ep2:「再会」すず編
その日は、わたしが働くパン屋の夏休み初日だった。
町の小さなパン屋の夏休みにしてはちょっと長いお休みなのは、パン屋を経営している両親の方針だった。
父と母が『すずらんベーカリー』を開業したのはわたしが10才の時だった。
母の地元のこの町に戻り、両親がパン屋を開くことになった。
当時、転校を余儀なくされたわたしは大泣きと不機嫌の極みだったが、越してすぐにこの街が好きになった。
ちょっとダサいと思っていたパン屋の名前も両親が新婚旅行で行ったフランスで、フランスで毎年行われているすずらん祭りの日を知って素敵だと思ったからで、フランスで食べたフランスパンとクロワッサンがすごく美味しくて、夫婦でパンの魅力に目覚めたのもこのフランス旅行がきっかけ。
夏休みが長いのもフランスに感化されているからだった。
父と母が当時の写真と思い出話を子どもの頃からよく聞かせてくれた。
『すずらんベーカリー』はその名前のレトロさとは裏腹に、洗練されたフランスパンとクロワッサンが評判を呼び、遠くからのお客様もいてパン屋は開業しばらくして軌道に乗った。
そんなわけで、わたしがが生まれた時も名前を『すずらん』にしようとしていたらしい。
素敵な名前だとは思うけど、さすがに名乗るのはちょっと憚られる。
「すず」という名前は響きも由来も含めて気に入っている大切な名前。
すずらんの花も自分の花みたいな気がしてとても好きになった。
この街と、この街にあるパン屋が大好きになりそのまますくすくと育ったわたしは、高校を卒業後両親の反対を押し切ってパン屋を継ぐための修業をすることにした。
それまでも、もちろんお店のお手伝いや店番などをしたりはしていたけれど、あくまでバイトというスタンスだったし、細かいことを教わるなどということは一度もないままだった。
両親ともに、自分たちは好きでパン屋をやっているし子供に継がせる気は一切ない。大学を出て好きなことをやりなさいという姿勢を一貫して崩さなかった。
それまで本格的にお店に関わらせなかったのも継がせる気はないという意思からだった。
わたしがやりたがってものらりくらりとかわされていた。
でも、肝心の大学に行ってほしい当の娘が推薦をとれるほどの学力もないのに受験勉強を一切しようとしなかったため、さすがに受験料をどぶに捨てるものだと諦めたようだった。
製菓の専門学校も視野に入れていたが、それは後からでもいいと思ったし、身近に先生がいて技術を学べるのだから学費ももったいない気がした。
そして、本格的に修行を始めたわたしは、一代でパン屋を成功させるほどの職人夫婦の血をそれなりに引き継いでいたらしく、自分で言うのもなんだけど器用だし筋がよかった。
仕事は楽しく、いずれ焼き菓子にもチャレンジしたいというのが今の夢だ。
パン屋の朝は早いので、その日も休みでゆっくり寝ようと思っていたけれどいつもの習慣で割と早く目覚めてしまい、コーヒーを飲みながら早朝からやっている情報番組を見ていた。
今日の天気やお出かけ情報などを、朝からハイテンションなアナウンサーたちが繰り広げている。
母が起きてきて狭いキッチンの食卓に座っているわたしをチラッとみつつ「あー、お腹すいて早く起きちゃった。もっとゆっくり寝ようと思ってたのに。あたしもとりあえずコーヒーのもーっと」とやかんに水を入れてそれをコンロの上に置き、カチッと火をつけた。
母は割とせっかちでチャカチャカしているタイプだ。
母はわたしの向かい側に座り、わたしと同じ方向のテレビに顔を向け湯がわくのを今か今かとまっていた。
お湯が沸ききるののも待てないのでいつも通り沸騰直前に火を止める。
インスタントコーヒーをマグカップに適当に入れた母はそこに沸騰しきれてないお湯を勢いよく注いだ。
パンにこだわるくせにインスタントコーヒーなのは解せないと思わなくもないけど、合理的な母らしいといえば母らしかった。
パンづくりの時にしか母の繊細さは現れない。
「パン食べる? あたしは食べるんだけど」
「うん」
「なんでもいい?」
「うん」
母と娘の日常会話。
母は冷凍庫からサンドイッチ用の半端になって家庭用になった薄い食パンを適当に出して凍ったままオーブントースターに入れた。
