Vegetative State!

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Vegetative State!

 目覚めると、妙に身体の節々が痛かった。辺りは暗い。それに、広い。なんだか様子がおかしいことに気づく。上半身を起こすと、トンネルの中のような光景が視界に飛び込んできた。どこだここは。おそるおそる立ち上がって周りを見渡してみる。拘束されているわけではないが、逃げられないことを見越して放置されているだけなのかもしれない。背後を取られるのがこわくて、壁にもたれかかるようにして立つ。そうだ、学校に行かないと。それどころじゃないけど。自分は誘拐されたのだろうか。それにしても、誰もいないなんて変だ。コンクリートに囲まれた空間で、等間隔に設置された蛍光灯がぼんやりと光っている。いま、何時なんだろう。ふしぎとお腹は減ってない。そうだ、スマホは? 中学の入学祝いで買ってもらったばかりのスマホ。ポケットを探る。中身はからっぽだった。先ほど寝ていた場所を見ても、何もない。そりゃそうか、そんなものを持っていたら犯人は没収するに決まっている。そもそも本当に誘拐されたのかどうかすら判断がつかないけれど、それ以外になにが起こっているというのだろう。異世界転生?こんな暗がりに? 夢にしてはやけにリアルだ。とりあえず、もう少し周りの様子をうかがってみよう。ゆるくカーブした道を、ときどき振り返りながら進む。すると、向こう側の壁に別の道のようなものがあることに気づいた。近くまで来てみると、今度は地下駐車場のような様子になっていた。四角い柱が何本も並んでいて、トンネルよりもさらに広々としていた。車は……ない。ますます変だ。柱を囲んでいる、高さ10cmほどのブロックに腰かけてみる。訳のわからない状況だというのに、妙に気分が落ち着いた。あー、まじでなんなんだここ。意味不明。昼寝でもしようかな。昼か夜かわからないけど。天井を見上げてみる。コンクリと蛍光灯。さっきと大して変わらない。閉じ込められている(?)とはいえ、これだけ広いとなんだかわくわくしてきた。自分のことはこわがりだと思っていたけれど、案外逆境に強いタイプなのかもしれない。そんなふうに考えていたら、微かに足音のようなものが聴こえてきて一気に身体が硬直する。やっぱりビビリだ。足音はどんどんこちらへ近づいてくる。呼吸が荒くなりそうなのを必死に押しとどめて、背中を柱にぴったりとくっつける。とうとう目の前に人影が現れた。

 

「……あの」


 テノールとバスの中間くらいの声。黒ずくめの服装に、少し傷んだまっすぐな長髪。体育座りをしている自分をのぞき込むようにしてそいつは再び口を開いた。


「顔、見せてくれませんか……」

「……」

「あ、ごめんなさい、怖いですよね。離れます」


 二、三メートルほど距離を開けてから、そいつは「顔、見せてください」と繰り返した。恐怖で硬直していた身体がほんの少しだけゆるんで、ゆっくりと相手の顔を見上げる。かちり、と目が合った。不健康そうな見た目とは裏腹に、瞳だけは力強い印象を受けた。相手は数秒間こちらを見つめて、ああ、と納得した表情になる。


「もう大丈夫です。ありがとうございます」


 そのままお互い無言になってしまった。なんだこの状況は。脅されるでもなく、ただ顔を確認されただけ。ということは、こいつに連れ去られたわけではない? それに、言葉遣いが誘拐犯のそれとはとても思えないほど丁寧だ。もしかして、こいつも被害者のひとりなんだろうか。犯罪に巻き込まれて、仕方なくこんなことをやっているのかもしれない。あることないこと想像していると、奴はおもむろに床へ座り込んでちらりとこちらを見た。しかしすぐに視線を逸らし、所在なさげにうつむいている。お互いに膝を抱えながら向き合っている構図になり、なんだかおかしな気分になってきた。いくらなんでも気まずすぎるだろう。かといってなにか話しかける勇気もなく、時が過ぎていくのを待つしかなかった。大の大人が体育座りをしているのは変な感じがする。長い髪が肩に広がっていて、邪魔そうだなあと思う。なにかしら信念があって伸ばしているに違いない、と思ったけれど、そのくせ髪はぱさぱさで切れ毛が目立っている。誇大広告によくあるビフォー・アフターの前者のようだ、と失礼なことを考えた。身体の前で組んでいる指が節くれ立っていて、白っぽい。蛍光灯しか光源がないからなのかもしれないが、青白く生気のない色に見える。相手を観察しながらもいいかげん体育座りがつらくなってきて、そうっと胡座に体勢を変えてみると、それをきっかけと捉えたのか奴が話し始めた。


