第9話 モンダイ


 レストラン勤務の朝は意外と早い。特に厨房の主戦力である梅雨里は朝のうちに色々とやっておくべきことがあるらしく、道弥はそれに合わせるために早い起床を余儀なくされた。まだ薄っすらと青みがかった外の空気を窓の向こうに見ながら支度を済ませて家を発つ。


「大丈夫ですか? 道弥さん」


 寝ぼけ眼を擦りながら歩いていると、隣の梅雨里がこちらの顔を覗いてくる。


「すごい顔です。まるで掲示板に貼られた指名手配犯のような……」


「どんな形相だよ……」


 目つきが悪いのは生まれつきなのだが、どうも久しぶりの早起きがしかめっ面に拍車を掛けているらしい。


「目の下に隈もできています。ダメですよ。睡眠はしっかり取らないと」


「お前は俺の母親か」


「母親ではなく奥さんです。私には旦那様の健康を管理する義務があるんですよ」


「か、勘弁してくれ……」


 激しいむず痒さに襲われ、道弥は顔を逸らす。


 不意に沈黙。


 気が付くと、隣の梅雨里は道弥の顔をじっと凝視していた。


「昨日の夜は、何か考え事でもしていたのでしょうですか?」


「……まあ、そんなところだ」


「それは今回の事件について、でしょうか?」


「や、それじゃなくて」


「では以前おっしゃっていた『物語』論についてですか?」


「さ、察しが良すぎるのも、考えものだと思うぞ……」


 もう怖い。世の中の旦那は皆、ここまで思考を把握されているのだろうか。


「昨晩はあの後、天音さんと何か話していらっしゃったご様子でしたから」


「まあ、な……。『主人公』のことは、前に話したことがあるよな?」


「はい。道弥さんがお考えになった仮説ですよね。ええ、私も賛同しましたから覚えていますよ。大変、説得力のある仮説だと思います」


「俺もそう思ってたんだがな……」


「と、言いますと?」


 首を傾げる梅雨里に、道弥は苦い顔で言う。


「佐藤が言うにはな、一週間団員を総動員して国内全域を調べた結果……、『主人公』なんて『役割』を浮かべてる奴は、一人もいなかったらしい」


 溜め息が出た。


 自分の思い付きに特に自信があったわけではないが、少し伸びかけていた鼻先を無情にへし折られた気分で、道弥は要するに、落ち込んでいた。


「がっかりしているんですか?」


「べつに。所詮は凡人の思い付きだってことだよ。がっかりする方が間違ってる」


 スポットライトはモブを照らさない。ステージの上なんて、自分にはだから場違いだったのだろう。


「すぐに諦めてはいけませんよ。道弥さんが信憑性のあるアイデアを皆さんに教えたのは事実なのですから、焦らず、どっしりと構えていればいいですよ」


 梅雨里は静かな笑みを浮かべる。なんとも澄んだ表情だ。早起きの代償としてあるべき眠気の残滓すら見受けられない。


「梅雨里……お前、朝から運動でもしてたのか?」


「え? どうして……もっ、もしかして汗臭かったりしますかっ……?」


 急に道弥と距離を取った梅雨里は顔を赤らめる。道弥は首を横に振った。


「女って朝が一番なんだろ? なのにお前はめちゃくちゃさっぱりした顔してる」


「な、なんなんですかその酷い偏見は……」


「俺の姉貴がそうだったから、運動でもしてなきゃそうはならないだろ」


「や、やめてください。私はいつでもさっぱりしています!」


 唇を尖らせる梅雨里は珍しく幼げで年相応な表情に見えた。


 数分後、歩みが大通りに差し掛かると、だんだん頭も冴えてくる。朝の歩道にも疎らに人の姿が増え、寝静まるようだった街も徐々に活気づいていく。


 道弥たちが勤務するレストラン『ヤドカリ帽子』は中央広場の近くで、ここからはまだまだ歩みを進めなくてはならない。


 ふと視界の遥か先、霧がかった遠くに巨大な建物の姿が認められる。万城の住まう王城は、夢の国にありそうな様相を呈し、雲間から注ぐ朝陽に白壁を照らされて眩い光を反射していた。


「あの……道弥さん」


「ん、どうした? 急に立ち止まって」


「いえ……その、お店に着く前に、少し話がありまして」


 梅雨里は長い睫毛を伏せがちに、視線を彷徨わせる。


「姉の捜索の件、なのですか」


「ああ。それか。前も言ったけど、不安になる必要はないぞ。佐藤たちはちゃんと探してくれてるし、見つかったらすぐに報せてくれるって、言ってたからな」


「いえ。そうではなくて、ですね。……その捜索、今からでも取りやめていただくことはできませんか」


「は?」


 道弥は驚いて瞬きを繰り返す。


「今更何言ってんだよ……。お前が姉貴のことが心配だって言ったから、佐藤も協力してくれてるんだぞ? それを今度は中止しろって……」


「それはそうなのですが……今思うと、あの姉に助けなど、必要ないのではないかと思い至りまして」


「必要ないって……」


 一体どんな奴なんだ。梅雨里の姉は。


「だ、だからって捜索まで打ち切ることはない。考えすぎだ。梅雨里……」


「そう、でしょうか……」


 何故か寂しそうな表情を浮かべる梅雨里。青みがかった髪の頭上では、『国民B(妻)』の文字が虚しく発光していた。


 女心と秋の空。今ならその言葉の意味がわかる。が、恋愛経験が微塵もない道弥には、たとえ『役割』上であっても夫婦の真似事は荷が重い。夫としてかけてやる言葉も思いつかず、途方に暮れて立ち尽くすことしかできなかった。


