第15話 ワキヤク
気が付くとソファーの上だった。
いつのまに帰宅していたのか。全く覚えていない。漫ろに窓のほうを見やると外はすでに暗く、深い夜が世界に横たわっている。
「道弥さん、大丈夫ですか?」
梅雨里がキッチンで皿を洗っているのが見える。
道弥はソファーから立ち上がると「……すまん。ぼーっとしてた」と言った。
「帰ってからずっとそんなふうでしたからね。心配していました」
「色々ありすぎて、ちょっと思考停止してたみたいだ」
腹は膨れている。どうやら晩御飯は済ませたらしい。
「なんだ、ようやく我に返ったか」
リビングのドアを開けて入ってきたのは夏蓮だ。風呂上りなのか、バスタオルを頭に巻いた格好だ。
「話は聞いているぞ。なんとも由々しき事態のようだな」
と言いつつ呑気な口調で欠伸を一つ噛み殺す。
「あんた、今日も泊まっていくつもりなのか……」
「当然だ。傷心で冷静を欠いた男が妹に何をするか、わかったものではない」
「どんだけ信用ないんだよ」
「道弥さんはそのような御方ではありませんよ。姉さん」
「あぁ……妹の純真無垢さが私には不安でしかない。これはもう毎日泊まっていくしかなさそうだ」
「おいおい……」
これ以上面倒事を増やさないでほしい。というか。
「呑気だな、あんた。佐藤が連れていかれたってのに」
「由々しき事態とは言ったが、そこまで悲観する状況でもないさ。あの毒舌女が『革命団』とやらの長であるのは明白だが、誘拐事件の黒幕と言うには証拠がない。まさか外套一つで犯人と断定するほど脳の無い王様でもなし、ましてやか弱い女子相手に手荒な真似は奴らもできまい」
「……それを呑気っていうんじゃないのか」
「優先度が低いと言ってるのさ。問題はべつにある」
「なんだと?」
頭に巻いたバスタオルが解かれる。青みがかった長髪が弾けた。すかさず背後に回り込んだ梅雨里が姉の髪を拭き始める。
「なんでも『革命団』とやらの団員たちが集まって、何か企んでいるらしい」
「冴木たちが……?」
「ああ。本人と話した感じ、どうも生き急いでいる気がしてならないな」
「何かというのは一体何なのでしょう? 姉さん」
「さてな。だが徒党を組んだ奴らは危険だ。人は往々にして群れることで自分が大きくなったと勘違いする。一体何をしでかすか、想像もできないな」
天音に対する冴木たちの傾倒具合は相当なものだった。去り際の冴木の形相からしても悪い予感しかしない。彼らがおとなしく団長の帰りを待つ姿のほうが想像できなかった。
万城の誤解を解くのは難しい。
冴木たちを止めるのはもっと困難だろう。
「こんなことしてる場合はねえのに……くそっ‼」
苛立ち混じりに舌を打つ。
「一体どこでなにしてやがんだ‼ 『主人公』の野郎は……‼」
窮地に姿を見せずして何が『主人公』か。
感情を抑えられずテーブルに拳を振り下ろした。
「おい」
咎めるような夏蓮の声に顔を上げると、梅雨里が不安げな表情で俯いている。
「す、すまん。怖がらせた」
「いえ、大丈夫です。お気になさらず」
梅雨里の顔はぎこちない。当然だ。いつも毅然とした態度だが、梅雨里は二つも年下の少女なのだ。最も不安なのは梅雨里に違いない。
「心配しなくても梅雨里はお姉ちゃんが守ってやるからな! ふふん!」
「はい、すみません」
この姉妹を見ていると、ひとり焦っている自分がだんだん馬鹿らしくなってきた。
「『脇役』は『脇役』らしく、傍観するしかねえな」
「……」
独り呟く道弥を、夏蓮はじっと無表情で見つめていたが、
「まあ、あの毒舌腹黒顔だけ女のことは私の知ったことではないが、案外すぐに解放されてしまって、今は息巻いている奴らもそれで留飲を下げるかもしれないしな」
(佐藤のこと、根に持ちすぎだろ)
「はい、そうですね」
梅雨里は少し元気を取り戻したようだった。
夏蓮の言葉も一概に希望的観測だと言えない。可能性はゼロではない。むしろ十分あり得る話だろう。
そう自分に言い聞かせて道弥は自身の不安を振り払う。
だが翌日、そんな一縷の望みは容易に打ち砕かれることになる。
翌朝、道弥が目を覚ますとベッドの縁に手紙が置かれていた。
差出人は冴木。内容は次の通り。
——明日、ミケネコに来てくれ。坊主に伝えたいことがある。
正直な感想で言えばすぐに破り捨てたかった。
絶対に喜ばしくないことが待っている。確信があった。
だがこれを断る程道弥も薄情にはなりきれず、梅雨里に手紙のことを伝えると家を出て酒場「ミケネコ」へと向かった。
二階のバーカウンターには当然か、いつもの天音の姿はない。厳めしい顔の冴木が一人腕を組んで立っているだけだ。
「おう、来たか」
「……来たくはなかったけどな。なんだよ、伝えたいことって」
「せっかちな男は嫌われるぜ。とりあえず座れ。ほら、お前の分も作ってあんぞ」
準備良くカウンターには湯気立つ珈琲。道弥は席に座ると、恐る恐る珈琲の入ったコップを手に取って口をつける。
