Fish

尾津杏奈

Fish

 街はスモッグで煙っている。

 僕が月から帰ってきたのは昨日だったろうか。もう、何もわからない。


 窓をのぞく。ずっと下の方に、人が歩いているのが見える。

 窓は南向きの大きな出窓だ。人ひとり、優に座ることができる。僕はこの窓のためにこの部屋を買った。四年前だ。たぶん。ここだけが、他のビルに邪魔をされずに空を見ることができたから。

 僕は両手でひざを抱え、あごをその上に乗せる。そうして出窓に座って外を見る。そうしていると、感覚の全てが麻痺していくのがわかる。そのうちそのまま地上へと落ちていけるのならば、どんなにか幸せだろうと思う。今日は強くそう思う。

 僕は足と一緒に一冊のノートを抱えている。これは地球に存在してはいけないノートだ。月にあるべきはずのノート。僕は月の実験用住居モジュールから、このノートを持ち帰ってきた。そのために僕は月に行ったのかもしれない。

 ⎯⎯犯罪

 そう。これは犯罪だ。

 僕は国家の最重要機密を侵害した。僕はしかし犯罪者ではない。罪を買ったから。僕は僕の名前を名乗り、賄賂を払った。そして月へ行った。僕の嫌っている、そしてきみの最も嫌っている権力と財力を使って免罪符を買った。

 もしもきみがいたのなら、何と言っただろうか。何も言わずに僕をここから突き落としてくれていただろうね。僕には見えるんだ。ここから僕ときみが音もなく落ちてゆくのが。

 ああ、雪だ。これは初雪だろうか。

 そういえばきみは桜の舞い散るのが好きだったね。


 僕はキッチンで夕食のシチューを火にかけながら、開け放してあるドア越しにきみを見ていた。きみはリビングのディスプレイの前で、ひざを抱えて座り込み、まだ遠くにある桜前線についてがなり立てる気象庁の職員を見ていたね。

「天気予報って、嘘つきだ」

 そう言ってきみは、抱え込んでいるひざをまたかじりだした。むき出しのきみのひざは、あざのように赤くなっていた。

「しずか、ひざはかじるものじゃないだろう」

「うん」

 きみはちらりと僕を見て、いつもの同じ返事をした。そうしてまたひざをかじり出すんだ。いつものように。

 僕は小さいため息をひとついてから、あらためてきみを見た。

 きみはとても細い。十八歳男子の平均値と比べると、貧弱と言うしかないほどに。きみは川辺に揺れる葦に似ている。骨自体が華奢きゃしゃにできているように見えるんだ。それからきみの目はまるで子供のようだ。大きな茶色の目を、僕がこわいと思ったことがあるのを、きみは知らないのだろうね。きみの目に見つめられると、溺れていく感覚に襲われるんだ。全てをただ受け入れるだけのきみ。きみの淡い色の、少し長めの髪がそれを際立たせている。

 だから僕はあの頃、度の入っていない眼鏡をかけて、前髪を長く垂らしていたんだよ。溺れないために。きみに。

 そういえば、寒がりのはうのきみは、なのに真冬でもTシャツにショートパンツで過ごしていたよね。家の中では。

「しずか、ひざ」

「うん」

 生返事のきみは、まだひざをかじり続けている。

「ひざ、痣になってる」

「うん」

「何か気に入らないことでもあったか?」

「うん」

 きみはやっとひざをかじるのを止めた。

「角の桜は少し咲いてた。のに、サクラ前線は、まだまだだって。これ、嘘つき」

「嘘つきではないよ。気象庁が基準に決めた桜が開花していないだけの話さ。桜にもいろいろあるんだよ。きっと」

 僕はシチューをかきまぜながら言った。

「じゃぁ、角のサクラ、短気なんだ」

 僕は火を止めてシチューを鍋ごとダイニングへと運びながらきみを呼んだ。

「ともかくごはんにしよう。動画は閉じておいで」

 きみは動画を閉じて、テーブルの、いつもと同じ席に着いた。僕は、僕ときみのためにシチューをそれぞれの皿に取り分け、茶碗にご飯をよそった。お茶を汲んでから、僕もいつもの席に着いた。

 僕はシチューを一口食べる。けれどきみは食べない。いつもそうだ。僕はかまわずにゆっくりと食べる。少しすると、きみは僕に話しかけるんだ。いつも同じことを。

「学校、楽しかった?」

 僕は食べている手を休めずに答える。

「大学院は研究をするところだからね。とくに楽しいってこともないよ」

「勉強は?」

「まあね。好きだから」

「なにが?」

「勉強が」

「どんな?」

「全部だよ」

「ほかには?」

「特にはないね」

「そう?」

「そう」

信太しんた、俺さ、学校の話、聞きたい」

「話すことがないよ」

「なにも?」

「大学……いや、高校くらいまでなら何かしら話すこともあったのだろうけど、さすがにね。ハプニングもそうそう起こるわけじゃないし。勉強の中味だったら、僕がここでしずかに教えている内容と大差ない」

「おなじでも、いい」

「毎日が同じすぎて、ほとんど何も覚えていないんだ。それよりも、シチュー、冷めないうちに食べてしまわないとおいしくなくなるぞ。たくさんたべて、しずかはもっと太らないと」