「あの、信じられないと思うんですが、あなたはいま死にかけているんです。あなたの肉体は現実世界で昏睡状態になっています。ここはあなたの心象風景がかたちになった場所、というのが正確なところでしょうか。ここから抜け出るには、現実世界で目覚めるか、……死んでしまうかのどちらかしかありません」


 突拍子もない話をされ、あっけにとられてしまった。自分は死にかけている? ここは現実じゃない? 一気に混乱してきた。待てよ、そうやって言いくるめて本当のことを隠すのが目的かもしれない。それにしたってもっといいやり方があるんじゃないのか。無言のまま奴の目を見る。困ったような、心配しているようなまなざしだった。


「あんたは、なんなんだ」


 やっと声を発することができたが、とんでもなく低い響きで驚いてしまった。まるで、声変わりが完全に終わった大人みたいな声。自分はこんな声ではない。そんな困惑をよそに、奴は目に見えてうろたえていた。やがて決心したのか、ひとつ咳払いをしてこう答えた。


「わたしは、あなたとは別の存在です。人間ではなくて、あ、悪魔……そう、愛を糧に生きる悪魔です。あなたはとある事情でわたしを呼び寄せてしまった。だから、わたしに、」


 わたしに愛をくださいませんか、とかすれた声で奴は言った。閉鎖された空間には、われわれふたりしか存在していなかった。


   *


 こちらは奴に愛を与える。奴はその対価としてこの空間から抜け出す手助けをする。そんな「契約」を悪魔は持ちかけてきた。そう言われても、いきなり愛を与えるなんてことはできるのだろうか。自分はなにをすればいいのか、と問うと、まずはいつわりの言葉でいいからできる限りでやってみてくれ、と言われた。


「なにもロマンチックな言葉じゃなくてもいいんです。たとえば、友人に言うようにおはようと挨拶したりだとか、ふつうに会話してくれるだけでも」

「じゃ、じゃあ……おはよう」

「うん、おはよう」

「……」

「……」

 

 悪魔はふわりと微笑んだまま黙り込んでしまった。会話を続ける努力とかしてくれよ。この際なので気になっていたことを聞くことにした。

 

「あ、あのさ! わ…俺、どうしてこんなに声が低くなってるんだろ。声変わりもまだのはずなのに……」

「え?だって……あ〜……えっとですね、それはごめんなさい、わたしにも……」


 なにやら含みのある言い方だ。一瞬、「そんな当たり前のことをなぜ聞いているんだ」というようなきょとんとした表情にもなっていたし。やはりこちらに隠していることがあるんだな。信用ならない。訳のわからないことばかり言うので、無性に腹が立ってきた。はやくここから出してほしい。そもそもそういう約束でこんな問答をおこなっているんだった。


「助けるって、だいたいどうやるんだよ。おまえが、いや、おまえの仲間が俺をここに連れてきたんじゃないのか」

「いえ、それは断じて。わたしにそんな力はありません」

「じゃあどうして」

「……ごめんなさい。まだ今のあなたには話せないことがいくつかあるんです。ゆっくり思い出していけたらいいと思っているんですが、えと、……あなたは今おいくつですか」

「十二歳。中学入ったばっかり」

「そう、ですか……では、ご両親のことをお聞きしても」

 

