第15話 水森 雫


 水森 雫は祖父の寝室の隅で膝を抱えていた。


「またあいつら私のことバカにしやがって……」


 雫は公園で虐められていた同じ学校の同級生を撃退した。捨て台詞で、やい「ゴリラ女」だの、「男女」だの悪口を言われたのだ。当然、雫は傷ついて落ち込んでいた。


「どうしたんだ、雫」


「いじめっ子やっつけたら悪口言われた……」


 雫の祖父は、腕を組んで雫の言葉に頷いている。


「気にすることはない。お前は弱きを助け、強きを挫いた。誇りに思え」


 そして雫を道場に連れ出した。その手には無数の皺があった。一見、弱々しくも雄大で優しさに満ち溢れていた。


「なにするの?」


「体を動かせば悩みは消える」


 精神統一をして、悩みという敵を思い浮かべてひたすらに断ち続けた。それが雫の祖父との思い出の一つ。


                *


  月日は流れ、ある日のこと。祖父は衰弱していた。


「雫よ、わしが居なくなれど強くあれ。わしの死も乗り越えていける」


「うん」


 雫は頷いた。


 水森家の中で祖父は腫物扱いだった。昔から人情に厚く、才能も周囲からの信頼も得ていた祖父のことを、雫の両親や親戚はよく思っていなかった。


 雫の母は反抗期に家出をした。それを三日三晩探した祖父。一度は分かりあえた二人だが、そのあとすぐに何かが引き金となり、仲違いをした様だった。そのまま祖父は親戚とも関係が悪化。雫の両親や親戚は、俗に云う「クズ」に成り下がっていた。


 今現在は遺産の話で盛り上がっている。遺産というのは、名のある数々の作品や家、億にも上る大金。水森家に代々伝わる刀までも質に入れようとしていた。


「水森家が生み出した流派を捨てて、自分の流派を生み出せ」


「そんなことしたら繋がりが切れちゃうよ」


「いいんだ、雫」


 こんな話をしているのは死期が近いからだと察した。そして自室に戻った雫は、また膝を抱えた。


 数日後、祖父が冥土へと旅立った。最後の言葉は「お前は一人ではない」だった。葬式には、親戚や祖父を慕っていた人たちが参列した。


「やっとですねぇ」


「清々したわ」


 祖父をよく思わなかった者たちの心ない言葉が飛び交う。


「やっぱり死んで正解よね。みんな喜んでいるもの」


 雫はその言葉を聞き逃さなかった。はっきりと母の声で「死んで正解」と。雫は母に掴みかかろうとする手を必死に抑えて歯を食いしばった。


「気にしちゃいけない。きっとあいつならそう言うだろう」


 そう雫に穏和に語りかけたのは祖父の親友だった。


「はい」


 冷静になった雫は顔を上げる。私の流派で、じいちゃんを悪く言った奴らを潰してやる。雫の瞳に決意という名の烈火が宿る。


 同日、夜。雫は道場に駆け込み、流派を生み出すべく、寝る間も惜しんで竹刀を振り続けた。闇暗くらやみの中で、蒼き炎を灯した彼女の双眸が揺れ動いていた。



                 *



 雫は旅をした。祖父が冥土へ発った日から身体に鞭を打ちながらトレーニングに励んだ。


 雨の降る山道を登り、滝に打たれ、風に飛ばされ、川に流され転がった。来る日も来る日も立ち向かっては抗った。そして雷雨が来た。清流が濁り、風が吹き荒れる。想像以上の雨に雫は下を向いた。


「これは試練だ」


 山頂を目指して走った。迫る落石を躱して、倒木を乗り越えて、泥に足を取られながらも真っ直ぐに山頂を目指した。そして山頂に辿り着いた雫は、祖父を思い出して涙を流した。


 特段悲惨な終わりを迎えたわけではない。「もういないんだ」と涙を流した。左目を濡れた袖で擦る。右目から溢れた涙を飛ばしたのは一粒の雫だった。


 気が付けば雨は止み、そこには、この世のものとは感じられないほど幻想的で神秘的な景色が広がっていた。



                 *



 あの修行で得た経験をもとに結論を出した。『自然に抗うことなく意のままに操る』こと。研鑽を積むと次第に技が出来上がった。雫は後にこれらを「神五天操流」と名付けた。


 雫に相続された遺産を奪うため、会食という名の作戦会議が水森家の道場で行われようとしていた。雫は会食の当日に水森家の大半を事実上、追放することに決めた。



                 * 



「雫、本当にやるのか」


 祖父の親友、一正いっせいが雫を引き留めた。


「一正じいちゃん。止めても無駄だ」


「そうか」


 一正はただ遠のく背中が見えなくなるまで立ち尽くすしかなかった。一正も水森家には言ってやりたいことが山ほどあったが抑えてきた。何の得にもならない、何の解決にもならないからだ。雫もそれを分かっていたが止めることをしなかった。あの日から始まっていたのだから。


                 *


 水森家の敷居をまたぐ。付けられた仮面の下には表情がない。哀しみ、罪悪感、苦しみも何もかも。ポニーテールが左右に揺れる。祖父との思い出が残る道場の前で足を止める。


「神五天操流、流雷波」


 轟音が鳴り、空気が張り詰めた。中のものは一向に体を動かすことはなかった。いや、動くことができなかったのだ。本来、外れるはずの戸は外れずに波は木を伝い、騒を静に変えた。


「ヒィッ!?」


「情けない声……調子はどうかな」


 緻密で繊細な調整によって、雫の母だけは意識があった。


「こっ……こんなことはやめてちょうだいっ!!あなた雫なんでしょう!?」


「お前に待つものは苦。手に入る物は何もない」


「やめっ」


 左手で母の胸倉を掴み、右手に持つ竹刀で殴打した。気絶した全員を表につけたリアカーで近くの河原に運ぶ。カラカラと回る車輪が計画の終了を告げる。母の立てた計画はあっけなく白紙に戻った。


 リアカーを止めて一人一人砂利へと投げる。千万円の入ったバックを積み重なる山にぶつける。


「碌でもない人生をやり直せ。第二の人生は良い人間になれるといいな」

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