第12話 ハジマリ


オレンジ色の斜陽が木目調のテーブルに降り注ぐ。カレーライスの盛られた白磁の器がいくらかの光を反射してじんわりと目を刺激した。


 万城はスプーンを持ち上げると音も無くそれを頬張る。ごくりと嚥下の音を鳴らしたのち、口元をタオルで拭った。


 道弥はトレイを片手に立ちながら微妙な顔つきで彼を見つめた。


「ふむ……なるほど」


 ちらりと万城の背後を見やると、厳めしい顔つきの近衛兵が二人、直立不動の姿勢で立っていた。彼らが常時周囲に目を光らせているせいで、他の客や店員たちは先ほどから全然落ち着かない様子だ。


「『主人公』……ですか。これはまた、予想外の角度から来ましたね」


「知人の目撃情報なんで、信憑性は薄いですが」


「いいえ。とても有意義な情報ですよ。正直、盲点でした」


 突然来店した万城に一時店内は騒がしかったが、今は落ち着いており、客の数も疎らになった。丁度よかったので万城に今回の件と、道弥と天音で考えた『物語論』について語って聞かせると、心なしか万城は上機嫌になった。


「広場に突如現れた看板……これは神のお告げと捉えてもいいのでしょうか」


 神、というのはおそらくあの流動する物体『ルーラー』のことを言っているのだろう。


「わかりません。可能性は、高いと思いますけど」


「そうすると何故今回だけわざわざ干渉してきたのか気になりますね。この世界に連れてこられてから、かの超越者が動くことは一度もなかったはずですよね?」


「はい、たぶん……」


「ふむ……もしかして何か、超越者にすら御し得ないような、不測の事態でも起きているのでしょうか」


「どう、なんですかね」


 ——『主人公を探せ』


 そう書かれた看板が現れたことが、もしも本当に神の介入なのであれば、たしかにこれは不測の事態かもしれない。


 ただ、違和感が残る。なぜならすでに天音たちは『主人公』説には辿り着いていたのだから。物語の進行上、そんなことをする必要性は低いように思われるが。もしくはそれを早いところ周知させる必要性がどこかにあったのか。


「とにかく今は、『主人公』を探すことを優先した方が良さそうですね」


「誘拐事件のほうは、どうするんですか?」


「もちろん同時並行で調査しますよ。人探しには僕の『役割』が適任ですからね。店員さんも、できる範囲で協力していただけると嬉しいです」


 万城は最後の一口を食べ終えるとコップの水を飲み干す。「ご馳走様でした」と手を合わせるとすぐに立ち上がった。


「お騒がせしました。では……」


 踵を返そうとして、万城は立ち止まる。


「そうだ、最後に一つ聞きたいのですが……店員さん。あなたの知人の方に寄ると、広場を荒らした犯人は、最初にその看板を壊したんですよね? とすると、犯人の目的は最初からその看板を壊すことだった、ということになりませんか?」


「……だと思います」


そうすれば他のものを壊し回ったのはカモフラージュということで辻褄も合う。


 ――ただ。


「……でも、それは……」


「何者かが僕たちの妨害をしている、ということになりますね」


 万城が代弁した言葉は、あまり考えたくないものだった。


「一体今この世界で何が起こっているのか。僕には想像も尽きませんが……くれぐれも自分の身を第一に考えて、慎重に行動してくださいね」


 道弥は頷いた。






 **






 時刻は夜。梅雨里と連れ立って店を発つ。


 今朝は誘拐未遂に遭ったばかりだ。帰路を歩くのにも自然と緊張が生まれる。肩を強張らせながら頼りない街灯に身を寄せながら、なんとか夜道を進んで家へと辿り着く。すると家の前に先客の姿があった。


