八月五日 東京 「告」

 留佳が話を聞きたいと言った人物は、東京都町田市立翡翠中学校の三年、車谷悠介の母、車谷明子だった。 

 夏休みだったため生徒は学校にいなかったが、教頭先生に話を聞くと、車谷悠介は今年の七月六日から、学校には来れていないという。車谷家の住所をもらい、家に実際に伺うこととした。


 

 車谷宅は、東京都町田市の少し寂れたところにあるマンションの一室だった。エントランスにソファや机等があり、華美な雰囲気を纏っているが、エントランスを抜けて各部屋のある廊下を見ると、普通のマンションと変わらない静けさがあった。

 車谷明子は、すぐに相模原たちを部屋に入れてくれた。

 車谷宅の室内は物がごちゃごちゃと置いてあるが、整理ができず乱れているというわけではなく、生活の利便性を突き抜けていくと、こうなるのかな、というような乱れ方だった。

「突然お邪魔して申し訳ありません。本日は、神田先生についてお伺いできればと思い、来ました。」

 留佳の言葉と一緒に、相模原は警察手帳を見せた。

「すみません、なぜ神田先生の事を警察の方が調べてるんですか……?」

「ああ失礼。神田先生は、亡くなられたんです。」

「ええ……そう……なんですか…」

 車谷明子は、神田先生の死を聞かされた時、目を見開いて、驚きの表情を露わにしていた。

「はい。悠介君は、学校に行けていない時期が最近は続いていたようですが、お母様から見て、神田先生はどのような先生でしたか?」

「悠介は、行けていないんじゃありません。神田先生によって行けなくさせられたんです。」

 車谷明子の表情は、先刻の表情とは変わり、死者を弔うではなく、怒りが垣間見える表情だった。

「何か、されたのですか?」

「いえ、むしろその逆です。神田先生は、悠介のために、何もしてくれなかったんです。」

 山野先生との会話が思い出される。教室では子どもを褒めていたようだが、放課後対応は全くしない。それが、神田龍弥だったと言っていた。

 相模原がそのようなことを考えているとき、階段から人影が出てきた。

「神田先生が、死んだの……?」

 神田先生のクラスの生徒個人調査票に書かれている身長は一五一センチと中学三年の中では小さめであったが、実際に見ると性格を示すように丸くなった背中が、その歪みからより小さく、しかしピシッとしたら意外と大きいのではないかと思わせた。覇気のなさから、十五歳とは思えないが、彼が、車谷悠介なのだろう。

 彼は、話を聞きに歩み出したであろうにも関わらず、階段で言葉を発した後、立ち尽くしていた。

 車谷悠介は不登校ということもあり、留佳の人想いの性格から、悠介から話を聞くのは控えたがると相模原は思っていた。しかし、東京行きの電車で留佳と話していた時、悠介からも話を聞きたいと留佳が言っていたので、悠介の方から顔を出してくれるのは、こちら側としてはありがたいものだった。

「神田先生が、死んだんですか…?殺されたんですか…?」

 恐々とした声で、「殺されたのか」彼は聞いた。

「驚かせてしまってごめんなさい。私はできれば、悠介君からも、神田先生について話を聞かせてもらえたらなって思っています。悠介君も、こちらに座って、少しお話を聞かせてもらえるかな?」

「……はい。」

 返事はしたものの、悠介のソファへの足取りは実に重かった。

 明子の思いとは違い、この車谷悠介は、神田先生を慕っていたのだろうか。

 しかし、話を聞いていくと、悠介は、たまっていたものを吐き出すように、一息に話し出した。途中、相模原が間に入ろうとしたが、彼の語りに、その隙はなかった。

 悠介の独白は、自分が不登校になるまでを、一挙に語り尽くした。

 

「ぼくは、いじめられていました。この時代、漫画のアニメ化、その続編が映画化という流れが成功することも多くて、たくさんのアニメが流行し、クラスの人たちも、教室で色んなアニメの話ばかりしていました。「アニメ好き=オタク」の定式で言えば、もはや全員がオタクだろうというのに、未だにそんな死語を使って、クラスの人たちはぼくを笑ってきてたんです。それだけじゃなくて、今更だから言いますが、学校にこっそり持ってきていた携帯をのぞかれたんです。同人誌っていう、その良さが理解できない人からすると、ただのいやらしさのあるものとしか思えないんだろうけど、それを見られました。それで、その日からまるで免罪符を得たかのようにクラスの人たちからのいじめが始まった。何かあれば、クスクスぼくの方を見て笑ってくるようになったんです。だから…」

