エピローグ

 勝負を始める前に交わした契約によれば、セイラさんから出されたお題を正解した場合、俺は事務所をやめることになっている。

 俺はそのことを全ていい終えたあとで気づいた。


「はい、これ。新しい契約書よ」


 しかし、セイラさんは何もかもお見通しだったようだ。

 料理番組のような手際のよさで、デスクの下から書類を取り出した。


「あれ、命令されたことは絶対に従うみたいな文面がないんですけど」


 念のため内容を確認していた俺は、一ヶ月前と違う部分に気がついた。


「ノリで書いただけで深い意味はなかったわ。それともルイは、誰かに命令された質なの?」


「いやこのままでいいです……」


 こうして俺はセイラさんと新たな契約を結んだ。


 ◯


 スマホのアラームで目を覚ました俺は、ゆっくりと体を起こし、布団を畳んで部屋を出た。

 十分に睡眠時間を取ったとはいえ、眠いものは眠い。

 何となくリビングの電気のスイッチに手をかけ、既に入っていることに気づく。

 訝しみながら半開きのまぶたを開ければ、テーブルに色鮮やかな料理が広がっていた。その横では、得意げに微笑む愛がエプロンを着て立っていた。


「これは……」


「どう? お兄ちゃんっ」


 白米とお味噌汁の基本セットに加え、光沢を放つスクランブルエッグと瑞々しいサラダが一皿に盛り付けてある。

 誰もが想像する定番の朝食がそこにはあった。


「全部ひとりでやったのか? すごいな」


「あまり私を甘く見ないでよね。手先の器用さならお兄ちゃんにも負けないんだから!」


 胸を張って宣言する妹の頭を撫でつつ、俺はまっすぐに席についた。


「おーやっぱ美味いな。これが愛情ってやつか」


「別に特別なことなんてしてないんだから。お兄ちゃんがいつも作ってくれる味を再現しただけだし。そもそも愛情の味ってなによ!」


 頭上から何かガミガミ言われているが、この食事を前にしたら全く気にならない。

 あっという間に食べきってしまった。


「いい忘れてたけど、これからは私が朝食を作るから。お兄ちゃんはせいぜい時間ギリギリまで寝ていることね」


「愛」


「なによ」


 腕を組んだ愛が、目だけをこちらに向ける。


「ありがとう。毎朝が楽しみになるな」


 ◯


 振替休日だった月曜日の翌日。

 私はいつものように、昼休みの時間を文芸部の部室で過ごしていた。


 土曜日にあった体育祭は、運動が苦手なこともあり大した活躍はできなかったが、創作意欲に大きな刺激を与えてくれた。

 努力。友情。少年漫画みたいな要素は苦手……というか私自身が経験してこなかったものなので、どこか毛嫌いしていたけれど、総合優勝をみんなで勝ち取ったときは思わず笑みがこぼれてしまった。


