第一話「黄金の騎士と黄昏の少女」②

 第一章 黄昏たそがれの少女



 新緑が風になびく山の上を、わた雲は単純そうに渡り歩く。その情景を、さなぶりを過ぎた水田が鏡のように映すなか、田畑を分かつあぜ道には、ひとり山を目指す青いジャージ姿があった。

 気乗りしないのか、その足取りは随分と重い。うしろでひとつにした長い黒髪も、右肩にひっかけた茶色い道着袋も、いまは力なく揺れるばかりだ。

 襟が立ったジャージは袖や裾が随分とだぶついていて、明らかに身の丈に合っていない。それもそのはず、これは男ものである。お下がりでもらっただけの少女は、まくり直しても下りてくる左の袖に眉間のしわを深くすると、憂鬱そうに嘆息した。

 そして、不機嫌に細めた赤い眼で空を仰ぐ。形を変えた雲がなおも呑気に泳ぐさまは、わけあって消沈する彼女にしてみれば、なんともうらやましいことこの上ない。

 とはいえ、日課の朝稽古の帰りはいつもこんな調子である。三年にもなればいい加減慣れようものだが、

(芯がないつったって……)

 と、少女はこれまたいつもどおり、落胆にその肩を落とした。

 またも深々と嘆息すれば、脳裏によみがえるのは老師の厳粛なる言葉である。

「まったくもって芯がない。カグヤ、いつも言っておるのを忘れたか? 迷うな。稽古といえど急所を狙え」

 手にした木刀を弾かれて、道場のど真ん中で尻をつく彼女を見下ろし、老師こと翳祇かげるぎ鍾馗しょうきはそう叱咤した。

 濃紺の道着に黒い袴を召したその老人は、得物を手にしていた神楽夜かぐやに対し徒手である。それで急所を狙えと言われても、遠慮しないほうが無理な話だ。

 だが、おそらく本気で斬りかかったところでこの男には通用しまい。還暦間近と思えぬ動きで容易くかわされ、組み伏せられるが落ちであろう。今日ですら、なにゆえ木刀が宙を舞ったのか解せぬのだ。 

 加えて、本来の稽古は真剣だというのだから、畏怖の念を抱いてあまりある。下手を打てば死にかねない稽古なぞ、もはやただの殺し合いではないか。

 神楽夜はいやな想像を振り払うべくきつく瞼を閉じ、かぶりを振った。それにつられ、後頭部で結わえた総髪が、それこそ馬の尻尾のようにわさわさと揺れた。

 神楽夜がとぼとぼと歩を進めるあぜ道は、田園風景に面した山のなかへと続いている。山に近づくにつれ、ふもとの道の右手には、古ぼけた鳥居が見えてくる。朱色はあせ気味で、いまにも朽ちて落ちそうだ。掲げられた神額には<祀木まつるぎ>と書かれているが、続く文字はかすれていて、判別はつかない。

 そこから上へと伸びる石階段を、神楽夜は鳥居の前で一礼してからのぼりはじめた。

 老師にいわく、ここは建てられてから数百年が経過しているという。その年季に違わず、木々の合間を抜ける石階段は地面の隆起に合わせ、段の高さがまちまちである。

 神楽夜が知る限り、ここへ参拝に来る者は身内だけだ。観光客で賑わう市中に比べ、郊外も郊外のこの場所は、もとより人が近寄りがたい。それになにより、これほどきつい段差では、田畑の向こうに住む老人らには厳しかろう。