 悠介は、唾を飲み、次の言葉を探しているようだった。

「大好きなものを笑われて、丸ごと自分のことも笑われて、すごく嫌だったんだね。だから……?」

「だから一度殴った。形だけでも担任だった神田先生はぼくの所にきて「何があった?」と言いました。毎日一回、何か話しかけてくることはあるけれど、大して話をした記憶はないです。無駄な時間のホームルームと、あとは同じ教室で給食を食べるくらいしか、会うこともありません。

 担任の神田先生に、ぼくは怒鳴られると思ったけれど、「何があった?大丈夫か?」と、質問されたんです。だから、今までのいじめられてた時のこととかの話をしました。神田先生は、静かに聞いてくれて、ぼくをクスクス笑った連中を集めて、話を聞いて、怒ってくれたらしかったんです。この時は、ああ、あんま知らなかったけど、いい先生なのかもなって、思わされました。

 でも、神田先生はぼくに「謝れるか?」って言ってきた。その時は意味がわからなかった。神田先生は今まで向こうがしてきたことを考えれば、ぼくが怒る気持ちが分かると言っていたにも関わらず、なんでぼくが謝らなきゃなんだよって。

 でも、今考えれば、おおよその理由は分かります。小学生の時から何かあると先生が間に入って「ごめんね」「いいよ」を繰り返させられていました。形式的に「仲直り」をしておくことが、先生って立場の人は重要なんですよね。そうしておけば、その後何かあっても「先生は仲直りさせた」という責任逃れができるからでしょう。ぼくの気持ちも、結局は形式的に片付けようってことだったんですよね。それでスッと納得がいきました。」

「大人の事情っていう側面を感じたんだね。それで、次の日から学校に行くのをやめたの?」

 やはりこういう時は、留佳に任せるしかない。

 相模原は、黙って聞き手に回った。

 「ぼくをいじめてた人を殴った日、家に帰ってその日のことを母さんに話すと、母さんは怒りながら泣いて、ぼくをぎゅーって、抱きしめてくれました。あんまりそういう経験がなかったので、正直びっくりしました。それで「嫌だったら、学校に行かなくてもいいのよ」って言いました。ぼくとしては、特に学校に行きたくないという思いが強かったわけでもないけど、授業の内容はぼくのレベルでは容易いし、学校に行く楽しみも特にないし、昨日の今日で何かまた彼らと顔を合わせるのも嫌だから、行かないことにしました。

 母さんは「神田先生が家に迎えに来てくれるだろうから、そうしたら、少しまた頑張りましょう。」って言った。母さんとしては、やっぱり一人息子のぼくが不登校というのは、なんとか避けたかったのかもしれません。気に入らない気持ちもあるけど、先生がきたら、もう一回話をしようって思ったんです。神田先生が殴ったぼくに対して「大丈夫か?」って初めに声をかけてくれたことは、今までの他の先生とは違った。先生の立場上、「ごめんなさい」は、確かに言わせざるおえなかったのかもしれない。明日来た時に、もう一度、もう一度話をしようって、本当に思ったんです。

 でも、次の日、先生は来なかった。電話はかかってきていたけど、母さんがいないから、電話には出ません。五時、六時、七時、八時……待っても、先生は来なかった。夜に教頭先生から電話があって、母さんが出たけど、「元気です。大丈夫です。」だけ伝えて電話を切っていました。母さんはすでに、怒ってたんだと思います。その日は金曜日だったけど、土日も家に来ることはなかった。不登校になった四日後、月曜日になっても、神田先生は来なかった。初めて神田先生が家に来たのは、金曜日の五時頃だったと思う。その時間は、母さんはまだ仕事に出ていて家にいませんでした。

 神田先生がぼくを呼びにきてくれるまでに、八日かかりました。ぼくが学校に来ないことは、ものすごく神田先生にとって後回しにしていい、どうでもいいことなんだと分かったんです。インターホンの音を無視して、ぼくは布団に潜りました。

 次の週には、SSW(スクールソーシャルワーカー)とかいう人や児童相談所とかいう人が、家に来ました。神田先生からは朝に電話がかかってくることがあったけど、それくらいの関わりでした。いや、電話にぼくが出ることはないから、もう神田先生とぼくの関わりはありませんでした。

 その頃から、母さんは家でずっと神田先生の悪口を言っていました。「私が小学生の時は、一日休んでも、先生が手紙を届けてくれた」とか、「そもそも二六なんて若くて、龍弥って名前って、先生として不適切だわ」とか、「神田先生が担任の先生じゃなければ、悠介は学校に楽しく行けていたのに」や、「悠介の人生がおかしくなったのは、神田先生のせいだわ」などです。

