灰と蟒蛇

狂フラフープ

灰と蟒蛇

 かつて白亜紀の終わりに恐竜を滅ぼした恋の炎は、今も僕らの胸の底で燻り続けている。

 表通りには人々が集まり騒然とした空気で罵声を上げていて、どうやら恋の火を持つ者たちが晒されて、人々が石を投げているようだった。

「行こう。僕らも石を投げなきゃ」

 僕は穂波に声を掛け、ファーストフード店の硬いソファから腰を上げた。

 人波と一緒に僕らも進む。

 恋とはどんなものかしら。そんな歌劇のタイトルがあったと聞くけれど、人類がそれを知ることはきっと永劫無いだろう。なぜってそれを目にするとき、人々は十の二十二乗ジュールの熱に焼かれて跡形もなく消えるのだから。

 恋は生命という器から解き放たれると、あっという間に蒸発する。それは大気中でも真空中でもお構いなしで、ひとたび恋が成就すればそれは全ての破滅を意味する。

 だからこそ、人々は必死に恋する者たちを狩る。

 恋が臨界量に達することなどほとんどありえないことであったとしても。


 片方だけ。

 繋がれた恋人の片方はいつも悍ましい姿をしている。もはや人とは呼べないような、継ぎ接ぎの化け物の、判別できるよう残された顔が意味のない呻きを上げる。

 恋人たちは引き剥がされると、その片方だけに処置が下される。拷問し、薬物を投与し手術をし、あらゆる手段を講じて身も心も悍ましい怪物へと造り変えられる。

 双方が恋の火を抱いたまま片方が死ねば、もう一方も後を追うことがある。そしてそのとき恋が臨界量を超えていれば世界は終わりだ。だからこそ、片方にもう片方を心の底から嫌悪させてから、丁寧に丁寧に殺処分される。

 両方を同じ目には遭わせない。同じ境遇が互いを支えに恋を燃え上がらせかけたという事例がある。恋という麻薬はそれほどに人心を蝕む。そんな馬鹿なことがあるかと人は言うだろう。

 それはきっと恋をしたものにしか分からない。

 野次馬の人波の最中、上着に隠した袖の下。 

 それがどれほど愚かなことかを理解しながら、僕と穂波は手を固く繋いでいた。


 *


 僕と穂波が好き同士になったのは百と六十七日前の土曜日。それは僕らが二年生に上がったばかりの頃だった。

 一年次から同じクラスで一緒に行動する機会の多かったメンバーと休日に動物園へ。皆と出かける予定が二人きりになってしまったその日、僕と穂波は行き先を植物園に変えた。


「ふたりしかいないんだから、行きたいところに行ってやりたいことができるってことだよ」

 ふたりだけだと何をすればいいか分からないね、と言った僕に、穂波は笑ってそう言った。

 本当は植物園に行きたかったのだと明かせば、穂波はくすくすと笑いながら僕の手を引いて植物園へ向かおうとする。

 いつもであれば皆に合わせて行かない場所に行って、いつもなら皆に合わせてしない話をした。そんな僕を少しも咎めず、穂波はいつもよりも少し近い距離で僕を見ていた。


「――結局動物は、植物なしじゃ生きていけないわけでさ。たしかに大きなゾウやキリンは一目見てすごいと思うけど、でも、僕らはいつも植物っていう、ゾウやキリンよりずっと大きな生き物を目にしているはずなんだよ? この大きな体を支えるエネルギーは、すべて動物じゃなくて植物が作ってる。それが僕たちの体内にも入ってきて、体を形作る骨や、血管や、肉を作ってくれている」

