国家令嬢喧嘩せず

 目が覚めるのは、いつも俺が先。

 視界を覆う真っ黒いカーテンは詠奈の髪の毛だ。顔から払って寝ぼけ眼を擦ると、ベッドのカーテンが閉じている…………じゃなくて。ここは詠奈の家で、俺は買われたのだ。そんなの一年前から決まった事なのに、どうしても昔の記憶が蘇ってしまう。


 母親に怒鳴られながら起こされた記憶。


 ほんの少しの寝坊も許してくれなかった。眠いという言葉は起爆剤だった。親の言う事を素直に聞くのが俺の価値だった。起きろと言われたらちゃんと起きないといけない。ヒステリックになった母親はハンガーで俺を叩いたっけ。遠い昔のような思い出し方のくせに、寝起きはいつもその遠い昔に戻るみたいだ。

「――――――」

 好きな子の寝顔を独り占め。同じベッドで眠る者の特権だ。詠奈の事は今でも好きで、彼女が多少無茶苦茶でもその気持ちは変わらない。一年どころか、知り合ったその日からずっとこの気持ちは続いている様な気がする。

 眠りの世界に囚われる彼女は平時の冷淡な振舞い方が嘘のように穏やかな表情で眠っている。凄く可愛い。俺にしか見せてくれない顔があるだけで、彼女に買われた意味がある。


 ―――や、やばいかも。


 寝起きはどうも理性が弱い。考える事を放棄して本能に従えと何処かで声がする。男性として当然の反応が、何というか、こんな朝っぱらから。痛い程に苦しい。

「………………お、起きないでくれよ」

 俺が事あるごとに恥ずかしがるのは詠奈の目が届いているからだ。カーテンが閉じたベッドの中で二人きり。御主人様としての権力も発動していないこの瞬間だけはどうも―――拗れに拗れた思春期が身体を良くない方向へと動かしてしまう。

「んっ……………ふっ…………」

 両掌を限界まで広げても文字通り手に余る柔らかさを揉み零す。これは仕方のない事なんだと言い聞かせながら顔を埋めて手を動かす。

 買われる前からの事でもあるが、俺にはプライベートという物がなかった。強いて言えばそれが詠奈との時間くらいで……だからこれは飽くまで一例だが、思春期を迎えた男子がエロ本を手に入れたとしよう。俺にはそれを読む時間も隠す場所もなかったのだ。

 詠奈に買われたからはそれが一層悪化している。広すぎる屋敷にはタイプ違いの美女ばかりの使用人、それを買った主人は多くの人の目線を釘付けにする程美しく、女性としての魅力に溢れている。『景夜君』として断言しよう。詠奈を相手に妄想した男子は大勢居る。スク水を着た時や体操服を着た時、ただそれだけでボルテージは最高潮だった。


 発散する場所がない俺にとって、これは仕方のない事。


 頭で言い聞かせながらも、最低だという自覚があった。好きな子が無抵抗で居る内にこんな事をするなんて。本当は駄目なのに。

「ごめん……詠奈…………ごめん……」



「―――何をそんなに、謝っているのかしら」



「うわっ!」

 ぱちりと目を覚ました事に驚いて手を離そうとしたが、詠奈の方が一歩早かった。素早く身体を密着させると、指を沈み込ませながら太腿で俺のお腹から下をグリグリと圧迫してくる。

「ふふ。寝起きを襲うなんて景夜も度胸があるのね。でもどうせなら―――寝間着の上からじゃなくて、中から入れてくれればいいのに」

「ご、ごめん詠奈! 悪かった!」

「あら、どうして謝るのかしら。私は怒ってないし、むしろ嬉しいのよ。今日が初犯、それとも常習犯? いずれにしても……くすっ。君が私を女として見てくれてる事が本当に嬉しい。こんな早朝なのはびっくりしたけど」

 手を離そうとしても指が沈んで離れない。これは詠奈の力が強いのか、それとも柔らかさに手の神経が狂ってしまって言う事を聞かないのか。ぐり、ぐりと詠奈の太腿が動く度に苦しさが吐息となって漏れる。