 両親。正直、あんまり好きじゃないっていうか、どうでもいい。さほど家にいなくて、小四くらいから夜ごはんも千円札を渡されるだけになった。いつか友達にその話をしたら、いいなー!と羨ましがられたけど、ぜんぜんよくない。たしかに、ゲームや漫画はねだればすぐに買ってくれるけど。友達の家に遊びに行ったとき、友達のお母さんが仕事から帰ってきてすぐに食事を作ってくれていたりだとか、土日はパパが料理担当なんだよ、と言っているのを聞いてたいそう驚いた。うちの父親が料理しているところなんて見たこともない。母親だって、昔は作ってくれたときもあったけど、毎日じゃないし、作り置きが置いてあるだけで一緒に食べることのほうが少なかった。そうだ、食べるものがなくて困る日が増えてきたから、こづかいをねだったのだった。それもたまに忘れられるから一日で全部使い切らないように気をつけているし。そんなことをぽつぽつと喋った。悪魔はうんうんとうなずきながら話を聞いていた。


「だから、親のことは興味ないっていうか」

「そうなんですね。ごきょうだいはいらっしゃるんですか」

「いや、ひとりっ子。だからもう家でひとりなのは慣れてる」

「そうですか……。たしかに、そんな感じのご両親ならあまり頼ろうとは思えませんよね」

「うん……そうだね。悩み事とか、一度も相談したことない」

「最近は、なにか悩んでいることはあるんですか」

「え? うーん……悩みっていうか、自分が変なんだと思うけど。ずっと自分のこと、『私』って言ってたら『男なのにそんなの変』って笑われて。だから『俺』って言うようにはしてるけど、やっぱり慣れないなって」


 大人はみんな私って言ってるのにね、と付け足して、つい声を震わせてしまった。思っていたよりも、この問題について自分は傷付いていたらしい。


「変じゃないですよ」

「え?」

「だって、わたしも『わたし』ですし。あ、悪魔に言われても、仕方がないか……」


 たしかに、大人の男のような風貌でありながら、髪も長いし一人称も「わたし」だ。相手は人間ではないとはいえ、少しだけ心が軽くなったような気がする。


「……ありがとう、ございます」

「いえ、悪魔に『ふつう』を語られても意味がないかと思っていましたが……そう言ってくれるのなら『どういたしまして』、ですね」


 悪魔はふふ、と柔らかく笑った。悪魔らしくもない、優しい笑い方。でも、それを指摘したら「男が『私』なんて変だ」と言ってきた奴と同じになってしまうと思って、なにも言わなかった。


「そうそう、悩みといえば最近職場で――」


 職場?自分はなにを言っているんだ?口からついて出た言葉に困惑した。まるで大人みたいなことを、いや、たしかに自分は運送業の、いや違う、なんだこれ。急激に気分が悪くなってきて、その場にうずくまってしまった。


「思い出しましたか? ゆっくりでいいんです、息を長く吐いて、もっと吐けます。うん、吸って、吐いて……」


 ぎゅっと目をつむって喉までせり上がってくる気持ち悪さに耐えている間、悪魔は深呼吸をうながしてくれた。少し落ち着いてきたものの、今度はかあっと身体が熱くなってきて、高熱が出たときのようになってしまった。あつい、と訴えると悪魔はその手をこちらの額に添えた。ぎょっとするほど冷たかったが、今は気持ちがよかった。


「わたしの手、つめたいでしょう」


 人間はみんなそう言います、と悪魔は言った。その口ぶりではこれまでにも、人間とふれあったことがあったのだろうか。悪魔の生活なんて想像もつかないや。しばらくして、身体の火照りがおさまったので上半身を起こしてみた。吐き気もなくなったようだ。


「ありがとう、もう大丈夫」

「それはよかった。……今までのこと、全部思い出せましたか」

「うーん……どうなんだろう。ところどころ欠けているような、足りない部分があるような気もする」


 ほんとうは、今の自分は中学生なんかじゃなくて成人していること。高校を卒業してから引っ越し業者として働いていること。そして、仕事がしんどいこと。そこまでははっきり思い出せた。でも、具体的になにがきつかったのかがわからない。そりゃ、仕事は大変だけどもっとこう、深刻に? なにか思い詰めていた気がする。そううったえると、悪魔は「そこまで思い出せればかなりの進歩ですよ」と言ってくれた。