「……」


「……」


 無言のまま見つめ合うこと数秒。


 周囲のざわめきが道弥の耳に届いたのは、あるいはその沈黙のおかげかもしれない。


 いつのまにか通りには物々しい空気が満ちていた。行き交う通行人たちが疎らに集まってはひそひそと何事か囁き合っている。


「なんだ……?」


 ただ事ではない雰囲気だ。


 正面に立つ梅雨里も困惑したような顔で周囲を見回している。


 やがて『大工B』と書かれた文字を頭上に浮かび上がらせた若い男が血相を変えてその場へ走ってくる。そしてパートナーらしい女性の下へ辿り着くと、僅かにたたらを踏みながら、遠慮のない大声で叫んだ。


「やべえよ! めちゃくちゃになってたぞ広場が!」


「うそ、本当に?」


「マジだって! もうベンチから噴水から何もかも荒らされまくってんだ!」


 男が騒ぎ立てるのを皮切りに、通りの喧騒はいっそう激しくなった。


「広場が……? 一体どういうことでしょうか?」


「わ、わからない……」


 何か異常事態が起こっている。理解できるのはそれだけ。


 ――広場。


 そこに行けば、あるいは何があったのか、わかるだろうか。


「梅雨里」


 道弥は決然とした声で名を呼ぶ。


「俺は今から広場に行ってくる。梅雨里は先に店で待っていてくれ」


「道弥さん……」


「安心してくれ。少し、確認しにいくだけだから」


 梅雨里は不安そうに道弥の腕を掴んでいたが、やがてぎこちない動きで頷いた。


「……待っていますから。絶対に戻ってきてくださいね」


「ああ」


 道弥は一目散に駆け出す。






 中央広場の騒ぎは大通りの比ではなかった。


 広場の周りを囲うように沢山の人々が押し寄せていて混沌とした様相を呈している。ただでさえ忌々しい数多の『役割』も、天使の輪のごとく頭上で発光しながら密集しており、遠目から眺めると煩わしいことこの上ない。


 群衆を掻き分け奥へ進んでいくと、広場と人々の間に、何人もの警備隊が立っているのがわかった。誰も彼も強面な彼らは周囲に睨みを利かせている。まるで現場を荒らされぬよう立ち入りを禁じる警官のようだ、という道弥の想像は的を射ていた。


 警備隊の隙間から広場を覗き、道弥は絶句する。


 先程の男が騒いでいた通り、広場は酷く荒らされていた。おそらく斧のようなものを振り下ろしたのだろう、いくつか設置されていたベンチや掲示板が壊されており、幹の細い樹木も軒並み切り倒されている。大量の木片は噴水場の水面に虚しく浮いており、鮮やかだった花壇も容赦なく踏み荒らされ、石畳には黒い土がぶちまけられていた。


 何者かが悪意を以て広場を荒らした、としか考えられない惨状だ。


(一体誰が……)


「あっ、万城さん」


 警備隊の奥から出てきた男を見、思わず名を呼ぶ。


「ああ。君は……たしか……」


「や、『ヤドカリ帽子』の、若草です」


「ああ、店員さんですか。そういえばお店はこの近くでしたね」


「は、はい。……それで、これは」


「僕も今朝早くに話を聞きつけて、急いで駆けつけてきたのですが……これはなんとも予想外でした」


 万城は顔をしかめながら続ける。


「僕が到着したときにはもう、見ての通りの惨状だったんです。今は近隣の皆さんに聞き取り調査を行っているところで、幸い被害者などはまだ確認されていません」


「なんで、こんな……」


「僕も頭を悩ませているところなんです。まさか広場に恨みを持った何者かの犯行、とは考えにくいですし……」


 万城の目元に薄っすらと隈が浮かぶ。相当疲弊しているらしい。


「万城様、よろしいですか」


 聞き取り調査を行っていたのだろう警備隊の男が現れ、何事か耳打ちすると、万城は眉をぴくりとさせた。


「……わかった。ありがとう。引き続き調査を頼む」


「はい」


「な、なにか、わかったんですか?」


「……近隣の住民の一人が、今朝早くに現場から去っていく人影を目撃していたようです。その目撃証言に寄れば、その人影は黒い外套を纏っていた、と」


「黒い、外套……」


「音もなく去ったその人物は、両手に斧を持っていたようです。おそらくそれを用いて掲示板やベンチを壊していったのでしょうね」


「……誘拐事件と同一犯ってことですよね。それ」


 誘拐事件の犯人と共通する服装だ。まずそう考えて間違いないだろう。


 しかし万城は納得のいかない表情だった。


「外見では一致します。ですが犯行の内容は似ても似つきません。もし本当に同一犯なのだとしたら、果たしてどういう目的で広場をこのように荒らしたのか……」


 再び思考の海に沈みかける万城だったが、凝視する道弥の視線に気が付いたのか、不意に笑いかけてきた。


「大丈夫。安心してください。僕が国王の持てる限りを動員して、絶対に全て解決してみせますから。とにかく店員さんは大切な人の傍から片時も離れぬよう、注意してくださいね。……では」


 会釈して、万城は去っていく。


「なんで、広場を」


 全くもって意味がわからなかった。


 しかしこれ以上ここで野次馬をしていても無意味だ。


 道弥は思考に耽りながら広場を後にした。



 

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