第4話 ミケネコ
翌朝、道弥は梅雨里がキッチンで作業している隙に家を発った。
こそこそする必要性があるかと問われれば特にない。ただ出発する前に律儀に挨拶を交わすほど深い仲でもないだけだ。間違っても気恥ずかしさに負けたわけではない。
目的の酒場『ミケネコ』は大通りから裏路地に外れ、迷路のように入り組んだ道をしばらく歩いた先の、まさに場末という名に相応しい場所に店を構えていた。
コンクリート仕立ての白壁は所々塗装が剥がれ、うらぶれた雰囲気に拍車を掛ける。看板にはミミズのような字体で『ミケネコ』と書かれているが、洒落ているかどうかは微妙なところだ。建物は縦に長く、飲食店なのに人を寄せ付けないオーラがある。
彼らの表向きではない『役割』上、客足が増えすぎても困るのは道弥も知っているが、この野暮ったさだと三毛猫というよりも野良猫だ。入店するには勇気がいる。
この場所の存在は知っていたが、ちゃんと入ったことは今までなかった。道弥は生唾を呑み込むと恐る恐る扉を開ける。カラカラと鈴が鳴った。
店内に客はほとんどいない。当然だ。酒場は基本、夕方から始まる。
この店がこの時間から営業しているのは、他の目的のためだ。
「お、来たか」
店内の中央には、冴木が立っていた。ニヤニヤと相変わらずいけ好かない顔でこちらを見てくる。
「坊主なら、来ると思ってたぜ」
「うるさい。…………佐藤は?」
「団長は二階だ。待ってろ。案内してやる」
店の裏に通された道弥は、冴木に従って建物内を歩いていく。まもなく薄暗い階段が目の前に現れた。なかなか角度が急だ。冴木は淀みない足取りで上っていくが、道弥は慎重に足を進める。
二階はバーカウンターの様相を呈していた。あまり広くはないが、代わりに清掃が行き届いていて、木目調の長いカウンターが照明の仄かな光を受けて艶めいている。洒落たBGMなどはかかっていない。換気扇の回る音だけが退屈に響く。
「道草(みちくさ)くんっ」
カウンター席には妙な格好をした人物の姿があった。
小柄な身体を大きな外套がすっぽり覆ってしまっている。まるで世捨て人の装いだ。だが声は溌剌とした女性のもので、嬉しそうに弾んでいた。
「……佐藤、だよな」
「うん。そうだよ」
目深に被ったフードの隙間から、息を呑むほど整った顔立ちが一瞬覗く。長い瞼に縁取られた大きな瞳が強烈な印象を残して、すぐにフードのなかに消える。
佐藤天音(さとうあまね)。
物ぐさな道弥でも未だに覚えている。昔馴染みの少女だった。
「あ、あれ……?」
一席分離れた席にそそくさと座った道弥に、天音が首を傾げる。
「えっと……もしかして私、嫌われてる?」
「どっちかってーと逆ですぜ、団長」
「黙れ冴木」
睨みつけるが、冴木はどこ吹く風といった表情でカウンターの内側に入っていく。
「道草くん、なんか怒ってる? 顔怖いよ?」
「元々こういう顔なんだ。気にしないでくれ」
「そっか。嫌われてないならいいんだ。よかった」
天音は安心したように胸に手を当てる。そして改まって姿勢を正した。
「改めて。来てくれてありがとう。元気してた? 道草くん」
「ああ、まあ……」
若草道弥で、道草くん。一見愛称のように思えるが、もちろん違って、ただ単に名前をちゃんと覚えられていないだけだ。面倒だから特に訂正もしていない。
控えめで奥ゆかしい梅雨里が典型的な大和撫子タイプとするなら、佐藤天音は華やかでどこにいても目立つアイドルタイプ。誰に対しても分け隔てなく、かつ真面目で誠実。どんな場面でも自分のステージにしてしまえる天性の素質を有していて、だから日陰者の道弥からすれば住む世界が違うと思わざるを得なかった。
「確か奥さん役の女の子と二人暮らしだって言ってたよね。梅雨里ちゃん、だっけ? その子とはどうなの?」
「どうって……普通、だけど……」
「意外とヤることやってんじゃねえかぁ? なぁ坊主」
「おまえ」
「若い身体持て余した男女が一つ屋根の下でふたりきり、何も起きねえわけねえしなぁ。俺が若いときなんざあ、そんなことになりゃあ、そりゃ毎日毎晩――」
「聞いてねーよ!」
「あ、あはは……」
苦笑いする天音に、道弥は顔を赤くして俯く。
「くそ、なんでこんなところでこんな話してんだ……」
不意にカウンターに飲み物が二つ出される。顔を上げると、冴木が得意げに腕を組んでいた。
「こんなところってのは聞き捨てならねえな。坊主。失礼な餓鬼が一人いるだけで酒がマズくなるんだ。うちの店に文句言う奴を客として扱う気はねえぞ?」
「……珈琲じゃねえか、これ」
「餓鬼にゃまだ早えよ」
憎まれ口を聞き流しながら道弥は珈琲に口をつける。苦い。酸味も強くて飲みづらい。隣を見ると天音は静かに珈琲カップを傾けていた。
「冴木さんの淹れる珈琲はいつも美味しいなあ。そういえばあっちでは喫茶店の店長だったんだっけ?」
「ええ、だから酒は勉強中です。まあ今は団長に至高の一杯を捧げるのが、俺の役目ですがね」
「ねえ、その団長っていうの、やっぱりやめてくれないかな……」
「団長は団長です。今更他の呼び方なんて思いつきませんぜ」
「んん……」
目深に被ったフードで窺えないが、なんとなく顔を赤らめているのはわかった。悩ましい声が羞恥を雄弁に物語る。
団長なんて名前で呼ばれているが、べつに天音はからかわれているではない。正真正銘、彼女は団長だった。
「『革命団団長』……だったか? 聞けば聞くほど、変な『役割」だよな」
「あ、あまり言わないで。恥ずかしいから……」
肩を縮めて小さくなってしまう。
道弥の『国民B(夫)』といった『役割』や難波晶子の『店長』のような『役割』は他にも派生がある量産型の区分にある。大体の『役割』がこの量産型に当てはまり、同じような名前の『役割』がこの『アバベル』には溢れている。
が、そんななかでも唯一無二の名前を持った『役割』を時おり見かける。天音の『役割』である『革命団団長』は、なかでも特に例外的な『役割』のようだ。
天音たちの話に寄ると『革命団』は数多くの団員を抱える一大組織らしい。この『アバベル』の隅々まで蜘蛛の巣のごとく情報網を張り巡らせ、綿密かつ速やかな情報のやり取りを可能にしている。そんな軍団のトップであるところの佐藤天音は、その容姿と性格も相まって団員たちからアイドル的人気を博していた。
「革命って言われても、何をどうすればいいのか全然わかんないし、そのくせに『役割』を団員以外には見せちゃダメって制約があるから、とっても不便だし……」
「不運、だったな」
彼女もまた『役割』に振り回されている者の一人なのだろう。だが、
「ううん。いいんだ。……だってこの『役割』のおかげで、私はこうして皆のために動くことができるから」
天音は晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
「そう思えばむしろ幸運だったのかも」
「団長はこの国の情報を一気に集められる御方ですからね。その立場を利用すりゃあ、この世界から抜け出す糸口を見つけ出すことも不可能じゃない。みんなのために影でそんなことを考えて行動する健気な団長だからこそ、俺たちは一生着いていく覚悟を固められるってもんですぜ」
「ふ、普通だよ。こんなの……」
現状、脱出の手がかりを探すための手段と余裕の二つを持ち合わせる自分しか、行動できる者はいない。
故に、それが自分の本当の『役割』なのだと、天音は言った。
「今も国中に散らばった団員の皆が、色んな情報を私のもとに集めてくれてる。皆が一刻も早くあっちの世界に帰ることができるように、毎日頑張ってくれてるの」
「頑張ってる、か」
「この外套で自分の『役割』を非表示にさせることができるってわかったのも、みんなのおかげなんだよ」
彼女が日夜、世捨て人のような格好で路地裏に潜んでいるのにも大きな理由があったらしい。天音も相当窮屈な暮らしを強いられているだろうに、表情に陰りは微塵も見受けられなかった。
「佐藤は、すごいな」
気付くと声に出ていた。
凡庸な自分とはやはり造りが違うのだろう。かたやステージの上でスポットライトに照らされる役者、かたや暗い観客席から見上げる有象無象の一人といったところか。
「それで、なんで俺なんかを呼びつけたんだ?」
自分たちの関係は言うまでもない。古い縁を持つだけの、ただの他人だ(名前だって覚えてもらえていないし)。わざわざ呼びつけられる理由などないはず。おおかた手駒を増やすため、多くの客と関わる飲食店員である自分にも協力してほしい、という程度の頼みだろう。
と、道弥は考えていたのだが、
「うん。道草くんには、私たちと一緒に考えてほしいことがあって」
「え?」
思わず瞬きを繰り返す。
「考えてほしいって……一体どういう」
「この世界、『アバベル』についてだよ」