「あなたは、けっこう苦しい思いをしていたんですよね。そういう負のエネルギーが私を呼び寄せてしまったのでしょう」

「そういうものなんですか」

「……ええ、そうです。それを解消できたら、もしかすると、ここから出られるかもしれない」


 はじめて前向きなことを言われた気がする。素直にうれしいと思った。


「か、確証はないので……あまり期待はしないでください、すみません」

「いや、かまいませんよ。希望があるのはそれだけでいいことですから」


 我ながら甘いこと言ってんなあと思う。そもそもあいまいな契約を持ちかけてきたのはあちらで、信用なんてできないはずなのに。それでも、このわずかな時間でずいぶんとこの相手のやさしさに触れてしまったせいなのだろうか。絆されている自覚はあるにせよ、後ろ向きな気分でいてもよい方向に進まないのはほんとうだと思うので、これでいい。


「あんた……いや、あなたは、とてもやさしいと思います。少なくとも両親なんかよりも、ずっと」

「……そうでしょうか……」

「うん、なんだか久しぶりに安心できた気がするから。そうだ、ずっとおれ、私は、不安だったんだ……」


 心の中でざわざわとした不安感がよみがえる。頼りないような、情けないような気分。冷たい風が身体をひゅうひゅうと吹き抜けていくような感覚。自分の居場所はこの世のどこにもないんじゃないかって思ってしまう。ふと首が絞まっていくような感じを覚えて、息苦しくなってきた。喉元に手を添える。ぐぐっと気道を押さえつけられて、完全に呼吸ができなくなる。苦しい。声も出せずに口をぱくぱくとさせていると、異変に気付いた悪魔がこちらの肩を抱き寄せるようにして必死に声をかけ始めた。


「息、できてませんよね? 大丈夫、大丈夫、過去の記憶が再生されてしまっているだけですから、どうか心を落ち着けて。あなたはまだ生きています。大丈夫。こちらを見てください、わたしはここにいます。じきに呼吸ができるようになりますからね。身体の力を抜いて、楽な姿勢になって。これでいいですか? あ、息できますね。ゆっくり吸って、吐いて。細長ーく息を吐いて」


 酸欠状態からじんわりと回復してきたこちらの様子を見て、悪魔はほっとしたような表情を浮かべた。「過去の記憶が再生されている」と言っていたが、こんなに苦しい思いをしたことはないはずだ。そう伝えると悪魔は困ったようにうつむいて、どうしよう……でも……うーん……などとごにょごにょつぶやいている。


「過去にこういうことが起こったのは間違いないんですよね。だったら私に詳しく教えてください」

「……そうですね。言っちゃいけない決まりはないので、お伝えします。あなたは、自殺未遂をしています。そこから意識が戻らずに、もうすぐ半年が経ちます。いわゆる植物状態です」


 ここまで聞いても、あまり実感は持てなかった。自分が自殺未遂をするなんて、なにがあったのだろう。動機が思い出せない。仕事が関係していそうなことはわかるが、詳細はいっさいわからないままだった。


「ごめんなさい、自殺未遂をしたこと、思い出せません」

「いえ、謝らないでください。かなりショックが大きい出来事なので、忘れてしまっていても無理はありません。私からもう少し詳しくお伝えすることもできますが……またパニック状態に陥ってしまうかもしれないので、できる限りそれは避けたいと思っています」


 たしかに、これ以上苦しい思いをするのは嫌だった。いっそ思い出さない方が身のためなのかもしれない。そう思って、わかりました、とひと言告げてふう、と軽くため息をついた。悪魔も少し疲れたような表情で、コンクリートに座り込んだ。相変わらず昼も夜もわからない空間だ。ひと眠りしてもいい頃かもしれない。硬い地面に横たわって、目をつむる。このまま元に戻れないかな。でも、悪魔とさよならも言わないまま別れるのはちょっとだけ残念かもしれない。思考の糸が途切れ途切れになっていく。よく眠れそうな気がした。