 きみはスプーンを逆手に持って、シチューの真ん中に突き刺した。そして僕を一度キッと見据えた。

「信太、おなじこと、しか、言えない」

 そういうときみは逆手に持ったままのスプーンでシチューをすくい、口の中に放り込んだ。

 いつもと同じ。

 毎日、毎日、毎日、毎日、僕ときみはくり返す。こんなことばかりを。

 嫌になる。僕は僕が嫌いだ。

「そうだね」

 ぼそりと、僕はつぶやいてみた。

 それからしばらくの間、僕ときみは大人しく夕飯を食べ続けた。

 これもいつものことだった。


 そういえば僕は、月から帰ってから一度も食事を摂っていない。けれど空腹感はまったくない。きっと体が食物を必要としていないのだろう。

 ぼくはぼんやりときみのことを考えながら窓の外を眺めている。

 雪が降っている。それだけが見える。

 きっと寒いのだ。外は。こんな日には今でも凍死事故があるのだと、いつしかニュースで見たことがあるのを思い出した。

 一見ここは完璧な街に見える。けれど賑やかな場所を少しでも外れると、ホームレスの姿が目につくようになる。そんな人たちが悲しい運命を辿るんだ。こんな日に。

 そういえば、きみのお母さんが死んだのもこんな日だったっけ。きみは彼女のことが嫌いだといつも言っていたね。けれど彼女の遺体の前で泣きじゃくっていたきみを僕は見ていた。アルコールに溺れた彼女は、人通りの少ない細い路地で酔い潰れた。見つかったときにはすでにつめたくなっていた。死後三日も経って、やっと巡査に発見された彼女からは、少しでも金目のものに見えるようなものは消えていた。安物の、メッキの指輪さえも。

 そうそう。きみの父親と僕の父は学生時代からの友人だったんだ。きみは知りはしないだろうけれど、きみが生まれた日、僕は面会に行ったりもしたんだ。もうすぐきみは十八になるのだから、そのとき僕は六歳だったんだね。ともかくきみの父親と僕の父は、お互いに良きライバルだったそうだ。僕はきみと、そして僕よりも二つ年上のきみの兄とも、本当の兄弟のようだと言われて育ってきたよね。きみの父親が、政治汚職に係わって摘発を受けるまで。

 きみは伸びやかだった。きみの兄は聡明だった。きみの母親は朗らかだった。きみの父親は穏やかだった。けれど、検察がきみの家にやってきたその日、きみの父親は拳銃で自らの頭を撃ち抜いた。きみの母親の歯車はかみ合わなくなった。きみの兄は姿を消した。十三のきみは、父親の死体の前で、ただ呆然としていた。

 その一年後、僕はきみを僕の家に呼び入れた。実質、きみの母親がきみを追い出した。彼女は酒に溺れて、きみも世間も顧みなくなったから。それから一年もしないうちに、彼女は死んだ。

 以来きみは、ほとんど過去に触れることはなくなったね。だから僕も過去のことをきみに聞いたことはなかった。きみの兄のその後を知ったときも。


 だからしずか、僕は未だにノートを抱えたまま。窓から外を見ているんだ。動くことすらできずに。


 夕食のあと、僕はきみに一般常識を少しと、宇宙に関する知識を少し教えていたよね。とはいえ、僕が一方的にまくし立てて、きみはただ聞いているだけだったのだけれど。


 そういえば、僕の家には椅子がほとんどない。ダイニングに二脚、テーブルと揃の味気ないもがあるだけだ。テーブルもそれひとつきり。僕は椅子に座るよりも床に座っているのが落ちついたから。きみも椅子をほしがらなかったしね。それから、僕もきみも、家の中では裸足でいたよね。

 フローリングの上に散乱したクッション。床に直置きした大きなディスプレイを前に、きみは足を抱えて座る。僕はあぐらをかく。そして、つまらない動画を流し続ける。ただじっと僕もきみも画面を見つめていた。会話が、続かなかったからね。


 あの日も、ディスプレイの中のニュースでは、演者が月移住計画についてがなり立てていた。

 僕はね、実はその計画をずいぶん前から知っていたんだ。だから、僕はそれを気にもとめていなかった。きみに、それについて聞かれるまで。

 ディスプレイには、月に建設された実験用住居モジュールの映像が映し出されていた。

「これ、信太の、会社?」

「その質問に答える前にはっきりさせておきたい。何度も言うようだけれど、会社は僕のではなく、父の、だ。僕には関係ない。いいね」

「うん」

「で、答えはノーだ。この計画に使用される住居モジュールは、父の会社が開発したものではないよ」

「住居モジュール?」

「人が住むところだよ。組み立て式の住宅みたいなものさ」

「家」

「そう、家だ。今回の月移住計画は、火星デラフォーミングの予行演習みたのなもの。ほら、ニュースでも言っているだろ。でもこの計画については、あまりいい噂は聞かないな」

「テラフォーミング」

「火星を人間が住めるように改良していくんだ。そういうプロジェクトがずっと前から進行している。それを推し進めている科学者達は『修復プロジェクト』なんて呼んでね。消えた夢を取り戻すのに躍起になっているのさ。火星には大規模な流水による水路のあとが無数に残っているしね」

「火星の川」

「太古の干上がった川さ。十億年前のまぼろしだよ。過去の火星には千五百メートルの深海があったのかもしれない。濃密の空気もあったのだろう。そしてそこに生命が発生していたのかもしれない。でも今、海も川も火星にはないよ」