「やあ」


「ね、姉さん? どうしてここに……」


 玄関扉の前で待ち構えていたのは修道服に身を包む夏蓮だった。


「そんなに驚くこともないだろう? 妹がどんな生活をしているのか知っておくのは、姉として当然の責務じゃないか」


「……監視役ってことかよ」


 つくづくシスコンな姉だ。道弥は呆れ交じりに息を吐く。


「すぐに晩御飯にしましょう。今晩は冷えますからね」


 姉の来訪に機嫌が良くなったらしい梅雨里はそう言って玄関扉を開ける。


 というわけで今晩は姉妹揃っての食卓となった。


 平常通り梅雨里がキッチンで料理を作っているのを眺めながら、道弥は向かいに座った夏蓮に「……そういや、どうしてうちの家がわかったんだ?」と訊ねる。


 夏蓮は何故か得意げに「聞いたのさ。あの女に」と答えた。


「あの女……? ああ、佐藤のことか」


「いけ好かない女だが理解が早いのは美点だな。少し見直した」


「まだ根に持ってるのか……」


「感情はどうにもならない。が、正当な評価はしているつもりさ。なにせ、こうしている今も愚直に『主人公』を探して国中を駆け回っているらしいからな。ああいうカリスマ性のある奴には人がついていく。あれは年収が高いタイプだな」


「聞いてねーよ」


「それに比べて君は社会に出てもそこそこの稼ぎで満足に出世もしないだろうな。受け身に生きすぎて気が付けば周りには誰もいない。都会で孤独死するタイプだ」


「黙れ。大きなお世話だ」


 イメージが微妙に生々しいのがなんとも悪質だ。


「そう言うお前はどういうタイプなんだよ?」


「私はもちろん天才肌なタイプだ。我が道を行けば自然と成功へ繋がっている」


「自信満々だな……でもどこにも説得力はないんじゃないか。それ」


「本当なんですよ、それ」


 サクサク、とネギをきざみながら梅雨里が楽しそうに補足する。


「姉さんは本当に何でもできるんです。勉強は誰にも負けたことがありませんし、運動神経は抜群でよく陸上部の助っ人を頼まれましたし、読書感想文を書けば決まって賞を受賞しました。友人も多くて皆に頼られて、お母様とお父様にも、自慢の子だといつも褒められています」


「う、嘘くせー……」


「この圧倒的な私のオーラを感じ取れないとは。まだまだ君も青いな」


「同い年だろうが」


 そうこうしている間に完成した料理がテーブルに並べられていく。


「今夜は姉さんの好きなエビチリです」


 トマトソースの代わりに完熟トマトを使っているのか、大皿に盛られたエビチリは見た目がボリューミーで否応なく空きっ腹を刺激する。店長に貰ったという皮から作った見事な羽根付き餃子が脇に並べられ、最後に湯気立つ中華スープが置かれた。


「流石は私の妹だな! 姉の好みを知り尽くしている!」


「ふふふ、なんだか久しぶりですね。こうして姉さんに料理をつくってあげるのは」


「あっちでは毎日食べていたからなあ。この半年間はずっと恋しかった……」


 高笑いしながら夏蓮が絶品料理に舌鼓を打つ。


「完全に胃袋掴まれてるな」


「姉さんは基本的になんでもできますが、唯一料理だけは苦手でしたからね。まあ、そういう隙のあるところも魅力の一つなんですけれど」


「ふはは! まあな!」


 夏蓮は終始上機嫌だった。


 晩御飯を済ませると折良く風呂が沸く。梅雨里が機転を利かせたのだろう。当然のように夏蓮が一番風呂へ向かい、道弥はすでに彼女が一泊することが決定事項であることを知った。


 なんとなく手持無沙汰な気持ちになり、道弥は玄関から外に出る。庭先に設置されている木製のベンチに腰かけ、高台から『アバベル』の夜景を眺め始めた。


「道弥さん」


「ん……梅雨里か。どうしたんだ?」


「今は姉さんもいませんから、この機会に改めて言っておこうと思いまして」


 青みがかった髪がさらりと流れる。梅雨里が頭を下げていた。


「今朝は助けていただいて、本当に、ありがとうございます」


「……べつに。俺は何の役にも立ってない」


「そんなことはありません。道弥さんがいなければ、私は今頃……」


 梅雨里が顔を上げると、自然と見つめ合う形になった。妙にむず痒い。


 人と目を合わせるのは苦手だ。


 こちらから目を逸らさなくてはならなくなるから。


「……隣、いいですか」


 元よりベンチとは一人用ではない。道弥は詰めなくてもいい隙間を詰め、必要以上にスペースを空ける。梅雨里は長いスカートを折って静かに座った。


 自然と二人で夜景を眺める格好になる。


(そういや……)