 生き物が生きる糧を得る方法は二つ、光合成と化学合成。どちらも動物たちには出来ないことだ。

 動物園より明らかに少ないお客さんがのんびりと過ごす温室の隅で、僕は植物と動物の関係をそんな風に語って聞かせた。

「だから、なんていうのかな。僕らは植物なしでは生きていけないけど、植物は僕らがいなくても――違うな。僕は何が言いたいんだろう……」


 穂波の指先がゆっくりと僕と同じ樹の幹を撫でる。そうしながらずっと、穂波の視線は夢中で言葉を紡ぐ僕の横顔を向いていたことに気付いて、僕は慌てて口を閉じた。

「ごめん、こんな話するつもりじゃなかったんだ」

 穂波は視線を逸らさぬままに、ゆっくりと首を横に振った。

「ううん、続けて。すごく楽しいの。ずっとこうしてふたりでお話していたいなって、思うくらい」


 そうやって僕らは恋をした。

 自分達だけは大丈夫。そんな特別な気分に浸されたまま、恋をするという罪を重ねて、僕らは恋人という共犯者になったのだ。


 *


「被疑者F08743、ならびに被疑者F08744。貴様らの血液検査は陽性反応を示した。これより貴様らに所属する全ての基本的権利は凍結され、以後貴様らは受置者として扱われる」


 僕らを拘束する冷たい椅子を取り囲む、防護服とマスクを付けた大人たち。

 顔を隠すのは、仕事を終えればひとりの人間である彼らが躊躇うことなく残酷な処置を行えるようにする、その為の配慮なのだと聞いたことがある。

 つまり面を隠した彼らは人の心を持たない人類の奉仕者。

 そして僕ら人類の裏切り者には、人の心を持ったままでは到底出来ないような非道な処置が待ち構えている。

 視野が狭まり、恐怖で上手く呼吸が出来ない。呼吸の仕方を思い出そうとするたび、僕の脳裏にはこれまで目にした悍ましい恋人たちの姿がよぎった。

 嫌だ。どうして僕たちがこんな目に遭わなければならない。

「違うんです、僕らはただ……」

 口を開いた僕の横っ面を、マスクの男の警棒が強かに弾いた。


 靴だって舐めていい。

 恋をやめろというのなら、今すぐにだってやめてみせる。

 続く尋問の中で、僕は幾度もそう思う。

 だいたい恋が何だというのだ。神経を伝わる物質のやり取りにすぎない。そんなものはただ医学処置でどうにかすればいい。僕らが非人道的な扱いを受ける必要なんてどこにもないじゃないか。

 なぜこんなことになってしまったのか、この理不尽な現実を呼び寄せたのが何のせいか誰のせいかを考える。

 僕じゃない。断じてこんな、馬鹿げた事態の責任が僕にあるはずはない。目を向けると、隣で穂波は項垂れたままただ静かに涙を流していた。

 穂波を罵る言葉を必死に抑え込む。

 もしここで穂波に嫌われてしまおうものなら、あの恐ろしい処置がそれだけ僕に近付くということなのだから。処置を受けるのは、より強く恋を抱いている方だ。

 大丈夫。僕は十分に理性的で、きちんと穂波を嫌い、憎むことができる。

 どうか穂波が僕よりも恋をしていますように。

 罵る言葉は心の内でだけ渦巻かせておけばいい。見ないようにしていた穂波の嫌なところをひとつずつ、僕は頭の内で挙げ列ねて穂波への嫌悪と憎悪を大事に大事に育てていく。

 僕は正しい。僕の振る舞いには何の落ち度もない。だから僕は救われるべきで、だから僕は大丈夫なんだ。


「わたしは彼に恋しています」

 必死に取り繕う僕の耳にその呟きが入ったとき、聞き間違いだと思った。処置官だってきっとそれは同じで、聞き間違いでなければ言い間違いだと思ったに違いない。

 だから処置官も穂波が、彼はわたしに恋しています、といったものとして話を続けようとする。だってその言葉には意味がないどころか、逆効果でしかない。僕に嫌われまいと健気に振舞って見せたところで、自分が恋を自白しては本末転倒じゃないか。

「わたしは彼に恋しています」

 けれど穂波はもう一度同じ言葉を繰り返した。今度はもっと大きな声で、はっきりと宣言するように。

 恐怖で頭がおかしくなっているとしか思えない。だが穂波の愚かな振舞いは僕にとっては光明だ。このままなんとか彼女の間違いを事実として押し通せれば、僕は処置を受けずに済むのだ。

 希望に湧きたつ僕を尻目に、穂波が続けてその言葉を口にする。


「だから処置をするのは、わたしにしてください」


 *


 処置官と僕とは同じ顔をしていただろう。

 まともな精神状態であるはずがなかった。人間があんな言葉を発するはずがない。なのにまるでそれが彼女にとって当たり前のことであるように、穂波は――穂波であるはずだったその何かの首が巡ってこちらを向く。