「川の、死骸」

「川の……何だって?」

「ううん。話、つづけて」

「……そう。たとえその証拠を発見することができたとしても、結局は過去でしかないわけだし、今の火星について冷静に考えてみれば、理想との距離のあまりに遠いことに気付くはずだね。それは途方もないことだよ。大気はないに等しい。平均表面温度はマイナス六十三度。水圏はない。太陽紫外線は容赦なく降り注ぐ。そんな、過去に死んだ惑星にいったいどんな力が残っているというのだろう。緑溢れる第二の地球なんて永遠にできはしないさ。スペースコロニーの地上実験も失敗しているし」

「科学が」

「科学、科学ね。科学が本当に力を持っているのならば、地球はこんなになりはしなかったろう」

「そうだね……」

「割れたたまごは戻らない。火星の進化の時計を逆回転させることはできないよ。テラフォーミング計画なんて、ただの感傷だよ。さんざん地球を食い散らかしておいて、砂糖にたかる蟻ではあるまいに、食い潰したら次の餌ですなんて考え、馬鹿げているね」

「そうだね」

「たとえ火星移住ができたとして、太陽は膨張を止めない。いつしか太陽系は崩壊する運命なんだよ」

「……希望……が、あるんだ」

「希望……そうだね。そう。過去の地球にも先を見る目のある人はいたと思うよ。でも、その人達が精一杯あがいた結果が今だ」

「……うん」

「これを希望と呼べるのかどうかわからないけれど、僕はただ、ここからこれ以上、宇宙に毒をまき散らして欲しくないんだ。太陽がいつか地球を飲み込む日が来るまで。それにたとえば、巨大なタイムスケールを以てすればテラフォーミングが成功すると仮定して、人類がその目で成功をみることは不可能だと思うね」

「どうして?」

「成功よりも滅亡のほうが先さ」

「そんなこと、ない……と、思う」

「あるよ。そうあってほしいね」

「でも俺は、遠くへ、地球より外の、ずっと遠くへ、行きたい。ただ、それだけが希望」

きみは静かにつぶやいた。僕はそれを聞き流して、僕の言葉を続けた。

「人類はこのまま静かに滅んでいくことが、地球に対してのせめてもの罪滅ぼしだと、僕は思っているよ」

「俺は、ただ……いきたい」

 きみはしばらくの間、景気について話すキャスターの動きをじっと見ていたね。

「この先景気は悪くなる一方だよ」

 僕が言うと、きみはディスプレイの電源を引き抜いて、またひざをかじりはじめた。

 僕はそれを止めることもできずに、暗くなったディスプレイをじっと見ていた。


 僕ときみの話はかみ合わないことが多かったね。きみは喋るのがとても苦手ですぐに口ごもってしまうし、僕は聞くのが苦手で、きみが喋り出すより早く次の言葉を発してしまうから。それはきみと僕の生きるスピードの違い。それだけのことなんだけれど。

 知識については、僕はきみに教えられる全てを教えていたし、きみはきみでたくさんの本をゆっくりと読み干していった。そしてその全てを確実に理解していったよね。ひとよりも明快に。

 きみは中学にも籍を置いていただけでほとんど通っていなかった。出席日数は二桁にも達していなかったのではないだろうか。きみの体質が学校には合わないようだったから。教師達は理解するのに時間を必要とするだけのきみを、理解する能力の全くない子だと決めつけて、自分たちのクラスから追い出したがっていた。馬鹿げているよ、そんなこと。

 そういえばきみは動画を見ていないときは、じっと考えごとをしていたりノートに何かを書き込んでいたりしていたよね。僕は意味の字を一度も見たことがない。もちろんノートに何が書かれているかは知らない。特に知りたいとも思わなかった。


 その日も僕はどこへ行くでもなく、きみと動画を見ていた。どのプログラムを見ても月移住計画のことを取り上げていた。 

 僕は気分が悪かった。未だこの計画には未知数の部分が多いにもかかわらず、移住希望者を民間から募るというのだから。生命の保証なんてできる状況でもないだろうに。それをきみが真剣に見つめている。正直言って、ゾッとしたね。

 僕の父は宇宙産業に関連する事業をしている。今、地球の衛星軌道上を飛んでいる衛星や宇宙ステイションの多くは、父の会社の製品だ。だから僕の耳にも宇宙関連の情報は、機密も含め、いち早く入ってくるんだ。この移住計画について僕の耳に入ってくる噂は、良いものではなかった。

