第10話 ユウカイ
「嫁ならまだ来てねえぞ」
「え?」
店に向かった道弥を待っていたのは、難波晶子のそんな一言だった。
「……けど、さっき店で待ってるって、あいつが……」
「来てねえもんは来てねえんだよ」
カウンター席に腰かけながら店長は「勘弁してくれよ」と息を吐く。
「ったく……主戦力がいねぇんじゃ店も開けねえ。どうすんだマジで」
頭が真っ白になった。手足の感覚が遠のいていく。自分が立っているのか座っているのか認識できなくなる。
——待っていますから。絶対に戻ってきてくださいね。
つい先程聞いた言葉が、空っぽの頭のなかで響いた。
「て、店長! 俺探してきます!」
「あぁ? まあ、いいけどよ。早めに戻ってこいよ……って、おいこら‼」
脇目も振らず店を飛び出す。
大通りの人並みを掻き分け、先程別れたところまで走っていく。
が、当然のごとくそこにはもう梅雨里の姿はなかった。
「どこいったんだよ……」
杞憂ならそれでいい。だが万が一、梅雨里の身に何かが起こったのだとしたら……。
途方に暮れて立ち尽くす道弥の横を、幾人もの人々が通り過ぎていく。
嫌な焦りを募らせながら、道弥は梅雨里が行きそうな場所を思い浮かべていく。
——と。
不意に、冷たい風が頬を撫でる。道弥は顔を上げた。
家と家の間に、暗い道があった。
道は先細りになって果てが見えず、その先はおそらく仄暗い裏路地に続いている。
「……」
道弥は一度唾を呑み込むと、路地のなかへ入った。
裏路地の暗さは『ミケネコ』への道の比ではない。建物の密集する隙間の道に朝陽の注ぐ隙はなく、冷え切った空気だけが肌にこびりつく。大通りの喧騒はすぐに遠ざかってしまって、不気味な静寂のなかに急いた足音だけが響く。
殺風景な世界は、ともすれば人を攫うには打ってつけな環境のようにも……。
「……っ」
呼吸が乱れる。
考えすぎだろうか。ならそれでいい。店に戻って厨房を覗くと梅雨里が戻っていて「随分と遅かったですね?」と笑ってくれるならそれが一番だ。いや、きっとそうに決まっている。
そう思っていても、胸のざわめきは収まってくれなかった。
「梅雨里……っ」
道弥が呟いた、そのときだった。
鋭い女性の悲鳴が響いたのは。
「っ⁉」
聞き覚えのある声。当然だ。毎日のように聞いていた声なのだから。
だが同時に、それは今まで聞いたことのない声でもあった。
(ど、どうする……?)
道弥は頭を振って迷いを振り払う。踵を返して、悲鳴の聞こえたほうへ向かった。声の大きさからしてそう遠くない場所なはずだ。
無人の路地を駆ける。
しばらくすると複数人の足音が聞こえた。
やがて声を潜めた男たちの会話が空気に乗って耳まで届くと、道弥は距離が近いことを知って足を止める。逸る気持ちを抑えながら足音を立てぬよう忍び足で歩みを進め、やがて差し掛かった大きな角をゆっくりと曲がった。
二つの人影が、視界に入った。
途端、建物の隙間から注ぐ一筋の光が、大柄な男と痩身の男のシルエットを浮かび上がらせる。鮮明になる二つの黒い外套。そして、大柄な男の肩に担がれている、少女の姿。
「梅雨里‼」
気絶させられたのか、青みがかった髪を垂らしながら、だらんと事切れてしまったように梅雨里は男の肩に担がれていた。
突然の大声に驚いたか、外套の二人は弾かれたように振り返る。道弥の顔を凝視するような数秒ののち、二人はすぐに脱兎のごとく逃げ出した。
「待ちやがれ……!」
道弥は慌てて二人の背を追う。
それからはイタチごっこだった。
女性とは言え人間一人を背負い走るのはやはり負担が大きいらしく、運動神経に自信のない道弥でもそう易々と巻かれることはない。が、どうも裏路地を知り尽くしているらしい彼らの足取りは淀みなく、迷路のような入り組んだ道を右へ左へ振り回されると一向に距離は縮まらず、追い付ける気配がなかった。
「はぁ、はぁ……‼」
(やばい)
道弥は焦りを募らせる。
元々なけなしの体力だ。息が切れ始めると今度は肺が軋み始める。必死に食らいついていたが、徐々に、だが明確に外套の二人との距離が開くようになっていた。