 人の道を外れて狂った異常者の顔。


 ばけもの。

 それは嘘偽りのない僕の心からの呟きだったし、その言葉はきっと間違いなく声に出ていただろう。なぜってそれは、これまで抑えてきた作り物の罵倒とはまるで異なる、本物の呪いの言葉だったから。

 その呪いの言葉をさえ聞いて、化け物は微笑んだ。

 と目を合わせ続けるのが恐ろしくて、僕は目を逸らす。

 処置官たちから自分と同じ感情を読み取って、僕は心の底から安堵し、救いだとさえ思った。

 そうだ。僕がおかしくなったわけじゃない。

 おかしいのはあいつだ。そんなことは最初から分かっている。

 問題はなぜあんな言葉が人の口が出てきたのか。人ではないからだ。

 まるで人だが、人間を装った人ではない何か。

 化け物はその正体をようやく表して、何一つ感情を読み取れない蛇のような目をこちらに向ける。

 あの恐ろしい処置から逃れられたことよりも、今は目の前のそれが恐ろしくてたまらない。椅子に縛り付けられたまま必死にそれから離れようとする僕と形は違えど、処置官たちもまた恐怖から逃れようとしていた。

 恐慌のまま穂波を警棒で殴り付ける処置官を見て、この化け物を殺してくれると僕は縋る希望を見出した。

 けれど化け物は警棒が当たろうとも悲鳴も上げない。ただ血だけが冗談のように赤い。

「こ、殺すな!!」

 一番偉いのであろう処置官が、その身に恋を抱いた生き物を激情のままに殺す愚をようやく思い出したか、怪物を殴る処置官を背後から取り押さえる。

「もういい! どちらに処置を施すべきかは明らかだ! さっさと引き剥がせ! この異常者を処置室に連れて行くんだ!!」

 連れて行かれる怪物の様子を、僕はどうしてか目を向けて窺ってしまった。

 あいつは一体僕の視線から、何を読み取ったというのだろう。目が合った瞬間、穂波だった怪物は、僕の知る穂波を寸分違わず真似たような顔をしていた。


 *


 窓ひとつない独房の中、有り余る時間全てが僕に怪物を思い起こさせる。

 あれはもう穂波ではなかった。

 穂波はあんなことは言わない。人間があんなことを言うはずがない。

 生き物が、自らの凄惨な死を望むなど、そんなことが有り得るだろうか?

 生きたいという、そんなごく当たり前の素朴な執着さえ捻じ曲げられ、生物として異質な思考をねじ込まれたあの精神は、もはやどんな拷問や整形をもってしてもたどり着けない異形の姿をしていた。

 あれはたぶん、はじめから穂波ではなかったのだ。


 はじめ、処置官を冷酷だと思った。

 なぜこんな酷いことができるのかと、恨みや憎しみさえ覚えた。けれど本物の怪物を目にした今、彼らこそ人間だと心の底から思う。彼らの振るう暴力には人の温かみがあって、棒切れと心を鎧う防護服の向こうにひた隠した心が見える。

 彼らはこちら側だ。あの断絶が僕にはわかる。どうやったって、人は化け物に変わることも、人を化け物に変えることも出来ない。

 だから化け物ははじめから化け物だった。

 何かがあの化け物を作ったというなら、それはきっと神の奇跡でしかない。

 人類が思い付く限りの凄惨な処置など比べ物にならない、神の手による残酷な仕打ちを、怪物たちは遥かな昔から受け続けてきた。

 生存競争。一切の情け容赦さえない永遠の絶滅戦争。野生という想像を絶する過酷と比べれば、人間の行う差別や迫害など、所詮は社会の中における剥き出しの雨風から守られたままごとに過ぎない。

 人が人の手で人を、悍ましい化け物へと追いやろうなどと息巻くまでもなく、かつて進化と淘汰圧は、僕らに何百何千万という歳月を化け物として生きることを強いて来た。

 恋。薄汚い穢れ。

 狂気と罪業。かつて人が神の地獄を勝ち抜くために得た、人の世の道を外れたあまりに罪深い武器。なぜ自分はこんな悍ましいものを有難がっていたのだろうと、心の底からの後悔と嫌悪が喉元までせり上がって部屋を汚す。

