四角く、無機質に区切られた画面から、同じく無機質な声が聞こえる。外は暑い、それは言わずともわかる。首の後ろの短いおくれ毛は湿度を増して肌色と癒着しようとしている。丸みを帯びた、上唇よりも少し大きい下唇の温度は昨日よりも高い。

 一年前に越してきたが、すでに自分の香りがすることは自分自身がわかっていた。台所には洗い物が残っているし、洗濯機は未だに騒がしく振動している。テレビの音は止まないし、情報も逐一更新されていく。今日は…最高気温を更新したらしい。有名議員は自らの不正をあらかた認めたし、今日は気象庁によって記録に残った。

 ふと、昨日夕飯を作っている最中に作ったやけどが目に入った。薄い紅色の、丸い傷が小指と手の甲に残った。あの時の確かな痛みをまだ自分は覚えていた。しかし、昨日のハンバーグはおいしかったと我ながら思った。いかに安く自分を満たせるのか、好奇心がほとばしった結果だと思うことにした。体に、その勲章と戒めが残った。


 腕時計の針が進む。


 自分の目線は相変わらず斜め下で止まっている。真っ白いキャンバスの上を、青色のデジタルペンが走る。自分はフリーの絵描きである。最近は効率化の希求が流行らしく、自分の生命線はこの暑さ一センチの金属板に依存するようになった。真っ白く光る画面に、自分は実際には色の出ない金属の塊を走らせる。しかし、さっきからいくら書いても真っ白なままであった。人物の姿を描こうとも、すぐに真っ白に戻る。白に戻る。線だけで描かれた虚構が、虚無に戻る。利き手である右手が意思を持って姿を形どるが、すぐに真っ白に戻るのである。


 腕時計の針は進む。


 窓の外は先ほどまで青々としていたのに、今では灰色の雲が街を覆っていた。と思えば生ぬるい雫が容赦なくコンクリートをたたきつけた。遠雷が聞こえる。

 やがて雨はやんだが、淡く重い雨の香りは太陽の足跡をぼかした。窓には無数の雫が張り付き、時折大きな雫が小さい雫を巻き込んでするすると落ちた。干上がりそうだったベランダの石タイルは、ものの見事に色を変えて、むせ返りそうな晩夏の香りを残した。


 腕時計の針は進む。


 しかし、いまだ手元のキャンバスは真っ白なままであった。

 この画面上だったらいつでも戻れる、そうやって不可逆の恐怖から逃れたのは自分で合った。スケッチブックに初恋を描いた時には消しゴムが残した傷がキャンバスを汚して、作品にさえなりやしなかったが、しかし確かに自分に残ったものがあった。それは、下唇の熱より、好奇心の勲章より、夏の重くむせ返る芳しい香りよりも確かで、自分に対して確かな熱を残した。それは、白…虚無に対する好奇心であり、忠誠心であり、ある一種の誓いであった。


 虚構が虚無を誘発するなど考えたことがなかった。

 自らの血が通う手に残ったものは、虚構だけだった。

 この腕時計も、虚構なのだろうか。いや、確かな「永遠」の欠片であり、革ベルトのくたびれは虚構ではない。


 腕時計の針が進む。

 目に疲れと渇きを感じ、思わず瞼をぎゅっとつむって目をこすった。するとまつげが一本だけ指に残った。


 私はそれにひどく安堵した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

@ash_y_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