オーブントースターがチンという高い音を出す前に、パンを取り出して適当にバターを塗ってわたしの前に1枚置く。
「ありがとう」
パンを一口かじると、少し頭が目覚めた。
いつもいい感じの焦げ目がつく前の微妙な焼け具合だったが、バターとほんのり焼けたパンの香りが鼻に抜けて脳が刺激される。
薄い食パンを1枚すぐさま食べ終えた母は、次にちょっと重めのパンを冷凍庫から取り出してまたトースターに放り込んだ。
そして、冷蔵庫からチーズを出して齧りながら何かを思い出して喋りだした。
「そういえば、すずちゃんがちっちゃい時通っていたお習字の教室あったでしょう? お習字の先生の娘さんの奥さんに昨日バッタリ会って。奥さん、なんか大量に買い物してて暑そうで大変そうで思わず声かけちゃったの。大丈夫ですか、持ちましょうかって。奥さん、いえいえとんでもないって言ってて。あそこの奥さんも先生がご病気したりしてずっと苦労されてたけど、お元気そうでよかったーなんて思ったりしてて。でも今はご主人と二人暮らしのはずだなと思ったけど、大量に食料買ってたから何かの集まりでもあるんですかってぶしつけに聞いちゃったの。そしたら今日久々に娘が帰ってくるからあれもこれもって買っちゃったんですって笑っててね」
「ふーん」
母のマシンガントークはいつもとりとめもないし脈絡もないので、適当にいつも聞き流している。
その時も、いつも通り聞き流そうとしてたのだが、話を思い返すと母の話に重要な内容が含まれている気がした。
「でね、・・・」
とまだまだ話が続きそうな母を遮って、
「ママ、待って。帰ってくる娘って明日夏さんだよね?」
「そうそう! あすかちゃん。あすかちゃんって名前だったわ。すずちゃん、あすかちゃんになついて。あすかちゃんが卒業して大学行っちゃってしばらく落ち込んじゃってたわよねー、懐かしいわ」
と、母は思い出を語っていたが実際はちょっと違う。
かなり端折っているし、誤解を招く言い方だった。
なつくほどの交流は当時、わたしと明日夏さんにはなかった。
年が離れていたこともあったし、たぶん記憶が確かなら実際に会って話したのは3回ほどだったと思う。
10才の時にこの町に引っ越してきて、娘が早く町になじむことを望んでいた母はわたしを習い事に通わせることにした。
教育熱心なほうではなかったので、それまでに習い事などは自らやりたいと言わない限りは放置だった。
元々は母の地元なのでツテもあり、評判のよかった書道教室に通うことになった。
明日夏さんのおばあさんが先生をしていた。
当時、そのお家には明日夏さんと、明日夏さんの両親と、書道の先生をしている明日夏さんのおばあちゃんと4人で暮らしていた。
生徒は先生のことを”すみれ先生”と呼んでいた。
眼鏡をかけていてちょっとぽっちゃりしていて小柄で温和な先生で、新入りのわたしのことも温かく受け入れてくれた。
書道教室に通い始めたばかりのその年の夏休み中に、書道教室のイベントが開催された。
毎年の書道教室の恒例行事になっていたらしい。
イベントといっても夜にみんなで集まって、家庭用の花火をやるというだけのものだったけど、子どもの自分には近所といえど夜のお出かけは特別でとても楽しみにしていた。
明日夏さんと初めて会ったのはそのイベントだった。
受験生だった明日夏さんは夏休み中もずっと塾や図書館に通っていたため、書道教室が開かれていた時間帯に会うことはなくその家に高校生が住んでいることも知らなかった。
イベント当日は、自宅で夕飯をすませ7時の集合に間に合うように家を出た。
母に浴衣を着せられて、慣れない下駄で小走りに書道教室への道を急いだ。
まだ陽はあったけど傾きかけていて、さらにテンションが上がった。
母に持たされた手土産の紙袋が、子どもの背丈では道をこすりそうで邪魔に思った。
小汗をかいて玄関のピンポンを鳴らす。
「こんばんはー!!」
と叫ぶと、引き戸がガラッとあいて
「いらっしゃい」
とほほ笑む若いお姉さんが出迎えてくれた。
初めて見る人だったし、綺麗な大人っぽいお姉さんが居たと思ってちょっとドキッとした。
今思うと、走っていたからかもしれない。
お姉さんは、肩ぐらいの髪の毛でシンプルな無地のVネックのTシャツにジーンズの短いショートパンツを履いていた。
「栗山すずです!」