 そう考えながらのぼりきったさきに、もはや廃墟というに等しい拝殿があった。

 神楽夜は賽銭箱の前に立つと目をつむり、深く二礼したのち、二回手を叩く。そして、

「カグヤ、帰りました」

 と少々投げやりに言い放つや、最後に一礼して踵を返した。

 そのまま何事もなかったかのように拝殿の横を素通りし、神様を祀るとされる本殿をも通り過ぎ、裏手の林へ進んでいく。

 林の陰りも手伝ってか、そこは表よりも一層近づきがたい静けさがある。しかし神楽夜は臆することなく、むしろ慣れた様子で、草木から垣間見える獣道へ踏み込んだ。

 道をたどるにつれ、勾配は険しさを増す。雑草は「我々の領地だ」と言わんばかりに生い茂り、やがて道すら覆いつくしてしまった。

 けれども、神楽夜はあたりの木々に目を配り、赤い紐が結ばれている幹を見つけると、そちらへずんずんと足を動かし続ける。

 それを繰り返すこと五度。彼女は別の獣道に出た。

 遠くから、ざあざあと激しい流水の音が聞こえてくる。正解の証だ。はじめはよく間違って、麓の鳥居のところへ戻されてばかりであった。が、それももう八年前のこと。

 ただ家に帰るだけだというのに、よくもまあ、これだけ面倒な仕掛けを施したものだ。最初は感心混じりにそう思っていた神楽夜だが、いまとなってはただ面倒くさい。体力のない弟に至っては、外出を渋るほど疎ましがっている。

 それでも、森がまろやかにした陽光を浴びながら、わずかに湿り気を含んだ空気を胸いっぱいに吸い込むのは、彼女にとって癒しのひとつであった。家まではあとひと息である。彼女は歩みを再開させた。

 獣道を緩やかに登ると、強まる日差しのなかからひらけた平地が現れた。

 くるぶしにも届かない草たちが茂っている。広さは、大人が走れば四十秒ほどで一周できるだろう。

 森に囲まれたその土地の中心に、時代に取り残されたような二階建ての古民家がある。

 こげ茶よりも深い色合いの板張りに、黒い瓦の屋根が乗っている。彼女から見て正面にある玄関は、擦りガラスの入った木製の引き戸だ。その左手に伸びる縁側を、神楽夜は視界の隅に追いやるようにして、玄関の戸に手をかけた。

 横へ滑り開くと同時に、擦りガラスたちが、収められた枠のなかで自分の存在を主張するかのようにがたついた音を立てる。

「ただいまー」

 と入ってすぐ、米の炊ける匂いが出迎えた。

 朝食はこれからである。彼女は空腹に急かされるように、上がりかまちに踵を擦り当てて、薄汚れた白い運動靴を脱ぎ捨てた。

 内装は家の外観と同じ深いこげ茶の板張りをしている。床も壁もそうだが、天井だけははりが表しだ。

 玄関からまっすぐ伸びた通路は、左手前が居間、右手前が客間となり、それぞれふすまで仕切られている。通路を奥へ進んで突き当り、右側には二階へと上がる階段が、左側には台所がある土間へと出られる造りである。

 土間は居間と隔てなく隣接していて、天井が二階まで吹き抜けで、居間の中央に囲炉裏いろりが据えられている。部屋は居間と台所を除けばすべて畳で、さながら昭和時代の日本家屋といったところだ。

 すでに朝食の用意は整っているらしい。神楽夜は待っていたであろう弟に詫びの弁を用意しつつ、

「サク、ただいま」

 と居間へ続くふすまを引き開けた。

 しかし。

(あれ?)

 弟の姿はそこにはない。

 米は確かに炊かれている。どこに行ったのやらと探しつつ道着袋を居間に放ると、そのまま台所のある土間へと降りた。三足あるはずのサンダルのうち一足が見当たらないことから、やはり外にいるのやもしれない。

 ひとりで済ませてしまっても構わないといえば構わないのだが、いまやたったふたりの家族である。神楽夜は台所脇の勝手口に足を向けた。

 もちろんそうしながら、ガスコンロに置かれた雪平鍋の確認も忘れない。

(お、なめこ)

 みそ汁の具を確認したところで、空腹の限界が迫ったか。神楽夜はやや足早に、勝手口から裏庭へ出た。

 まず出くわすのはトイレの小屋である。これも古びた木造だ。弟の行き先としては二番目に有力であったのだが、ドアノブの表示錠は「開錠」を意味する青色のままである。

(じゃあ――)