 勘違いをしていたのだ。

 目の前で手触りをもって立ち表れた恋に、星さえ焼き尽くす致死量の毒に、ようやく僕はその愚かしさを思い知った。


 *


 何日経ったかは覚えていない。

 あの怪物の死の報せが処置官からもたらされ、僕は涙を溢してそれを祝福した。

 マスクの下で緊張した面持ちをしていただろう処置官は、物言わぬまま冷たい防護服越しに、その手で僕の手を握って助け起こす。

 歓喜と安堵の涙に嗚咽する僕を、処置官は躊躇いがちに抱擁した。

 この人は、僕を痛めつけたあの人だろうか。

 何も見えないマスクの下で、あの怪物とでは決して通じ合うことのないものが、確かに僕らの間に通じ合っていた。

 お前はこの施設を生きて出ることができる。処置官はそう言って、僕に物々しい計器の記録を見せてくれた。

 それから、他の職員から驚きの視線を向けられながら、処置官は僕を出口まで見送ってくれた。

「こいつは殺さないんですか」

 僕には見えなかったが、処置官はどんな顔をしていただろう。


「いい。こっちは初めから恋なんてしていない」


 *


 なぜ生きものは恋などするのか。

 愛や恋、それ抜きでは生きられなかったからだ。

 傷だらけで産卵を終えて息を引き取る鮭のように、交尾した雄を食らう蟷螂のように、人もまた子を産み、育むというこの上なく残酷で凄惨な営みを避けては通れなかったからだ。

 人という種を護り、永らえるための死の危険や気の遠くなる痛み。種の存続に伴う一人で生きていくならば背負うことのない理不尽なまでの負担。

 生きものは恋をする。

 それは生物の発達した脳が恐怖や損得という機能を得たときに、恋や愛無しでは誰も子を産まず、次代へと生命を継ごうとしなかったからだ。


 恋。

 恋という悪。

 恋という機能で狂わなければ存続できないが故の必要悪。

 盲目に、しきたりも良識もあらゆる勘定も、時には生への執着さえかなぐり捨てて突き進む未来への劇毒。人を狂わせ星さえ焼き尽くす致死量の毒。

 かつて人は恋が無ければ生きてはいけなかった。けれど今は違う。理性と制度が恐怖や損得を克服し、ようやく人は恋という狂気に浸らずとも生きていける。

 死と苦痛に塗れた生殖という責め苦に囚われ続けた人類の歴史を顧みれば、それは間違いなく正しいことだ。




 処置場の高い塀を振り返ると、陽の光が目に入った。

 久し振りに目にする眩しさに思わず目を逸らす。

 恐怖から解放された僕に、かすかに残るもの。

 理解からあまりにも遠いが故の、憧れにも似た奇妙な感傷。

 それは残酷な自然に造り変えられた異形の種が僕の身の内にも僅かでも残り続けている証拠なのかもしれない。

 けれどそれだけだ。再び前を向けば、そこには街を行く無数の人々が映る。恋を知らず、自分のためにまっとうに生きていく人間の群れ。僕と同じく恋などしない。

 そうだ。僕は同じだ。

 月のようにほんの一時、照らされた光を返しただけ。


 僕を照らした太陽。かつて穂波だと思っていたあの怪物。

 目を合わせれば瞳が焼き切れるような強い強い光を放つ怪物は、今も頭上で照り付ける太陽と、きっと同じものだった。

 四十六億年の昔、影さえ残らぬ何かを滅ぼし、今も燃え続ける誰かの恋。想像を絶する既踏の狂気と。 


 けれどその間近で、生きていけるはずなどないではないか。

 ほんの僅かな感傷が僕の後ろ髪を引く。その誘惑を振り切って先へ進む。


 自分では光を放つことも何かを生み出すこともない動物たちの雑踏。

 それを何とも思わないものたちの群れ。

 目に映る誰もが、かつての誰かの恋に生かされているその場所へ、僕は再び混ざっていく。

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