第14話 喫茶ホーリーにようこそ!
僕の新しい学校生活が始まった。
教室では今まで通り桜空さんと話すことはない。
けれど放課後は二人で過ごすようになった。特に遊び回るわけでもなく、図書室で本を読みながら話すぐらいだけど。
桜空さんは木曜日に習い事があるらしい。
その日は一人でボカロ関連の本を読みふけっている。
僕の日常に桜空さんが加わってからら一週間が
早かった。
そしてついに週末の土曜日が訪れる。
アルバイトの初日だ。
開店前に僕は従業員として、喫茶ホーリーの中を案内されていた。
カウンターの奥にはなぜかピザ窯まで用意されている厨房があり、その奥には業務用の冷蔵庫と洗濯機が置かれている。
こだわり抜いた内装といい、柊家のご両親は準備にお金をかけるタイプだったらしい。
ただ充実した設備を称賛する僕に対するカジュさんの呟き「……電気代」の一言がなぜか耳に残って離れない。
柊家のご両親の理想とは裏腹に、現実は残酷なようだ。
カジュさんが現実的で慎重なのは、無計画で前に進んでいくご両親の背中を見て、育ったからかもしれない。
とりあえずやってみるタイプの桜空さんはご両親寄りだろう。
親族経営の店らしく僕は店内を通って、住居スペースに足を踏み入れる。
つまり本当の意味で桜空さんの家に招待されたわけだが、のんびりしている暇はない。
僕は働きに来ているのだ。
開店までに色々と準備と説明がある。
住居スペースに案内されたのも、ずっと身内で店を回していたからだ。
従業員スペースが存在しないらしい。
家には年頃の桜空さんもいる。
従業員を募集するにも、よほど信頼できる人でないと雇えない。
急な話だったにも関わらず、僕が雇われた背景にはこんな理由もあったようだ。
ご両親の部屋を潰して従業員スペースにする。
カジュさんの私怨のこもった改装計画がまことしやかに存在するとか。
店の制服に着替えるため案内されたのも、ご両親の部屋だったから真実かもしれない。
「じゃーん! どうですか私のウェイトレス姿は?」
「可愛い。メイド服っぽいんだね」
「メイド服……今の感覚だとそちらですね。一応この手のデザインは昔からある女性用の給仕服ですよ。母が無駄にデザインにこだわって、仕立て屋に注文をかけていたんです。男性用もちゃんとしているので、早くハル君も着替えてください」
桜空さんがその場でくるりと回る。
白と黒のシックな給仕服。
スカートは長く、足を出すことはない。肩を出したり、胸元を強調するようなこともない。
ただ袖やスカートの裾、エプロンの縁などは細かくフリルで装飾されている。
引き締まった印象を与える腰周りの絞りや、歩きやすいように取り入れられたスカートのひだなど、細部にこだわりが感じられるデザインだ。
桜空さんの言う通り、男性用の給仕服にも手抜きはない。
姿見に映る僕の姿は衣装に着られている感が残るが、洗練されたデザインに自然と背筋が伸びた。
でも桜空さんは不満があったらしい。
「ハル君、ちょっと失礼しますね」
「桜空さん!?」
「やっぱりカジュ兄とは身体の線の太さが違いますね。身長や手足の長さは問題ないですけど、ちょっとダボッとしてます。これカジュ兄が中学生だったときに着ていた制服なんですけど」
「……カジュさん身体大きいからね」
「色々詰めるのは今度にしましょうか。今度はそっちの化粧台に座ってください」
急に身体中をペタペタ触られたかと思ったら、腕や腰や太ももなどの布地のたるみを確認していたらしい。
着ることができて袖や裾の長さしか気にしない僕とは大違いだ。
桜空さんのお母様のものだと思われる化粧台に座ると、髪の毛をパチリとされる。
鏡を見ると、僕の長めの前髪が桜の花びらのヘアピンでまとめられていた。
メガネを外した桜空さんが僕の顔を覗きこんでくる。吐息がかかるほどに顔が近い。大きな瞳でまつげが長い。
これだけ間近で見ても、やはり桜空さんは美人だ。
「あの桜空さん?」
「前から思ってましたけど、ハル君って肌も髪も綺麗ですよね。ケアとかしているんですか?」
