいいように相手を持ち上げながら頼み込んでやれば、相手は随分と気分を良くして、丁寧に仕事を教えてくれるものだった。それはどうやら、彼にはそのような才能があるということらしい。周囲の人間は皆、彼を疎ましく思っていたことなど忘れたかのように、まるでずっと昔から、彼が友人関係の一部であったかのように、彼を受け入れていた。

 満ち足りた気分は、彼を抱え込んで離さなかった。何もかもがうまくいっていた。いつしか彼は、家の隅にかけられた一枚の絵のことなど、すっかり忘れてしまっていた。


 その日、彼はひどく心地のいい酔いに身を委ね、自らの家の玄関をくぐった。雪がちらつき、寒空が続く季節。何かと理由をつけて呑み屋の暖簾をくぐっては「俺みたいになるなよぉ」と部下や後輩に説教めかして絡むのがお決まりになっていた。そうしてすっかりいい気分になって帰宅の途に着くのだ。

 ジャバジャバと音を立てながらコップに一杯、水を汲む。コップのふちから滑り落ちる水を、グッと喉を鳴らして飲み干したムショクは、明かりもつけずにリビングへと転がり込んだ。

 暗い室内を、ただ月明かりだけが照らしている。

 数分の間、ムショクはじっと壁を見つめていたが、不意に居心地の悪さを感じて立ち上がった。

 そこにはあの一枚の絵があった。ムショクにすっかりと忘れ去られた絵がかけてあった。その顔は、いつか初めて絵を見た時のようにこちらを睨め付けているようだ。ムショクはひとつ、驚いたように息を吐いてから、まじまじと絵を見つめた。月明かりに照らされた絵は、何ひとつ変わっていなかった。馬鹿げたアイデアで自分を慰めていたあのくだらない日々から、ずっとずっと離れた今日になっても。その微笑みは、あるいは変わっていったムショクを嘲笑っているかのようで。


「ははっ」

 静寂を裂くように乾いた笑いが漏れた。肖像がじっとこちらを見つめている。気付きたくなかった。気づくべきではなかった。


 幸福などまやかしでしかなかったのか。


 いくら幸福感に身を包もうとも、いずれは消えてなくなるのだ。全てを忘れ、全てに忘れられていく。誰にも知られることなく、幸福も苦痛も忘れて、こちらに手を伸ばすことすらできなくなる。そうしてありふれた一人になっていく。いつか自分が嘲笑った肖像画のように。

 肖像は薄く笑みを浮かべている。なんという無表情だろうか。そっとその顔に手を伸ばす。コツン、と音を立ててガラスが手を阻む。どんなに手を伸ばしても、そこには届かない。それはきっと、お互いに。


 気味の悪い笑みを浮かべた男が、暗いガラス越しに肖像と姿を重ねていた。(了)

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夢幻の鏡 きゅうり漬け @Q_rizke

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