暗い世界に留まるわたし

木鈴の手

いつまでも、ずっと


 静まり返る夏の夜。

 アスファルトは蓄えていた熱気を吐き出し、街を通り抜ける風がゆっくりとそれをさらっていく。

 時の流れも同じように優しく進み、永遠とも思える夜の時間に、彼女はひとり迷い込む。


 「なんで夜って暗いんだろうね。そもそも、夜っていう漢字がもう暗いイメージがあるじゃない。つまり、暗いことが夜であって世界が闇に包まれていることが夜である条件じゃないと思うんだよね。だから、昼間でも日が当たらない暗いところは夜であり、昼間は夜を内包する事ができるけど、夜は昼を含む事ができないから孤独な存在であると思うんだ」


 右手の親指と人差し指で摘んだ虫の羽根を丁寧に毟りながら彼女は言った。


 違うよ、夜っていうのは日没から日の出までのことでそれ以外のなにものでもないんだ


 ボクは正しい夜の定義を伝えてみるも、彼女は聞く耳を持たずに歩き続ける。


「街を歩く人たちはみんなエイリアンなんだ。何考えているかわからないし、顔もみんなバラバラ。仲良かった友達も最近会ってみたらエイリアンになってたんだ。みんな少しづつ人じゃなくなっちゃうの。わたしはいつまでわたしでいられるのかな」


 キミが思うならいつまでだってそのままでいられるさ

 ところで、いつまでそうして白線の上を歩くつもりだい?

 かれこれ三時間はその綱渡りを続けているよ


 いつもの事だが、流石に歩き疲れたので問いかける。

 しかし、ボクの言い分なんてお構いなしに急に走り出した。ナニカから逃げるように両手で顔を隠しながら。先程まで手にしていた虫は遥か後方に捨てられていた。


「あの木の影からわたしのこと覗いてる奴がいる!」


 そんなものはいないよ

 落ち着いてよくみてごらん

 木に蔦が巻き付いているだけだ


 パニックになった彼女が落ち着いた頃にはどこか知らない場所にいた。

 

「ここは……どこだろう」


 上がった息を整えながら静かに彼女は呟いた。


 前を見ずに走り回るからそうなるのさ

 それにキミの体力はどうなっているんだい

 ボクじゃなきゃここまでついて来れなかったかもしれないよ


 彼女は僕の言葉を無視し、フードを深く被り何かから隠れるようにして近くのコンビニに入っていった。


 僕はあの中まではついて行くことができないので、彼女が戻ってくるのを外で待つことにした。


 二時間ほど経った頃、彼女は赤色のペットボトルを大事そうに両手で握りしめながら出てきた。


 少し時間がかかったみたいだがきちんと買い物ができたようだ。


「今わたしが持ってる飲み物はわたしに買われる為に商品棚に並んでいたのか、それともわたしに買われることがあらかじめ確定していて必然的にわたしはこの飲み物を手に取ったのか、そもそもこの味の飲み物は今日この日にここでわたしに買われるために生まれたのか、どれだと思う?」


 出てきて早々、フードの影から暗い瞳を覗かせながら早口で捲し立てる。

 そして、ポケットから取り出した何かと一緒に一口だけ飲み物を喉に通した。

 

 二時間前とかわらない彼女がそこにいた。

 キミ、そんなどうでもいい事で二時間もコンビニにいたのかい


「アナタにとってどうでもいいことでもわたしにとっては大事なことなんだよ」


 でも、もうペットボトルなんて持ってないじゃないか


「あれ、ホントだ」


 ゆっくりと流れる夜の時間の中で取り残されるわたし。

 車のヘッドライトに照らされて影がより一層濃くなり闇に体が溶けていく。

 街頭に集まる虫が無秩序に行き交い、静けさで満たされた夜の街に時折動きを与える車の走行音は、漣のように満ちては引いていった。

 まるで世界にわたし一人だけになった気分だった。


 浸ってるところ悪いんだが、ボクもいることを忘れないでくれよ


 「わたし達が吐き出す言葉ってどこにいっちゃうんだろう。毎日世界中の人が作る無限の組み合わせからできる言葉はいつかこの世界を埋もれさせちゃうと思うの。なのに、いつまで経っても何処にも無いんだよ。そんな重さも無い不確かなモノなのに悪口はわたしの心を抉り取るように傷つける。わたしの本当の思いなんてこれっぽっちも伝える事ができないのに」


 履いていた靴の底を削るように石を蹴り飛ばし彼女は吐き捨てた。

 小さな石ころは電柱に当たり、やがて排水溝の脇に吸い込まれるようにして落下していった。

 

 言葉ってどんな意味のものが一番最初に生まれたんだろうね


 ボクが何となく思った疑問に答えるように彼女はどこか遠くを見据え夜の世界に言葉を溶かすように滑らかに言った。


「ピーナッツクリーム」


           *

           *

           *



 間もなく朝が来る。

 無限に広がる建物の群れを這うように光が世界をつつみこむ。

 ボクたちはこの心地の良い時間を後にして、未来に進んでいかなければならない。

 いつまでもずっと同じ場所にはいることはできないんだ。


 だからさ、そろそろ終わりにしようか。


「あっ、そうだ茄子がいるんだった」


 やれやれ、ここまで随分遠回りしたけどやっと思い出したようだね

 ほら、あの家の庭に立派な茄子が実ってるよ 


 彼女は他人の家の庭に入り立派に実った茄子をひとつだけ彼女はもぎ、大事そうに上着のポケットにしまい込んだ。


「この茄子も今日わたしに収穫されるためにここまで育ててくれてたんだね」


 その通りさ、今だけはキミがこの世界の中心なんだ

 だって、都合よく思いついた先で必要なものが実ってるなんて有り得ないだろう

 