 ふと道弥の脳裏に蘇ったのは今朝、梅雨里と別れる直前の会話だった。突如として姉の捜索を取り止めにしてほしいと言ってきた梅雨里。そういえば結局、あのとき梅雨里とは十分に話せなかった。


 しかし今更その話題を引き合いに出すのは憚られる。そんなことを今ここで掘り返して、気まずい空気にするのも野暮だ。


(姉も見つかったし、過ぎたことか)


 さっさと忘れてしまおう。道弥はそう判断した。


「今日は遅刻して、店長に叱られてしまいましたね」


「怒鳴られたのは俺だけだけどな……ったく、なんで俺にだけ当たり強いんだよ」


「道弥さんは店長さんに好かれてるんですよ」


「どう見たらあれをそう思えるんだ」


 嫌われていると思ったほうがまだ色々と納得できる。


 店長の強面が脳裏に浮かび、なんとなく道弥は嘆息した。


「ふふふ……なんだか不思議ですね。もうずっと前から、こうしてこの世界で生きてきたような気がします」


「…………」


「……道弥さん?」


「いや、その……」


 梅雨里が不思議そうな顔で覗きこんでくる。


「俺も……思ってたんだ。俺たちって、実はずっと前から、ここで暮らしてたんじゃないかって」


 この世界での生活に慣れるにつれ、そんなことを思うようになっていた。


「でもそれは、もしかしたらこの『役割』の力のせいかもしれない」


「どういうことでしょうか?」


「この世界が物語のなかで、『主人公』ってやつが本当にいるのなら、俺たちの存在はきっと『脇役』なんだ。……物語を進めるのが『主人公』なら、『脇役』は、その物語を盛り上げるための道具でしかない」


 頭上に浮かぶ『役割』を見上げる。


 相変わらず『国民B(夫)』の平凡な文字は虚しい主張を繰り返していて、光は薄く夜闇に呑み込まれそうな程頼りない。


「俺たちの今の性格や考えが、どの程度の『役割(こいつ)』の影響を受けてるのか、俺にはわからない。……自信がないんだ」


「私たちの頭が、この『役割』に、いいように操られていると?」


「そう、かもしれないって話だ。根拠はねえよ」


 道弥は空虚な笑みを浮かべる。


「まあ、どうでもいいんだけどな。……『脇役』ってのも、よく考えたら俺みたいな奴に相応しい役割だし、あっちの世界でも同じようなポジションだったしな」


 いつだって自分の立ち位置はスポットライトの外にあった。今更『脇役』に徹しろなんて、言われなくてもやってやる。


「……道弥さんは、この世界から出たいって思いますか?」


「え?」


 振り向くと、隣の梅雨里は何故か、寂しげな笑みを浮かべていた。


「そりゃ、思うけど……」


「それは、どうしてですか?」


「そりゃ、だって……そんなの普通に考えれば……」


「この世界が無ければ、私たちは出会えませんでしたよね?」


「そ、それはそうだが……」


「物語が終わったら、私たちは離れ離れになってしまうかもしれません。道弥さんは、それでもよろしいのですか?」


「……」


 確かにそうだ。今までは余裕がなくて考えていなかったが、この世界から抜け出すことは、そのまま梅雨里との別離を差すのだ。万城や夏蓮、天音や冴木とも、この半年間で近しい間柄になった皆とも離れ離れになってしまうことを意味している。


「それでも……俺は、この世界は間違っていると思う」


 道弥は俯き、苦し紛れに言った。


「では、頑張るしかありませんね」


 ベンチの上で握られていた拳が、突如、柔らかいものに包まれる。


「梅雨里……」


「大丈夫です。少なくとも、道弥さんのその気持ちは、きっと本物ですよ」


 梅雨里は優しく笑ってみせる。


 頭上で薄く発光するのは『国民B(妻)』の文字。夫を支えるのが妻であるならば、夫を励ますのも彼女の『役割』なのかもしれない。


 だが、その言葉が梅雨里の本心であることは、十分に伝わってきて。


 ぽっかりと空いた道弥の心のなかを、温かく満たしてくれた。


 気がした。



 

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