綺麗なお姉さんとの初対面に焦ったわたしはいきなり最初の挨拶と同じぐらいのハイテンションボイスで名乗った。
お姉さんはちょっと笑って、
「すずちゃん。初めまして。
わたしは、白石明日夏です。
浴衣可愛いね、似合ってる。
上がって、上がって」
と家の中に促してくれた。
浴衣姿を褒められてさらに動揺したわたしは、お姉さんの目が見れなくなり、
「これ、お母さんからです! お邪魔します!」
と深々とおじぎしながら、手に持っていた紙袋を手渡した。
「ご丁寧にありがとう」
とお姉さんは紙袋を受け取ってくれた。
いつもの通り上がり框から、書道教室に使われているリビングに入る。
「こんばんはー!!」と挨拶したらすみれ先生と明日夏さんのお母さんが台所で作業をしつつ「いらっしゃーい」と声を返す。
あとから、明日夏さんが入ってきてお土産を二人に渡している姿を横目で見た。
いつも書道用の机が並ぶリビングにはちゃぶ台が置かれて、ちゃぶ台の上にはジュースやちょっとしたお菓子が置かれてあり、緊張が少しほどけた。
縁側は開け放たれていて蚊取り線香のにおいがしていた。
リビングには同じ教室の友達がすでに何人かいて、トランプをしていた。
「すずちゃんも一緒にやろう!」
と声をかけてくれて、たぶんそのあと一緒に遊んだような気がする。
そのあとの出来事が強烈であまり覚えていない。
みんなが集まって、夜もしっかり暮れて縁側にはスイカが運ばれて花火が始まった。
庭でバケツを囲んでした花火は楽しかった。
スイカも甘くて、夏っていいなと思った。
ずっと、夏休みならいいのに。
花火も終盤にさしかかったころ、明日夏ちゃんのお母さんが「明日夏、せっかくだから何か歌ったら、いつも練習してるじゃない」と言った。
明日夏さんは「えー、恥ずかしいし子どもが聞くような歌じゃないからやだー」と断っていたような気がするけど、すみれ先生も参戦してたら根負けして「じゃあ一曲だけ」と言って、二階からギターを持ってきた。
「ごめんね。子供の好きそうな歌、歌えないの。一曲だけね」
と、言いながら縁側に腰かけてギターを抱いた明日夏さんは、ポロンポロンとギターを鳴らしながら、ゆっくりと息を吸って吐きながら声を発した。
第一声目で驚いたのはわたしだけじゃなかったらしい。
騒々しかった庭に静寂が訪れた。
すごくゆっくりした歌で、さらに日本語じゃなくて知らない歌だった。
それでも、みんな歌っている間はじっとしていた。
明日夏さんの声は、ちょっと低くて通る声で、とても心地よくて素敵で目が離せなかった。
歌を聴いていると、初めての感情で感極まって泣きそうになってしまった。
夏の蒸し暑さと夜の縁側で奏でられる音楽と、今まで聴いたことのない綺麗な声で歌う、とても綺麗な人。
言葉にならないこの気持ちがなんなのか10才のわたしにはわからなかった。
最後にポロンとギターが鳴らされて「はい、おしまい」と明日夏さんはそれまでの真剣な表情から笑顔になった。
教室の生徒は誰も知らない曲だっただろうけど、みんな盛大に拍手をした。
「お姉ちゃん、歌上手だね!」
「ギター、かっこいいね!」
「僕にもギター教えて!!」
「もう一曲歌って!」
とわらわらと明日夏さんの周りに集まってたけど、わたしはその場を動けなかった。
「はーい、おしまい!」
と大きく言って、明日夏さんはギターを抱えて二階に行ってしまった。
わたしはちょっと放心状態になって、縁側に座り夏の夜空を眺めていた。
そのあと、それぞれの親が順繰りに迎えに来て花火イベントは解散になった。
書道教室に行けば会える気がしていたお姉さんだったが、なかなかそれ以降は明日夏さんに会えずにじりじりしていた。
元々一度も会ったことがなかったのだから簡単に会えるはずはないのだけど、毎回がっかりしていた。
とにかくもう一度会って話したくて、意味もなく家の周りをうろついたりしていたけど、子供だから不審者だと疑われなくてセーフだった。
二度目にようやっと会えたのは、夏休みも最終週に差し掛かったあたりの少し秋めいてきた日だった。
書道教室の月謝を忘れたので、帰ったあとに母に持参するように言われてわたしは教室に戻った。
「こんにちは!」
と玄関から声をかけると明日夏さんが登場して心臓がはねた。
