向日葵のような笑顔

@shun_t

向日葵のような笑顔

今年も何もなく夏が終わるだろう。

毎年の事だが、ミノルは焦る。

社会人一年目であるミノルには、夏休みの宿題なんてモノはない。

ただ、淡々と流れる日々が加速度を増して

繰り返すだけ。


ミノルは焦燥に駆られた時、無意識に

小学生の頃の夏を思い出すのだ。

少年時代の、あの永遠に続くような夏休み。

あの時の空の色を思い出す。

それをいつまでも憶えていたかった。


だがその願いも虚しく

“少年時代”は日々遠のき、薄らいでいく。


夏は…今ではあっさり終わる。

ふと空を見上げても、雲を雲と、青空を青空と認識するだけだ。


自分は変わりつつある。


昔は、空は無限のキャンパスだった。

雲はたちどころに形を作り、友達の顔や、

飼い犬や、怪獣に変化した。

ミノルは快活で、想像力豊かな少年だった。


しかし今のミノルは、毎日同じ仕事を汗を流してこなすだけ。

職場では大人しく無口なつまらない人間だ。


自分の仕事を誇らしく感じたことはない。

生活費を稼ぐのに必要というだけだ。

だが休日になると、結局仕事以外に

何をしていいのか分からなくなるのだった。


会社から与えられた10日間の夏季休暇を

ミノルは苦痛に感じていた。

夏休み‥か。


ミノルは友人であるタツキの家を訪ね、

昔の様に他人の部屋でゴロ寝をするの

だった。



「なぁ、タツキぃ…なんかおもしれぇ事ねぇの?」

タツキとは小学生からのくされ縁だ。

タツキはミノルを無視して

「……暑い、死にそうだ」

と気怠げに呟く。


「…なんかさぁ、昔より5度は気温が上がってないか?」

「…ないない…だが、去年よりは確実に

暑いな」


タツキの家のエヤコンが壊れていたのは

想定外だったが、

この下らない会話にミノルは内心感謝した。

終わったはずの“あの夏”に戻れた気がする。


タツキはだるそうに起き上がって言った。


「体感温度を下げるには、恐怖だ、

肝試しだよ」

「…やるん?」

「いや、やらん‼︎」

タツキは再びだるそうに横になった。


時刻は夜中の11時。

肝試しという単語に心を弾ませたミノルは

都内の霊園に1人で来ていた。

霊園というが、囲いも門もなく、

巨大な集合墓地のど真ん中に、一車線の道路が十字に引いてあり、深夜でも車が通る。

その道路は、春には満開の桜が咲き誇る

桜並木となっている。


「幽霊なんていやしないし、無駄骨だろ」

タツキは結局来なかった。

ミノルは暗く、左右を無数の墓石で囲まれた並木道を歩きながらひとり呟いた。


「当たり前だろ…幽霊なんていない。だから来れるんだ」



霊園の空気はひんやりと心地よい。

並木道から墓地に足を踏み入れると、

更に冷気が増した。

足に伝わるアスファルトの感触が、

ぬるりとした土を踏み締める感触に変わる。

そのまま、どんどん奥へ奥へと歩く。


綺麗な墓、雑草にまみれた墓。

地蔵が置いてある墓。

思いのほか、色々なバリエーションがある事をミノルは知った。

「墓にも個性があるんだな」と

声に出してみる。

声はただ、闇に呑まれていった。

周囲に自分しかいないという事が改めて実感できた。

そうとも、夜中に墓場に来る変人は俺だけであって欲しい。


並木道の灯りが、霊園をうっすらと

照らしている。

夜中の霊園を散歩するなどという、

非日常的な行為をミノルが楽しめているのは

この頼りない光のおかげでもある。

人口の明かりが届かない奥へはさすがの

ミノルも足を踏み入れるのは躊躇する。


此岸と彼岸…


こちらとあちらを分ける頼りない光。


非日常と日常の境界がすぐ側にある。

日常へと戻る並木道が見えることが、

ミノルを安心させた。

だが、闇と静寂に包まれて、ミノルは心が

静かに澄んでいくのを感じた。


この雰囲気、悪くないかも…。


ミノルは「静かだなぁ」と思わずひとりごちた。

だが、良い気分はそう長くは続かなかった。


腕や足が猛烈な痒みに襲われた。

蚊にあちこち刺されて初めて自分の愚かさに気づいた。

「やべ…帰るか」と桜並木に引き返そうとした時…。


コツコツ…コツコツ…


足音が聞こえた。


…誰だ?