「人間が、月で暮らすの、は、難しいこと、だろうか」

 きみがディスプレイから目を離さずに言った。

「難しいだろうね」

「不可能、だろうか」

「不可能ではないだろうけれど」

「この計画、うまく、いくのかな」

「疑問だね。あまりいい噂は聞かない」

 きみはキッとディスプレイを睨み見た。

 僕はきみを見た。きみは真剣な顔だった。真剣な顔で計画について話す政府関係者の顔を見ていた。

「月と、地球、どこが違う、の、だろう」

 突然きみは、ぼくを見て言った。目が合った。僕はきみの目から、さりげなく見えるように、けれど素早く逃げながら答えた。

「月は衛星で、地球は惑星だ」

 きみは僕の目をじっと見ていた。

「月も、地球も、太陽の、反射物。自分で、光ってるの、じゃない。それは、おなじ」

 政府機関の関係者の声が、僕の中で意味を成さないでいる。

「そうだね。けれど月には大気がほとんどない。水もない。地球はそのどちらをも、命を育むに足るほど有している。大きな違いだよ。だからこそ地球では生命が誕生した」

 「うん。でも、月も、地球も、おたがいが、おたがいの、闇の中の、光」

 揺らぐ。揺らぐのは僕。風もないのに。

 きみはまだ僕の目をじっと見ていた。そして、

「俺ね、さかなになりたいんだ」

 突然微笑んで言った。

「海原へ、出て、いきたいんだ」

「魚? 海原?」

 僕は今もまだその意味を受け取れないでいるよ。

 僕は眉間に皺を寄せてきみを見た。きみの目がさっと曇った。きみはくるりとディスプレイに向き直ると、ひざをかじりだしたんだ。

 結局その日は、それからひと言も口を聞かずに終わってしまったね。


 その次の日だ。きみがこの部屋を出たのは。そして四日間、きみは帰ってこなかった。

 その四日間の僕の記憶は曖昧だ。

「何かあったのか」

 きみが帰ってきたとき、僕はまずこう聞いた。

「ない」

きみは答えた。それで終わり。きみはそのままディスプレイの前に座った。僕はそれ以外、何も聞かなかった。違う。聞けなかったんだ。

 ただ動画だけが、月移住計画についてがなり立てていた。


 ああ、まだ雪が降っているよ。珍しいね。ここのところずっと暖冬が続いていたから、こんな雪は久しぶりだ。

 僕は、これがみんな桜だったらいいのにと思う。

 ばさり

 と、僕のすねと腕の間から、きみのノートが滑り落ちた。

 そして僕は、そのときはじめてきみの書いた文字を見た。⎯⎯心臓を握りつぶされる⎯⎯そんな文字だ。きみの字は。決して上手くはない。例えてみるならノスタルジックな……何か違う。懐かし……そんな感じかもしれない。

 こんなことをきみに言ったら、きみはどんな顔をするのかな。

 僕はノートを拾い上げた。日記……日記だね。日付は入っていないけれど。日付の代わりにピッと真っ直ぐに引かれた一本の横線が引っ張ってある。どうしてきみはこんなふうに日記を書いたのだろう。

 そうか。きみはずっと日記を書き続けていたのか。なんだか意外だね。

 僕はペラペラとノートをめくった。終わり近く、突然現れた真っ白なページ。そこから先には何も書かれていなかった。

 僕はしばらくそこを眺めてから、最初のページを改めて開いた。

 大きく呼吸をする。

 それからゆっくりと読み始めた。


 今朝、俺あてに本が届いた。柴野しのとも子の『わたしはさかな』。封筒の差出人にはただ「わたはさかな」「海からの伝言」とだけ書いてあった。厚い本ではなかったのですぐに読み終わった。この中では芙蓉ふようがいちばんいいと思う。特にこのセリフが好きだ。

「月はみず、

 夜はうみ、

 わたしはさかな」

俺も芙蓉みたいにさかなになれたらいいのにと思う。そうしたら、どこまでだって行けるのに。

 今日、信太がテラフォーミングの話をしてくれた。信太は過去がどうだとか、人類がなんだとか、文句ばかり言っていた。でも俺はそんなことなんてどうでもよかった。そんなのが成功してどうだっていうよりも、俺が生きているうちに火星まで行けるようになるんだったら、それでいいと。俺はここからどこまでも遠くへ行けるんだったら、何だっていい。ただ、それだけなんだ。


 僕も『わたしはさかな』は読んだ。きみのあとにね。

 僕にとってはただの恋愛小説でしかなく、決してそれ以上でもそれ以下でもなかった。僕は芙蓉についてほとんど覚えていなかった。きみの好きだという彼女の台詞も全く覚えていない。服の色は覚えているのんだけれどね。雨上がりの日曜の朝のような白。彼女は白が好きだった。僕はそれだけは覚えていた。

 雪はまだ降っているよ。きみが今ここにいたのなら、この窓にかぶりついて降り続く雪を見るのだろうにね。そうしたら僕は滅多に見られない、きみの笑顔を見られたのかな。残念だな。

 僕はノートの続きを読むのに戻った。


 昼が終わったら、宇宙開発事業団の事務所に行こう。宇宙へ行けるんだったら何だってかまわない。信太には言わない。絶対反対するから。信太は俺の話を聞いてくれない。話をしても取り合ってくれない。信太はたくさんのことを知っているから、だから反対する。それは俺にだってわかっている。信太は将来を見る。冷静になれる。

 俺は自分のことがわからないから、だから、いきたい。自分のことが知りたい。ここより遠くに、すっと遠くに、遠くに、遠くい、遠くに、遠くに行きたい。それができるんなら、それだけでいい。信太がなんていうのか知らないけど、俺は冷静なつもりだ。このまま何もしないよりも、思ったまま行動を起こすほうが、価値はずっとある。このままここで、信太との毎日をくり返すだけじゃ、俺は何もできなくなる気がする。それは嫌だ。現に俺は、信太がいないと何もできない。このままでいれば、きっと安全な毎日が過ごせると思うけど、それだけかなって思いだしたら、何だかこわくなってきて、だから、ここを離れてこの不安を消すことができたらって思うんだ。俺みたいなのが選ばれるかどうかわからないけど、とりあえず目の前にあるチャンスを捨てることはできない。信太の心配がわからないわけじゃないけど、でも、ダメだ。俺も、芙蓉のようにさかなになりたい。


