臆病者
宮塚恵一
変化を恐れるから主人公になれない
D
無理だ。
我慢しきれず公園のトイレに駆け込み、たまらず吐いた。
揚げ物がべちゃべちゃになり、アルコールの匂いも漂う吐瀉物を見て、少しだけ冷静になった。同時に今まで感じていなかった頭の痛みを思い出して、僕は頭を摩る。ちょうど夢子さんが投げた灰皿がクリーンヒットして、それからも色々なモノを投げつけて体に当たったけれど幸い大事には至らなかったようだ。
トイレから出ようとして、また嘔吐感に襲われてまた吐く、という地獄のようなことを三度くらい繰り返してから落ち着いて、公園のベンチに座った。
次から大学終わりのバイト先で顔を合わせるのが気まずい。夢子さんとのシフト被りの時間帯はあまりないので、講師同士のミーティング時以外は喋らないでも済みそうなのがマシだ。
ポケットからスマホを取り出すと夢子さんからたった一言メッセージが送られていた。
──死ね。
「えー……」
改めて思うんだけど、僕そこまでひどいことした? わからない。いや、わかってる。夢子さんがムカついたのであろうことも、恥を感じたのであろうこともわかっている。
「泣きたい」
色々悩んだ末に、僕は加奈子の連絡先を開いた。今日のことにムカついた夢子さんがあることないこと喋る前にリスク回避をする必要があると思った。でも何て伝えるの? 当然のことだが、別に加奈子と僕は恋人同士とかじゃない。夢子さんとのあれこれを聞かされても困るだろう。でもこのまま放置すれば誤解が発生する可能性のあることは予想ができている。
「ほんと、ほんと泣きたい」
──今日、夢子さん家に行ったよ
仕方なく、それだけ連絡を送った。
──は?
返事はすぐに来た。ちいかわのスタンプ付きだった。うさぎの顔の横にハテナマークがついてるスタンプ。
──二人とも酒飲んでたし、流れでちょっと、やりそうになって、でもそのまま帰ってきた
──ウケる
それ以上特に追加でのメッセージはなかった。後は何か質問された時にだけ答えよう。
「はああああ」
僕はベンチから立ち上がり、思わずと呻き声を上げた。
僕は脳内で改めて、人間関係の分析をした。
夢子さんは加奈子に対して、憧れというか対抗意識を持っている。これまでも加奈子が髪を染めれば夢子さんも同じ色で髪を染めたし、加奈子が新しい鞄を買ったら同じブランドの鞄を買ったりしていた。
だから、夢子さんはたまたまバイトの飲み会で僕と二人きりになって、加奈子と仲の良い僕とやろうとしたのだ。
加奈子は僕の中学の同級生でそれからずっと仲が良い。夢子さんは加奈子の高校時代の友達で、加奈子が塾でバイトするならと同じ職場に来て、一緒に働くことになった。僕自身は夢子さんとそこまで接点はない。友達の友達、または本当にただのバイト仲間だ。
おーけー。わかっている。理解はできる。
僕もあのままでは危なかった。夢子さんにズボンを下ろされ、首周りに抱きつかれて、心臓の鼓動が爆上がりになった。けれどそれで血の巡りがよくなったのか、夢子さんがゴムを取り出したところで、その一瞬にアルコールで失った思考能力を取り戻した僕は「結婚前にそういうことはちょっと」とモゴモゴと伝えた。いや、嘘だ。実際にどう言ったのかは覚えていないが、とにかく夢子さんの誘いをやんわりと断った。そのままズボンを履き直そうとしたところで、部屋の中にあった灰皿やコップや電源コードやの色々を投げつけられた。困惑して動かないでいる僕を、夢子さんは「出てけ!」と押し出した。
ちんこを出したまま外に出されたものだから、慌てて僕はズボンを腰まであげて、しばらくは夢子さんのウチの周りをうろうろしていたが、やれることもなく、トボトボと家に帰ろうとして公園で吐いたのだ。
夢子さんに伝えようとしたことに嘘はない。僕は婚前交渉を避けている。母親が
僕のことを童貞だと揶揄する人もいるが違う。僕は純潔を選んでいるのである。
とりあえず明日になって、改めてこれからのことを考えよう。そう思って家までの道を進んだ。そして自分の住むアパートの部屋に入ろうとしたが、足を止めた。玄関先に人がいるの
え、誰。