 母さんは、以前よりもげっそりとしてきて、いつも貧乏ゆすりをするようになりました。ぼくが小学生の時の、きれいでかっこよかった母さんの姿は、その頃にはもういませんでした。母さんがこうなったのは、神田先生のせいです…。神田龍弥が、先生なのにぼくをどうでもいいと扱ったから……」

 

 車谷悠介は、震えながら、最後の言葉を吐いた。長い独白だった。最後の方は感情のままに萎れた声となっていたが、内容は時系列に沿って話しており、学の良さが伺えた。

 母の明子は、息子の独白にどこか気圧されたような表情を見せていた。

「悠介君は、先生の中でも、神田先生に少し期待をしたんだね。そして、それが裏切られた。お母さんも辛そうなのを見て、悠介君はもっと辛かったよね。」

「ぼくは、小学校二年の時に父を交通事故で亡くして、それからは母さんが一人で育ててくれました。母さんは、ぼくのために、パートを掛け持ちして、夜に仕事に出ることも多いです。それなのに……。」

 車谷悠介は、どこか冷静に興奮している様子だった。


 

「太宰治って作家さん知ってる?」

「知ってますけど、なんですか急に。」

 留佳が話の軌道を変えた。現に、我々は車谷悠介の不登校を改善しようという気で来ているわけでは毛頭ないのだ。

「もう昔の文学者さんなんだけど、私は、太宰治が好きなんだ。その人の「人間失格」という本に、「アントゲーム」っていう遊びが出てくるの。対義語(アントニム)をあれやこれやと言い合う遊びなんだけど、例えば、黒のアントは、白。けれども、白のアントは、赤。赤のアントは、黒。といった風な遊び。色んなゲームに溢れた私達には、もう不要に感じられる古典的な言葉遊びだけど、私はよく頭の中でアントゲームをやるの。私たちの世代でよく言われたのでいえば、「好きの反対は無関心」という言葉もその一つかな。じゃあ、「期待」のアントはなんだろうか。私は、「憎しみ」だと思う。悠介君は、声をかけてくれた神田先生に、今までとは違うって思った。なのに、それを裏切られたような格好になったから、期待の反転をさせられた。悠介君にとって、その反転は、本当に辛かったと、私は思います。」

 相模原の意に反して、留佳の、留佳らしい言葉運びは、悠介君の心に、寄り添ったものだった。

 悠介は、泣くような、だが苛立ちが抑えられないような、そんな震えを見せていた。

「悠介君、君と、二人で話がしたい。」

 悠介君は、一瞬驚いた表情を見せたが、いままでと違う、どこか真剣な眼差しを留佳にみせ、そして、うなづいた。

「え……そしたら、私も同席させてください。」

「お母さん、悠介君は、もう立派な十五歳、来年には高校生になるんです。明子さんも、中学生の時、お家の人の前では言いにくいことがありませんでしたか?そういうことが増えて行くのが、大人になるということでもあると思います。」

 優しく、けれど有無を言わせない留佳の言い方に、車谷明子は黙ってうなづいた。

「悠介君の部屋で、お話できる?」

「あんまし、綺麗ではないですけど、はい。」

 車谷悠介は、先ほどの感情の起伏は落ち着き、またどこか知性的な雰囲気のある青年へと変わっていた。

 二人が階段を上がっていくのを、相模原と車谷明子は、見つめていた。

「若者には、若者の話があるんでしょう。辻塚は、悠介君の心を傷つけるようなことは絶対にありません。どうか、その点はご理解を。」

「悠介があんな風に人と話そうとするの、はじめてみたので、戸惑ってしまって。そうですよね、悠介だって、もう十五歳なんですもんね。私、どうにも子離れができなくて…」

 自覚はあるんだな。と思いながら、さてここから話を繋がなくてはならんな、とも思い、相模原は、苦手分野な雑談を、不器用ながら始めた。

 

 部屋は、本人が言うわりに、思いのほか綺麗に整理されており、本棚には多くの本が大きさと出版社別に並べられていた。

「悠介君も、本好きなんだね。」

「ええ、それにしても、翡翠中学校のみんなは、ぼくの方を向くけど、ぼくが向くとそっぽを向く。ぼくと直接話はしないけど、ぼくの話をしてる。そんなことしかなかったから、こんなにぼくに向かって話してくる人始めてで……」