「うっ、あっ、うく……!」

「次からは服の下に手を入れてね。それから下着の中に……私のブラは大きいから、出すのに苦労するかもしれないけど。景夜なら大丈夫よね。私が脱衣所で着替えてる時にいつも凄い目で見てくるんだから」

「ご、ごめんって。許してくれ!」

「何も怒ってないのに、変な景夜。なんだか弱気な君が凄く愛おしく感じてきたけど、今日はこの辺でやめておきましょうか。さ、景夜。おはようの挨拶よ」

「あ、ああ……」

 尋問から解放されてすっかり従順に躾け直された俺に抗う選択肢はない。詠奈が求めるように手を広げたのを見てから、押し倒すように唇を重ねた。キスにはいつも舌を入れてくる。抵抗なんてすると長引いて余計恥ずかしくなるから俺も受け入れる。

「れろ。ちゅ…………ちゅぶ……はあ。大好きよ景夜。今日も沢山の思い出を作りましょうね」

「あ。ああ。と、取り敢えず髪だけでも整えるよ。顔洗いに行くのは分かってるけど、無防備なお前を外に出すのも、駄目だと思うから」

 先程は俺の顔にもかかっていたが、彼女の髪はくるぶしに届くかどうかというくらい長いので当たり前だ。二人で寝ていたらそういう事もあるだろう。まだカーテンは開けない。ベッド自体に取り付けられた引き出しから櫛を出して、ぺたん座りをする詠奈の後ろへ。髪を梳かしてやる。

 視線が見下ろす形になった事でナイトドレスから零れ落ちんばかりに突っ張った谷間に釘付けになりかけるも、これ以上詠奈を喜ばせたら俺が恥ずかしさで死ぬ。努めて髪に意識を集中し、気にしないように心がける。

「ふぁ~あ……今日も学校だったわね。退屈だけどいいわ。景夜が卒業するまでは一緒に居るって決めたから」

「部活に入ったら少しは忙しくなるんじゃないか?」

「それをしたところで誰も私に教えようとはしないでしょ。部活動というけれど、そこに選ばれる程度の体験ならお金で買えるし……ああ。でも今日は体育があったわね。男女で分かれるけれど、関係ないわ。今日はサッカーよね。たくさん応援してあげるわ」

「いや、学校では友達っていう設定なんだから流石に校則は守ってくれよ。も、もうすぐプールだから、その時はまあ……あれだけど」

 髪を梳かしていると心が落ち着く。乱心に乱心を重ねていた数分前の自分が他人のようだ。

「―――そう言えば支倉は起こさなくていいのか? アイツってサッカー部だったから朝練がある筈じゃ」

「景夜が気にする事でもないでしょう。君はサッカー部じゃないんだから」

 それもそうか、と納得して櫛をしまうと、詠奈はカーテンを開いて俺に手を差し伸べた。


「顔を洗いに行きましょうか。朝食まで時間がないわ」


 


 

























 洗面所は、地下室にある。

 何故そんな設計になっているかというと大浴場が地下室にあるからだが、それ以外にも俺との朝の時間を一秒でも長く過ごしたいという詠奈の気持ちが現れている、とか。彩夏さんの話。煌びやかな屋敷に反して地下室への扉には鉄格子がかかっており、階段を下りればそこが大浴場だ。洗面所はそこから扉一つ隔てた先にある。

「歯磨きも大切よ」

「言われなくても」

 地下なんて広大な場所を使うだけあって施設はこれだけに留まらない。階段の踊り場を中間地点として真横に通路が伸びており、そこから更に分岐する。流石の俺も全部の部屋を行った事はない。詠奈も『行く必要がないから』と言って連れて行ってくれない。

 概ね何があるかの察しはついているけど。

「十分だと思うわ。戻りましょう」

 手を繋いで、階段を上る。


 道中、件の中間地点から合流する様に彩夏さんと遭遇した。


「詠奈様、おはようございまーす! 沙桐君もお元気そうですね!」

「お元気そうなのは彩夏さんな気もしますけど……」

「彩夏。準備は終わったかしら」

「はいはーいばっちりですよ~。八束さんからの指示はしっかり聞いておきましたからねー。朝食の準備も万全ですからお二人はどうぞ朝食室へ! 今日は日差しも良く差し込んでくれて気持ちいいですよ!」

