七月二八日 群馬 「煙」
群馬県崎実市立碓氷中学校三年の島田昇太は、平均身長からは一回り小さく、わずかに垂れた目尻が身長と相まって、中学最高学年とは思われにくいあどけなさをもっていた。七月下旬、もうすぐ夏休みだと浮き足立つクラスメートを横目に、昇太は憂鬱な気持ちでいた。
「一ヶ月家に閉じ込められるなんて、たまったもんじゃない。母さんと二人きりならいいのに。なんであいつと同じ家で過ごさなくちゃならないんだ。」
放課後、朝の天気予報では、夕方から雨が降るとの話だったが、玄関を出ると空は晴れていて、持って来た傘を忘れていく生徒たちに、先生が声を荒げて忘れないように呼びかけている。
昇太は傘を手に持ちながら、一人帰っていった。傘は杖ではないから、歩く度に地面を突いて歩く同級生たちを見ていると、僅かな苛立ちを感じる。きっと彼らにとっては、傘は代わりのきく価値の低いものなのだろう。
Twitterのトレンドなどにも「親ガチャ」なんて言葉をよく見るようになったが、親は少なくとも二人いる。僕のガチャは、片一方が大外れだっただけで、もう片方は大当たり。ガチャの結果はトントンといったところだろう。
母さんは、僕にこよなく愛を注いできてくれた。「お金じゃ買えないものがある。」誰の言葉なのか知らないが、その言葉の答えを僕は知っている。お金じゃ買えないものは「愛」だ。母さんはそれを僕に身をもって教えてくれた。だから、母さんが買ってくれたものは、大切に大切にする。この傘は、お金じゃ買えない価値がある。母さんは、ぼくが守る。
いつも通り、一人家に着いた昇太がまず見たのは、我が家の前を取り囲むパトカーの数々だった。
島田昇太の父、島田宗吾が遺体で発見されたのは、七月二八日の十六時。警察の初動捜査では、路地で三箇所、刺殺されていることと、死亡推定時刻は七月二七日の二一時頃ということは分かったが、凶器や痕跡は、見つかっていない。
刑事である相模原は、島田宗吾の遺体現場である路地で、現場を観察していた。
五八歳、もうすぐ定年も間近という歳だが、黒のコートに身を包んだ百八十センチの長身、刑事という職業が顔に刻まれたようなへの字に下がった口角からは、年齢以上の厳かさと、それ以上の力強さが見てとれる。
基本的に、相模原は捜査中一人で行動する。もう現場に上司もいなくなり、何よりもそのスタイルで今まで成果を出しているため、多少方針と逸れていても、刑事という大きな枠の中であれば、咎められなくなった。
「島田宗吾はうつ伏せに倒れていた。心臓を二箇所、それから腰のあたりを一箇所、刺されている。他殺の線は間違いないだろう。争った形跡もないため、口論になったということもない。財布や携帯はそのまま鞄の中に残されていたため、衝動的な窃盗の犯行でもない。何者かの殺意ある犯行だ。となると、関係者に当たっていく中で、事件解決に通じる証拠、動機というものが出てくるに違いない。」
それにしても、島田宗吾はきっと犯人の姿を見ることもなかったのだろう。突然、誰かわからない人物に刺され、人生が終わる。事故や寿命とちがい、誰かに殺意を向けられていることを自覚して死んでいくときは、どんな気持ちなのだろうか。考えることも、できないのだろうか。
昔と違い、最近は殺人事件をみるとこのようなことを考えるようになった。歳か、慣れか、なんなのだろう。
初動捜査での成果は薄かったため、当面は足で関係者をあたっていくしかないということになった。相模原は、刑事ではないが、普段連れているバディと連絡を取り、お馴染みの待ち合わせ場所、芝前珈琲で相手が来るのを待つことにした。
いつものアイスコーヒーを飲んでいると、華奢な華やかさを纏った女性が入ってきた。
真っ直ぐにこちらに向かってくる。
「相模原さんお久しぶりです。まさか地元で事件が起こるなんて、驚きました!コナン君や金田一君のように、事件を引き寄せる才覚が私にはないと思っていたんですけど、最近コナン君の映画を一気見したからでしょうか?私にもその才覚が、開花したのかもしれませんね?」
カーキのロングカーディガンは膝下まで彼女の身を包み、小柄さを演出する。しかしカーディガンから目を離すと、黒革の厚底ヒール靴。先ほど路地を散歩していた子犬と同じサイズだ。黒のワンピースは幾何学に白糸で縫い目の施されどこかパンクな雰囲気も感じさせる。真っ黒なベレー帽は、揺るがない探偵への憧れだろう。
カーディガンにくるまれている二十五歳、辻村留佳は、身長一五三センチと小柄。ちょうどアイスコーヒーほど、わずかに茶色く染められ、真っ直ぐな髪が肩のあたりまで伸びていて、わずかに吊り上がった目尻からは、大人びた強い女性の雰囲気がある。しかし、丸みを帯びた輪郭と、広めのおでこが、あどけなさを演出し、その身長とあいまって、相変わらずスーパーでお酒を買うときには、いつまでも年齢確認されるだろうな、という印象を与える。
「事件にあった島田宗吾さん、刺殺だそうですね。それにしても、相模原さんが事件に私を呼んでくれるなんて久しぶりじゃないですか。本当にありがとうございます。私、スーパー探偵辻塚留佳の手によって、この事件を解決してみせるとしましょう!」
「いや、雑務が多かったんだ。事件自体、あれ以来久しぶりだよ。それより、何度もいうようだが、留佳は刑事じゃないんだ。本当なら知ってはいけない情報だらけなんだから、頼むから、スーパー探偵なんて息巻いて町を闊歩しないでくれよ。」
辻塚留佳は、ある縁で相模原が面倒を見ており、留佳の一線を超えた能力から事件解決に繋がることが多々あるため、事件が起こった際には、そばに連れている。彼女が、相模原のバディである。
「亡くなった島田宗吾さんは、何をされていた方なんですか?」
「運送業だそうだ。殺された七月二八日は、仕事終わり、家に帰る道中で刺殺された。」
「では、帰宅時間を把握していた人間の犯行…」
「断言はできないが、その可能性は高いな。」
「何にせよ、まずは、明日、殺された島田宗吾の妻、島田亜美に話を聞くとしよう。」
「はい。あ、煙草吸ってきていいですか?というか、私、吸ってきますね。最近は分煙してくれてた場所も禁煙に変わって、たばこ税は爆上がり。喫煙者は迫害されてますよ。たばこ税で集まったお金を、依存者の治療に回すっていうなら、まだ納得できますけど。世の中煙が嫌なら、ガソリン車交通禁止区域とかもっと増えるべきなのに。他人の加害疑惑に厳しくて、自然への実害には甘いなんて、人類は哀れなものです。」
彼女がいつも芝前珈琲を集合場所にする理由は、今では珍しく分煙の部屋が用意されているからだ。二人で話をする席は禁煙席だが、留佳は分煙部屋に移動して、一服して、また禁煙席に帰ってくる。「吸ってない時は喫煙者じゃないのに、喫煙者として見られるのがいやだ」という言い分らしい。
留佳が煙草のカプセルをつぶすそぶりを見て、相模原は会計に行った。そして留佳の一服が終わり、喫煙席を出ると同時に店を出た。
「ご馳走様ですっ」
相模原は、適当にかぶりを振った。
「じゃあ、明日十時にまたここで。」
そうして、二人は別々の帰路に向かった。
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