衝動買いの価値喪い
「賭け?」
「そう。当ててやるって言ったでしょ。だから私と賭けをしましょう。そうね、条件は……ちょっと待ってね。この洋館の地図を用意するから」
「地図なんかあったのか」
ベッドの上で髪を梳かしながら話していると詠奈は少し動いて箪笥から地図を取り出した。髪を梳かしながら見るのはとても難しいので許可を貰って一度中断させてもらった。
「……地図って言うか見取り図っていうか。ごめん。広すぎて訳分からない」
「分からなくてもいいの。この屋敷から脱出する方法が三通りあるとだけ覚えてくれれば。まずは正面、それから地下の水路。最後に庭のずっと奥にあるジェット機を使う」
俗にプライベートジェット機と呼ばれる代物だ。使ったことはないけど見た事はある。見せてもらったから。
「そうね。ぴたりだけにしましょうか。君は彼がどのルートで出ると思う? 私はそもそも脱出しないに賭けているから自由に選んでいいわよ」
「…………」
ジェット機を使うルートは恐らくあり得ない。アイツが一人で起動出来るとは思えないし、よしんば起動出来たとしても操作出来ずに墜落するのが目に見えている。本当に起動しようとするなら誰か幸運にもパイロットを捕まえられたらそいつを脅して……というくらいか。
地下は俺も大浴場や洗面所を使う時くらいしか行かないので何とも言えない。今日一日ずっと扱かれていたし現在進行形で地下に何やら薪を運んでいた事まで加味すると多少土地勘が生まれた可能性はある。
「いや、普通に正面玄関だろ」
数年越しの脱獄計画じゃあるまいし、逃げるとすれば衝動的になる筈だ。幸いここは刑務所よろしく分厚い塀に囲まれている訳ではない。ただ出るだけなら簡単だ。鉄門扉も電流を流しているような対策は行われていないだろうし、嫌になって逃げるなら考えるより先に身体が動く。だから一番アクセスしやすいルートはここだ。
詠奈は地図を丸めてしまうと、再び俺に髪を梳かすように命じた。
「そう。もし景夜が当てられたなら……ご褒美をあげなくちゃね」
「ご、ご褒美……」
「ふふ。何? 期待しちゃった? ほんの少しの余興だからまだ何も考えていないけど、期待に応えられるかしら。まあ、脱出はせずに、諦めて従順になると思うけど」
―――何処からそんな自信が来るんだ。
詠奈には珍しく見立て違いな自信だ。あの様子じゃ我慢の限界も近い。隙を見て逃げ出さないと殺されると思ったって不思議はないだろう。実際殺しまではしない筈だ。支倉六弥にはまだ価値が残っている。八束さんも鎖鞭を使わなかったようにあれでも手加減はされているのである。
「所でアイツは一体何をさせられてたんだ? まさかとは思うけど無意味な労働をさせてたんじゃないだろうな」
「まさか。仮にも私が買った奴なのにそんな無意味な事をさせる訳ないでしょ…………そうだ。髪を梳かすのはもういいわ。足のマッサージをお願い。少し歩く事になるかもしれないから」
「歩く……?」
それについては良く分からなかったが、命令だ。ベッドから降りると放り出された彼女の足の横に座って、徐に靴下を脱がす。まだお風呂に入っていないから少し汗の臭いがするけれどやめる理由にはならない。足を掴んで、指圧で解す。
「ん…………ああ……そう言えば明日は休日ね。もうすぐ夜だしサンルームでの時間は明日の方がいいわ。君には今日やるつもりだって伝えたのに、ごめんなさい」
「や、いいよ。俺を守ってくれてるんだろ?」
彼女が予定を変更せざるを得なくなったのは支倉が未だに俺に対して攻撃的な姿勢を持っていたからだ。メイドの皆が目を光らせていると言ってもそれではゆっくりできない。飽くまで俺に至福の時間を提供する為に詠奈は予定を変えた。
―――優しいんだよ、本当。
敢えて断言しよう。王奉院詠奈は天使のような女の子だ。俺の事を凄く大切に思ってくれている。こんな子に会う為に人生を捨てる必要があったのなら悔いなんてない。
「いつも有難う、詠奈。お前が御主人様で良かったよ」
「……ふふ。もっと褒めてくれてもよくってよ」
「お前に買われて、俺は幸せだよ。ははは」
足に口づけを交わすと、詠奈は驚いたように動きを止めて、口づけされた方の足を持ち上げた。
「…………気持ちは伝わったわ景夜。私も大好き」
コンコン。
「詠奈様。ただいま参りました剱木八束です」
「ああ、もう来たのね……タイミングが悪いけどまあ…………今開けるから、そこで待ってなさい」
棚の横のボタンを押してロックの解除される音が鳴る。俺に扉を開かせると、八束さんがパソコンを脇に挟んで人形の様に佇んでいる。
「入って」
「失礼します」
八束さんが中に足を踏み入れると同時に再びロックが掛かる。詠奈は彼女をベッドに呼ぶのではなく奥の机へと案内して座らせた。椅子は二つしかないのでもう一つは詠奈が。俺は机の下で座って足のマッサージの続きだ。
「しかし何も言っていないのによく用事が分かったわね」
「詠奈様の事は多少なりとも把握しております。それに今度は……私も腹の虫が」
「そうよね。景夜を馬鹿にするなんて許されざる行いだわ。罪には罰を、それが社会の常識よ。マイクは繋がってる?」
