ブライト

Aiinegruth

第1話

 


 陽花里ひかりお姉さんの背中は広い。いくつもの街灯を抜き去りながら、僕を後ろに乗せて、自転車は坂を上っていく。眼下に見える市役所、その二つ隣の通りの僕の家には、警察と報道記者の車が集まっている。綺麗な赤いサイレンが、押し寄せる誰しもを照らしながら、夜を明るくする。

 僕はお父さんが好きだ。いつも優しくて、週末にはケーキを買って帰ってくれる。僕はペットのショコラが好きだ。かわいい二歳のテリアの女の子で、お転婆だけど、たくさんの芸を覚えている。しかし何より、僕は陽花里ひかりお姉さんが好きだ。お姉さんは飛び込む。高い板から足を放すと、くるくると空を舞い、照明を受けて、澄んだプールの水面に沈む。初めてテレビで見たときから、それを忘れられないでいる。僕は物知りだから分かるが、これは一目ぼれというやつだ。お姉さんはきっと世界で一番の選手になる。

 珍しく昼頃に家に戻ってきたお父さんにも許してもらって、今日は二人きりのお出かけだ。大きな背中を眺めていると、花火の音がする。近くの天満宮てんまんぐうで始まった祭りの合図だ。本当は父さんと行くはずだったそれも、お姉さんが側にいるいま、全く気にならない。

 市街地と湾岸工業区を分ける枠山わくのやまの頂上付近にも、小さな神社がある。僕たちはすっからかんの駐車場に自転車を停め、山頂公園に置かれた小さな三角屋根の本殿前まで来た。小さく呼吸を整えたお姉さんは、首に巻いたタオルで汗をぬぐい、こっちを向いた。二人きり、恥ずかしくなって目をそらす。すっと流れた視界の先、本殿の向かって右側は二〇メートルほどの崖になっていて、小さな湖の水面が光を返している。

 僕は将来有望だが、まだ子どもなので神社で出来ることを多く知らない。おまけに、ちょっとだけ臆病だ。道中で聞いたバイトおもしろ失敗談百連発を思い返して気を紛らわせながら、何となく鈴の結ばれた紐に手を伸ばすと、すっと、褐色の腕が僕の頭上を追い抜いた。同じ紐を背後に立つお姉さんと一緒に握ってしまった。逃げられない。ドキドキする心臓のまま、目を伏せて、手を動かす。カラン、カランと、花火がけたたましく照らし、僕たちの影を伸ばす境内に、鈴の音が響く。

 お姉さんは、二〇歳の大学生。背が高くて、かっこよくて、面白くて、一人暮らしをして、自分で生活費を稼いでいる。小学二年生の僕とは全然違う。

戸木ときくんは、なんて願った?」

 腰を屈めて問いかけられる声に、顔が真っ赤になる。やましいことを考えていた僕は、慌てて頭を働かせた。好きだから、がっかりさせたくない。ええと……。

「世界が、平和でありますように」

「へぇー、お利口さんじゃん」

 トン、と肩を叩かれる。しかし、クラスのなかでは一番注意深い僕は、ほんの少しだけ、お姉さんが悲しそうな顔になったのを見逃さなかった。とはいえ、問いただすこともできず、同じことを尋ね返す。

陽花里ひかりお姉さんは、何を?」

「うーんとね、それは」

 短く切り揃えられた黒髪を瞬く空に浮かべるように立ち上がると、お姉さんは数歩進み、山頂公園の鉄柵に手をかけて、木々の隙間から薄明るく見える市街地を眺めた。祭囃子を運んできた一陣の風が、葉を舞い上げ、わずかに潤んだ目が細められる。七歳の僕とは違う。大人にしか理解できない複雑で大変なことがらを噛みしめるように、深いクリーム色の頬が動く。

「いまが、ずっと続くように、とか」

 そのとき、僕の世界が変わった。

 夜がもっと深く沈んだ。明るさがぎゅっと減って、黒々と染まりかけた景色のなか、お姉さんの凛とした広い背中が赤く染まる。僕が慌てて近寄ると、途端に目の前が青白く輝き、脇に生えた木々も、立ち並ぶ灯篭も、敷かれた石畳も、みんな歪んで、手前へ長く引き伸ばされる。振り返れば、舞い散る木の葉と瞬く花火が仲良く空に張り付いている。声をかけても、言葉が口元にとどまってお姉さんに届かない。反対に、公園まで響く祭りの騒ぎも、花火の音も、地鳴りのように低く沈み、混ざり合って、聞き分けられないほど間延びしている。