 しずか、僕はきみがうらやましい。

 僕も小さな頃は宇宙飛行士になりたいと思っていたんだ。そのための勉強もしていたしね。

 いつからだろう。僕はそう思うことが、とても愚かしいことだと感じるようになってしまったんだ。おかしいね。あれだけ強く願っていたのに、僕は思い込みの現実と戦ってみることすらしなかったんだ。不戦敗さ。

 ⎯⎯体裁

 こんな言葉が僕の口から飛び出しはじめたときから、僕は駄目になってしまったのかもしれないね。

 僕にも生活がある。いつかは父の会社を継ぐことになるのだろう。それが僕の義務だと思っている。その全てを捨ててまで追っていけるほど、僕は価値があるものを見いだせていたのか定かではないから。僕は現実をしっかりと把握しておかなけれぼ。

 こんなことをくり返し唱えながら、僕は逃げ出していたんだね。僕の夢から。

 ところで、現実とは何なのだろう。

 僕は窓の外を見た。

 雪は、まだ降り続いている。


 兄に会った。兄も宇宙開発事業団の事務所に来ていた。月に行くために来たんだと言った。俺は審査が終わったらすぐに信太のところに帰るつもりだったけれど、兄のホテルに一緒に泊まることにした。

 俺は兄とたくさん話した。兄は海の近くに住んでいるのだと言った。珊瑚がとてもきれいなのだと話してくれた。それと『わたしはさかな』の芙蓉はいいと言っていた。兄は「芙蓉が信じたものに対して、真っ直ぐなところがすきなんだ」と言った。

 俺もそう思う。

 それからお兄さんは、自分は「仕事のために月に行かなくちゃならないんだ」と言って、俺に「芙蓉がどうして白がすきだったのか、知っているよな」と聞いた。だから俺は「うん」と答えた。兄は「そうか」と言ってうつむいた。


 僕の心臓はとても大きな音を立てている。きみが志望しのぶさんと会っていただなんて。

 僕は彼を知ってはいた。


 兄も俺にたくさんのことを教えてくれる。兄は俺の話を聞いてくれる。時間をかけて。むずかしい顔はしないで、俺のそばにいてくれる。でも、兄のカテゴリーは俺とは交わらずにずっと遠くのほうにある。それでもこの人は俺の兄だ。俺のことを考えてくれる。信太とは別の方向から。それはわかる。だから俺は兄も好きだ。

 兄は考える。芙蓉がうみにいったのは、芙蓉の考える理想世界が、うみの向こうにあったからだと。でも俺は、芙蓉はうみにいきたかったから、うみに向かっていたんだと思う。芙蓉にとってはそれ以外のことはどうだっていいことなんだ。うみにさえ、いくことができるのなら、それだけでよかったんだ。俺はそう思ったから、兄に思った通りのことを言った。

 俺はうみにいきたかった。

 しばらく兄はじっと俺を見ていた。風が吹いて、兄は俺を抱きしめた。背中が痛かった。俺は動けずにいた。兄の体が小さく揺れていて、兄のあごが押しつけられている肩が熱かったから。

 父も、母も、俺のことを大切にしてくれていたし、だからきっと、兄も俺のことを大切に思っていてくる。信太


 この、僕の名前のあと、きみがきみの心中なかに隠してしまった言葉はいったいなんだったのだろう。こんなことを聞くことすら、もう叶わないなんてね。あのとき、きみと止めて、力尽くでもきみを止めて、恨まれて一生を過ごすほうがずっと楽だったかもしれない。

 窓に押しつけている指先が冷え切ってしまった。今にも崩れてしまいそうだよ。

 僕に月に行くのを止められたきみは、いつの日か僕と真っ直ぐ向き合ったあとに、顔色一つ変えずに、僕のことを殺してくれたのだろうね。迷いなく。欠片の迷いもなく。きみが。きみが僕を。きみが。そのときの僕には、苦痛はないのだろう。きっと。その前にはもう、僕は死んでいるはずだから。僕の魂は。


 今日、結果を聞きに、宇宙開発事業団の事務所に行った。合格していた。俺は宇宙へ行ける。宇宙へいけるって思ったけど、信太は何て言うのだろう。ちょっと心配だ。出発は二ヶ月後だそうだ。とても急だ。出発の一ヶ月前からいろいろな訓練をするのだそうだ。そうすると、信太といられるのはあと一ヶ月だけだ。あの窓も見られなくなるんだ。信太に会えなくなるんだ。


 きみがいない間、垂れ流していた動画から流れ続ける月移住計画の特集のように、僕はいつもの変わらない生活をリピートしていた。足りないものはきみだけだった。でも僕は、きみは必ず帰ってくるものだと思っていたから、特に気にせず、淡々と日々を過ごしていたんだ。淡々とね。

 演者達は、夢が現実になっていくということに浮かれていた。そしてそのキイキイ声は、ぼくにきみが何を考えて行動をしているのか考えることを忘れさせたんだ。

 増えすぎた人口や諸問題を解決するために施行される計画を、危険性が指摘されているにもかかわらず、現実に反映されることを望む人々。山積みにされたごみ問題や、環境破壊を筆頭とするそれこそ様々な社会問題。政治問題。通わない心。解決の糸口すら見えない民族間の紛争。そもそも人間の違いなんて、誰が枠付けしたのだろう。

 そう。この計画は、今という問題に対するスケーブゴートだったのかもしれないね。表では科学の発展を誇りながら、歪んでしまった現実を直視しないために、みんなが生け贄としてのこの計画を必要としてしまったのかもしれない。馬鹿げているよね。本当に。