「君、すごく素直にお話してくれるんだね!お姉さんちょっとびっくりしちゃったよ!」

「お姉さんって…高校生かそこらでしょう?警察ごっこなんて、すごいですね。一緒にいたおじさんの力ですか?」

「訂正が多いなあ。まず、私は二五歳、立派な大人です。それから、警察ごっこじゃありません!正式な探偵です!お金ももらってます!でも、おじさんの力が大きいのは、確かにそうだなあ…」

 他愛もない、けれど、お互いに相手に近づこうとするコミュニケーションが続いた。

「さっきの対義語、アントでしたっけ?その話、面白かったです。一つ聞きたいんですけど、じゃあ辻塚さんは、「罪」のアントは、なんだと思いますか?」

「ふふ、それはまさに、「人間失格」でも議論をうんでいたよ。本では、「法律」「善」「神」様々出てきて、様々否定しきれない否定を重ねていました。」

「太宰さんではなく、辻塚さんは、どう考えてるんですか?」

「あれ、逃がしてもらえませんでしたか。そうですね、太宰は、愛には憎しみというアントがあると仰っていますが…罪のアントは愛ですよ。私の中では揺るぎません。」

「そうですか。ぼくには罪と愛は、むしろ同義語のように感じられます……。」

「それは、アントニムではなくて、シノニム(同義語)として、「人間失格」でも、持ち出されています。対義語のようで、同義語であったり、対義語の対義語は違う言葉であったり、楽しい遊びでしょう?」

 留佳は、一呼吸置いて、微笑みの中に、僅かな真剣みを帯びた目で車谷悠介を見つめて、聞いた。

「どうして罪と愛は同義語、シノニムだと思うの?」

「いえ、感覚的な話です。太宰治は、愛のアントに憎しみを置いたようですけど、それは少し軽率だとぼくは思います。罪も、憎しみも、愛も、どれも同義語、シノニム?です。だって、考えてみてください。罪は、法律の話です。愛について、法規制はありませんよね?憎み罪もありません。愛が大きすぎて、他を排除しようとしたり、憎しみが強すぎて相手を攻撃しようとしたり、そういうことの延長に、法律の線引きがあって、それを超えたら、罪になるんです。」

「悠介君、君文学者向いてるよ!でも、君の言う通りだとすると、罪を犯した人が悪いのは、法律を破ったから、ということかな?」

「罪を犯した人が悪いなんて、ぼくは一言も言ってないです。それと、留佳さんは今、法律を軽視するような言い方をしましたけど、法律は、昔の人たちの叡智の結晶です。素晴らしい仕組みです。ただ、時代錯誤なものも中にはあると思いますが。」

「軽視したつもりはありませんでした。ごめんなさい。悠介君が言いたいのは、罪を犯した人の中にも、悪くない人もいる、と?」

「はい。愛と罪の線引きは、法律だけです。時代によって、愛と受け止められるかもしれないし、犯罪者の烙印を押されるかもしれない。罪と愛の違いは、その程度のものだと思います。」

「なるほど。じゃあさ、そもそも、「罪」とは法律を基準にしていいのかな?小学生の時、お家の人に嘘ついてベッドの中でゲームをしてた時、私は良心の呵責に苛まれながらも、自分の欲望に負けちゃった。国の法律からすれば、どうでもいいことだけど、私はこれも「罪」として捉えています。」

「なるほど。確かに、罪とは何か、そこはあまり考えていなかったかもしれません。」

「それで、お母さんは、私がベッドでゲームしてるのを分かってた。分かってて、ゲームについては何も言わず、一言、ベッドに向かって「お休みなさい。大好きよ。」って、言ったの。私は、今振り返っても、どんな言葉よりもその言葉が、一番自分のしていることを恥ずかしいと思ったの。罪を赦すのは、愛。だから、罪のアントは、愛だと思うな。」

「じゃあ、罪は、法律ではなくて、自分が罪と感じているかどうかってことでしょうか?自分の中の正義に適っていれば、罪ではない?例えば……殺人であっても。」

 車谷悠介は、伺うような上目遣いで、留佳の顔を見た。

「それは間違いです。絶対に間違い。まさにその考えを殺人論として考え、殺人を犯した人物が主人公の物語が、ドストエフスキーの「罪と罰」ですが、殺人は大きく例外です。主人公のラスコーリニコフは間違っています。死者に赦してもらうことはできません。だから殺人は許されません。」