「いえ。まだスイッチを押してないので。まずは映像だけでもご覧になるべきかと思いまして」
「そう。景夜も一緒に見る?」
「何をだ?」
机に頭をぶつけないよう注意してパソコンの画面を覗き込むと、支倉の自室を映すカメラがあった。
直前の交通事故で特に腰を痛めているようだ。手を当てて声にならないうめき声を上げている。机の上には支給されたカップ麺とレトルトカレー。あんなに逞しかった男から聞こえる声は、弱音ばかりだ。
『帰りたい……家……警察……携帯がない……ううう。痛い……いだい……うぐ。ぐす……』
「あー……」
「帰りたいなんておかしな話ですね。彼の帰る家はここなのに」
「全くその通りよ。ここでないなら一体どこに帰るというのかしら。そんな場所はもう何処にもないのに」
土地も家も売り払って、家族は何処かへと引っ越して行ってしまった。嫌味でも何でもなく事実だけを述べたら、帰る場所なんてここしかないのだ。詠奈の横顔は無愛想なりに凄く楽しそう。
支倉がこんな目に遭わなければいけない程嫌な奴だったかと言うとそんな事はないし、可哀そうだとも思う。けれど詠奈の所有物である俺にはどうしようもない事だし、契約書を斜め読みしたアイツの責任でもある。
「マイクをつけて」
「はい」
『支倉君、こんばんは。随分みすぼらしい姿だけど、ここでの生活はどうかしら』
カメラの様子からして、声は向こうに届いている。あちらこちらを見回す素振りから部屋全体に響いているのだろう。支倉が涙を流しながら狂ったようにあちこちを見て祈るように跪く。
「え、詠奈。お願いだあ、もうお家に帰らせてくれえ……こ、ここの事とか誰にも言わないから! 頼むってええええええええええ!」
『貴方のお家はここなんだけど。所でその顔を見るに、生活に不満がありそうね。でも安心して? 貴方にはまだ価値があるわ。価値があれば幾らでもやり直せる。ここに住む子はみんなそうやって自分の価値を磨いて生きているの。だから支倉君も心を入れ替えられるならきっと価値は上がっていくわ。今の貴方の価値は五百万……当初の十分の一になってしまったのは残念だけれど、景夜を通して私に売り込んだ貴方なら巻き返せると信じているわ』
「……………………ふ」
『ふ?』
「ふざけるなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
どうしてここまで追い詰められているのか。原因は明らかなのだけれど、映像の挙動もまた一要素に違いない。支倉は自室にいるのではなく送還された。自力で部屋から出る事も許されていないのだ。扉を滅茶苦茶に叩いて椅子をひっくり返してシーツを壁に投げつけて、堪忍袋の緒が切れたという表現がこれ以上似合う発狂もないだろう。
「クソやろおおおおおお! ちょっと可愛いからっていい気になりやがって! 警察だ警察! こんなもん通報してやるうううううう! 大体お嬢様ぶって何様だよお前はああああああ! 価値価値ってお金の事ばっかいいやがって! 人間の価値はなあ! お金じゃ代えられないんだよおおおお 尊いんだ! 命は尊いんだって教わっただろ学校でえええええ! お金なんかよりよっぽど大事な価値なんだ。それをおま、お前はお金お金って……」
『お金じゃ代えられない……』
「そうだあ! 俺は幾ら払われてもこんな扱いされていいような奴じゃないんだあああああ! 分かったらとっとと―――!」
『あら、私ってばとんでもない勘違いをしていたようね』
マイクのスイッチが切られる。俺も八束さんも、主人である彼女の価値観は痛い程理解していた。王奉院詠奈にとって価値あるモノはお金で買える。そこには一切の例外がない。彼女にとってお金に代えられないモノとは等しく無価値であり、また彼女は本人の自己申告した価値をまずは尊重する。百万円で働いている子がいるように、支倉が五千万円で買われたように。
貴方は幾らで買えるのかしら。
当時、買われる直前。言葉の意味が良く分からなくて俺は答えられなかったけど、支倉は答えてしまった。あからさまに間違った方向で。
「支倉六弥はどうやら無価値だったみたい。それならここに置く意味はないわね」
「はい。処分なさいますか?」
「ゴミにはゴミなりの使い道があるのよ。このボタンを押せばいいのね」
詠奈は八束に確認を撮ってから躊躇いなくパソコンのキーを押した、その次の瞬間。映像の中に煙が充満してカメラが遮られる。向こう側の音を拾う機能も切られているらしく何が起きているのかはさっぱり分からない。
「な、何をしたんだ?」
「ただ煙を充満させただけよ。これで彼が逃げるかどうかは分からないわ。どちらにせよ―――私達は移動しましょう。今までずっと溜飲が下がらなかったことが不思議だったけれど、無価値だったのなら納得ね。でも丁度いい機会。無価値がどうなるかを皆に教えられるから」
詠奈は俺に靴下を履き直させると、手を引っ張って部屋の外へ出る。
「さあ、運否天賦と参りましょう。ゴミはゴミ箱へ捨てられるまで大人しくするのが常識よ。脱出しようなんて、そんな気概はあるのかしら…………ふふ♪」
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