 彼女は首を右へ振り向けた。弟がいるとすればそこしかあるまい。

 これまでの木造式から打って変わり、外壁に濃紺の折板が縦張りされた巨大な倉庫である。長方形の短辺を家側に向けて建つそれは、この忘却されたような土地には似つかわしくない近代さだ。

 外観からの目測だが、間口は十メートル、奥行は十五メートル近くあろうか。金属製の黒い屋根までの高さは、およそ六メートルといったところだ。もはや車を停めておくガレージというより、学校などの体育館のようである。

 神楽夜は、その倉庫の側面に設けられた片開き戸の前に立った。出入りするにはこの勝手口ともいうべきアルミドアか、家側に面した大型のシャッターを抜けるしかない。

 さて、ここにいないとなるといよいよ探す当てがなくなるわけだが、

(やっぱり)

 果たして扉に鍵はかかっていなかった。

 くつずりをまたげば、内部は一転して薄暗い。採光の役割を果たすのが、天井付近の壁に並ぶ排煙窓のみと少なすぎるのだ。まるで明け方のようである。

 その暗がりのなかに神楽夜は、人の確かな息遣いを感じた。

 そっと息を殺し、床をなすコンクリートの上を忍び足で移動する。

 倉庫のなかにあるものはただひとつ、床のほとんどを覆い尽くして設置された、分厚く巨大な金属の台座だけである。それ一台のためにこの倉庫があるといって過言ではない。いまは鈍色のその上に、灰色の耐候性シートが膨らみを持って被せられている。

 弟がいるとすれば、このシートのなかだ。

 すると案の定、その台座を横目に進むうち、シートの端のめくれを見つけた。そこから黒い金属板の一部が覗いている。

 神楽夜はめくられたシートの下に行き着くと、台座の側面に取りつけられたタラップ(短いはしご)をのぼる。そしてちょうど台座の上に頭を突き出したところで、

「まーたやってんの?」

 と半ば呆れた調子で、シートのなかで蠢く小さい背中に声をかけた。

 台座の上で片膝をつき、黒い装甲に右手を当てていた少年は、特に驚いた素振りもない。静かに瞳を開いて身をねじるや、

「姉ちゃん、遅いよ」

 と、背後に非難の目を向けた。

 青みかかった黒髪の少年は、歳の頃合いでいえば十二、あるいは三といったところである。神楽夜とは十も離れていないだろう。せいぜい五つ違いか。

 シートのなかゆえ一層の暗がりとなってはいるが、その肌の白さは姉以上である。血の気の薄さは、病窓越しに春を待つように儚げだ。

 姉としては「もう少し骨太になったほうがいいのでは」と思わなくもないが、それはそれ。無理強いはしない。

「飯食った?」

 せめてそう訊くだけである。

「これから――ってか、早くしないと爺ちゃんたち迎えに来ちゃうよ」

 弟は言い終える間もなく、再び背を向ける。それに、

「だいじょぶだいじょぶ。私らいないとなんも進まないんだから」

 と軽い調子で返した姉は、のぼりかけのタラップから手を離し、三メートルほど下に難なく着地した。

 その足で外へ出て、家へと戻る。大丈夫とは言ったものの、弟の言うとおり少々急がねばならない。居間に上がり、放ったままの道着袋をむんずと掴んで、二階の自室へ向かう。

 階段の床板を軋ませながら踊り場を右へ折り返し、いざ二階へと行き着けば、面するのは居間を見下ろす吹き抜けだ。木で組まれた欄干らんかんが胸の高さで横に走り、それに沿って左へ行くと、左手に引違いの障子が並ぶ。そこが神楽夜たち姉弟の部屋である。

 和室のなかは、障子を開けてすぐ右手前が弟の空間、そこから衝立で仕切って右奥が神楽夜の空間という扱いだ。

 が、姉弟間の領土争いは小競り合いが続いている。領土を広げようと画策し、日々じりじりと衝立を移動させる姉。対して弟は彼女が寝静まってから、それを億劫そうに、もとの位置かそれ以上に追いやるのである。

 そんな稚拙極まりない攻防をしかけるこの娘は、境界線である衝立を横切り奥へ進むと、畳の上に道着袋を乱雑に放り出した。そのまま部屋の隅にある和箪笥の前へ行き、三段あるうちの真ん中を引き開ける。そして、貰い物のTシャツやらジーンズやらが雑多に詰め込まれているなかを漁った。

 桟が格子に入った木枠の窓から、強まる初夏の日差しが注ぎ、畳の上に薄っすらと十字の影を伸ばす。その上に、脱ぎ捨てた青いジャージの上着が落ちる。

 と、神楽夜は箪笥の横にある姿見に首をねじ向け、憂いの目で自身の背中を見やった。

 晒一枚となった背中に走る、右肩のあたりから袈裟に斬られたような、刀傷よりもずっと太い傷跡。変色したその痕も、いま鏡に映る己の体も、自分に確かな過去がある証である。この世に生を受け、およそ十五年以上の月日が流れているだろうことを、明確に物語っている。

 けれども、それを目にした彼女の脳裏をよぎるのは、

 ――芯がない。

 という老師の言葉のみだ。

 なにゆえ、そのような傷を負う羽目になったのか。八年前、嵐の山中で自分らを拾った養父から聞かされたことといえば、その時すでに斬られたあとだった、ということだけである。

 それ以前の自分がどこでなにをしていたのか。その手がかりすら、彼女らは持ち合わせていない。

 だからこそ余計に、老師の言葉は娘の心を抉った。

 伏し目がちに眉根を寄せる彼女のもとへ、

「姉ちゃん、まだー?」

 と、吹き抜けを駆け上がり弟の催促が届く。それに、「ああ!」とややぶっきらぼうに返すや、神楽夜は手にした白い作務衣を羽織りだした。その意思に、二の腕や背中の引き締まった筋が連動した。

 苧麻ラミーでできた作務衣は養父から譲り受けたものだ。通気性がよく、こう暑くなりそうな日には好んで着る。それに藍色のカーゴパンツを合わせ、神楽夜は窓に手を伸ばした。

 引き違いのそれは、年季の入った見てくれからもわかるように、滑りが悪い。少し強引に開け放つと、緑の香りを伴う景風が吹き抜けた。

 窓辺に手をついた神楽夜はそれに黒髪を揺らしながら、高くなりつつある雲を見上げ、瞳を閉じる。

 時間がないことを忘れてそう涼んでいると、どうやら迎えが来たらしい。

「おう、準備できたか!」

 と、威勢よく野太い男の声が一階から轟いた。

 玄関からしたその声に、弟はすかさず居間から顔を覗かせる。果たしてそこに立っていたのは、戸口を覆い尽くさんばかりの巨躯をした、まるで鬼のように頑健なひとりの男であった。

 筋骨隆々とした肉体を包み込む詰襟の黒い軍服に、白髪混じりの赤茶けた髪を、後頭部で茶筅ちゃせんを逆さにしたように髷結いにしている。眉は極太の筆で描き払ったかのように毛深く、逆立ち、剛毅な印象を与える顔つきである。

