イルカは空を跳ばない

神崎閼果利

イルカは空を跳ばない

 ごぽり、と息をした。この、息苦しく、限りなく黒い黒い黒い黒い海の中で。

 挙げたヒレが重い。私たちの視線の先で、先生がにっこりと愛想良く笑っていた。

「はい、ハナヤさん」

 私は尋ねられたものに対して、正しい答えを返す。すると、小さな拍手とともに泡がパチパチと弾けたようだった。

 先生は笑みを崩さぬまま、まるで同じ顔しかできない魚みたいな顔で、他の人たちを見回した。

「ハナヤさんばかり答えるんじゃ駄目よ。皆さんも答えましょうね」

 拍手が止んで、泡の音も絶えていく。しんと静まり返った水槽の中、私はゆっくりとヒレを下ろした。

 そのとき、くぐもったチャイムが水槽の中に鳴り響く。パラパラ、本を閉じる音が鳴り始めて、また泡がぷくぷくと上っていく。

「それじゃあ、今日の授業はここまで」

 先生の合図に、生徒たちが水槽から去っていく。そんな中、私は一人取り残される。

 えぇ、もちろん、教室から外へ出ることはできるのだけど。それでも私はいつも水槽の中だ。ほら、今日も私のもとに人が寄ってくる。

「いやぁ、やっぱりタカネは凄いね! 次回のテストこそ満点なんじゃない?」

「やだなぁ、満点なんて取ったこと無いよ。皆が答えないから答えてるだけ。だってあの先生、怒ると怖いじゃん?」

「確かにぃ。誰も答えないとしーんとして、誰か答えろって五月蝿いの。皆タカネのこと頼ってるよ」

 クラスメイトの皆が私のもとに集まる。女子も男子も、皆私のことが好き。皆、私のことを頼っている。

 誰かが、移動教室だよ、と言ったので立ち上がる。次は音楽の授業だったか。リコーダーと教科書を抱えて、教室の外へと出ていく。

 教室を出ようとしたとき、ぱちり、一人の女子生徒と視線が合った気がした。部屋の隅で、眼鏡をしていて、片目が隠れていて、本に顔を隠していて……あの女子の名前は、何だったっけ。

 そんなことを気にしている暇も無く、他のクラスメイトに手を引かれる。ほら、早くしないと遅刻するよ。その子が言ったとおり、もう時間は三分前。遅れてはいけない。遅れたらそれはもう、「優等生」ではないから。

 廊下の大きな窓の外で、灰色の雲が泳いでいる。それが水の淀みに見えて、私は息をするのを躊躇った。



 いつからだろう、私が水槽の中にいたのは。少し窮屈で、でも別に飢えはしないこの生温い水の中にいたのは。

 鏡を見る。まるでお人形さんみたいにぱっちりとした目。小さくて細い鼻。黒くて艶のある髪。これは全部全部、生まれつきのものだ。人間は自分の顔に不満を持って嫌いになることがあるみたいだけれど、私にはその不満を持つことすら許されなさそうだ。

 雑誌で見たとおりの普段遣いのメイクを済ませて、お母さんの呼び声に応答する。今日も嫌になるほど美味しそうな餌の匂いだ。

 トーストの上には目玉焼き、隣に置かれたソース。真っ白な牛乳。添えられた緑のサラダ。当たり前だけど、友達の話を聞いている限りはきっと豪勢なんだろう。今日もつやつやの顔をした母親が、ふわりと笑顔で、おはよう、と私に声をかけた。

「今日もトーストでごめんなさいね。昨日はシュガートーストだったから、目玉焼きを乗せてみたの。それでも地味よね?」

「ううん、地味じゃないよ。いつも朝ご飯ありがとう」

「もう、本当にタカネは今日も良い子。さっきハジメにも同じ料理を振る舞ったけど、あの子ごちそうさまも言わずに行っちゃったのよ。酷い話。思春期ってこういう感じなのかね。タカネのときはそんなこと無かったのに」