先日と同じようなTシャツに、スウェットの半ズボンだった。
お風呂上りのようで、濡れ髪にバスタオルを肩にかけていた。
あんなに会いたかったのに、いざ会うとどうにもできない。
「あ、あのっ、わたし栗山すずです!」
「すずちゃん、先日はどうも。おばあちゃんに用かな?」
明日夏さんは小さな子供に話しかける口調で話しかけてきて、わたしは少し不機嫌になった。
「げ、げ・・」
「げ?」
と首を傾げられたのでますますカーッとなったものの、
「月謝・・・」
というのが精いっぱいだった。
「あー、月謝!!」
うつむいて声が出せないわたしに、
「今、おばあちゃん居ないの。すぐ帰ってくると思うから上がって待つ? 直接渡したいと思うし」
と明日夏さんは言った。
わたしはうなずいて言われるままにリビングのちゃぶ台の前に座った。
明日夏さんは、暑かったでしょと言いながら冷蔵庫から瓶のサイダーを取り出して、氷の入ったグラスに注いで、それを二つ持って一つをわたしの前に置いた。
もう一つを向かい側に置いた。
「ありがとうございます」
と言って、勢いで一口飲んだら思いのほか炭酸が強くて少しむせた。
明日夏さんはあせって、わたしの後ろに回って「だいじょうぶ?」と背中を撫でた。
手は大きくて温かい。
「もう、大丈夫です」
「よかった・・・」
明日夏さんは心底ほっとしたようで、わたしもほっとした。
わたしの前に改めて座った明日夏さんに思い切って声をかけた。
「あの、し、しらいしさん・・このあいだの歌、すごく上手でした」
「あ、ありがとう~。ギターも下手なんだけど、そういえってもらえると嬉しい」
「しらいしさんは、へたとかじゃないです。すごく上手です」
「本当にありがとうね~。子供に名字で呼ばれるのはずかしいから”あすか”でいいよ」
「・・・・」
その時、玄関でガラッと引き戸を引く音がした。
「あ、おばあちゃん帰ってきたみたい。ちょっと待っててね」
と、明日夏さんは玄関に走っていく。
わたしは一人、「あすか、さん・・・」と声に出した。
2人の時間はあっという間に終わり、アイドルの握手会でももうちょっと話せてる人がいるんじゃないかというレベルだった。
三度目に会ったのはそれから五年後、わたしは15才になっていて、明日夏さんは23才の時だ。すみれ先生のお葬式だった。
初めて会ったときギリギリ高校生だったあすかさんは社会人になっていて、初めてみたときよりさらに大人っぽくなっていた。
明日夏さんはすごく泣いていて、挨拶したわたしを見なかったからたぶんこの時のことは覚えていないだろうし、10才から15才では見た目も変わっているし仕方ないと思う。
15才のわたしは5年ぶりに明日夏さんを見たとき、あの時の気持ちは初恋だったかもしれないと思った。
中学に入って、色恋が身近になってわたしも普通にクラスメイトの恋話に参加はしたけどなんていうか、身近じゃなかった。
クラスメイトの男子も先輩男子も人としては好きだなっていうのはあっても、恋とは違う気がした。
中2の冬のバレンタインに、同じ書道教室だった男の子にずっと好きだったと告白されてお付き合いまがいなことをした。
楽しかったけど、子どもの恋愛ごっこの域を出なかった。
受験を控えて自然消滅した。
高校ではそういうこととはなんとなく距離をおいて過ごしていて、周りも「すずは恋愛に興味のない子」として接してくれていて楽だった。
母の話を聞いて、中学、高校で感じたことのない、初めて明日夏さんの歌を聴いたときのあの時の気持ちがぶり返した。
わたしは確かめたいと思った。
家にいてぐずぐず考えていたけど、いてもたってもいられず家を飛び出した。
外はすごく暑かった。
帽子をかぶってこなかったことを一瞬で後悔したけど、戻るのは嫌だった。
暑さもあるのか、驚くほど外に人がいない。
あの角を曲がると明日夏さんの家だ。
歩くごとにどんどん近づいてくる。
水音と歌声が聞こえる。
明日夏さんが歌っている。
思わず立ち止まって、明日夏さんの歌を聴いていた。
塀の向こうに明日夏さんがいる。
胸がいっぱいになった時、急に頭上から大量の水を浴びて思わず悲鳴をあげた。
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