「簡単には」
「簡単でこれですか? 肌はともかく髪は長年ケアしてないとすぐに影響が出ると思いますけど」
「母の影響で幼い頃から。と言っても妹のとばっちりだけど」
「柚希ちゃんの?」
「幼い頃の柚希はドライヤーとブラッシングが苦手でよく逃げ出していて。でも僕が代わりにされていると、柚希が自分もしてほしいと寄ってくるから。それ以降なぜか僕もつきあわされて」
「あっ! 柚希ちゃんの気持ちわかります。幼い頃は熱いし、じっとしているのが我慢できなくて。でも姉がやってもらっていると羨ましくて、私もやってもらいたくなるんですよね」
「桜空さんは柚希に共感するんだね。それでこのヘアピンはなに?」
ようやく顔の近さにも慣れて、ヘアピンのことをたずねることができた。
桜空さんはじっと僕の顔を見たままだ。
「そのヘアピンはプレゼントです。店に出るときは必ずつけてください。別に普段は前髪かきあげなくてもいいので」
「店に出るときは?」
「接客業なので長い前髪で顔を隠すのは問題があります」
「……なるほど」
言われてみれば納得するしかない。
衛生的にも好ましいだろう。
「あとうちの店は女性の常連客が多いんです。だから女物でも目立つアクセサリーをつけていたほうが顔を覚えてもらいやすく、客からの心象もよくなります」
「そういう効果もあるんだね」
桜空さんはこの仕事の先輩だ。
言うことを聞いておいたほうがいいのだろう。
それにしても女性の常連客が多い喫茶店か。柚希も来てみたいと言っていたし、本当に人気があるようだ。
初めてのアルバイトだけど大丈夫だろうか。
「桜空さんほかに注意しておくべきところとかある?」
「注意ですか? ちゃんと声を出してハキハキと喋るとかありますけど」
「だよね。接客業だし」
「あっ!? 伝えておくのを忘れていました」
「なになに?」
「美羽さんの髪の色を話題にするのは避けてください」
「美羽さんの髪の色?」
注意事項は仕事のことではなかった。
でも桜空さんがわざわざ伝えてくるということは大事なことなのだろう。
赤くて綺麗な髪だと思っていたが。
「本当は本人の口以外から風聴することではないのですが。ハル君が美羽さんに髪色のことを質問して、変な空気になっても嫌なので」
「変な空気になるのは避けたいね」
「ですよね。美羽さんの赤毛は地毛です。染めていません」
「それが話題にしちゃいけないの?」
桜空さんが深刻そうな声音だったので身構えたが拍子抜けした。
最近は赤みを帯びた髪染めもある。地毛は珍しいかもしれないが、珍しい色でもない。
避けなければいけない話題だろうか。
「美羽さんは高校時代に偏見持ちの無理解な担任に当たって、不登校に追いやられたことがあるんです。髪を染めて登校してきていると因縁をつけられてしまって」
「それは大変だったね」
「美羽さんは美人ですからね。目立った存在だったのでしょう。何度も呼び出しを受けて、髪を黒く染めてくるように強要されて。そのせいで周りからも偏見の目で見られてしまった。進学先が中学校時代の友達がいない高偏差値の進学校だったことも災いしたのでしょうね。一人きりで追い込まれて不登校になったらしいです」
「……そういう話は聞いたことあるけど本当にあるんだ」
「でもここからカジュ兄と美羽さんの恋が始まるんです!」
「えっ?」
桜空さんがワクワクしている。
ついさっきまでしてはいけない話題の話をしていたはずなのに。
女の子って本当に恋バナ好きだよね。
「美羽さんは紅葉姉の同級生で、うちの家族とは付き合いの長い幼馴染なんです」
「そ……そうなんだ」
「高校は違えど幼馴染。学校のことを聞いた紅葉姉は、美羽さんをよくうちの店につれて来ていた。そこで幼い頃に遊んだことのあるカジュ兄と再会するんです」
「なんか物語みたいだね」
「ですよねっ! カジュ兄は高校を卒業して料理修行中の身に。たまの休みの日にうちの店の厨房を利用して、料理の試行錯誤をしていた。そこに傷ついた幼馴染の年下の少女が現れる。なんか物語的な展開ですよね!」
