ヤンデレジャンル論争

空殻

「『ヤンデレ』って、ジャンルとしては『ホラー』になるよな?」

僕がそう言った直後、目の前の友人は麦茶をぶっかけてきた。


***


大学の夏休み。特にすることもない昼下がりに、部屋で友人とアニメを見ていた。

 そのアニメはいわゆるラブコメで、ヒロインの一人が主人公に対して執着心強めな、まあ言ってしまえばヤンデレで。

 彼女の数々の暴走、奇行がコメディタッチで描かれていることについて、ちょっと違和感を覚えた僕は、つい先ほどの言葉を呟いた。

 その結果がこの、麦茶で湿った服と床だ。ふっと麦の香りが広がった。本当にやめてほしい。

「何すんだよ!」

とりあえず抗議をしておくが、友人の怒りに燃えた目を見てたじろいだ。麦茶をぶっかけた時の、コップを傾けた態勢で固まっている。なんなんだ、コイツは。

 いったい、何に怒っているんだろうか。

 そう思いつつも、直前の会話から原因はほぼ決まっている。

「……なあ、『ヤンデレ』って、ジャンルとしては何だと思う?」

猛獣の檻に恐る恐る近づくように、僕は問いを投げかける。

 友人はコップをゆっくりと置いて、たっぷりと一息ついてから答えた。

「『純愛』だ」

「は?」

「『純愛』」

「……ああ、そう」

怒りはある程度落ち着いたようだが、彼の表情から完全に真剣マジだと分かった。本気でそう言っている。

「なんで?」

ここでつい軽率に聞いてしまうのが、僕の悪い癖だ。案の定、友人の怒りはまた着火して、コップを掴もうとしていた。

「待った待った!別に否定してるんじゃないって。理由を聞きたいんだって」

必死でなだめて、友人はどうにか落ち着いてくれる。そして、ぽつりぽつりと、だがしっかりとした口調で語り始めた。

「……そもそも、『ヤンデレ』ってのは特定個人への非常に強い執着心と、独占欲から成立してるわけだ。誰かを独り占めしたい、ずっと一緒にいたいっていう感情。これ自体は、別に悪いことじゃないよな?」

「まあ、行き過ぎなければ、そうなんじゃないか」

「そうそう、問題はそれが『過剰』なこと、ただそれだけだろ。それなのにお前が『ホラー』とか言い出すから」

「いや、でも、『過剰』なのは問題なわけだろ?そこを切り取ってみれば、恐怖には違いないんじゃないか」

「いや違うね。『過剰』ってのは表現の記号化で、言ってしまえばフィクションの常だ。それを切り取ってみても、本質とは大きく隔たっている」

「そうかね」

「そうだよ。奇行も凶行も、現実ではまず起こりえないのだから、もっとヒロインの心情に重点を置いてジャンルを選ぶべきだと思うね。そうしたら『ホラー』はないだろう、一番近いのは『純愛』だ」

「ああ、そうかい」

一応筋が通っているように聞こえなくもないのだが、やっぱりそれは違うと思った。友よ、それは机上の空論だよ。そう言ってやりたいが、また濡れたくはない。

 というよりそもそも、ジャンルの解釈違いでいきなりお茶をぶっかけるのは、まさしく過剰な奇行で、現実では起こりがたい話なんじゃないのか。そう思った。


***


友人の『ヤンデレ純愛論』の講釈を聞いた後、僕はタオルで濡れた床を拭き、麦の匂いが染みたシャツを着替える。この時には友人も我に返ったらしく、謝ってから片づけを手伝ってくれた。こういうところで、友情は危ういバランスの上で保たれるのだと思う。

「さてと、仕切り直しで、何か食べるか」

そう友人に言いながら、僕は冷蔵庫に向かい、がさごそと菓子を取り出し始める。腐りそうなのが怖くて、この時期は何でも冷蔵庫に入れがちだ。

 リビングで座ったままの友人が声をかけてくる。

「そういえば。昨日サークルの後輩がクッキー、配ってたろ?あれ旨かったぞ」

「……へえ、そう」

僕と友人は同じサークルだが、そこに今年から入ってきた後輩の女の子が、お菓子作りが趣味ということで、よく配ってくれるのだ。昨日もそんな風に、みんなにクッキーの小袋を配っていた。