 見下ろす市街地。枠山わくのやまを超えて天満宮に向かう人の列がきらきらしたマグマの河のようだ。見上げる動作で、地平に蓋をする星たちが夜空ごと縦に軌跡を引いてビかビカに輝き、少ない時間で黒く薄まる。まとわりつく低音と壊れた景色のなか、僕はもう半分目を瞑って、鈴の紐に駆け寄った。思いっきり振ろうとしたが、動かない。確認すると、年月日ねんがっぴまでデジタル表示されるはずのお母さんの形見の腕時計は、秒針を固まらせている。


 われは、未已玲日脚青丹底命みいれいびあしあおにぞこのみことという。

 願いだろう。

 平穏を護り、時を留めたくらいで、そうやかましくするな。


 おかしい、逃げなきゃ。必死にお姉さんを引っ張っていると、凛とした声がした。いつの間にか、賽銭箱の奥にきらめく緑の浴衣が浮いている。僕が何をするより前に、いくつかの言葉が耳元を駆け抜ける。


 ときはひかりの賜物だ。

 われは、時の神として、境内の光に速さを忘れさせた。

 光が憶えているものは一つ。最速であること。

 追い越せば、時の流れは戻るだろう。


 浴衣は、溶けるように形を失った。僕はお父さんたちにこのことを伝えるために、ふらつきながら舗装道を歩き、山を下った。


――僕は小学校を卒業した。お父さんは、会社の偉いひとを刺し殺してしまった罪で、六年経っても帰ってこない。パワハラという言葉は調べたから知っている。僕は何も知らなかったが、お父さんはずっと辛かったらしい。あの日、時の留まった山頂公園を最後に、僕の平和は崩壊した。お姉さんと、神社のことは誰も覚えていない。追い越す。その言葉だけを頼りに、小学校のかけっこでは一番になり続けた。運動会で見に来てくれるひとはいないが、お姉さんは全く変わらない姿でここにいる。

――僕は中学校を卒業した。境内を元に戻すには、山頂公園内で低下した光のそれを超えた速度を出す必要があるらしい。自転車などの道具は持ち込んだ時点で固まってしまって使い物にならなかった。使えるのは自分の身体に限られる。陸上部のエースになっていた僕は、今日も走る。

 加速するごとに、青方偏移せいほうへんいで青白く染まり、サーチライト効果で神々しい太陽のような爆光が座す前方。ローレンツ収縮や光行差こうこうさであらゆるものが歪んで見えても、僕は学校のグラウンドと同じ速度で駆け抜けることが出来る。耳に張り付く重低音を聞き流しながら、思う。可視光が推移した結果、赤外線で真っ赤なお姉さんを、元に戻せる日も遠くない。

――僕は高校を中退した。一年生の夏休みに高速道路で追突事故に遭って、お父さんと、ペットのショコラは死んでしまった。僕は左足を複雑骨折した。いままでのように、何週間かに一回通うことは出来ない。車椅子も松葉杖も固まってしまうから、お姉さんの隣まで行くには、さらに一年の治療が必要だった。

 ベッド生活が長すぎて、身体が思ったように動かない。首元にタオルを巻き、ドロドロの汗をぬぐって這いながら辿り着いた山頂で、そっといつもの場所に位置取る。久しぶり、と届かない声をかけようとして、目に入る。確認のために、置いてきたもの。お姉さんの左手に巻いたデジタル腕時計は、中学三年からその日までの三年間で五秒だけ進んでいた。時間の経ち方から、境内の光の速度を計算する。

 

 秒速一七メートル。

 片足の僕には、いや、生身の人間には到達不可能な速度だ。


 五〇メートルを三秒で走れるものか。どんなに頑張ったって境内は狂ったままで、初めからお姉さんを助けることは出来なかった。バランスを取るために血が滲むまで掴んでいた鉄柵を放すと、片足の僕は簡単に地面に転がった。

 実のところ、僕の頭が良かったのは小学校までだ。運動が得意だったのは中学校までだ。話せるだけの趣味と、友達と遊ぶ機会があったのは高校までだ。いまの僕には何もない。神社の話をしつこく打ち明けると、親戚のおじさんには病院に連れていかれた。人殺しの息子が考えていることは分からないそうだ。僕はいつからか、僕が嫌いになった。僕の全ての努力は、自分に運がなかったことを証明するためのものに成り下がった。何も変わらず目を細めて市街地を見下ろすお姉さんだけが、たった一つの支えだった。それなのに――。