 ひとたび対すれば、大抵の者は道を譲るであろうその強面に、

「あ、爺ちゃん」

 と、弟はいっさい臆することなくそう言った。

 続けて、

「姉ちゃん! 爺ちゃん来たよ!」

 と、さきほどよりも不機嫌そうに声を張り上げる。

 なかなか降りて来ない姉を待つがあまり、少年はこれから朝飯なのだ。叫び上げたきり居間に身を戻そうとする。が、今度は大男に呼び止められた。

「なんだ、サクヤ。これから飯か?」

 男の視線は、朔夜が握る箸に向けられている。鼻腔をくすぐる味噌汁の匂いも、そう指摘するにひと役買った。

「うん。姉ちゃん帰ってくんの遅くってさ」

 呆れ混じりにそう言い残し、朔夜は早々と居間に引っ込む。その言に大男はやれやれといった様子で小さくかぶりを振り、框に腰を下ろして軍靴を脱ぎだした。

 そこへ、上階から軽快な足取りで神楽夜が降りてくる。

「おはよう、先生」

 さっさと飯を食わねばならぬ。神楽夜は颯爽と廊下を横切って、居間へとその身を滑り込ませた。

 姿が見えなくなったじゃじゃ馬娘に、大男は背後を尻目に見やるや、

「もうすぐ迎えが来るからな! ゼルク、表に出しとけ!」

 と声を大にする。

 無論、あの娘の返事は「はーい」という間の抜けたものだ。世話役を担うこの男としては、日に日に増す跳ね返り具合に頭が痛い。積もる気苦労を吐き出すように嘆息した。

 しかし、朔夜がこしらえた卵焼きをおかずに、山のように盛られた白米をかき込むこの娘が、そんな想いに気づくはずはない。

 やがて居間に姿を見せた大男は、がっつく娘の背中に、

「今日はもう少し近づいてデータを取る。まずはいつもどおり横須賀だ」

 と言いながら、居間の中央にある囲炉裏の脇へあぐらをかいた。

 そして、同じく囲炉裏を囲んで飯を食う姉弟を眺めまわすと、朔夜へ視線を移す。

「サクヤ。また負担をかけて悪いが、頼むぞ」

 厳めしい顔つきから一転、申し訳なさそうに言う大男に、

「大丈夫。慣れたから」

 儚げな少年は優しく微笑みかける。

 姉弟が並ぶと、普段からなぜか弟のほうが気遣われるのは、やはり醸し出す雰囲気によるものなのか。神楽夜は別段そこに不平を抱いているわけではないが、今日、主たる労働力を提供するのは自分だ。

「えー、動かすの私なんだけど」

 そんな悪たれ口を叩いた。

 が、

「そんだけ食っておれば充分だろう」

 大男は神楽夜の手元を顎で示すなり、隣の朔夜へ「のう?」ともの柔らかく同意を求めた。確かに、あれだけあった米を早くも平らげているこの娘が言ったところで、なんら気遣う余地はない。

(なんでよ)

 むすっとした神楽夜がさらに文句を続けようとした、その時だった。

「来たか」

 大男は外に響きはじめた航空機の飛行音に背後の縁側を見やり、間を置かずその首を神楽夜たちへ戻すと、のっそりと立ち上がった。

「着いたらすぐに外縁部へ向かってもらう。東京は快晴だ。まったく、梅雨なんざもうないようなものだな」

 岩のような巨躯は、そう言い残して居間を去っていく。降りてくる輸送艦を出迎えに行ったのだ。

 よもや、あんな暴悪な見てくれをした大男が、現在の日本国軍を束ねる御剣家の当主だとは、誰も思うまい。まして、普段の武術の稽古で一に根性、二に根性といった指導を受ける神楽夜にしてみれば、軍の指揮なぞできるものかと疑いたくなるほどである。

 それに、今日もそうだが、こちらは国の調査に善意で協力している立場だ。しかも無償で、である。もう少し労いがあってもいいものではないか。

 そんな姉の胸中を察したか、

「父さんがいればねえ」

 朔夜は空いた食器を片づけながら言った。まったくもってそのとおりと言わざるを得ない。

(ちゃっちゃと終わらせよ……)

 神楽夜は呆れた嘆息混じりに立ち上がった。

 その頃、玄関先に出ていた大男は、高度を下げてくる巨大な船底を仰いでいた。

 徐々に視界覆い尽くすそれは、全長五十メートル、全幅三十メートル程度の、艦船によく似た飛行艇である。神楽夜たちが姿を見せたのは、青鈍色の塗装が施されたその輸送艦が、いよいよ草原に着陸しようかという段になってからだった。