   *


 夢を見て目覚めた。ここも夢の中のようなものなのだけれど。親友が死ぬ夢を見た。きのう会ったばかりだったのに、突然死んでしまった。いや、突然じゃない。あいつと会った最後の日、しきりに疲れたと言っていた。あいつは私に助けを求めていたのに、なにもしなかった。後悔した。頭がかち割れそうで、はじめてやけ酒というものをした。なに逃げようとしてるんだって罪悪感に呑まれて最悪だったけど。気分が悪くなって胃がひっくり返るくらい吐いた。これはぜんぶ夢じゃなくて、過去の記憶だ。


「……ご気分が悪そうですね」

「……うん、ぜんぶ、思い出したから」


 はっと息を呑むような音が小さく聞こえて、そして悪魔はまた悲しそうな顔になった。


「私は……友人が死んでしまってからというもの、自分を責め続けていました。悪い夢を見ているようだった。でも夢じゃない。すべて現実に起きたことだった。仕事にも身が入らなくなって、叱責されることも増えました。ある朝いきなり身体が動かなくなって、無断欠勤をしてしまいました。もとから向いていなかったというと言い訳じみていますが、体育会系の上司が多くて、根性論を押し付けられることが多かったんです。やれ気合いが足りない、やれ集中しろだの、今まではなんとか保っていたところが瓦解していきました。ああ、あいつもこんな風に壊れていったのかなって、はじめてわかった。友人は商業高校に通っていたときに出会って、家庭環境が似ていました。ネグレクトっていうか、親に放置されてる感じで。なんだかんだで仲良くなって、高校を卒業してからも頻繁に連絡取ってて、あいつのことなんでもわかってるつもりになってた」


 でも、そうじゃなかった。現にあいつは死んだ。どうしてはっきり助けてくれって言ってくれなかったんだよ、って怒りに近いような気持ちもあったけれど、「助けを求められなかった」んだ。全く同じ状態になって、やっと気づいた。馬鹿みたいだよな。ぶるぶる震えながら、私は悪魔に思いをぶちまけ続けた。悪魔は静かにうなずきながら、こちらの話を聞いていた。


「それで、ここまで追い込まれてしまったんですね」

「ああ……! あいつと全くおんなじだよ。これは罰だと思う。私は死ぬべきなんだ。だからもう、助けてくれなくていい」

「そんなこと、ありません」

「いいや死ぬべきだよ。生きてる価値なんて私にはない、親友ひとり助けられなかった人間が、のうのうと生きていていいはずがない」

「いいえ、あなたはもうじゅうぶん苦しんでいます。こんなところまで来て、苦しんでいる」

「苦しみに終わりなんてない。だったらなんだ、あいつが死んでよかったと思うのかよ! よくないよ! ずーっとずーっとあいつは、ひとりで苦しんで、つらくて、あいつがいないなんてもう耐えられないんだよ私は! ……いっそ死なずに、永遠に後悔し続けるべきなのか。そのほうがよほどいいかもしれない。あなたは私を助けると言った。やっぱりそうしてくれ! 勝手なのはわかってるけど、生きて償うべきなんだ私は!」


 悪魔はいまにも泣き出しそうな顔になって、そして、蚊の鳴くような声で言った。


「……ごめんなさい……わたしは、あなたを騙していました……! ごめんなさい、こんなつもりじゃなかったんです、いえ、言い訳はできませんね……。私は悪魔なんかじゃない、死神なんです」


 はらはらと涙を流しながら、悪魔もとい死神はこう続けた。


「わたしは、あなたを看取るために遣わされました。死神は人を殺すのではなく、人を看取るための存在です。こうなってしまっては、もう死から逃れられないのです。でも、ふと思いつきました、命の交換をすればいいって。もしそうすれば生かして帰すことができると。……こちらって、けっこう雑なんですよ。数さえ合っていればそれでいいようなところがあるんです。あなたのお父さまとあなたの命を交換しても気付かれないくらいには。だからあなたが眠っている間、わたしはそれを試みました。でも失敗しました。わたしの力が弱かったのでしょう、命の交換ができないまま、あなたは目覚めてしまった」