 その時、隣の部屋からドンドン、と音が聞こえた。

「え、何事?」

友人が驚くが、僕にとっては慣れっこだ。

「ああ、最近引っ越してきた人が、たまにやるんだよ」

「ええ……」

友人は顔をしかめる。でも仕方がないだろう、大学生の借りる部屋は安い物件なのだ。壁だって薄いから、音や声が聞こえることもあるだろう。


***


「お待ちどう、っと」 

冷蔵庫から色々と菓子を出してきた。ゼリー、チョコレート、クッキー。ついでに飲み物も。ペットボトルのお茶と、水筒に入ったアイスコーヒー。

 友人のコップにお茶を注ぎ、僕は水筒の蓋にコーヒーを注いだ。

「ありがとさん、って、これなんだ?」

友人が見ているのは、クッキー。小袋がふたつ。片方は例の後輩がつくったもので、友人にとっても見覚えのある包装のはずだ。そして、もう一つは。

「もらったんだよ、たまたま」

「へえ、すげえな。めちゃくちゃ綺麗に仕上がってるじゃん」

確かに、そのもう一つのクッキーの小袋は、とても綺麗に包装され、中身も絶妙な焼き色と整った形をしていた。売り物と遜色ない。友人が感嘆するのも分かる。

「まあでも、こっちの方は俺がもらうな。後輩のクッキーはお前が食べていいから」

そう言って、自分は綺麗な小袋の方を開き、クッキーを一つまみ。一方、友人は後輩のクッキーを一つ掴んで齧った。

 異音。ジャリ、という音がした。

 音の発生源は、僕が食べた方のクッキーだった。友人が思わず、といった風でこちらを見る。

 僕の食べたクッキーの断面からは、漆黒の異物が覗いていた。

「おい、それ……」

「まあ、こんなことだと思ってたよ」

そう言ってから、僕はそのままクッキーを丸呑みしてから、水筒の蓋からコーヒーを飲んで流し込む。コーヒーは、少し鉄のような味がした。

 呆然として固まった友人を前にして、僕は説明を試みる。

「……これはフィクションでもなんでもない、真剣マジの話なんだけど、僕には幼馴染の女の子がいて、まあその子にとても好かれているんだよ」

友人は固まったまま。まあ当然だろう、こんな唐突な自分語り。

「で、その子はとても可愛いし、何でもそつなくこなせるタイプで、まあ僕も悪い気はしないんだけど、ただちょっと、何ていうか、好意の表現が『過剰』なんだよ。まあ、言ってしまえば『ヤンデレ』ってことかな」

そう、僕の幼馴染は、一般的な分類で『ヤンデレ』なのだろう。

「だから、こんな風にクッキーに自分の髪を混ぜ込んで僕に渡してきたりするんだ」

僕が手元の綺麗なクッキー袋を指し示す。友人は無言、青ざめている。そりゃそうだろうよ。

「ちなみに」

補足説明として手元の水筒を持ち上げて。

「このコーヒーも『彼女』から貰ったんだけど、こっちはたぶん経血入り。どうも、自分の体の一部が僕に食べられると、愛が深まったと思えるみたい」

淡々と語る僕は異常者だろうか。まあこんなことには慣れてしまったのだから仕方がない。

 とまあ、とりあえずこんな感じで説明をしたのだが、頭の良い友人はそこで気づいてしまった。

「……お前、『渡された』『貰った』って言ったよな」

「……ああ、そうだよ」

夏真っ盛り。いくらクッキーやコーヒーでも、何日も保管しておきたくはない。僕は『彼女』から、これらを直接、ごくごく最近貰ったのだ。

 追加の説明が必要だ。

「……その子は、なるべく僕のそばにいる時間を増やしたいらしくて。夏休みの間、こっちに引っ越してきたんだ」

「それって……」

「そう、さっき話したお隣さん。それが『彼女』だよ」

隣に引っ越してきた『彼女』。よく料理や菓子を作っては僕に渡しに来る。

 時折、僕と他の女の子との話が聞こえると、思わず物にあたって大きな音を出してしまうみたいだ。だからさっき、友人が後輩の話をした時も、彼女は不安になってしまったのだろう。

 だから、今こんな状況になっているのだ。

 昼下がり、外は太陽がよく照っている。網戸越しに、狭いベランダが、僕からはよく見える。向かい合って座る友人からは、見えていないだろう。

 ただ、ここまでいくともう、全て伝えておいた方がいいか。

「ところで、この家はごらんの通り安物件だから、ベランダも狭いし、手すりも低い。ちょっと頑張れば、手すりによじ登って、伝って、隣の部屋のベランダにも入れる。」

 ちょっとセキュリティ上どうかとは思うが、まあそこまで想定していないんだろう。

 友人は気付いたようだが、振り向こうとはしない。

「さっき後輩の子の話が聞こえたから、気になって様子を見に来たみたいだ」

 僕からは、ベランダが見えている。そして。

「『彼女』、すぐそこにいるよ」


***


 さて、『ヤンデレ』のジャンルは何だろうか。

 僕はやっぱり、『ホラー』だと思う。


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