「戦争は?たくさん殺せば英雄ですよ。」

「変わりません。戦争での死者は、死後では、相手を、敵国を、赦すことができません。なので、許されません。それだけです。」

「誰も戦争したくてしてるわけではないと思います。戦争しなければ、別の誰か、仲間が違う死を遂げるかもしれなかった。それでも、殺してしまったら罪ですか?」

「殺人は揺るがない罪です。生きていれば、交渉できる。赦すことができる。殺人はその放棄です。交渉の放棄に赦しはなく、罪しかありません。」

「そうですか……。ちょっとまだぼくには難しいかもしれません。話がそれましたが、やっぱり愛の延長線上に、罪がある。罪と愛は同義語である。ここはぼくは変わらないと思います。」

「そうですか。それにしても、悠介君、中三でそこまで哲学と向き合えるなんて、すごいよ!私ももっともっと悠介君の歳から本読んでおけばよかったなあ。そうだ、読んだ本紹介みたいなの、今後し合おうよ!携帯持ってたら、連絡先教えてもらっていい?」

「ぜひ、お願いします。携帯、持ってるんですが、LTEのものではないので、家電で親のGmail借りて使ってるんですけど、そのアドレスでもいいですか?」

「もちろん!後でお家の人に確認とりましょう!」

 そう言って温かみのある笑顔を悠介にみせる直前、留佳の目は、悠介のスマホのホーム画面に、出会い系アプリ「ループ」が入っていたことを、見逃さなかった。


 二階から、二人が打ち解けた雰囲気で降りてくる姿が見えた。

「随分遅かったが、話すことは話せたのか?」

「はい。相模原さん、明子さん、悠介君本当にすごいんです!私こんなに夢中で哲学的な話をしたのは久しぶりでした!明子さん、悠介君とGmailの連絡先を交換させていただいたのですが、よろしかったでしょうか?」

「えっ…はいもちろん、悠介がよければ…」

「良かったです!本日は本当にありがとうございました。」

 留佳が頭を下げた後、相模原が留佳の横に後ろから並んできて言った。

「すみません、これは仕事上必要なことなので確認しますが、明子さんは、八月二日の夜は、どちらに?」

「悠介と家にいましたけど……」

「それを証明するものは?」

「証明……」

 明子が言い淀んでいると、後ろから車谷悠介が声をかけた。

「エントランスに防犯カメラがあります。それを見れば、八月二日の夜に母さんとぼくが出入りしていないことが分かると思います。」

「なるほど、ありがとうございます。」

 そう言って、二人は車谷宅を出た。


「明子さんとの時間は、どうでしたか?」

「神田先生への不満と、悠介の幼少期からのアルバム眺めでおしまいだ。アルバムがなかったらと思うと、恐ろしいよ。それにしても随分悠介君と話し込んでいたようだが、そっちはどうだった?」

「彼はとても私哲学が確立されていて、驚きました。あまり若いうちに哲学を突き詰めてしまうのも心配ものですが……」

「君もまだまだ若者だろうに。」

「悠介君に、高校生くらいって言われました……」

「なに、若く見られるに越したことはないだろう?おれはいつも年齢以上に見られがちだぞ。」

「それは眉間の皺のせいですよ。眉間で五歳は増されてます。」

「こりゃ職業病だ。仕方がない。それより、この後はどうする?」

 

「私は今、神田先生のお人柄ではなく、この神田龍弥殺人事件そのものについて、興味をもっています。ぜひ、神田先生の遺族の方とお話ができればと思うんですが、我々は今回正式な捜査でもないので、遺族の方から話を聞くのはできませんよね…。」

 そう言って、留佳は上目に相模原を見た。

「いや、そんなことはない。「捜査協力」の名目だから、操作の一環だ。情報は多いに越したことはない。行くか。」

 その目に、相模原は負けたことしかない。いや、もはや負けたがっていると言ってもいい。

「はい。いつもありがとうございます。」

 しかし、相模原が部下を通して神田龍弥の遺族に連絡を取ると、明日の午前中であれば大丈夫との連絡があり、今日中に行くことは叶わなかった。

「では、明日行きましょう。連絡ありがとうございます。」

「よし分かった。今日はまだ時間もある、町田は、一本で下北沢に行けるらしいぞ。少し楽しんできたらどうだ?」

「いいですね!じゃあ、相模原さん荷物役お願いしてもいいですか??」

 賤しい顔でも、甘える顔でもなく、とぼけた顔でいう留佳の言葉に、相模原はまた素直な所、嬉しさを感じるのだった。

 八月五日、二人は下北沢で降り、留佳は相模原の両腕が機能しなくなるまで、古着を買ったのだった。

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