そこにいるのは体格の良い、僕よりも身長が頭一つ分以上は高い黒いマスクの男と、僕と同じくらいの背丈だけれど髪の毛を今どきリーゼントにした二人組がいる。
二人は僕の足音に気付いていたのか、二人して僕の方を見た。
「お前、宮津誠一?」
「え、はい。そうですけど」
「ちゃきちゃきしゃべれや!」
黒マスクの男はドン、と足で力強く地面を踏んだ。
「えっと、どなた、ですか」
「はああ? 知らねえのかよ! 泣く子も黙るチーターズの五代目ヘッド、赤井さんをよお!」
知らねえよ。何だよ五代目ヘッドって、ダサ。泣く子も黙るとかいう決まり文句本気で言う奴いたのかよ。これだから千葉の片田舎は……地元だけど。
色々と言いたいことが頭に募り続けるが、それらを特に口にはしない。この二人が誰でも良いけど、そこをどいてもらわないことには家に入れないんだけど。
「えっと、そこ僕の部屋」
「お前、夢子を泣かせたって?」
「えっと」
「お前さ、ダメだろ。女を泣かしたら。ふざけんじゃねえよ」
黒マスクの人は僕の目の先までツカツカと歩いて来た。そして首元を掴まれ、頬を叩かれた。
何が起こったかわからず、そのまま地面に顔をぶつける。ヤバいって。警察を呼ぼうとスマホを取り出すると、リーゼントの男の方がそれを蹴った。
「舐めたマネ、してくれんじゃねえぞ! ああ!?」
スマホを蹴ったのと同じように頭を蹴られた。
「うええ」
もう公園で全部吐いたと思ったのに、僕はまた嘔吐した。汚ねえな、とヘッドの赤井さんに鼻先を蹴られる。
「慰謝料、出せ」
そうして特に顔を重点的に蹴られた後、赤井さんは僕の顔を覗き込むようにして言った。慰謝料? それは僕の方が請求するものでは? 泣きたい。いや、もうとっくに泣いていた。顔はびしゃびしゃになって、股間も尻も濡れているのを感じる。
「えっと」
「夢子を泣かせた慰謝料だっつってんだろ!」
赤井さんは立ち上がり、さらに僕の顔を蹴る。僕は慌てて鞄の中から財布を取り出して、中にあるお金を出した。五万円。今月のバイト代全部だった。
赤井さんは僕が財布から抜き出した五万円をひったくると、僕の頭に唾を吐いた。続いて顔にまた唾を吐かれる。前が見えていたかったが、こちらは多分リーゼントの方だ。
「二度とすんじゃねえぞ!」
そう言って赤井さんとリーゼントの二人組は、僕の家から離れていき、辺りは夜の静寂に包まれた。
「泣きたい」
だからもう泣いている。そうだ。わかっていたのだ。いくら色々と御託を並べたところで、僕はこういう時にああした奴らに金を渡してしまう人間なのだ。
つまり、臆病なだけなのだ。夢子さんとしなかったのだって、婚前交渉は教えに反するからとかじゃない。単純にこわいのだ。現状を変えるのがこわいのである。そしてこんなことがあっても、僕はここから引っ越そうとも思わない。家が知られている恐怖もあるが、それよりも何かの変化に対して臆病だからだ。それがたとえ、切羽詰まったものなのだとしてもだ。明日になって夢子さんにだって、きっと僕は何も言わないだろう。
そうだ。きっとそうだ。他の童貞もそうである。マッチングアプリでも風俗でも、ただやりたいだけならどこにでもそういうところはあるのだ。それをやらないのは、ただ臆病だからである。
二人に蹴られまくってもう痛いんだか何だかわからない顔を手で覆いながら、つらつらと考える。こうしてどうでも良いことだけ考えて、何もしない。それも僕の悪癖だ。
「泣きたい」
変化を恐れ続けて成長しないから僕はこうなのだ、ということを夢子さんとのこと、赤井さんとこのことで思い知らせても、結局僕はここでうだうだと自責をするだけで何を行動するわけでもない。
「とりあえず、シャワー……」
僕はリーゼントに蹴られたスマホを拾いあげる。画面が割れていた。流石にこれは明日直しに行こう。あ、でも金がないんだっけ……。
びえええ、と僕は情けなく唸り泣き、とりあえず自分の部屋に入る。
そして風呂に入ろうとして気持ちの悪さに襲われて、トイレに駆け込みまた吐いた。
臆病者 宮塚恵一 @miyaduka3rd
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます