第2話 ヤクワリ
——パリンッ‼
悲鳴のような音が店内に響き渡る。
クリームシチューの平らげられた白磁の器が木張りの床に激突した際の、最後の断末魔の叫びは嫌に鋭く耳をつんざいた。それまでの店内の賑やかなムードは一点、ぴたりと止み、気まずい静寂が場を支配する。
道弥は足元に転ぶ白磁の死体を見下ろし、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「おいおいまたかよ!」
「これで今週何度目だぁ! 店員さんよぉ!」
「今日のノルマ達成ってかー?」
「……ぎゃはは‼」
レストラン『ヤドカリ帽子』に下品な笑い声が響く。
見事に割れた白い残骸は、その衝撃を示すように破片を飛び散らしており、カウンター席の奥まで被害は及んでいた。これは不味い。早急に箒と塵取りが必要な状況だ。本当に不味い。
手を滑らせるのは言ってみればいつものことだが、いつものことだけに気が向かなかなかった。掃除用具を取りに行く。それ自体は容易い所業だが、その過程で会いたくない人物と鉢合わせする危険性は十分あり、その想像が重石となって足取りを鈍らせた。
「大丈夫ですか? 道弥さん」
とりあえず足元の破片だけでも拾っておこう、と道弥がその場にしゃがみ込んだところに、柔らかな声が届く。顔を上げると、カウンターの内側から身を乗り出すようにしてこちらを覗きこんでいる月島梅雨里(つきしまつゆり)の姿があった。
「あらら、これはまた派手に割ってしまいましたね」
「気が緩んだんだ。俺のせいじゃない」
「では一体誰のせいなのですか?」
「すぐ責任の所在を明らかにしたがるのは人の低俗な性(さが)だな。そんなことじゃなにも生まれないしなにも進まない。それよりももっと大切なことがあるんじゃないかと、俺は常々思っている」
「例えば?」
「……梅雨里が裏から塵取りを持ってきてくれるとか」
「忙しいのでご自分でお願いします」
と言いつつも梅雨里は持ち場に戻ろうとはせず、どころか「お怪我はありませんか?」と心配そうに眉尻を下げる。道弥は問題ないと首を横に振ってみせた。
「素手で拾うのはやめてください。見ていて落ち着きませんから。それに、どうせすぐに店長にはバレちゃうんですから、早いところ謝っておくのが吉ですよ」
察しが良すぎる。
「……梅雨里はいい奥さんになるな」
「はい。精進します」
精一杯の『皮肉』だったが、梅雨里にはさらりと躱された。
女性にしては高めの身長故か、しずしずと厨房に戻って行く後ろ姿からは、まさに美人妻の風格が漂う。うなじのほうでまとめられた青みがかった髪の艶やかさに自然と目を奪われ、さらに頭上、白い三角巾を被った頭頂に浮かぶ『ソレ』に視線が流れそうになって――反射的に顔を逸らした。
「……ふざけやがって」
おもわず舌打ちが出た。
「舌打ちしてぇのは、あたしのほうだ。若草(わかくさ)」
「……あ」
振り向くと、額に青筋を立てた店長が立っている。
「晶子、さん……」
「店長と呼びやがれ‼」
店長と呼ぶよりも族長と呼びたくなるような強面で難波晶子(なんばあきこ)は鋭く睨みつける。道弥はもちろん、傍で下品に笑っていた男たちも縮み上がったようだった。
「くそっ、また皿割りやがって! これで今週何度目だてめぇ!」
「み、三つ目です……」
「八つ目だ! どんだけサバ読んでんだ‼ 減給されてえのか‼」
即座に道弥は平伏し、直ちに温情を願った。
金の使い道などこの世界にはあまりないが、家での自分の立つ瀬がなくなるのは勘弁してほしい。
「いいか! 使えねえ芋野郎はこの店にゃいらねえんだ‼ てめえが虫じゃねえって証明してえなら、まずはやる気を示せ‼ いいな‼ 返事は‼」
「は、ハイ‼」
軍隊式教育に倣い、道弥は敬礼で応じた。この店長が登場すると、洒落たレストランも陸軍基地に早変わりである。求められるのは馬車馬のごとく働くことのみ。
表面だけは従順な道弥の態度に、店長も留飲を下げてくれたのか、大仰に鼻を鳴らすとカウンターの奥へ姿を消す。嵐は去った。道弥は安堵の息を吐く。気づけば何故か客の男たちまでが胸を撫で下ろしていた。
「本当に一個上かよ。あの人……」
「あちらの世界では、今年から女子大生だったらしいですよ」
いつのまにか顔を出していた梅雨里が言う。
にわかには信じがたい話だ。
そんな女子大生が何故、こんな場所で飲食店の店長なんて真似をしているのか。それはあと一年で高校を卒業するはずだった道弥が、こうして飲食店の店員なんて慣れない職に就いているのと全く同じ理由である。
倫理観の欠如した、イカれた前提の上に、道弥たちの生活を成り立っていた。
「……くそ」
ある程度破片を集め終わったところで、道弥は凝り固まった身体を解すため、一度立ち上がって伸びをする。正面にはガラス張りの壁。その向こうは絶え間なく人の往来が続く大通り。ある者は子供と手を繋ぎ、ある者は恋人らしき者と連れ立って歩き、またある者は血相を変えて走る。色んな人の姿があるが、表情は皆同じ。一様に浮かない顔で俯いていた。
原因は一目瞭然。