 いまさらなにを言っているんだ、ずっとこちらに嘘をついていたというのか。しかも、いくらどうでもいいと言ったとはいえ自分の父親を殺されかけていたし。怒りで言葉を失ってしまった。その間も死神は滔々と語り続ける。


「愛がほしいと言ったのも、死神と名乗れば人々は皆わたしを攻撃してくるか、おそろしい存在として避けられてしまうかのどちらかなのです。だからわたしは、はじめは人間だといつわった。けれどそれはことごとく失敗しました。わたしが不器用なんですね、きっと。嘘をつき続けることができなくて、最後に自分でばらしちゃうんです。今回も同じでしたけど。だから近いところの悪魔として振る舞おうと思っていましたが……やっぱりだめでしたね。嘘をつくなら突き通せ、とわたしに言ってきた人がいました。ほんとうに、その通りなのに」


 ふつふつと怒りを煮えたぎらせながら話を聞いていたけれど、ふとした言葉に引っかかって、それどころではなくなった。


「それ、誰が言った」

「誰って、わたしが看取った人ですよ」

「どんな奴だった。そいつ、眼鏡で背が低くて、痩せた男じゃなかったか」

「ええ、たしかそうです。……もしかしてお知り合いですか」

「あいつだ。……あいつも、あんたに会ったのかよ……」

「それって、亡くなったご友人ですか」

「ああそうだよ! ……嘘はつくなら突き通せ、それがあいつのモットーだった。だから、最後に会ったときも『大丈夫だよ』って笑ってたんだ。疲れてるけど平気って。そんなの嘘っぱちだった。最後まで笑ってごまかしてた」


 涙も鼻水もぜんぶ出てる。ぐちゃぐちゃだ。鼻が詰まって息苦しい。こんな訳のわからない話なのに、あいつに会えた気がして無性にうれしかった。


「去年の今頃に死んでさ、あいつ、他に何か言ってた?」

「……きっとあなたのことだと思います。友達を遺していってしまったのが申し訳ないと。たったひとりの親友を傷つけてしまったことが不甲斐ないって……!」

「どうしてあんたが泣いてるんだ」

「ごめんなさい、わたしは、わたしはもうこんなの嫌なんですよッ! 死んでいく人を見送り続けるのってつらくて、悲しくて、でもいつからか死神としての役目を与えられてから逃れられない。死にかけの人の心の中に放り込まれて、ただ待っている。死んだら次、死んだらまた次、いつになったら終わるのか。わたしは何者なのか、もうわかりません。ただ死にゆく人を眺めているだけの、ただの、ああ……!」


 死神は膝から崩れ落ちて嗚咽していた。げほげほと激しく咳き込む。あんなに怒りを向けていたこいつが、かわいそうに思えてつい背中をさする。


「ごめん、ごめんなさい、好きでこんなことやってるわけじゃなかったんだなあ。そりゃそうか。死神、向いてないなあ」

「ひっぐ……ええ、そうです。どうしてわたしが死神なんてやらなくちゃならないのかわかりません。ただそう在ることを求め続けられて、いっそ死ねれば楽なのに」

「ひどいこと言ってごめん。人間も死神も、あんまり変わらないんだね。でもあなたが、あいつを看取ってくれてよかった。そうじゃなきゃ私は、あいつに二度と会えないところだった」

「……なら、わたしも、死神でよかったって思えます……」

ありがとうございます、と腫れたまなこで死神は言った。やっぱり、死神なんて向いてない。

「いつかさ、死神やめられるといいね……」

「はい、こんなのもうごめんです。……あ」


 コンクリートに囲まれた世界は、途中から真っ白になっていた。主が消失してしまったからだ。死神は上を向いてあーん、と泣いた。小さなこどものようだった。世界は死神もろとも漂白されてゆく。真っ黒な髪の先からどんどん白くなっていく。次に向かう場所はどこなのか、死神自身にもわからぬまま、ただ次のところへと送られていく。やがてすべてが白くなったら、その魂の痕跡はきれいさっぱりなくなってしまうのだった。

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