外套のフードに隠れて、天音の表情は窺い知れなかった。
「な、なんで、俺が?」
「いいから、とにかく聞いてほしいんだ。私たちの話」
妙な流れに首を傾げる道弥を置いたまま、天音は話を進めた。
「この世界に来る前、あの真っ白な空間で私たちが言われたこと、覚えてる?」
「ああ……ええと、確か……まだ見ぬ至上の物語が、なんとかって……」
「『まだ見ぬ至上の物語を、私に見せることである』……あの『ルーラー』って名乗ってた人が、私たちに求めるって言ったのは、これだけ」
人かどうかは疑わしいが、そんなようなことは言っていた気がする。
「そして、頭の上の、それ」
天音がこちらの頭上を指差す。指し示られたのは道弥の頭上――『国民B(夫)』の文字。
「この世界に来たとき、最初からその『役割』は、私たちの頭上に浮かんでいた」
「あ、ああ……」
「最初は不思議だなって思うだけだったんだけど、団員の一人がね、ある時言ってくれたの。この『役割』が表示されるのって、まるでゲームのなかみたいだって」
「ゲームの、なか?」
突拍子のない単語に道弥は眉をひそめる。
腕を組んだ冴木が難しい顔で言った。
「俺ぁよくわかんねえが、そういうゲームのシステムがあるんだろ? なんていったか、ほら、あーるぴーじー?」
RPG。略さずに言うと――
「ロールプレイングゲーム、か……」
「そう。ロールプレイ、だよ」
天音の言わんとするところが、なんとなく掴めた。
「あくまで私たちで考えた仮説なんだけど、この『役割』はただの『役割』じゃなくて、私たちに割り振られた、配役、なんじゃないかな。つまり私たちに求められているのは、ロールプレイをこなしてゲームをクリアすること……」
ゲームをクリアする。地球(あっち)でさんざん聞いたような単語を、こちらの世界でも聞くことになるなんて、妙な話だ。
「それで重要なのが、最初に言った言葉。——『まだ見ぬ至上の物語を見せろ』。これってさ、もしかしなくても『物語を終わらせろ』って意味なんじゃないかな」
道弥は目を見開いた。
「物語を、終わらせる」
「うん。自分たちの手で、この世界の物語を終わらせれば、私たちは帰ることができる」
「ぐ、具体的にはっ?」
希望の光が差し込むのを覚え、道弥はやや興奮混じりに訊ねる。
しかし天音は途端にバツが悪そうな顔になって笑った。
「さ、さあ……」
「え? さあって……ま、まさかわかってないのか?」
「し、仕方ないでしょ! 最近やっと形になってきた考えだし、まだ仮説の段階だし、物語とか役割とか、なんかぼやっとしててよくわかんないし……」
「まーまー、元気出してくださいよ団長。そのうちなんとかなりますって」
がくっと肩を落として天音は項垂れる。道弥は道弥で、ようやく雲間から光明が差し込んだかと思えば急に暗雲が塞いでしまったかのような気持ちになった。
「道草くんは、どう思う?」
「え、や、どう思うって……」
「なんでもいいから知恵を貸してほしいの。私たち、本当に困ってて」
まさかそのために自分をここに呼んだのだろうか……。
予想外の事実に道弥は呆然としてしまう。
「……俺なんかの知恵なんて、たかが知れてる」
「かもしれないけど。……この通り! 考えてくれるだけでもいいから! 本当に、今は猫の手も借りたいくらいなの!」
なんと両手を合わせて懇願されてしまった。頭を下げられることに慣れていないせいか、とても、非常に、居心地が悪い。
「わ、わかった。わかったからっ、マジで、顔上げてくれ……」
「うん、ありがとう!」
太陽のような笑みが咲き誇る。場末のバーの背景のなかに、本当に場違いなほど眩しい笑顔だった。もう少し席を離しても良かったかもしれない。
「……はぁ」
もうどうにでもなれ。
そんな投げやりな思考で、とりあえず脳味噌を動かすことにした。とはいえ多くの人員を抱える『革命団』でも手づまりなのだ。主人公から程遠い、いわゆるモブのように凡庸な自分が考えたところで、たかが知れているというものだろうが……。
(役割と……物語、か」
「……ん?」
今、一瞬、何か引っかかったような。
「……主人公」
そうだ。
「え?」
思い至ると、口にせざるをえなかった。
「主人公が、いるんじゃないか?」
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