 母親は頬に手を当て、大きく溜め息を吐いて見せる。嗚呼、なんて大仰で芝居臭い。そんな感想を、トーストと牛乳で飲み殺した。

 笑顔を作ったまま食べていると、そういえば、と母親が言った。まるで、何事も無いかのように。

「そういえば、期末テストが近いわね。勉強は進んでる?」

「あー……うん、進んでるよ。今日も部活休みだし、自習室に行ってくるから、遅くなるね」

「本当? じゃあ豪華な夜ご飯用意しないと。ハジメみたいに塾にも通わないで、やっぱりタカネは良い子」

 うん、ありがとう。この言葉は何度口にしたのだろう。私の口癖みたいなものだ。

 ずしん、体が重くなる。嗚呼、こんなんじゃ上手く泳げやしないのに、視線がある限りはのびのびと泳がないと。誰も心配させないようにしないと。

 朝食を終えて立ち上がる。もちろん、ごちそうさま、を添えて。そうすると、お母さんが美麗に微笑むのだった。私の正気を吸ってさらに美しく咲く花のように。

 制服を整えて、外へと出る。今日も一日が始まる。今日も音楽が鳴り始める。そうして、私は泳ぎ出す。それはまるで、水の中で演劇をするみたいに。

 空は昨日と同じで灰色だ。淀んだ水みたいで、汚くて嫌い。周りを歩く大人たちも、死んだ魚の目をしていて嫌い。皆々、自分が見られているなんて意識していないのだ。なんて羨ましいんだろう。すいすい軽く泳いでいって、何も考えていない馬鹿みたい。

 見た目ばっかり綺麗で、中身ばっかり腐っていく。そんな私なんて、私は嫌いだ。



「ねーねータカネ、帰りにカラオケ寄っていかない? テスト前だから水泳部も休みなんでしょ?」

 そんなことを話しかけられた。ちょうど体育のレポートを書き終えたときだった。

「ちょっとぉ、テスト一週間前だって分かってないの? マジで行くの?」

「え、でもマナミも行くでしょ」

「まぁ行くけどさぁ……タカネがついてくるわけ無いじゃん。タカネに悪い遊び教えちゃダメだよ」

 話が勝手に進んでいく。でも、まぁ、きっと断っていただろう。そんなことをしたら、テストに差し支えあるから。

 私は非常に申し訳無さそうな顔をして、ごぽり、言葉を吐いた。

「ごめんねー、課題まだ終わってないから」

「ほんとタカネは良い子だよね。あたしたちも終わってないのに」

「でもカラオケは行っちゃうんだけどね!」

 良い子、という言葉がぐさりと胸に刺さる。良い子、良い子。皆口を揃えてそう言う。だって私は「優等生」だから。

 元からあった頭痛がさらに痛くなるような気がした。頭痛なんて気持ちからくる病なのに、そんなものに振り回されてはいけない。

「またの機会に、ね」

 私はそう言って手を合わせた。またの機会なんて来ないのだけど。テストが終わったらまた水泳部が始まって忙しくなるだろうから。それを知ってか知らずか、クラスメイトたちは颯爽と去っていった。

 独り、自習室に向かう。もうしばらく掃除なんてされていない、誰もいない進路相談室が自習室になっている。誰もいないはずなのに、空気が重たくて、肺が動いてくれない。私は今日もここで、終業時間までペンを動かさなければならないのだ。

 必死にヒレを動かしても、頭には入ってこない。それでも時間を喰い破らなくてはならない、それが「勉強をした」という証明になる。何より、やらねばできるはずが無い。何かに追われるようにして、私は手を動かした。



「おかえりなさい。ご飯、出来てるよ」

 お母さんにそう言われて降りてくれば、そこには確かに豪華な料理が並んでいた。ハンバーグにサラダにご飯、デザートの手作りプリンを添えて。栄養バランスまでしっかりと考えられた、最高の食卓だ。そこでは、無愛想な顔をしたハジメがご飯を食べていた。