「そう。楽しみね」

 朝食室という概念が庶民には聞きなれないが、大丈夫だ。俺も最初は何事かと思った。文字通り朝食の為だけの空間であり、厨房とは正反対の方向に作られている。特徴的なのは空間の狭さと日差しが差し込むための窓が備わっているという事か。

 その狭さは丁度俺と詠奈が対面に座って満席というくらい。二人で手を繋ぎながら朝食を待っていると、やっぱりある事が気になった。


 支倉の奴は起きてないのか? 


 朝練があったかなかったかは置いといて、そろそろ起きないと学校自体行けないんじゃ……と思った処でワゴンに乗せられて朝食が運ばれてきた。お金持ちらしくビュッフェのようによりどりみどりで、デニッシュやフラメンカエッグみたいな訳の分からない名前の料理(デニッシュはパンという事だけ分かる)もあればトリュフを和えたオムレツなど素人が見てもお高そうな料理が目白押し。買われたコックがコックなので舌に合わないなんて事もなく、朝食を終えたその瞬間はいつも気分が最高に晴れている。

 因みに要望があれば和食にも中華にも出来る。俺は何度か頼んだ。その時はコックではなく彩夏さんが主導するらしい。

「美味しい? やっぱりこの家の料理って最高よ。これを食べられない奴も居るけれど……いいえ、決めつけるのは良くないわね。もしかしたら食べられるかもしれないから」



「うおおおお腹減ったああああああああ!」



 時折詠奈に食べさせてもらえたりもする、幸せに満たされていた朝食室に雑音が入った。支倉の声だ。バタバタと走り回る音が近くから聞こえる。厨房に行ったかと思うと即座に追い出されたのか足音がこちらまで近づいてきた。

「………………はあ、最悪」

 朝食室は個室というよりもスペースに近い。間もなく、走り回る支倉の目に優雅な食事をする俺達の姿が入った。

「は…………はあ!? おま、景夜。五〇円が何で食事してんだよ!」

「五〇円?」

「俺の……価値らしい。アイツから見た」

「なあ詠奈~! 俺にも朝飯くれよー。っていうか今何時だ? そう言えばこの屋敷何処にも時計がねえな! 携帯は消えちまったし、朝練あるんだよ俺。何でもいいからくれよー」

「支倉。あんまり詠奈の機嫌を損ねない方が……」

「うるせえお前昨日した事忘れたのか~? 法律は無視していいんだろ。なんだったらここでお前をボコボコにして俺のが価値があるって事を証」



「ばああばあばばあぎゃがががあああああああああああああ!」



「駄目です。詠奈様の食事を邪魔するのは」

 背後から音もなく迫ってスタンバトンを当てたのは獅遠だった。瞬く間に無力化された二〇〇〇万の男など気にも留めず、詠奈は俺に向かって首を傾げた。

「昨日……何をされたの?」

「え。あ……その。アイツが契約書ちゃんと読んだかどうか確認しておきたくて」

「優しいのね」

「それで…………身体を抑えつけられた」

 詠奈はデニッシュの欠片を口に放って飲み込むと、今度は獅遠に視線を向ける。

「食事が不味くなるわ。一旦部屋に戻して」

「承知しました」

「獅遠に床を引きずられて支倉が自室へと戻されていく。抵抗の意思を見せる度にスタンバトンでの容赦ない追撃が繰りだされて彼は抵抗する事を無意味と覚えたようだ。俺の視界から消える頃には借りてきた猫よりも大人しくなっていた。

「五〇〇万」

「え?」

「支倉六弥の価値」


























「なあおい、知ってるか? 支倉学校辞めたんだってよ」

「やめた!? 何で?」

「いや、なんか国からの命令だってさ」

 支倉の退学を知ったのは、『景夜君』としてのロールプレイを始めて直ぐの事だった。

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