 最後の日、兄が芙蓉の話をした。そのとき兄は俺にこう言った。「芙蓉は幸せだったのだろうか」だから俺は「幸せだった」と答えた。

 兄は続けた。

「夢を見て、ひとりでうみにのまれていった。芙蓉は、何よりもひとりになるのを畏れていたのに、あのとき、なぜ、ひとりでうみに出ていったのだろう」

「芙蓉の一番の望みは、さかなになることだったから」

 俺がそう言うと、兄は「そうだな」と言って、真剣な顔でうつむいた。とっても真剣な顔だった。

「芙蓉は……芙蓉は本当に悔やんではいなかったのだろうか。結局は懐かしい人の手で殺されたも同然なのに」

 兄が言ったから、だから俺は言った。

「芙蓉の望みはさかなになることだから、それだけでよかったんだと思うよ。さかなになれれば、それだけでよかったんだよ。だから海に行ったんだ。芙蓉の望みはそれ以上でもそれ以下でもなかったから。芙蓉はさかなになれさえすればよかったんだ。兄さん、芙蓉はうみのなかで、あんなにも静かな気持ちになっていたじゃないか。悔いはないよ」

 兄は少し間を置いて、静かに「そうか」と言った。

 その日の夜遅く、俺は信太のところへかえった。信太はなにも聞かなかった。俺がこのことを話したら、頭ごなしに反対されるだろう。わかってはくれない気がする。でも、明日言おう。


 僕は、きみが月へ行くことになったと告げたとき、きみの考えたとおり頭ごなしに反対した。

「今すぐ断るんだ。正気の沙汰さたじゃない」

 きみは僕の目をじっと見つめていたね。

 だから僕はよけいにイライラしながらまくし立てたんだ。

「二ヶ月後に出発だって⁉ そんな馬鹿げたことがあるか! 全く訓練を受けたことがない素人を、たった一ヶ月の訓練だけで宇宙に行かせるなんて、正気の人間の考えることじゃない。危険だ。危険すぎる!」

「うん」

「きみはもっと冷静にならなければならないよ」

「俺は、じゅうぶん、冷静、だよ」

「だったらなぜわからない」

「いきたいから」

「こういう計画を施行する場合は、民間人からではなくてしかるべき訓練を受けた人材を送るのが本筋じゃないか。そう考えただけでも、この計画の不自然さがわかるだろう」

「うん」

「じゃ、断るんだな」

「ううん」

「しずか!」

「俺、いきたいんだ」

「だからなぜ」

「ここを、離れて、みたいんだ。ここから、出て、みたい」

「何が不満なんだ!」

「ない。だから、いきたい」

「そんなもの理由じゃない! くだらないことばかり言っていないで本当の理由を言えよ!」

「くだらない、だって⁉」

 きみは僕をキッと睨んだ。

 僕はそんなきみの言葉も視線も投げ捨てるように、僕の言葉を続けた。

「意味のない言葉ばかり重ねていないで、いいかげん本心を言えよ‼」

「信太の、そういうとこ、嫌い!」

「何だと! もう一度言ってみろ‼」

「なんべんだって、言ってやる‼ 信太、なんか、大っ嫌い‼ 自分、本位で、強引で、勝手で……!」

 僕の手が、反射的に動いた。

 一瞬のことだった。

 僕は肩で息をしていた。

 右手がじんじんと痛んだ。

 おそるおそるきみを見た。

 きみは、これ以上開けられないだろうというくらい、大きく目を見開いて、口をぽかんと開けたまま、真っ直ぐに僕を見ていた。

 左頬が赤く腫れていた。

「ごめん」

 僕はつぶやいた。きみは僕の目をじっと見たまま、二、三回瞬きをしてからゆったりとうつむいて言ったんだ。

「……一ヶ月、しか、ないのに……」

 きみは何かを小さく飲み込んでから、時間をかけて顔を上げた。そして僕に視線を合わせて、もう一度、何かを飲み込んだんだ。きみの目の中でたくさんの光が乱反射をくり返していたね。

 きみはひとりごとのように言った。

「俺の、ひとりで、いける、最後の、チャンス……なんだ」

 少しの間、僕はきみになんと答えていいのか迷っていた。

 僕はうつむいて、きみに聞いた。

「もう、撤回はしないんだね」

 言い終える前に、僕はキッチンへと早足で歩いて行ったんだ。剥がれ落ちる僕の表情を、きみに、きみにだけは見られないように。

「うん」

 背中に、きみの答えが突き刺さった。

 だから僕は鍋を取り出して、作り置きのホワイトソースをぶち込んだ。

「夕食、アーティチョークのスープだから」

「うん」

 僕もきみも、それっきり何も聞こうとはしなかったね。何も、どんな小さなことも。

 ただ静かに、静かに、まるで凪の海のように、僕たちは最後の一ヶ月を過ごした。激しい海流を、その下に抱えながら。


 信太、怒っていた。反対された。

 わかってもらえない。わかっていた。宇宙へ行きたい理由を、俺がはっきりと言えたらと思う。でも、それは、俺にだってよくわからないことなんだ。俺は、いきたい。ただ、いきたいと思うだけ。それだけなんだから。

 ここはいつも春の日の日曜日みたいで、とても居心地がいい。このままここにいたら、俺はきっと何もできないまま終わってしまうような気がする。きっと信太といっしょにいたら……ただ、いっしょにいるだけで、俺はきっとしあわせなままでいられると思う。それは胎児のうたた寝ににているんだ。子宮のなかでくり返すだけのそれを、誰も、人生とは言わない。


 僕はきみのノートを読み続けている。

 ただ、静かに。

 きみのノートは語る。

 きみの語らなかったこと。

 僕の語らなかったことをも。

 僕ときみの、最後の一ヶ月を。

 あの静かな一ヶ月を。

 何もするでもなく過ごした時を。

 ゆっくりと、穏やかに。

 書いては消して、文字は見えない。

 三十一行の空白。

 まだ、雪は降り続いている。


 きみが消えたのは、よく晴れた春の日だった。

 きみが家を出たとき、僕は出かけていた。きみの出ていく日を知らなかったわけではない。よく、知っていた。だからこそ僕は、きみの起きる前に家を出た。国立図書館で、用もない美術書を巡りながら、僕はきみの目ばかりを思いだしていた。

 どれだけのページをめくったときだったろう。クリムトの、ほら、題名は忘れてしまったけれど、有名な絵。男女が抱き合うのを描いたあの絵。きみも好きだったよね。それが載っているページに押し花上になった古い桜の花が一輪挟まれていてね、それがきみから伸ばされた手のように思えて、僕はきみを力尽くでもここに留めておきたいと考えたんだ。

 行動には、移せなかったけれど。

 僕の指が花に触れて、そして持ち上げようとしたそのとき、桜の花は僕を拒絶するかのように崩れて落ちた。きみのように。僕の胸で固まっていた異物は、きみが僕を拒絶することへの恐怖だったような気がするよ。いまさらだけどね。きみが消えることよりも何よりも僕が恐れていたのは、きみに拒絶されることだったんだ、きっと。きみに拒絶されること、それは、僕の中で押しつぶされてしまった、きみと似た何かを全て否定してしまうことのように思えたから。だからきみを止めることをしなかったんだ。自分のエゴのためだよね。こんなの。

 それでも僕は、何とか昼過ぎには家に帰り着いたんだ。ひと言でも、きみに何か話そうと思ってね。でも、きみはいなかった。まるで目が覚めたときに、見ていたはずの夢を全て忘れてしまっているときの感じだったよ。あのとき、玄関を開けたとき。ただ、歌だけが、エンドレスでながれていたあの歌だけが満ちていた。きみが機嫌のいいときに鼻歌交じりに歌っていた曲だった。「天国行きに遅れないように」そんな内容の曲じゃなかったっけ。底抜けに明るいメロディが、ただ、とても痛かった。

 その日以来、僕は全てのメディアを遠ざけた。


 明後日出発する。今日、信太に電話をするかどうかで、とても迷った。結局しなかったけど。

 今日は訓練所の中で、初めて兄と会った。俺がいつも会うのは、訓練チームの人たちだけだ。俺のいるチームは全部で四人。女性が一人混じっている。兄のいるチームは男ばかり三人なんだそうだ。みんな雑談はしないのでつまらないと兄は言っていたけれど、俺はなんとも思わなかった。

 明後日、出発する。

 月に行く人は科学者や技術者も含めて、全部で二十人だ。


 月への移住実験のメンバーが出発をした日の夜、ものすごい風が吹いて桜が散った。


 ずっとひとりで部屋にいる。音楽を聴いたり、本を読んだりしている。眠る前の健康状態の検査以外、仕事もなにもない。

「月」だと思うと、なんだか顔がにやけてしまう。半地下の住居なので地球を見るとか、星を見るとか、そういうことは一度もできてはいないのだけど、微重力の中にいられるだけでいい。宇宙線とかの影響を考えると仕方のないことだと思っている。

 兄にはなにかしらの仕事があるみたいでなかなか会えない。

 なんだかとっても眠い。


 月への移住者が出発をしてから数ヶ月が経った頃、父から電話があった。

「信太ひさしぶりだな」

「はい」

「元気か」

「はい」

「しずか君が……月へ行ったそうだな」

「はい」

「なぜ止めなかった」

「止めました」

「言葉でだけか? それだけでなく、どんな手段を使ってでも止めるべきだった」

「はい」

「お前も、人類が宇宙に新絀するのに反対しているグループがいくつかあるのは知っているだろう」

「はい」

「この計画には、そいつらが噛んでいる可能性があると、前にも話したはずだ」

「……はい」

「裏が取れた。うち独自の調べでな。信太、この計画そのものが、奴らの仕組んだ狂言だったんだ。宇宙開発事業団の首脳陣の大部分が、グループのメンバーだった。それも一番過激な抗議行動を起こしているグループの、だ。奴らは見せしめのためにこれを仕組んだ」

「……」

「これが、何を意味しているかわかるか?」

「……宇宙開発に付随する危険性を国民に理解させるために、彼らなりにデフォルメしたのでしょうね」

「思いついたことか?」

「いえ」

「いつだ」

「前に父さんから話を聞いたときに。……それと、しずかから日程を聞いたときにも」

「だったらなぜ」

「わかりません」

「……」

「……」

「そうか」

「はい」

「……最後だ。ひとつ聞いていいか?」

「はい」

「この流れを止められる者はもう誰もいない……が、悔いはないのか?」

「はい……と言い切ることができたら、どんなにいいかと思っているところです。正直なところ、僕にもわかりません」

 そういって僕は通話を切った。

 手が震えていた。胃の奥の方からも震えが上がってきた。視界がにじんでいった。僕はただ、歯を食いしばっていた。喉が痛かった。


 月の恐怖。

 科学者や技術者も含め、月移住者十九人全員死亡。

 そんなニュースが流れたのはとても暑い日だった。僕はそれを大学の研究室で知った。後輩たちがそれを肴にガヤガヤと騒ぎ続けていたのを覚えている。宇宙開発事業団の首脳陣は、その日のうちに総辞職した。


 僕が月へ行くことができたのは、それから半年近く経っていた。その頃には宇宙開発事業団の元首脳陣の大部分が、この国から姿をくらましていた。

 月の施設は基本立ち入り禁止になっていて、最初に処理に向かった一団を除いて、ほとんど誰も立ち入ってはいなかった。表面的には。

 そんな月の施設に、僕は父を頼って訪れた。

 月の全ての施設では、酸素は供給されてはいたが、宇宙服の着用が義務づけられていた。感染を危惧してのことだ。そして、当然のことではあるけれど、二十ある住居モジュールの中に残されていた移住者たちの私物はあらかた片付けられていた。

 だから僕は、きみのノートを引出の隙間から見つけ出したとき、神様のことを信じようかとも思ったんだよ。懐古主義者でもないのに。


 今日、俺の部屋に兄が来た。俺は兄と芙蓉の話をした。兄は言った。

「魚になった芙蓉は、何を考えていたんだろう」

 俺は言った。

「うみを」

「芙蓉の望みは魚になることだったから?」

「そう」

 兄は僕の手の中に、小さな紙包みを握らせながら言った。

「芙蓉は本当に魚になれればよかったんだろうか。その後のことを考えなかったはずはないだろう。本当に、それだけでよかったんだろうか」

「うん」

 と俺が言うと、兄は真剣な顔で

「芙蓉も、最後は魔法を飲んだろう」

 と言って俺の部屋を出て行った。

 扉が完全に閉まってから、俺は紙包みを広げてみた。錠剤が一つと、紙には走り書きがあった。


 六時

 睡眠薬


 信太、芙蓉の幸せは、うみのなかでかたちになったんだと思うよ。さかなになったから、それにさわれたんだ。芙蓉はいっぱいの幸せをもっていたから、うみにいったんだ。信太、それが最後のわがままだったんだ。


(数行の空白。書いて消された文字は読み取れない)


 えっと、それから、えっと、もう錠剤を飲むから。飲んだ。書きたいことはいっぱいあるんだけど、えっと、ごめんね。ああ、頭がなんだかふわふわしている。


 月光は水

 夜は海

 わたしは魚


 ……だっけ


 しんた、


 最後はもう文字になっていなかった。力の抜けた短い線だけが残されていた。

 僕はノートを閉じることができないまま雪を見た。

 白が風に舞っていた。

 すべてが白だった。

 僕の血液も白になっていく感覚が、きみのノートからあふれ出てきた。

 僕の五感が麻痺していく。

 僕は目を閉じる。

 そしてそのまま下への落ちていけるならば、どんなにか幸せだろうかと思う。とてもそう思う。

 僕は目を開けた。

 僕は見た。

 空から絶え間なくふる桜を。

 桜は静かに降り続く。

 僕はただ、倒れていくのに身を任せた。

 僕は落ちていく。

 窓から僕が遠く離れていくのが見える。

 ああ

 そうとだけ僕は思って、目を閉じた。

 瞼の裏も白だった。

 桜の風が渦巻いた。

 そのとき、きみの手が僕の肩を押し戻していったような気がした。

 コンクリートに激突する瞬間ってどんなだろう。

 ふと、思った。


 消毒液の匂いがする。

 僕は目を開けた。

 清潔な白。

「栄養失調だそうだ」

 父の声だった。

 僕は声のほうに顔を向けた。腕からのびた点滴の管がスタンドにかけてあるビニール製の容器へと続いていた。その下で父は、僕に背を向けて椅子に座っていた。

「信太」

 父はうつむいて、しきりと指を動かしていた。

「お前」

 父は大きく息を吸い込んだ。父の肩が落ちつき泣く動いている。僕の耳の中ではアナログ時計の音が反響をくり返していた。父は手をきつく握りしめた。そして、体のずっと奥の方から絞りだすようにして、言った。

「今まで、何をしていたんだ」

 僕は父の嗚咽を静かに聞いた。

 父は両手で顔を覆っていた。肩は小刻みに震えていた。

「……よかった」

 父はそれだけ絞りだすと、自分の握りこぶしを噛みしめた。

 窓の外ではまだ雪が降り続いていた。

 僕は目を閉じた。


 闇の中におぼろげな光が形を成そうとしている。それは僕だった。


 しずか、僕はきみと同じさかなではなかった。きみのうみは僕の海ではなかった。僕の血液はちゃんと知っていたんだ。きみへの悲しみは僕の未来ではいと。

 それとも、きみが僕を岸へと押し戻してくれたのかな。

 今、とてもきみに会いたい。

 だからしずか、だから僕は帰るつもりだ。

 きみがうみに、泳ぎだしていったように。

 家へ。

 父と共に。

 桜の残り香が鼻の中で渦巻いた。

 僕は目を開けて、

 父を、

 見た。


   おわり

 

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Fish 尾津杏奈 @ozuanna

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