「ハジメ、課題はしっかりやってるの? 試験勉強は?」

「五月蝿いな」

「五月蝿いなんて酷い……お母さんはハジメのことを思って言ってるのに。ハジメがお父さんの跡を継げるように応援してるのよ──」

「だから、教師になんてならない」

 ハジメは太い眉を寄せてきっぱりと言い張った。そうすると顔がくしゃっと歪んで不細工だ。お母さんには、似ても似つかない。

 そうして、ごちそうさまも言わずに食卓を後にした。すれ違うとき、微かに乾いた土の匂いがした気がした。

 残されたお母さんは私に泣き顔を見せる。きらんと光る目が合うだけで、何が言いたいか分かったような気がした。

──あなたは、そんなこと言わないよね。

 だから、私は用意されたとおりの答えを言うのだった。

「うん、分かってるよ。良い大学に行って、将来困らないように、でしょ」

「タカネ……タカネはね、きっと教師なんて職に縛られなくても、上手くやっていける。だからせめて、良い大学に行ってほしいの」

「うん、うん、分かってる」

 ごぽごぽ、言葉が黒い泡になって口から出る。輪っかを描いて、お母さんに届く。お母さんは私を強く強く抱きしめた。彼女の髪からは、甘ったるいバラの香りがした。

「さぁ、夜ご飯にしましょう。早くしないと冷めちゃうから」

 お母さんが離れる。私は食卓に着く。箸を持って、いただきますを言う。そうして手を伸ばして──ずきん。頭が痛んで、それを拒んだような気がした。

 ……でも、餌の時間は拒めないから。私は無理矢理食事を口に運んだ。



 その日は本当に不幸だった。ちょっと頭が痛くて、何も手につかなかったのだ。それが、よりによって期末テストの日なんて。

 その前に返ってきた体育のレポートはA判定だった。その前に返ってきた音楽の歌のテストもA判定だった。技術の授業は完璧だったのに。英語の文章が頭に入ってこない、するりするりと自分を避けていくみたいで上手く掴めない。読み慣れた文章ならまだしも、読み慣れない新しい文章は何を言っているのかさっぱりだった。

 知っている単語が、指の隙間をこぼれ落ちていく。

 そうして頭を掻いて悩んでいるうちに、チャイムが鳴ってしまった──

 そして今日、テストが返ってきた。赤点も平均点も越えているけど、いつもよりはるかに低い点数。先生も眉を下げ、かける言葉を探しているようだった。

「次回、頑張りましょうね」

 黒板に書き出される最高得点は、私のものではなかった。

 クラスメイトたちが私の席を訪れては、不思議そうな顔をする。あれ、一位ってタカネじゃないんだ。皆口々にそう言う。その傍らで、よっしゃぁ、と声を上げているのは、クラスのお調子者だった。

「タカネに勝ったわ、一生飾る」

「あは、それは言い過ぎ」

 確かに彼も頭は良かった。いつも二位だとか三位だとかを取っては大げさにリアクションをしては周りを面白がらせていた。

 ぐるり、頭が回る。苦しい、息が詰まってお腹が痛くて……そのまま吐いてしまいそうだ。笑いながら冷や汗が垂れる。分からない、分からない。だって私、「悪い子」になったことなんて無い。

 休み時間になって、私は独り教室を出た。気分が悪くて仕方無い。後を追ってきたクラスメイトたちには笑顔で、調子悪くて、と言えば彼女らは、確かに顔色悪いもんね、みたいなことを言って、その場を去っていった。

 ゴロゴロ、外から雷の音がする。時折ぴかっと光っては水面を照らす。違う、私が欲しい光はそんな光じゃない。もっと青くて、白くて、高くて、綺麗で……息ができて。

 結局体調が治らなかった私は、早退することになった。



「体調崩したの? 大丈夫? 病院行く?」

 お母さんは帰ってくるなり私を見てそう言った。私はその瞬間、ヒレが縫い付けられたかのように動けなくなった。

 彼女の表情は悲愴そのものだった。そう、可愛い娘が病気なのだから。私のことを抱きしめて、ローズの香りを振りまく。

「うん、大丈夫だよ、お母さん……」

 私はそう言いながら、次に来るであろう話題に怯えていた。そんな心だけの震え、お母さんには分からないのだろうけど。

「そっか。それなら良いのだけど。ところで、テストは返ってきた? どうだった?」

 苦虫を噛み潰したような顔にならざるをえなかった。それを見てお母さんは、やっぱり体調が悪いんじゃない、とまた悲しそう顔をするのだった。

「……大丈夫じゃないかも。テストの話、明日で良いかな」

「いいの、元気になってからで。ご飯は食べる?」

「いら……ううん、要る。少しだけでも良いかな」

「えぇ、腕によりをかけて作るね」

 ぽん、と肩に手を置かれた。お母さんは眉を下げ、美麗に微笑む。

「──ハジメと違って、タカネは『良い子』だもの。テストの点だって良かった、って分かってるから」

 ぞわり、全身に寒気が広がった。私は逃げるようにして部屋を出て、そのまま自室へと入っていった。そうして、布団に入ってカタカタと震えた。唇の震えが止まらなくて、そのまま涙が零れてくる。

