muget
八朔
ep1:「再会」明日夏(あすか)編
その日も朝からとても暑い日だった。
昨夜も蒸し暑かった。
寝苦しくて寝付けずに、だらだらと動画を観て過ごしてしまった。
母が祖父から引き継いだ昔ながらの木造二階建て住宅の二階に自室はあったが、エアコンはなくこの時代においても扇風機と氷枕が頼りだ。
朝方からやっとうとうとし始めたものの、暑くてすぐ目が覚めてしまった。
時計の針は今10時を回っている。
暑さと寝不足で朦朧としながらも涼を求めてエアコンが効いているリビングに降りてきた。
眠りも浅く寝不足で目が覚めずにそのままちゃぶ台につっぷす。
涼しい。
文明の利器の涼を堪能しながら縁側のむこう側の、今時は贅沢さすら感じる庭で、私が生まれる前からあそこで生きているのかもしれない植物たちを、締め切った窓越しにボーッと眺めていた。
夏は朝晩涼しい地域でもあるため「エアコンなんか必要ない」と意地を張っていた父だったが、去年やっと導入された最新式のエアコン。
父は「もう人類が耐えられる気温ではない」と豪語してエアコンを買ったはずだったが、母は「家が暑いからお盆は帰らないと言って明日夏が帰ってこないから、パパ、エアコン買ったのよ」と笑って教えてくれた。
確かに就職して数年は帰らなかった。
シンプルに新生活で忙しかったというのもあるけれど、暑いというのも理由の一つではもちろんあった。
日常的にエアコンのある夏に慣れてしまった体は年齢とともに軟弱になる。
父から娘への愛で、この家のお茶の間は適温が保たれるようになり、地続きの台所での料理も楽になったと元々エアコンを切望していた母も喜んでいる。
それでも、私の自室にエアコンは導入されなかったのが父らしい。
愛も無限ではないということなのだろうがその辺は仕方ない。
いつ帰るのか、そもそも帰る気があるかわからない娘の部屋にエアコンを取り付ける親はかなり稀だと思う。
私は、充分に愛されて育った。
親元を離れて生活したことでそのことはだいぶ骨身にしみた。
仕事も落ち着いた今年の夏休みは、できる限り帰ることにしたのだ。
それなのに父と母は娘の帰省もお構いなしに仕事に出ていて家には誰も居なかった。
こんなもんだと思うし、このぐらいがちょうどいいのだと思う。
とても静かだった。
ずっと帰ってはいなかったけれど、ちょっと薄暗さすら感じるこのレトロな家が今でもとても好きだ。
色々あったし、帰ってきてよかったと思った。
体が冷えてくると同時に自分はエアコンで快適な夏を享受しているけれど、この暑い中、24時間絶え間なく外で息をしている緑たちが気の毒に思えてきた。
彼らも懸命に日々生きている。
(水浴びをさせてやろう)
思い立った私は立ち上がり、寝間着のTシャツと短パンのまま縁側の窓を開けた。
もわっとした熱風と日差しが肌と目に容赦なく突き刺さる。
弱気になっていったん窓を閉めたが、今の刺激で完全に目が覚めた。
廊下の端の棚に置かれていた、母の庭作業用の首の後ろが保護されている無駄に大きい帽子をかぶりもう一度窓を開けて縁側の下に置かれているサンダルを履いた。
ジリジリと肌に太陽が降り注ぎ慌てて帽子と一緒に置かれていた日焼け止めスプレーを全身にスプレーしたが、外に出ただけですでに汗ばんでいてスプレーがすぐさま落ちてしまいそうだった。
母の巨大な帽子は、さすがに日差しを遮る効果は抜群だった。
庭に無造作に転がっていたシャワー型になっているホースの先端を拾う。
そしておもむろにホースが固定されている蛇口をひねった。
蛇口をひねりすぎたのか、ハンドルを思いきり握っていたために思いのほか水が勢いよく噴き出して、Tシャツの前と短パンが一気にびしょ濡れになってしまった。
けれど、蒸し風呂状態のこんな日には少しぬるくなっている水道水を直に浴びるのは悪くないハプニングだった。
びしょびしょのまま、うっそうと茂る緑たちに水を思い切り浴びせかけた。
気持ちいい。
緑たちも気持ちよさそうだった。
水の振動でゆらゆら揺れて喜んでいるようだ。
どうせ濡れているからと、緑たちだけではなく自分にもたまに水をかけた。
水撒きが楽しくなってきた私はハミングまじりになっていた。
そして、歌も一番の盛り上がりに差し掛かった頃だった。
「キャーーーーーーーーーーーー!!!」
という若い女の子の悲鳴で我に返った。