「はぁ、はぁ……‼ つ、梅雨里‼」
その姿は遠ざかるばかり。
やがて暗い路地を抜けると、眩い光が視界を焼く。そこは比較的視界の開けた場所だった。建物と建物の間にぽつんと空間が開き、朝陽が差し込んでいる。
真っ白な建物が視界の端に佇んでいた。掃き溜めに舞い降りた鶴のように清潔で美しい白壁が朝陽に照らされている。静謐な空気を漂わせる、教会のような建物だ。
「待って……くれ……‼」
息も絶え絶えに叫ぶ。彼我の距離の差はすでに絶望的だ。
無力感に唇を強く噛み締める。
小さくなっていく梅雨里の姿に、悪足掻きに手を伸ばす。
そのときだった。
「止まれ‼ 悪漢どもぉ‼」
高く凛然とした声が響く。
気が付くと外套の男たちが足を止めている。彼らの目の前には小柄な人影があった。
不遜な仁王立ちで立ち塞がる、修道女のような格好に身を包んだ少女だ。頭上には『シスターB』の文字が浮かぶ。全体的に小柄で、背は天音にすら劣るだろう。溌剌とした瞳が輝き、しかし眼差しには言い知れない迫力がある。そのせいか、男たちも少し気圧されているようだった。
「その子を解放しろ。さもなくば大変な目に遭うぞ?」
少女は腰に手を当てながら勝気な笑みをつくる。
「図体がデカい方、いま眉が動いたな。細い方は唾を呑み込んだ。ふふふ、わかりやすいな。見えなくても簡単にわかる」
「……なんだ、お前は」
「他人のことを聞いている余裕があるのか? わたしは、お前たちのことはよく知っているぞ。近頃何かと話題の誘拐犯……だろう? まあお前たちはただの実行犯で、命令している奴は他にいるようだがな」
「……」
「大丈夫か? 無言は肯定の証拠だぞ。まあ私はどうでもいいが。……それより、いいのか? 早くその子を解放しないと、後悔することになるぞ?」
「……どういうことだ」
「少しは自分の頭で考えてみろよ。こんな状況だ。簡単に予想できるだろ?」
男たちがあまり喋れない状況を利用しているのか、突然現れた少女は会話の主導権を完全に掌握している。
立ち止まらずには居られなくなった男たちは、ひそひそと言葉を交わし始める。少女の言葉に動揺しているのは明らかだった。
だがこの膠着状態を続けたところで、状況は好転しない。どうするつもりなのか。
「よく耳を澄ませてみればわかる。私の言っていることがな」
「……」
「おいおい。まさか聞こえないのか? ……ああ、もしかしてフードが大きすぎて聞こえないのか? 邪魔なら取ってみればいいんじゃないか?」
「その手には乗らない」
「そうか。それは残念だ」
少女が残念そうに肩をすくめた、その瞬間、 幾つもの足音が路地に響く。
「ッ……⁉」
足音は何度も地面を踏み鳴らしながら、急速にこちらに近づいてくる。
「応援か? い、いつのまに……」
「ふふふ……」
「くッ……‼ 逃げるぞ」
男たちの行動は迅速だった。多勢に無勢だと判断を下すと、すぐさま梅雨里を地面に寝かせ、腕を組んで微笑む少女の横を通り過ぎ、再び路地裏へと消えていく。
「道弥くん!」
同時に現れたのは、背後に男たちを何人も引き連れた人物だった。黒い外套を身に纏い、容姿は見えづらいが、彼女が誰であるかは明白だ。
「さ、佐藤」
「大丈夫? 怪我とかしてない?」
困惑を隠せないまま道弥は頷く。
天音は安堵の息を吐く。が、その視線が横たわる梅雨里に向けられた途端、大きく見開かれた。
「梅雨里ちゃん……‼」
「安心してください、団長。たぶん気絶させられてるだけだ」
梅雨里を抱き起こしながら冴木は笑みを見せる。その笑顔に、天音だけではなく道弥も胸を撫で下ろした。
「応援感謝する。君たちのおかげで助かった」
「え? えっと……誰ですか?」
頭上に『シスターB』の文字を浮かべた少女が突如現れ、天音は首を傾げる。
「……佐藤たちは、この子に呼ばれたんじゃないのか?」
「違うよ。私たちは……」
道弥は修道女風の少女へ視線を転じる。
「ふっふっふ……」
少女は腕を組みながら得意げに笑っていた。
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