 大男は背後にその身を振り向けると、周囲に轟く暴風と推進器のエンジン音にかき消されないよう、声を張り上げた。

「ゼ――って来い!」

「なんて?」

 神楽夜はすかさず訊き返した。

「ゼルクを取って来い!」

「ああ」

 なんだそんなことか、という顔をして、娘は弟を引き連れ家の裏手へまわる。目指すは、さきほど弟を探しに入ったあの倉庫だ。

「あんな叫ばなくたっていいじゃんね」

 まるで雷が落ちたような大声に文句を吐きつつ、倉庫脇の勝手口を抜ける。と、そこからは弟の朔夜が先行した。

 姉の前に走り出た朔夜は、倉庫を占有する台座の脇からタラップをのぼり、シートのなかに身を潜り込ませる。

 一方、神楽夜はといえば、勝手口そばの壁面に向かって、なにやら手元を動かしていた。そこには、目線の高さで設けられた板金造りの箱がある。

 やがて、

「ほんじゃ、開けるよ?」

 そう叫ぶや、箱のなかにあるボタンのひとつを押した。

 それを契機に、薄暗かった倉庫内の天井から、突如として光が注ぎ込みはじめる。建物の長手方向に沿って、屋根が中央から左右に折り畳まれたのだ。

 すっかり青天井となった倉庫内を、神楽夜は弟のもとへ駆けた。

 もうタラップを律儀にのぼり降りするのも面倒くさい。神楽夜は土間を踏みしめると、三メートルの高さを易々と跳び、台座の上に躍り出る。そしてシートの端を勢いよくまくり上げた。

 なかで片膝をつき背を向けていた朔夜は、姉に首を振り向ける。

「艦までなら僕でもやれるから」

「あんたひとりでいいんじゃないの、全部」

「駄目だって。僕じゃまわりのもの踏んづけちゃう」

 朔夜は首を戻し、眼前にある漆黒の金属板に右手を押し当てた。そのまま瞳を閉じると、

「リンケージ」

 そう、静かにつぶやいた。

 刹那の間、少年の全身が青白い光を発する。それを見届けた神楽夜は、昏倒したかのように崩れ落ちる弟の体を抱き留めた。

 その顔に動揺の色は見られない。さも当然のことのように弟を背負い、台座から跳び降りる。

 それから数歩、台座からあとずさると、

「起こすよ」

 と、なぜか朔夜の声が拡声器を通したような質感と声量で、あたりに響いた。

 神楽夜はいつも疑問だった。機械を介したこの声は、果たして本人のものといえるのか、と。

 怪訝けげんな目を向けるそのさきで、分厚い金属製の台座は垂直に起き上がりだした。角度が急になるにつれ、被せられていた灰色のシートが剥がれ落ちる。

 そうして、いましがた声を発した鉄の巨体おとうとの姿が明らかになった。

 瑠璃色の甲冑の上に金縁の白い陣羽織を重ねたような、人型の機械。大きさは十メートルほどで、さながら巨大化した戦場いくさばの武者といった装いである。しかし、装備品に刀剣の類は見当たらない。

 それ以外で機体を特徴づけているものといえば、右腕の籠手だ。左右の腕で非対称なその籠手は、右腕だけが白く、西洋のプレート・アーマーに似て、鋭利で曲線的な造形をしている。

 だが、それだけではない。

 右の籠手は手の甲から肘に沿って、カブトガニを細く尖鋭にしたような、一枚の装甲で覆っていた。それは肘側に尾を向けた格好であるのだが、頭から真っ二つに割られており、その間をつるぎの平らな面に似た装甲が貫いている。ひし形をした小型の盾の間に剣を差し込んだ、と見えなくもない。そしてその表面には、左右に分かたれた装甲を合わせるとバツ字を描くように、溝が配されていた。

 巨大な鎧武者は台座の固定から解き放たれると、黒い兜の眉庇まびさし(帽子のつばにあたる部位)の下で、ふたつの赤い眼光を輝かせる。

 宇宙へ脱するすべを模索する人類が、総力を挙げて開発し、今日までの宇宙進出をけん引してきた巨大作業用重機<グスタフ>。この機体<アームド・ゼルク>はその一種だ。

 倉庫の外に出た神楽夜は意識を失った弟を背負ったまま、開いた屋根から覗く黒き巨人の勇ましき面貌を、含みのある目で見上げる。

 その頬を撫でつけて、気の早い夏風が過ぎ去った。

 あとひと月もすれば祇園祭がはじまる。

 養父ちちが蒸発して三度目の、夏だった。

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