 ……嗚呼、おしまいだ。私には、逃げ場なんて無い。

 まるで岩陰に隠れる魚のようにして、私は暗い部屋の中で蹲っていた。お母さんがくれたご飯にもほとんど手が付けられないで、クラスメイトが心配してくれたメッセージにも手が付けられないで、そのまま消え入るように眠りについた。



 私は昔から、光が見たかった。

 暗い暗い黒い黒いこの水の中、空高く飛び上がれば、息ができる。光が見える。青くて白くて綺麗な、光が。

 そうしていると、周りから拍手が起こった。煩くは無いから嫌な気分はしなかった。餌が貰えた。死なないから嫌な気分はしなかった。

 それが今は、痛くて痛くて仕方が無い。この痛みは何なんだろう。餌を食べても味がしないし、拍手は煩くって仕方無い。水の中では息をするのすら辛い。

 だから、もう一度飛ぼうと思った。そうしたら苦しくなくなるだろうと、そう思った。

 私は今、天目がかけて駆け上がっている。立ち入り禁止になっている屋上を開け広げて、そして見るのは、晴天。目を奪う群青。激烈な群青。青、青、青!

 はぁ、と大きく息を吐いた。嗚呼、息ができる。そしてそのまま、ふらふらと高い柵の向こうへと向かっていった。

 これで皆褒めてくれる。これで息ができるようになる。これで、楽になれる。

 そう言って柵を鷲掴んだとき、不意に、背後から声がかかった。それは私を咎める先生のものでも、お母さんのものでもなかった。

「……ハナヤさん? 何してるの?」

 聞き慣れない少女の声だった。振り返れば、そこにいたのは片目の隠れた女生徒だった。眼鏡の下で深海のように青い目がこちらを見つめている。片手には青いチェックのブックカバーがなされた本を携えていた。