彼らの現状の全てが偽りの紛い物であるから。
——『建築士D』
——『文具屋A』
——『国民F(父)』
——『国民F(娘)』
頭上に浮かぶ文字はロールプレイングゲームのNPCを彷彿とさせる。
そして窓ガラスに反射する自分の姿。目つきの悪い、見るからに無愛想な青年がこちらを睨んでいる。
その頭上で薄く発光しているのは――『国民B(夫)』の文字。
頭上に浮かぶは非日常。
僕たち私たちの――『役割』
ここは天上の主が創造されたし、ふざけた舞台の上なのだった。
**
長い勤務時間を終えて店を後にすると、すでに街には夜の帳が下りていた。寝静まったような暗夜。昼の賑わいは夢だったかのように人の気配はない。
道弥は重い足を引き摺って街道を進んだ。
大通りからしばらく歩いた先にある小高い丘の上まで辿り着くと、ぽつんと佇むログハウス風の素朴な外観の家が出迎える。この家が、この世界での道弥の根城だ。
帰ってきたという感覚はない。約半年前までマンションで母親と二人暮らしをしていた道弥にしてみれば、生活の景色は百八十度変わってしまったと言える。隣家と言える建物の姿は辺りになく、自動車も存在しない世界では夜でも騒音の心配はない。立地はなかなか良いが、そんなことでは最低限の感謝を覚えてやる気にもならない。
「待っていてくださいね。すぐに御飯にしますから」
帰宅して早々、梅雨里は厨房でのものとは別のエプロンを着ると、一休みする暇もなくキッチンへ向かった。
テーブルに重い腰を下ろすと、テレビもないリビングで時間を潰すこともできず、道弥はそぞろに梅雨里の後ろ姿を眺める。
三角巾の拘束が解かれた、微塵もほつれのない滑らかな青髪が動くたびにサラサラ揺れる光景は見ていて飽きないが、その頭上で薄く発光する『役割』がちらちらと視界の端に映るせいで、すぐに不快感から眉をひそめることとなった。
「……どうしたんですか? じっと見つめて」
「な、なんでもない。……いつも任せて悪い」
「問題ありませんよ。これが私の、役割ですから」
屈託ない笑みを見せる。
頭上に浮かぶ文字は――『国民B(妻)』。
(悪趣味だ)
思わず心で呟いた。
「それに私は道弥さんが料理をつくるほうが心配ですよ」
「年下に心配されるほど、料理音痴だった覚えはない」
「そんなこと言って……、以前カレーライスにマヨネーズをかけようとしたのは、一体どこの誰でしたか?」
「先駆者は、いつの時代も初めは理解されないもんなんだ」
「物は言いようですね」
この創作意欲は常人には理解できないらしい。
「さて、できましたよ」
軽口もそこそこに料理が出来上がり、テーブルに器が並べられていく。メインはふわり湯気立つクリームシチュー。梅雨里は向かいの席に腰を下ろすと、笑顔で一言。
「割らないでくださいね?」
頬が引き攣った。
梅雨里の料理はやはり絶品だった。チーズの濃厚な香りと牛乳のまろかさが絶妙なバランスで中和している。流石は厨房で毎日働いているだけはある。
とは言え梅雨里のこの腕前は、働き始めてから培ったものではないらしい。
「家事はお手伝いの中村さんに師事していただきました。特に料理に関しては私も興味があったので、勤務外に無理を言ってご教授していだいた記憶があります。私の師匠ですね」
「お手伝い……前から思ってたが、梅雨里って、結構なお嬢様なのか?」
「私は一般人のつもりですが、そのようなことは同級生からもよく言われましたね」
背筋をピンと伸ばしながら音も無くスープを啜る。梅雨里の一挙手一投足には洗練されたものが感じられた。
「あちらの世界で過ごしていたなら、今頃女子校に入学して華の女子高生生活を送っていたことでしょう」
「華のって、自分で言うか…」
しかし道弥もこんな世界に連れてこられなければ、今頃高校最後の一年をスタートさせていただろう。放課後は塾に通って、受験勉強の合間の自由は趣味の読書や映画観賞に費やして、時々母親と喧嘩したりもして……。
「……もう、半年も経つのか」
だがそんな未来は唐突に奪われてしまった。
「正確には五カ月と十日ですね。なんとも、長いようで短いような日々でしたが」
「今はもう、色々と落ち着いたな」
「最初は皆さん、とても戸惑っていらっしゃいましたが」
「案外順応する生き物なんだよ。人間って」
この半年で道弥はそれを実感した。
「そのうちみんな、向こうの世界のことも忘れていくんじゃないか」
「そんなこと……」
「ないとは言えないだろ。そりゃ最初はみんな最初は希望くらいは持ってただろうが……一度諦めちまえば、けっこう楽だって、俺も気付いた」
道弥がそう言うと、梅雨里は悲しそうな顔をした。
「希望を捨ててはダメです。道弥さん。きっと何か、あるはずです」
「なにかって?」
「それは……わかりませんが」
梅雨里は「それでも……」と俯く。
……ああ、またやってしまった。こんな顔をさせるつもりはなかったのに。
「ご馳走様」
ごくりと水を飲み干し、道弥は逃げるように席を立った。
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