歌に夢中になりすぎて、ホースから飛び出している水の先端が塀を超えている。
まずい。
私はホースを放り出して、勢いよく門から外に走り出た。
目の前にずぶ濡れになって途方に暮れる高校生ぐらいの女の子が立っていた。
「ご、ごめんなさい!! 大丈夫!?」
「・・・・大丈夫・・・です」
「って、大丈夫じゃないよね。あ、あの、服を乾かす時間とかある? よかったらシャワー浴びていかない?」
「いいんですか?」
「もちろん、さ、上がって、上がって!」
門に女の子を押し入れて玄関に促す。
「あ、その前に、タオル、タオル。タオル持ってくる」
自分もびしょ濡れ状態だったが、浴室の棚からバスタオルを二枚取り出して、玄関に戻る。
女の子は律儀に玄関の土間三和土に立ったままで、洋服から水が三和土に滴る。
「これでとりあえず。お風呂場はあっち」
とお風呂場のほうを指さした。
渡したタオルで丁寧にからだを拭いてからあがろうとする女の子を制して、「いいから、早く」と急かした。
おそるおそる見知らぬ女の子は上がり框を上がった。
脱衣所の扉を開けて中に入るのを見送ったあと、焦って見ず知らずの若い子を実家のお風呂に放り込んでしまったが、大丈夫だったろうか、犯罪者と紙一重なのではと一瞬冷静になってしまったが、二人の濡れ鼠により水浸しになった廊下を見て、複雑なことはあとで考えることにした。
一旦、もう一度庭に出て蛇口を締めて水を止めた。
庭のホース周りが水たまりになってしまったが、この炎天下で何事もなかったように乾くのを祈ることにした。
自分の体はざっと拭いてバスタオルを体に巻き、キッチンから母が三角に折っている大量のレジ袋入れ専用袋から1枚取り出し駆け足で二階に上がる。
濡れた衣服を全部脱いでビニール袋に突っ込み、まずは自分が着替えをした。
比較的綺麗なTシャツと短パン、予備の新しい下着のパッケージ、化粧水などをひっつかみ脱衣所に入った。
お風呂場からはお湯の音が聞こえてくる。
「着替えとか諸々置いておくから」
と一声かけてすぐさま濡れた洋服を回収して、洗濯機に入れた。
茶の間で手持無沙汰にうろうろしていると、脱衣所の引き戸をガラッと開けた音がした。
勢いよく出迎えに出てしまい思わずぶつかりそうになってしまう。
私が用意してた着替えを着たようだった。
少し大きいけどとりあえず急場をしのぐには問題なさそうだった。
「あ、ごめん! えっと、あの。着てた洋服、今洗ってて」
「お風呂ありがとうございました。あ、あすか・・さんは大丈夫ですか」
「え、私は大丈夫。もう髪も乾いてきてるしって髪! ドライヤーいるよね。持ってくる。あそこに座ってて」
私は、茶の間の座布団を指さして脱衣所に入りドライヤーを掴んだ。
先ほどの会話に少し違和感を感じたけど、そこもいったん保留して茶の間に向かう。
「お詫びに乾かしてあげたいけど、嫌かな。嫌だったら断って」
と声をかけると、
「嫌じゃないです」
と返事が返ってきたので、電源タップにコンセントをさして女の子の髪の毛を乾かす。
茶色がかった柔らかいくせ毛のセミロングの髪の毛は雑に乾かすとすぐ絡まりそうだった。
「本当にごめん。水なんか掛けちゃって。近所の子かな」
「はい。二丁目のパン屋の・・・」
「え、パン屋さんって。もしかして『すずらんベーカリー』のすずちゃん?」
「すずのこと覚えてますか?」
「覚えてる、覚えてる! まだ、こーんな小さくて。何年ぶり? 10年・・・までは経ってないかぐらい?」
「そっかー、だからか。名前呼ばれてさっきは焦ってスルーしちゃったけど、私のこと知ってたんだね。久しぶりの再会なのにこんな目に遭わせちゃって本当にごめんね。お父さんとお母さん元気? あそこのパン本当に大好きで。ところで、もしかしてどっか行く予定だったのかな。本当に私なんてこと・・・」
知り合いだったことが判明してホッとしてたくさん喋りすぎてしまったかもしれない。
「大丈夫です。すずも悪かったんで」
「え? 歩いてただけでしょう? もし急いでるならあとでお詫びがてら乾いた洋服をお家に持っていくけど。よし、髪も乾いた!」
ドライヤーのスイッチを切ると急に部屋が静かになった。
数秒の沈黙のあと、
「洋服が乾くまで待たせてもらうのはダメですか?」
と、キッパリとすずちゃんが言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます