第9話 茜色の記念撮影

「……はぁはぁ」


「ハル君は少しベンチで休んでください。あまり時間はないですが、写真撮影は息を整えてからにしましょう。カバンは預かりますね」


 桜空さんにはそう言うと、ベンチの置かれた屋根付きの休憩スペースに僕を案内した。

 虹見展望台には他にはなにもない。

 先が崖上になっているので落下防止用の柵があるくらいだ。最低限の設備しかなく自販機などは設置されていない。

 でも夕焼けに染まった街を一望する景色は圧巻だった。


 桜空さんは自分のカバンからスポーツドリンクを取り出し、喉を潤している。

 僕みたいに肩で息をしていなかったが、やはり相応の疲労はあったらしい。 


「ハル君は飲み物を持ってきてますか?」


「……忘れた」


 山登り。

 そう聞かされていたのに、待ち合わせ場所のコンビニで飲み物を買い忘れていた。

 だから途中に店や自販機があればと探してはいたのだが、見つけられずにここまで来てしまった。

 まさか住宅街から少し登るだけで、こんな場所にたどり着くとは思っていなかった。

 桜空さんが半分近く飲んだペットボトルを差し出してくる。


「……え?」


「全部飲んでください。疲労が溜まっている状態で水分不足。帰り道で足をつりますよ」


「いや……でもこれ」


「私が口につけたものを飲めないというのですか?」


「そんな事はないけど……わ、わかりました」


 受け取ったペットボトルを前にためらう。

 間接キスなどと言えば、小学生かと呆れられてしまうだろう。

 でも気になるものは気になる。


「じぃーーーーーーーー」


 桜空さんが僕を見ていた。

 しかも自前の効果音付きだ。わざとらしく口で言ってアピールしている。

 どこか期待しているかのような視線に負けて、僕はスポールドリンクを一気に喉へと流し込んだ。

 甘い。

 買ってから時間が経っていて生温い。

 それでも身体が求めていたので美味しく感じる。

 気づけばペットボトルは空になっていた。


「空のペットボトルは回収しますね。虹見展望台にゴミ箱はないので」


「……ありがとう」


 桜空さんが僕を見ていたのは空のペットボトルを回収するためだったらしい。

 意識していたのは僕だけ。変な勘違いをして恥ずかしい。

 今が夕暮れでよかった。

 これならば顔が赤くなっていてもわからないはずだ。


「それじゃあ急いで撮影しましょうか。時間もありませんし」


「だね。今が一番夕焼けが綺麗な時間帯かな」


 今日は雨こそ降らなかったがかすみ雲が出ていた。空気中に水分が多く含まれていたのだろう。茜色の濃い空だ。

 暦の上ではまだ春だが、すでに夏の始まりを感じる。今年は暑くなりそうだ。

 僕がぼんやりと空を眺めている間に、桜空さんは撮影場所を念入りにチェックしていた。


「ちゃんと顔を写したいので逆光。夕日をバックにするのは避けるとして。でも順光だとせっかくの景色が入らないから。この辺り……うーん角度が浅くてちょっとサイド光気味かも」


「桜空さんはカメラにも詳しいんだね」


「ほとんどの人が高性能カメラを持ち歩く時代ですからね。扱い方ぐらい調べておかないと。本当はレフ板とかあればいいんですけど、さすがに持ち歩けませんし」


「……レフ板はさすがに持ち歩けないね」


 発想がガチすぎる。

 やっぱり桜空さんも映えとか気にするんだろうか。

 あまりイメージはないけど。


「よし! この位置なら露出補正最大にしていけそう。ハル君撮影しますからこの位置に立ってください」


「了解」


 指定された位置に立つ。

 すると桜空さんが僕の左腕に抱きついてきた。

 肘に触れる柔らかい感触。

 どこか甘い匂いが鼻腔に広がり、僕は遠ざかるように上体をひねる。


「ちょっとハル君。逃げないでください。ツーショット写真が撮影できないじゃないですか」


「……ごめん」


 写真撮影のためだとわかっているが色々とヤバい。

 一気に心臓もバクバク脈打った。

 あれだけ近づかれたら心臓の音まで桜空さんに聞こえただろう。

 恥ずかしくなって逃げてしまった。


「嫌がっているわけではないですよね。そんなに緊張しますか?」


「う、うん……かなり。柊さんは」


「桜空」


「……桜空さんは大丈夫なの?」


「大丈夫だと思いますか?」


 桜空さんははにかんだような笑みを浮かべながら質問を質問で返してきた。

 大丈夫そうに見える。

 見えるけれど桜空さんも緊張していたりするのだろうか。


「ハル君。私達がしているのは疑似恋愛です。理想の恋愛を疑似体験しているんです」


「……理想の恋愛を疑似体験?」


「はい! どうせ疑似体験するのであれば、理想的な恋愛をしたいじゃないですか。だから私は私が思う理想のヒロインを演じる。ハル君も理想の彼氏役……は私が指定した方がいいですね。えーと彼女に隠し事をしない誠実で一途な彼氏役を演じてみてくれませんか?」


 積極的な桜空さんの態度の意味がすとんと腑に落ちた。

 演技がかっていたのではなく、本当に演じていたのだ。

 桜空さんの小説に出てくるようなヒロインを。


 僕と桜空さんがやっているのは疑似体験だ。

 最初からそう言っていた。

 僕がその意味を深く考えていなかっただけ。要はゲームのキャラクターと同じだ。

 ゲームならば自分が思い描いた理想のキャラクターを演じる方がいいに決まっている。

 僕には恋愛のことも異性との接し方わからない。

 でも役割に徹することだけならば、できるかもしれない。


「わかった。理想の彼氏役……彼女に隠し事をしない正直で一途な彼氏役だね」


「私の方からグイグイいくと緊張するのであれば、ハル君の方から私の腰を抱き寄せるようにしましょうか? そうしてくれると私も片腕が空いて写真を取りやすいです」


「……了解」


 自分に言い聞かせて覚悟を決めた。

 背中を向けている桜空さんの横に並び、腰を抱き寄せる。


「……わぁ」


「大丈夫?」


「だ、大丈夫です! 自分から行くのはノリでいけましたけど、迫られる側になるとやっぱりドキッとしますね」


 桜空さんもちゃんと緊張はしていたらしい。

 それでも僕の方にゆっくり後頭部を近づけてきた。

 甘い微香が漂っているが、今度は僕も逃げなかった。


「それでは撮影しますね」


「うん」


 ーーパシャリ


 色々と葛藤があった割にあっさりと、ツーショットの写真撮影は終了した。

 ロケーションや構図を変えて何度か撮ってみたが、桜空さんがスマホの待受に設定したのは最初の一枚だった。


 夕焼けが美しい時間帯は短い。

 茜色が濃い時間帯はすでに終わりを告げて、もう宵闇の空が広がっている。本格的に夜が訪れるのはあっという間だろう。

 今日はもう下山するだけで終わりのはず。

 そう安心していると、桜空さんがさらなる爆弾を落としてきた。


「さて次は私の家に行きましょう」


「……え?」


「今、うちに両親はいないんですよね。世界一周旅行中で」


 僕が理想的な彼氏を演じることができた時間は夕焼けよりもさらに短かった。

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