 見覚えが無い──いや、ある。確か、クラスの端のほうにいた──

「そっち、危ないよ?」

「……なに、邪魔するの?」

「だ、だって、今にも死にそうな顔してたから……死んじゃ駄目だよ。何かあったの?」

 私が牙を剥いても、彼女の声色は変わらない。穏やかで、波風立たず、まるで海をのんびり漂うよう。ぷかぷか、ふわふわ。そんな感じだ。

「何があっても、あなたには関係無い」

「確かに関係無いかもだけど……でも、人が死にそうなんだから止めなきゃ、って……ほんと、話なら聴く、から……」

「私の何が分かるの?」

「何も知らない……だって、わ、私たち、話したことも無いじゃない。だから、話してほしい……」

 そんな気弱な声で、私は我に返る。彼女の言うとおりだ、私はまだ彼女の名前すら知らない。クラスで一緒の、接点も無い文学少女だ。

 だからだったのかもしれない、私が息をできたのは。彼女は私を見ていないから。彼女は、私を知らないから。

「……あなただって、私のこと、『優等生』だって思ってるんでしょ?」

「そうかな……確かにハナヤさん、いつも良い点獲ってるけど……先生も皆褒めてるし」

「でも、この間の一位は私じゃなかった!」

 そう言い放ち、柵を拳で叩きつける。びくり、彼女の肩が揺れたような気がした。

「二位でも三位でもないの。なんでもない、ごく普通の点数。こんなの獲ったら、私、お母さんに怒られて失望されちゃう。皆にだってそう。そしたら、私は、もう……」

「そ、そんな……私なんて、いつも中くらいの成績だし、成績くらいで──」

「成績が全てなの。良い成績を獲らなきゃ、誰も喜んでくれない」

 私が睨みつけるようにそう言えば、彼女は少し考えるように目を泳がせたあと、えっと、とつなぎ言葉を口にした。

「今の話を聞いて、私、思ってたことがあって。ハナヤさんって、イルカみたいだなって」

「は?」

「怒らないで、罵倒じゃないの……皆が褒めてくれて、写真とか撮って騒ぎ立ててくれる、そういう存在。だから頑張って空を飛んできたんじゃないかな、って……」

 彼女の言葉は詩的すぎて理解し難い。でも、私には分かった。空高く飛ぶ自分の姿が、想像できた。

 誰かのために、そして自分のために、空高く飛ぶ。他の魚と違って、私はパフォーマンスをする立場だ。常に見られていて、可愛らしい姿であることを望まれている。

 そして今も、空高く飛ぼうとしている。最後の瞬間まで、美しく。

 だとしたら、だからこそ、彼女に何が分かるのだろう。クラスの端で地味に本を読んでいる彼女に。誰かに見られることなんて気にしない彼女に。

 私は怒りにも妬みにも似た黒い言葉を吐き出して、彼女へと突き刺した。

「それはどうも。それで、どうやって私を止めるって言うの? 私の気持ちなんて分からないくせに!」

「気持ち、分かるよ。見世物にされてる感覚」

「どうしてあんたが──」

「私はたとえるなら……クラゲ。地味な子って烙印を押されて、クラスでいつも観察されるだけの存在。皆そうであることを望んでて、変なことをしたらすぐに咎める。だから静かにしてるの。ふよふよ泳いでるだけで、見られてる。ハナヤさんだって私のこと、その程度にしか見てないでしょ?」

 刃物をそのまま突き返される。図星だ。名前の一つも覚えないで、隅にいる文学少女として扱っていた。それが見世物だと、彼女は言うのだ。

「でも……私たちは人間だよ。私だっていつもこんなに静かにしてるだけじゃないし、ハナヤさんだっていつも優しくて何でもできるわけじゃない。だから、無理しなくて良い、と思う」

 そう言って彼女は片腕に手を当てて、私から目を逸らした。

 もしも私たちが人間なら。魚のように生きるのは、それはそれは堪えたはずだ。狭い水槽の中で、必死に息をして、生きて生きて……そうして、死のうとして。

 もしかして、クラゲとして生きている彼女もそうなんだろうか──そう聞こうとして、止めた。だって、私は彼女のことを何も知らない。

 私は柵から手を離し、柵に背中を預けた。そうすると、不思議と笑い声が漏れ出す。嗚呼、くだらない。なんでこんな簡単なことが分からなかったんだろう。私は見世物なんかじゃないって、どうして思えなかったんだろう。

 私は人間だ。魚なんかじゃない。魚には失礼だけど、私は魚のように観察される存在じゃない。ましてや私は誰かの見世物でもない。誰かのために生きなきゃ、誰かのために息をしなきゃいけないなんて決まりは無いはずだ。だから私は。私たちは、自分の人生を生きないと。

 空は青い。そんな海のような空を、空のような海を、白い雲が魚のように泳いでいる。私はずっとそう思っていた。でも、ここはそもそも水槽なんかじゃなかったんだ。肺が膨らんで、大きく息を吸い込む。

「……説得になってない、と思うけど……ハナヤさんは充分素敵な人だと思うよ、だから──」

「ううん、もう大丈夫。キツく当たってごめんね」

「……そっか」

 彼女がそう返すと、チャイムがちょうど鳴り響く。予鈴だ。女生徒はぱたぱたと慌てて本を片付け、眼鏡を掛け直し、下りる準備を始める。それから私のほうに向いて、ふわりとした声で尋ねた。

「ハナヤさんはどうする?」

「私も降りる。ここにいたら先生に怒られるからね」

 ぐしゃぐしゃになった髪をポニーテールに纏め直し、彼女と一緒に階段を下りていく。ここに来ることは、もう無いだろう。確かに息はしやすかったし、ここを降りたらまた苦しくなるかもしれないけれど、もう大丈夫。私はもう、水槽から外に出ることができたんだから。

 一緒にクラスに着くまでの間、私たちは他愛も無い話をした。なぜ屋上にいたのか、とか、次は何の授業だ、とか。でも、名前を聞くことは無かったし、彼女がなぜクラゲの話をしたのかも聞かなかった。なんだか、そういうものだと思ったからだ。

 しょせん、私たち海洋生物の生は一度交わったにすぎず、これは運命でもあり、運命ではないと、私は思う。

「それじゃあ」

「また」

 そんな軽い会話を残して、クラスへと戻った。クラスメイトが集まってくる。私のことを「優等生」だと思った彼らが。でも、別に私が自分を「優等生」と思わなくても良いじゃない?

 人生が交わった先、ほんの停車駅、私が手に入れたのは、心臓が脈打つような、小さな小さな勇気だった。

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イルカは空を跳ばない 神崎閼果利 @as-conductor

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