 目的を終えたボク達は家路ついた。

 帰り道は孤独に取り残されそうなくらいな静寂に包まれた。

 まるで暗く深い誰も知らない海の中に飲み込まれてしまったかのように。

 家の前に着くまで彼女は一言も喋らなかった。

 そう、彼女はもう分かっていたのだ。ボク達の未来はもう続いていないことに。

 道は無数にも伸びていた。光はどこにでもさしていた。

 けれど彼女は唯一、光が届かない道を選んでしまったのだ。

 

 いつまでたっても玄関のドアノブを開けようとしない彼女の代わりにボクが代わりに手をかけようとした時、ようやく口を開いた。


 「なんでこんなことになったんだろう......」

 

 ぼつりと吐き出した言葉。

 それは現実から目を背けた彼女が避けていたものだった。

 

「どうしてわたしだけこんな目に合わなくちゃいけないの......」


 全てキミが悪いんだよ

 宥めるようにボクは言う

 救いの手はいくつも差し伸べられていたし

 それを払いのけてきたのはキミ自身だったじゃないか

 犯してしまった過ちの責任は取らなくちゃ

 それが”ニンゲン”ってもんだろ

 さあ、早く中に入ろう

 

 家のドアを開けるとこもっていた空気が逃げるように外に流れた。埃っぽく鉄くさい匂いだった。

 リビングに続く廊下はくすんだ赤色で汚れている。

 月の光はカーテンの隙間からこぼれ、暗い部屋を優しく照らす。部屋の中心には人であったモノが血溜まりを作り、妖しく光を反射していた。

 

 いまさらながら随分と派手にやったもんだね


 「なんで……なんでいつもわたしだけこんな……こんな……」

 

 後悔を受け止めるように顔を両手で覆いながら声をこぼした。


 「この人たちがいけないんだ……」


 そう言い聞かせなければ自分を保てなかった。


 そうだね キミは何も悪くないさ

 今のキミを作り上げたニンゲンや世界がいけないんだ

 だからさ、ほら、最後にやるべき事があるのを忘れていないかい

 

 彼女はいつの間にか血で汚れていた足で台所に行き、箸を一膳取りへし折った。


 「このお箸、まだあったんだね」


 白く照りつける太陽、青々と茂る街路樹に、夏を響かせる蝉の声。

 それはわたし達がまだ家族だった頃、旅行先の京都で買ってもらったモノだった。

 初めての家族旅行。知らない場所でワクワクするわたし。いつもより張り切って空回りするお父さん。それをフォローする下調べが完璧なお兄ちゃん。その光景を微笑ましく眺めるお母さん。

 歴史なんてそんなに分かんなかったし、文化遺産に対して思ったことなんて殆ど覚えてないけど、みんな笑ってたあの時間が大好きで、ずっと続くはずだった。

 あの時、わたしが余計な事をしなければ、お兄ちゃんは死ななかった……お父さんがお酒に溺れることなんてなかった……お母さんがおかしくなることもなかったんだ……


 過ぎてしまった時間のことを思うと目頭が熱くなった。

 零れ落ちる涙はもう戻ることができない確かな現実を突きつける。

 

 「でも、もう、分かったんだ」

 

 わたしはポケットにしまっていた茄子に折れた箸を四本差し込み精霊馬を作った。

 そして、それをリビングのテーブルの上に懐かしい記憶とともに乗せた。

 

 「わたしはこの世界にいらなかったんだ」


 分かりきってても決して口に出さなかった言葉。

 いざ、吐き出してみればなんてことはなく、わたしのぽっかりと空いていた胸に吸い付くように優しく収まっていった気がした。


 もう、やる事は無い。

 もう、ここにいる必要はない。

 そう、必要とされない世界にいつまでも留る必要なんてないんだ。

 だから、こんな世界は見る必要はない。

 わたしは両手の三本の指でゆっくりと、世界を映し出す小さな球体に突き立てた。


 もう何もいらない。

 もう何にも見る必要なんてない。

 かけがえのない時間はわたしの中にちゃんとあるのだから。

 涙ももう流れることはない。

 代わりにかつて目があった場所には深く暗い穴が開いていて、赤くドロドロとしたものがわたしの感情と共に流れ出ていた。


 「そうだよね。おとうさん、おかあさん」


 目の前にいるはずなのに返事はない。


 「ごめんなさい。お兄ちゃん……」


 

 間もなく長い夜が明ける

 モノクロだった世界を光が優しく照らし出し、ゆっくりと夏の朝が動き出す



 ただ一人、暗い世界で、彼女だけ置き去りのまま

 

 

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暗い世界に留まるわたし 木鈴の手 @Junkodo

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