ミノルは周囲を見渡した。

足音の主はすぐにわかった。

桜並木を歩く女性がいたのだ。

一定のリズムで歩いている。

早足で気の強そうなOL風の女性だった。

夜中に霊園の真ん中を突っ切るとは、

肝の座った女性だなと思い

何とは無しに見ていた。


ふと、女性が自分を見た気がした。

目があったわけではなく、自分の足元を女性に見られた気がしたのだ。

すると、女性の足音のリズムが

わずかに乱れ、次の刹那、ものすごい勢いで走り去ってしまった。


…悪いことしちゃった、そりゃ驚くよな。


ミノルは並木道に‥日常へと戻る。

家に戻り、蚊に刺された箇所に

爪で十字を付けながら逃げていった女性の

ことを思い出していた。

悪いとは思ったが、「くくく‥」と笑い出してしまった。


もしかして、俺が《怪談》になったりするのかな?

もし、そうなったら面白い!

ちょっとした有名人のような気分が味わえるかもしれないな。


翌日の夜も、ミノルは霊園に来ていた。


並木道の街頭の光がほんの僅かに届く距離で獲物を待った。

悪戯というのは、どうしてこんなに心が躍るのだろう?

ミノルは久しぶりにワクワクしていた。

「おっと‥忘れてた」

ミノルは全身に虫除けスプレーを振りかけた。

せっかくのお楽しみを邪魔されたくなかった。


月明かりと街灯に照らされた並木道。

墓場から眺める光の路は美しかった。

車は割と頻繁に通るが、徒歩でこの道を

夜中に歩く人は少なかった。


一人目は犬を連れた男だった。

犬がミノルに気づき、ワンワンと吠えたが、

男は「あー何⁉︎、はよこんかい‼︎」と犬を叱りつけて歩いていった。

気付くのが犬だけとは…。


二人目も男性。若いサラリーマン。

今まで呑んでいたのか、ふらふらと

歩いている。

ミノルは「若き企業戦士よ。非日常へと招待しよう」と小さく呟いて

若い男に笑いかけて手を振った。

男は「ん⁇」と言い、墓場に目を凝らした。

並木道から、ミノルのいる墓場にはほとんど明かりが届かない。

ミノルは笑顔でゆっくりと手を振り続けた。

男は「あ?」と言い、一歩墓場に踏み込んできた。

ミノルは、「!やば‥もしかしてこっち来たりする?殴られたりする?」

と狼狽えたが、無用な心配だった。

企業戦士は「きゃあああああああああ‼︎」と

盛大に悲鳴を挙げて走り去った。


ミノルは声を押し殺して泣くほど笑った。


ミノルは自分が怪談の主役になっている現状に得も言えぬ快感を覚えていた。

悪い気はしない。

だが、悪戯は悪戯だ。

人様で遊ぶのは程々にしておかないとな。


ミノルはわずかな罪の意識を感じたが…。

次の獲物を待つこと5分。


コツコツ…

アスファルトをヒールが打つ

独特な音がした。


お!

レアケースの女性!

20代前半くらい、ポニーテールに

ゆるふわのトップス ロングスカート。

可愛い女の子だった。

心の中でかなり葛藤したが、

悪戯心が勝った。

不自然にならない様に、ゆっくりと顔を上げ、

目立ちすぎない様に女性に手を振った。



コツコツ…コツ…

女性は歩みを止めた。そしてミノルと目が合った。


女性は無垢を絵に書いたような

純朴な顔だった。


その顔が…向日葵のように微笑んで…

墓場の怪しい男に対して手を振り返した。



ミノルは手を振り続ける。


他にどうしようもないのだ。

他に何もできない。

ミノルは思考停止し、笑顔が張り付いたままになったのを自覚した。


この女…おかしい…。

俺、間違いなく怪しいよな?

こんな墓場で何やってるんだ?

自分でもヤバいヤツだって思うよ。

知ってるよ。

こんなヤバい男見たら、普通走って逃げるだろ…?

もしかしたら、幽霊かもって考えるだろ?

幽霊じゃなかったら、ヤバい生者だって考えるだろ?

生きている人間が一番怖いって知ってる?