「う、うん」
「カジュ兄も美羽さんのことを覚えていたらしく、毎回のように試作品と言い張り、新作のドルチェを用意する。美羽さんもそんなカジュ兄に会うために喫茶ホーリーを訪れる。そして紅葉姉が『お前ら早く付き合え!』とブチギレて、交際がスタートするんです!」
「……すごい状況になったね。学校はどうなったの?」
「病院に地毛だと証明してもらって、学校側の責任を認めさせたのだとが。そして学費を全額返還させたうえで、うちの高校に転校してきたらしいです。だから美羽さんもうちの卒業生ですよ」
「美羽さんも先輩なんだね」
桜空さんのテンションの落差が面白い。
恋バナのときはあんなに勢いがあったのに、美羽さんの学校の話は興味がないようだ。
始まりは髪の色の話題をするなという話だったはずなのに。
ただ桜空さんのことを少し理解できた気がする。
「桜空さんはカジュさんと美羽さんの関係に憧れているんだね」
「理想的な恋人同士ですよね」
桜空さんには理想とする恋愛の形が身近にあった。
奇しくもそれが現実的な恋愛を忌避する理由となってしまった。
頭に思い描くのはカジュさんと美羽さんという理想の形だ。
物語のような恋愛が常に頭の中にある。
最初から大勢の異性からモテたいという願望がない。
それなのに中学時代、勝手に持ち上げて無遠慮な愛の告白を何度も受けた。同じ学校の男子に対してなにを思ったのか。
おそらく現実の異性に失望しただろう。
だから恋愛は偽物でいいと割り切った。
理想の恋愛など不可能だから疑似恋愛に踏み切った。
疑似恋愛で自分の理想に近い恋愛を体験できればそれでいい。
相手を愛すことも、相手から愛されることも必要としていない。
僕らを二人とも本気にならない恋をしたい。
そんな考えを抱く同志に近いのかもしれない。
ただ桜空さんが思い描く理想の男性像はカジュさんか。
ハードルが高いな。
それから簡単な挨拶練習。
席番号。
メニューの呼び方にや伝票の取り方などの業務マニュアルを桜空さんに教えてもらった。
相変わらず指示出しや段取りが上手い。
喫茶ホーリーはモーニング営業をしていない。
通常営業もランチの時間帯のみ。ディナーは完全予約制だ。
喫茶店ではなくレストランのような営業時間だが、これには理由がある。
近々店を改装し、正式にイタリアンバルとしてリニューアルする予定があるらしい。
現在は準備期間中の営業だ。
そんな説明を受けているうちに時刻十一時。
開店の時間だ。
店の前にはすでに数人の客が並んでいる。いずれも若い女性客だった。
柚希の話ではこの虹見台には、ボイストレーニング教室のようなレクチャー教室が多い。
そのネットワークが侮れない。
喫茶ホーリーはすでにオシャレなイタリアンバルとして、口コミが広がっているみたいだ。
客に威圧感を与えたくない。
カジュさんはそんな言い訳してはあまり厨房から出てこないらしい。
そのため美羽さんがホールを取り仕切っている。
カフェコートに身を包んだ美羽さんが颯爽と店のドアの鍵を開けて、吊り下げプレートをオープンにする。
その仕草はどこまでも優雅で芝居がかっていた。
もちろん意図した演出だ。
並んで待っていてくれた客へのサービスである。
俗世界から切り離された日常を忘れられる喫茶店。
それが柊家のご両親から続く、喫茶ホーリーのコンセプトだ。
だからどれだけ忙しくても、余裕を持って接客しなければいけない。
そう桜空さんからレクチャーされている。
この店で働くならば常に見られることを意識するべし。
入り口の右側に立つ桜空さんを見る。
僕は左側に立っている。
目があい、二人で笑いあった。
最初の仕事はお客様のお出迎えから。
一日の始まり声を合わせると、二人で決めた。
とうとう最初のお客様のご来店だ。
『いらっしゃいませ。喫茶ホーリーにようこそ』
こうして初めてのアルバイトが始まった。
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