 丸一日寝て過ごして、空腹のまま立ち上がる。この境内にずっと居ようとしたことは四度ある。僕の餓死がお姉さんのせいみたいになるのが嫌になって、下山しているだけだ。

 遠近の狂ったサーモメーターに似て巡る視界を引きずりながら、僕は本殿の北にある、絵馬掛所えまかけどころのところまできた。当たれるものなら何でもよかった。言葉で汚損してやる。そう思って初めて読めるところまで近づいたが、数少ないそれらはほとんど全て同じ筆跡で書かれていた。お姉さんの字だ。最も新しい一つを手に取る。書かれていたことは、こうだ。

  

 子どもと、私の夢を壊したくない。

 大学を、辞めずに済みますように。 


・・・・・・


 ――僕は二四歳で高卒認定試験に合格した。義足を鳴らして高くない山を登ると、お姉さんの隣に立つ。僕の方が背が高くなって久しいけれども、今日やっと対等な気持ちで彼女の隣にいられる気がした。秒速一七メートルを超える。そのやり方は、大人を通り過ぎた僕には分かっていた。

 あの日から二八秒が経つ。遅れて届く一七年前の花火の光と音が、照明と歓声のようだった。境内の崖下の二〇メートルの湖を視界に収めながら、息を整える。僕は、いつかのお姉さんの舞台に立っている。

 幻聴がする。名前が呼ばれる。ピッとホイッスルが吹かれる。つま先を立てて、板の端へ向かう。そして、跳ねる。どんな夜より深い闇のなか、身の踊る中空。捻りもない真っすぐな姿勢。落下の感覚は緩慢な光を貫いて皮膚を駆けた。頭上、すでに去るものは丹色にいろに染まり、未だ水面に到達しえない足元が青白く焦げる。周囲の空気は全方位に押し広げられて、極彩に変じる。両肩から伸び、境内に煌々と燃え立つ風の衣。加速により、自らが無限遠に延伸するイメージの奥に、いくつかの過去が灯る。


 選手権大会の中継をみたあと、小学一年生、登校途中。

『なに、近所の子? ありがとう。あははは、ばしゃんってなっちゃいけないのよあれ』

 プロになるんだよねって聞いたとき。

『続けたいけど、そんなに上手じゃないかなぁ』

 あの日、自転車に乗りながら。

『そんなにバイトをして何買うのって? うーん、油田』


 陽花里ひかりお姉さん。今度は僕がその背を押せるようになるよ。

 追い越す。停止した全ての風を切り、猛進する赤と青の狭間。自由落下二秒、秒速一九.八メートルで僕は水面に没した。義足がバキバキに割れ、意識を失う直前、小さな笑い声が聞こえた気がした。


――天晴あっぱれ


・・・・・・


「な、何やってんの、戸木ときくん」

 慌てた声で目を覚ます。横になったまま湖のほとりでピューと口から水を吐くと、整った顔が近くにあった。お姉さんはもう赤外線で輝いてなんていなくて、木の葉は舞い散り、セミの声も曇りなく聞こえてくる。立ち上がると、僕はすごく背が縮んでいて、左足は義足ではなかった。小学二年生、そのままの姿だ。――時間が戻った。

 お姉さんに連れられるまま、僕は検査入院になった。二日ほど過去に遡っているらしい。退院は近くの天満宮てんまんぐうの祭りの日で、僕の一件をきっかけに転職を決めたお父さんは、数日間ずっと泣きっぱなしだった。

「何を願ったの?」

「世界が、平和でありますように」

「へぇー、お利口さんじゃん」

 天満宮で鈴緒すずのおを鳴らして拝むと、浴衣の代わりにスポーツウェアを着たお姉さんは感心したような顔をした。これじゃ駄目だ。僕はしばらく俯いたあと、深く息を吐き、顔を上げ、本当の気持ちを口に出す。

「お姉さんが好きで、結婚したい、です」

「うわぉ、マセガキ未来見過ぎ」

 お姉さんは今度はいたずらっぽく笑い、真っ赤になった僕の頬をぺちぺちと叩いて、大きく伸びをした。未来かぁ。そう小さく零すと、向こうから来るショコラとお父さんに手を振る。

「じゃ、あたしも頑張ってバイトで油田二個買うか」

 腕時計が八時を数え、夜に無数の光が咲く。りんご飴を齧りながら、僕は一三年ほど先を往く彼女の広い背中を追った。頭上には、秒速三〇万キロメートルで迫る一瞬の芸術。時は進む。僕たちも駆ける。空を見上げて立ち止まる人々の、漏れ出る感嘆を掻き分けながら。

「花火が綺麗……」

 

 

 

 

 

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