「……甘い」
「だろ。坊主はそっちだもんな」
「今までもそうしてくれたら良かっただろ……」
「可愛い幼馴染の前で格好つけてぇ男の気持ちを、無下にはしねぇよ」
「……俺と天音は、そんな関係じゃない」
「だろうな。でも、お前ら結構お似合いだったぜえ」
むかつくぐれぇにな、と冴木は笑う。
「今すぐ眼科に行ってくれ。いい場所を知ってる」
「ああ。あっちに戻ったら、ぜひ教えてくれや」
どこか妙な態度だと思った。道弥は珈琲をカウンターに置く。
「あんた……何するつもりなんだ?」
「それを話す前に昨日の話だ。正確には昨日の夜だ。実は俺たちは王様んところに話をつけに行ったんだよ」
「は、はあ? マジで何してんだ……」
「団長がピンチなんだ。駆けつけるのが団員の役目ってもんだろ」
道弥は眉をひそめる。
——役目。役割。
「……それで?」
「取りつく島もなく門前払いされるところだったが、途中で王様がお出まし、俺たちは必死で団長の無実を訴えたわけだ。すると……王様はなんて言ったと思う?」
答える気にはなれない。道弥は首を横に振る。;
「『これ以上騒ぐつもりなら、あなたたちも捕縛します』ってな。事もあろうに脅してきやがった」
冴木の太い両腕に力が入る。
「そんときの奴の目を見て、俺はようやくわかったんだ。奴は優しい王様でもなんでもねえ、ただの権力に溺れたタヌキ野郎だ」
「そこまで言うか……」
「ああ。それはそれは淀んだ目つきだったぜ。脇を固める奴らも碌な表情をしてねえ。どいつもこいつも操り人形みてえな顔で見るに堪えねえ有り様さ。どっかで誰かの恨みを買ったのか、頬に大きな痣があった奴すらいた」
「……痣?」
「ああ。ありゃあ殴られたんだな。それもちょっと前に」
裏路地の奥、廃虚で殴りつけた男のことを思い出す。
いや、まさか……。
「で、本題は、その後だ」
「……後?」
神妙な顔つきになる冴木に、道弥は眉をひそめる。
「話をつけに、とは言ったがな、なにも直談判が目的だったわけじゃねえ。むしろ俺たちは陽動で、本命は別だ」
「陽動って……まさか」
「そのまさかさ。奴が俺たちに気取られてやがる間に、別動隊を裏から潜入させて団長を救い出すって寸法だったわけよ」
呆れて声も出なかった。なんて大胆な真似を。
そして妙な点に気づく。
「……? だった?」
「聡いな。その通だり。計画は結局頓挫した。……なんでかわかるか?」
その問いは返答を求めてはいなかった。道弥は唾を呑み込む。
「別動隊が裏から潜入しようとしたとき、ばったり出くわしたんだと。……気絶した女を背負った、外套を着た二人組の姿をな」
「ッ!」
勢いよく立ち上がる。バタン‼ と椅子が倒れる音が響く。
「事実だ。二人組は慌てて城のなかに姿を消したらしい。直後、外套の奴らを匿うみてえに、衛兵の皆さんがアリンコよろしくうじゃうじゃ出てきたってな。笑えるだろ?」
微塵も、笑えない。
「騒ぎが聞こえて俺たちはすぐにとんずらこいたんだが、ご丁寧に後から追っ手が来やがってな。そっからはもう捕物帳よ。俺はなんとか逃げてきたが、うちの団員の何人かは捕まっちまった」
冴木の語りもどこか遠くで聞こえるようだった。
「万城さんが……誘拐事件の犯人……?」
「ってわけだ。そりゃあ見つからねぇよな。国民を守るために街を見回ってやがった奴らが全員、実行犯だったんだからよ」
頭のなかが真っ白になった。
どうして万城が。
だったら今まで自分たちは騙されていたということなのか。いや、そんな……。
「……なんで」
「誘拐の理由なんざたかが知れてる。攫われてんのは女ばかりって聞くしな」
「…………」
「ショックなのはわかるがな、坊主」
冴木と目が合う。よく見るとその両目は赤く充血していた。まるで昨晩からずっと怒りを堪えてきたかのような表情だった。
「もう、あんまり時間はねえぞ」
「……どういう、ことだ?」
「俺は今朝、団員たちに集合をかけた。団長がピンチだって伝えてな。そんで今、ぞくぞくと俺んところに仲間が集まってきてる」
嫌な予感が鎌首をもたげた。
「明日の朝、俺たちは王様んところにカチコミをかける予定だ」
「は、はぁ⁉ 正気か⁉」
「ああ、正気だ。そんで俺は、坊主にも来てほしいって思ってる」
「お、俺に?」
「正確にはお前んところの奥さんの姉さんだ。あのちっこいシスターな。昨日一度喋ったが、なかなか頭が切れそうだった。ありゃ参謀向きだな」
「お前、何言って」
「妹のほうは家に置いて、二人で来い。王様の、ヤツの鼻を一緒に明かしてやろうぜ」
「む、無謀だ!」
「かもな。だが」
もう止まれねえんだ。
冴木は言い残し、団員たちのところへ向かうと言って酒場を後にする。
道弥はしばらくその場で動けなかった。
珈琲の苦い香りが鼻孔をくすぐった。
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