 パソコンに思いついたことを次々打ち込んでいく。

 今すぐに役に立つわけではないが、創作につまずいた時、きっとこれらは私を助けてくれるはずだ。

 そうやって作業に夢中になっていた私は、急に予想外の人物がやってきて心底驚いてしまった。


「よう」


「って、黒崎くんか。どうしたの? 昼休みはほとんど人が来ないからびっくりしちゃった」


 ノートパソコン越しに顔をのぞかせながら私は、黒崎くんの呼びかけに応じる。

 彼が昼休みにやってくるのは珍しい。というか初めてではないだろうか? 教室の前を通りかかったときに中を見ると、彼はたいてい寝ているかご飯を食べている。


 今現在の黒崎くんは、いつもより明るい表情で口を開いた。


「先週の木曜日、俺にアドバイスをくれただろ? それがすごく役に立ったから感謝を伝えようと思って」


「本当? ってことは無事解決できたんだね。おめでとう」


 体育祭前の木曜日。黒崎くんがいつになくどんよりとした表情でここを訪ねてきたことは記憶に新しい。

 そこで私は黒崎くんから話を聞いて、いくつかのことを言った。


「『人に理想を押し付けるな』『自分を卑下するな』言われたときはピンとこなかったけど、後になって身に染みたよ」


「それならよかったけど……偉そうに言ってる感じがしてなんだか気恥ずかしいな」


 こめかみの辺りを指でかきながら、私は小さく言う。

 今思えばものすごく大胆なことを言ったものだ。

 でもそうしなくちゃと思うくらい、あの時の黒崎くんは危なげだった。


「これからもよろしくな」


 聞き慣れない言葉を言う黒崎くんを見て、私は思わず口にしていた。


「うん。こちらこそ……気の所為かもしれないけど、黒崎くん少し変わった?」


「そうか? でも倉持さんが言うならそうなのかもしれないな」


 おそらくこの休みの間に、黒崎くんは一皮むけたんだと思う。

 私の預かり知らぬところで。

 そう思うと、プラトニックな関係を築いてきた私にとって、あってはならない感情を抱いてしまった。


「やっぱりちょっと変わったよ。なんか……キュンキュンする」


 ちょっぴりいやらしい言葉を出してしまい、私は急いで口元を抑えた。


「最後の方なんて言ったんだ?」


「ううんっ。何でもない!」


 聞こえなかったのなら、それでよろしい。問題ないのだ。私は自分にそう言い聞かせて、気恥ずかしさを誤魔化すことにした。


「このあと用があるから俺はそろそろ行くよ。また」


「うん、またね」


 私は机の縁を支点に小さく手を振って、彼を見送った。


 ◯


 待ち合わせ場所の空き教室に着くと、あさひが窓を見上げているのがみえた。


「悪い遅くなった」


 振り向いたあさひは、ハッとしてかぶりを振った。


「全然大丈夫です。黒崎さんの用事は済んだのですか?」


「ああ。ちゃんと言いたいことは伝えたつもりだ」


 ふと俺はあさひと倉持さんがいがみ合っていたのを思い出した。

 具体的なことを伝えなくて正解だったかもしれない。


「なら後の心配をする必要はありませんね。さあさあ早くご飯を食べましょう」


 真横に2つに並べられた机の椅子が引かれたので、遠慮なくそこに座った。

 彼女が窓側で俺が内側だ。

 両者包みを開いて、いただきますを言って食べ始める。


「ときに黒崎さん。好きな食べものはなんですか?」


「唐揚げとかかな。でも急にどうしたんだ?」


「学校で話すようになってかれこれ二週間くらい経ちますけど、黒崎さんのこと、あまり知らないなと思ったんです」


 俺は何から何まで口に出すタイプではないが、聞かれたことには普通に答える。


「それでわざわざ人気がない場所まで俺を連れ込んだのか?」


「はい……だめでしょうか?」


 あさひが無自覚にやる上目遣いは実に凶悪だ。

 いやにでも、視線が彼女の体に吸い寄せられてしまう。


「問題ないが……」

 

 煩悩を振り切るために別のことを考えようとして、俺の脳内にはとある人物の姿が浮かんできた。彼女はたった二週間しか学校にいなかったのに強烈な印象を植え付けてきた。今にも入り口から姿を現して、からかってきそうな気さえしてくる。


「あ、わかりました。黒崎さん、いま別の女の人を思い浮かべてますね!」


「だんだんセイラさんみたいになってきてないか?」


「少し前から、色々と教えを請うているので、そのせいかもしれません」


 セイラさんがこの世に二人いる。

 考えたくもない光景だ。


「と言うと、あさひもセイラさんの元で働いているのか?」


「いえ、どうでしょう。お友達の延長線のようなものかもしれません。今週末は雑誌のモデル撮影に呼ばれていて、一緒に行く予定です」


 あさひならセイラさんの隣でも見劣りすることないだろう。


「頑張っているんだな」


「そ、そうでしょうか?」


 それから俺たちは取り留めのない会話を昼休みギリギリまで続けた。


 ◯


 最寄り駅から徒歩五分。人の往来が多い通りから少し外れた奥まったところに、紫月探偵事務所はある。

 いわく、目立つところにあるよりも色々な面で便利なんだとか。

 通い慣れた道をしばし歩き、ようやく建物が見えてきた。


 セイラさんは探偵という顔の裏で、大学生という身分がある。

 四年生になるまでにある程度の単位は取り終えたと語っており、俺が学校終わりに行くときはたいてい居る。

 今日も例に漏れず、ノックの後に扉を開くと定位置に座っていた。


「こんばんわ」


 一ヶ月間ほぼ毎日通い詰めたせいか、この空間が体に馴染みつつある。

 本棚にある本も半分以上読み切ってしまった。

 いつかはお別れしないといけなくなると考えた途端、どうしようもない寂しさが身に走った。


「どうしたのよ。本契約後、最初の日だというのに浮かない顔をして」


 セイラさんを俺をひと目見て、そんなことを言った。


「まだ先の話ですけど、セイラさんは大学を卒業したあとは教師になるんですよね?」


「そんなこと言っていたかしら。教員免許を取ろうとしているのは、この仕事を続けるための免罪符のようなものよ。親がちょっと煩くてね」


「え、でも教師をやっている姿があまりにも似合いすぎていて……てっきりそのまま就くものだとばかり」


 セイラさんなら誰からも慕われる良い教師になれるという確信に近いものがあった。

 もったないような気もする。


「そんなことより、ルイ~早速ご飯作ってくれない?」


 待ちきれないとでも言いたげに、セイラさんはリクライニング機能付きチェアに身を任せて仰向けになった。


「はいはい分かりました。少々お待ちを」


 一ヶ月前、バイトでクレーマーを撃退したらなぜか探偵事務所にスカウトされた。

 それはこれ以上ない幸運だったと、今になっては感じている。


 俺は相変わらずの彼女に苦笑しながら、一歩前に進み始めた。

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バイトでクレーマーを撃退したらなぜか探偵事務所にスカウトされた 寄辺なき @yoruyorube

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