女性は色白で、可愛らしかった。

手を振る素振りは上品だった。

ミノルは、はじめてだった。

こんな可愛い女性に、こんな笑顔を向けられた経験は今までなかった。


幽霊を見たことはない。

だから幽霊を知らないのだが

この女性は、そういう類のものじゃないことが判る。

実体があり、生きている。

そして、そこにいる。

ミノルに笑顔を向けて手を振っている。



タツキの顔が頭に浮かび「幽霊なんていやしない」という

言葉を思い出した時、自分の恐怖を

自覚した。

恐怖は肌から来る。自分の内ではなく外から来るのを知った。


向日葵のような無垢な笑顔が恐怖の根源だ。


ミノルは手を振るのをやめた。


すると女性も手を振るのをやめ、ミノルの顔を見ている。

ミノルもまた、女性から目を逸らせないでいた。

逸らした後の、女性の反応が予想できない

からだ。

女性もまた、ミノルの反応を伺っているようだ。


まるで蛇に睨まれた蛙だ。

恐怖で足が動かない。

タツキ…お前だったらこんな時

どうするんだ?

ダメだ、独りだと怖い。

この女が怖い。

この恐怖を…せめて誰かと

共有できたらなぁ。

俺の隣に…タツキが居てくれたら…。

そう…この女は幽霊じゃないんだ。

なのに、なんか普通じゃない。怖いんだよ。


真っ暗な霊園で墓石に囲まれている俺と、

明るい並木道に立つ女性。



並木道は…明るい方は…俺が帰る方向だろ?

〈そっち〉に居ないでくれよ!

帰れないだろ?


ミノルは、震える脚をもつれさせながら、

日常だと思っていた桜並木から

真っ暗な霊園の奥へと逃げ出した。

暗闇に紛れて身を隠したかった。


暗闇よりも、怖いものから。


明るい向日葵のような笑顔が目に焼き付いている。

霊園の奥の墓石に隠れ、並木道の様子を伺った。

並木道の光がうっすらと見え、そこに女性のシルエットが見て取れた。


そして女性は墓石に隠れているミノルに


「ねぇ…」


と呼びかけてきた。


ミノルは墓石に身を隠して座り込んだ。


「ねぇ…」


ミノルは震える身体を抱え込み、音を立てない様に、気配を殺していた。


コツコツコツ…ザッザッザッ


ヒールの音が変わった。ぬかるんだ土を踏み締める音だ。


こっちへ来るのか?

なんでだよ?こんな怪しい男に何の用だよ?


「ねぇ…」


女性の声に感情はまったく感じられなかった。

ただそこにいる誰かに呼びかけるだけの。

大した用もなく、なんとなく呼びかけるだけの、無機質で機械的な声だった。


ザッザッザッ…

足音がどんどん近づいてくる。

真っ直ぐミノルの方に来る。


ミノルは這う様に、音を立てない様にその場から逃げ出した。


ミノルが隠れていた場所に辿り着いた女性が

「あれ?…いなくなっちゃった?…ねぇ…」

と呟き、ミノルを探している。


ミノルは姿勢を低くし、気配を殺して様子を伺う。

女性はまったく躊躇することなく

ザッザッザッと霊園の奥へと歩を進める。


ミノルは女性の足音から逃げつつ、墓石に身を潜めながら

霊園を大きく周回して街灯のある並木道の方へと戻る。


並木道に辿り着くと、一目散に走って逃た。

尾行されるかも知れないとか、そんな考えは浮かばなかった。


その女性が何者だったのかは今でも判らない。

あれは絶対に幽霊ではなく、生きている女性だった。


だからこそ、あの時の女性の…真っ暗な墓場で手を振るミノルに向けた

向日葵のような笑顔を思い出すと、

どこか切なく、悲しい気持ちになるのだ。


ミノルにとっては正気とは思えない

表情と行為。

あの女性はどんな人生を歩んできたの

だろう。

あの女性は俺にどうして欲しかったの

だろう。

そう考えると、ただ悪戯しか楽しみがなく、あの女性の話も聴けず、何もできないで逃げた自分が情けなくなる。


それ以来、ミノルは終わった少年時代に想いを馳せる事は少なくなった。

逃げる事しかできなかった自分から、少しでも成長したいと考えるようになったのだ。


ミノルはしかし、あの時、

あの女性から逃げられたことに、

やはり安堵するのだった。


《了》



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