第7話 シンパイ
帰宅後、いつものように晩御飯を食べた後、道弥は何をするでもなく、ただ黙ってテーブルに視線を落としていた。
「元気ありませんね。道弥さん」
食器を洗い終えた梅雨里が向かいに座る。
「万城さんに言われたこと、そんなに引き摺ってるんですか?」
「そ、そんなんじゃない」
「ふふふ……なんだか叱られた子供みたいですね。道弥さん」
「こ、子供……」
道弥は溜め息を吐いて、いっそう肩を落とす。
「あぁ、すみません。謝りますから、あんまり落ち込まないでください」
「励ましたいのか傷口に塩を塗りたいのか、おまえはどっちなんだよ」
「もちろん励ましたいです。道弥さんには暗い顔じゃなくて、もっと活き活きとした顔で、いつもみたいに陰湿な屁理屈を言っていてほしいですから」
「やっぱり塩を塗りに来たんだろ、お前……」
くすくすと年下に笑われる始末。情けないことこの上ない。
「でも本当にらしくないと思いますよ。道弥さん」
「梅雨里に俺の何がわかるんだよ」
「もう半年も一緒に暮らしていますからね。それなりにわかります。道弥さんが今日珍しく色々と頑張ってきたことも、今現在どうにもならないことで頭を悩ませていることも」
「……俺だって最初は怪しいと思ったんだ。あの二人組」
裏路地のことを思い出しながら、また息をつく。
「でも、面倒ごとの気配がしたから反射的に無視しちまった。どころかそのまま忘れようともしてたんだ。最低だろ」
「道弥さんが最低なことは、今に始まったわけではありませんよ」
「…………梅雨里さん」
「ああ、すみません。また口が滑ってしまいました」
茶目っ気のある笑みを浮かべ、梅雨里は不意に席を立ち、キッチンへ。
戻ってきた彼女が「どうぞ」と言って道弥の前に小さな皿を置く。真っ白なバニラアイスがそこには乗っていた。
「これって……」
「見ての通り、アイスです。今日市場で見つけました。これで少し頭を冷やしてください」
スプーンでアイスの楕円を削り、ゆっくり口に持っていく。
「甘いな……」
「頭がすっきりしますよね。食後のデザートにはぴったりです」
梅雨里は自分の分のアイスを一口食べて頬を緩ませる。久しぶりに口にした冷たいアイスは甘くて、整理のつかない思考を溶かして冷静さを取り戻してくれる。
「相手は大人の方が二人だったのでしょう? でしたら道弥さんに何かができるわけでもありませんよ。万城さんにも情報を伝えられましたし、道弥さんは十分役目を果たしたのではありませんか」
「……あいつらの後を追えば、もっと情報を持ち帰れたはずだ」
「それで道弥さんが無事で済めば、の話でしょう?」
梅雨里は依然として穏やかな表情だった。
「私は、道弥さんが危険な目に遭わなくて、本当に安心しています。誰も帰らない家に一人でいるのは、とても寂しいことですからね」
「……あぁ」
視線を逸らして、またアイスを一口。
「……梅雨里は、家で一人だったことがあるのか」
「両親は忙しい人でしたから。夜も帰ってこないことのほうが多かったですね」
「そうか」
「ですが幸い、私には姉がいましたから、寂しい思いをしたことはありませんよ」
「おまえ、姉がいたのか」
「はい。私の大切な家族であり、この世で最も敬愛する御方です」
誇らしげに言ってみせる。
が、それも束の間、一転して梅雨里の表情に陰りが生まれた。
「……道弥さんは、私たちが最初に連れてこられた場所のことを覚えていますか?」
「あ、ああ……」
あの妙な白い空間のことだろう。だが今なぜそれを。
梅雨里は僅かな躊躇を見せながら、ぽつりと呟く。
「実は私、あの空間で、姉の姿を見かけた気がするんです」
「……ほ、本当か?」
「はい。気のせいなら、それが一番なのですが……」
長い睫毛を伏せがちになる。
「もし、本当に姉がこの世界に飛ばされているのなら、今回の事件に巻き込まれてないか、とても心配です」
「……」
唐突に起こった謎の誘拐事件。
万城はパニックが起こるのを危惧して、まだ大々的に報せることを躊躇っているらしい。が、そうでなくとも噂が広まるのは時間の問題かもしれない。今回の事件がこの先、この国に住まう者たちを混沌の渦に巻き込む可能性は、十分にあった。
おそらく梅雨里もそれを感じているのだろう。
普段は巧妙に取り繕っているが、まだ高校生になったばかりの少女。きっと大きな不安を覚えているに違いなかった。だから。
「おまえはまず、自分のことを心配してくれ」
「私は大丈夫ですよ。道弥さんがいますから」
「……ははは」
力なく笑って、道弥はアイスをスプーンですくう。
アイスはすっかり溶けてしまっていた。
**
『何故だ……』
果てのない白の空間に厳かな声が響き渡る。
青白い光が脈打ち、膨大なエネルギーの余波が虚空を揺らす。
超越者の名は――『ルーラー』
生物の枠組みの外に理を持つ超常の存在だった。
傍には、巨大な一冊の本が開かれていた。赤い装丁に幾何学的な模様が施された、薄く発光する本の形を取ったソレは、神秘の限りを以て生み出された叡智の結晶だ。
ぺら、とページの繰る音が響けば、そこはまだ何も書かれていないページ。
白紙のページには、しかし時間が経つにつれ静かに文字が刻まれていった。法則性などはない。すらすらと文字が綴られたかと思えばぴたりと流れが止まることもある。まるで不規則に進む文字の羅列は意志を持っているかのよう。
それは『アバベル』で綴られる物語の記録だった。この記録を辿り、文字の流れを把握することで『ルーラー』は巻き起こる物語を俯瞰し、眺めていたのだった。
『ふむ……』
だが今現在、物語は不測の事態に陥っていた。
『何故動かぬ……』
物語世界『アバベル』を創造し、約半年前、数万の人々をそこへ閉じ込めた。
目的はたった一つ。まだ見ぬ物語をこの目で見るため。
登場人物として配置しておいた彼らはこちらの意図を汲み、徐々に動き始めているようである。ここまでは思惑通り。順調に物語の道筋は決まり始めている。
『だというのに……』
こんな事態になるとは予想していなかった。
超越者は頭を抱えるように青白い光を爆発させる。
速やかな方向転換、テコ入れの処置が必要だ。しかし過度な干渉は無粋。こちらの期待通りに進みすぎても興ざめなのだ。この遊戯は期待以上が生まれないと意味がない。
下界の民は仮想の世界を創造し、架空の人物を登場させ、彼ら彼女らを自由自在に活き活きと動かし、様々な生を、物語を綴ってみせていた。
まさに神の真似事のようなシステムだ。それをあろうことかエンターテイメントとして提供するのだから、超越者としては興味の尽きない文化だった。つくづく人草には分不相応な娯楽である。
『致し方なしか……』
下界の民にできてこちらにできぬことなど、あってはならない。
今回は例外だ。
早々に判断を下し、超越者はある人物へ向けて交信を始めた。
『聞こえるか。選ばれし者よ――』
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